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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=2402%3A6B00%3A4668%3A5F00%3AA0FF%3A4538%3A646F%3A6F22
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-27T19:26:00Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
中川一郎
2018-07-18T06:06:39Z
<p>2402:6B00:4668:5F00:A0FF:4538:646F:6F22: </p>
<hr />
<div>{{政治家 <br />
|人名 = 中川 一郎<br />
|各国語表記 = なかがわ いちろう<br />
|画像 = Ichiro Nakagawa ,19820623 cropped.jpg<br />
|画像説明 = 中川一郎(農水相時代)<br />
|国略称 = {{JPN}}<br />
|生年月日 = [[1925年]][[3月9日]]<br />
|出生地 = {{JPN}} [[北海道]][[広尾郡]][[広尾町]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1925|3|9|1983|1|9}}<br />
|死没地 = {{JPN}} [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]<br />
|出身校 = [[九州帝国大学農学部]]<br />(現・[[九州大学]])<br />
|前職 = [[北海道開発庁]]官吏<br/>[[大野伴睦|衆議院議員]]秘書<br />
|現職 = <br />
|所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br />
|称号・勲章 = [[正三位]]<br/>[[勲一等旭日大綬章]]<br />
|世襲の有無 = 無<br />
|親族(政治家) = [[父]]・[[中川文蔵]](元広尾町議会議員)<br />[[弟]]・中川正男(元広尾町議会議員)<br />弟・[[中川義雄]](元参議院議員)<br />長男・[[中川昭一]](元衆議院議員)<br />
|配偶者 = 妻・[[#妻貞子との関係|中川貞子]]<br />
|子女 = [[中川昭一]]<br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = JPN<br />
|職名 = 第35代 [[科学技術庁長官]]<br />
|内閣 = [[鈴木善幸内閣]]<br />[[鈴木善幸内閣 (改造)|鈴木善幸改造内閣]]<br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = [[1980年]][[7月17日]]<br />
|退任日 = [[1982年]][[11月27日]]<br />
|退任理由 = <br />
|所属委員会 = <br />
|議員会館 = <br />
|元首職 = <br />
|元首 = <br />
|国旗2 = JPN<br />
|職名2 = 初代 [[農林水産大臣]]<br />
|内閣2 = [[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]<br />
|選挙区2 = <br />
|当選回数2 = <br />
|就任日2 = [[1978年]][[7月5日]]<br />
|退任日2 = [[1978年]][[12月7日]]<br />
|退任理由2 = <br />
|所属委員会2 = <br />
|議員会館2 = <br />
|元首職2 = <br />
|元首2 = <br />
|国旗3 = JPN<br />
|職名3 = 第49代 [[農林水産大臣|農林大臣]]<br />
|内閣3 = [[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]<br />
|選挙区3 = <br />
|当選回数3 = <br />
|就任日3 = [[1977年]][[11月28日]]<br />
|退任日3 = [[1978年]][[7月5日]]<br />
|退任理由3 = 組織改編で農林省が消滅したため<br />
|所属委員会3 = <br />
|議員会館3 = <br />
|元首職3 = <br />
|元首3 = <br />
|国旗4 = JPN<br />
|職名4 = [[衆議院|衆議院議員]]<br />
|内閣4 = <br />
|選挙区4 = [[北海道第5区 (中選挙区)|旧北海道5区]]<br />
|当選回数4 = 7回<br />
|就任日4 = [[1963年]][[11月22日]]<br />
|退任日4 = [[1983年]][[1月9日]]<br />
|退任理由4 = 在職のまま自殺<br />
|所属委員会4 = <br />
|議員会館4 = <br />
|元首職4 = <br />
|元首4 = <br />
}}<br />
'''中川 一郎'''(なかがわ いちろう、[[1925年]]([[大正]]14年)[[3月9日]] - [[1983年]]([[昭和]]58年)[[1月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]]。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の派閥・[[自由革新同友会|中川派]]の領袖。[[正三位]][[勲一等]]。 [[農林水産大臣|農林大臣]](第49代)、[[農林水産大臣]](初代)、国務大臣[[科学技術庁長官]](第35代)、[[原子力委員会#歴代の原子力委員会委員長|原子力委員会委員長]](第35代)。<br />
<br />
「'''北海のヒグマ'''」と呼ばれ、[[タカ派]]議員として知られていた。[[平成]]期に閣僚を務めた[[中川昭一]]は長男。[[参議院議員]]を務めた[[中川義雄]]は実弟。<br />
<br />
早死にしなければ、確実に[[内閣総理大臣]]になれたほどの大物政治家であった。<br />
<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[北海道]][[広尾郡]][[広尾町]]に農業・[[中川文蔵]]、セイの長男として生まれた。祖父・五八郎の時代に[[富山県]][[福光町]]から北海道の広尾郡広尾村にある山奥の開拓地に移住した農民の出である{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。<br />
<br />
出身地の広尾について、政治評論家の[[今井久夫]]によれば、「なにしろ広尾というところは北海道の中央を北から南に貫く[[日高山脈]]が[[太平洋]]に没するその海岸線の北に位置する小さな部落である{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。馬が生きながら[[エゾヒグマ|クマ]]に喰われるところであった{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。人々はその馬の泣き声を何度も聞いた{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。」という。<br />
<br />
父・文蔵は14歳の時に北海道に渡り、[[道東]]の僻地を選んで開拓に従事した{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。母セイは[[山形県]]出身{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。一郎には北国の血が流れている{{Sfn|今井久夫|1979|p=239}}。<br />
<br />
一郎は10人の兄弟姉妹の長男とされているが、実際の長男の竜太郎が生まれて間もなく、[[いろり]]の火にころがり落ちて焼死し{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}、長女のミヨも夭折{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}、姉の節子、敏子のあとに生まれた男児のため、一郎と名付けられ、“長男扱い”された{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。<br />
<br />
子だくさんの文蔵とセイは一生懸命働いた{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。<br />
<br />
=== 学生時代 ===<br />
小学校2年生の時、父文蔵は開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商兼家畜商に転じた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。学校での得意な科目は一貫して算数・[[数学]]であった{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。<br />
<br />
豊似小学校時代の一郎は、小柄でおとなしかった{{Sfn|今井久夫|1979|p=241}}。学校では勉強に精を出し、家に帰っては両親を助けて野良仕事にはげんだ{{Sfn|今井久夫|1979|p=241}}。<br />
<br />
一郎の筋骨たくましい身体は、小さい時からの労働の名残である{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。<br />
<br />
[[北海道帯広農業高等学校|北海道庁立十勝農業学校]]、[[宇都宮高等農林学校]](現在の[[宇都宮大学]]農学部)を経て[[1947年]]([[昭和]]22年)9月[[九州帝国大学農学部]]農業土木科<ref group="注">昭和22年([[1947年]])10月1日 九州帝国大学は九州大学と改称( [http://www.agr.kyushu-u.ac.jp/agr_08/organization/history.html 九州大学農学部-沿革-]) {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100329102703/http://www.agr.kyushu-u.ac.jp/agr_08/organization/history.html |date=2010年3月29日 }}</ref>卒業。中川個人の希望としては[[農林省]]の役人になりたかったが、[[東京]]にいたのではメシが食えないと懸念し、志願して[[北海道庁]]に入った{{Sfn|内藤國夫|1985|p=74}}。<br />
<br />
当初は家業を継ぐ予定だったが、広尾町会議員に出世した文蔵が[[北海道庁]]に陳情に出かけた際、ろくに相手にもされなかった口惜しさから、「お前は役人になれ」と命令され、両親思いの一郎は、父の命ずるまま役人になった{{Sfn|内藤國夫|1985|p=74}}。<br />
<br />
=== 北海道開発庁時代 ===<br />
中川が北海道に戻った時、北海道は[[日本社会党|社会党]]の天下であり[[革新]]系の[[田中敏文]]が[[日本社会党|社会党]]に担がれて[[北海道知事]]に当選した。田中は九大の先輩にあたる。中川を可愛がっていた教授がわざわざ紹介状を書いてくれた。中川はその紹介状を持参して、田中を訪れたが、来客が多くなかなか面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった{{Sfn|内藤國夫|1985|p=246-247}}。<br />
<br />
[[1951年]](昭和26年)、[[北海道開発庁]]が設置され、開発担当官となる。昭和28年([[1953年]])[[大野伴睦]][[歴代の北海道開発庁長官|北海道開発庁長官]]の秘書官を務め、大野に見出されることとなる。<br />
<br />
大野長官はわずか7ヶ月の在職で、自民党総務会長に転じた。後任の長官は[[緒方竹虎]]で、副総理との兼務であった。中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、[[第5次吉田内閣]]総辞職のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=76}}。<br />
<br />
=== 政治家秘書として ===<br />
大野は[[1959年]](昭和34年)、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請した。文蔵は大反対した。しかし大野に惚れ込んだ中川は、12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘書になる決意をしたが、父の文蔵は「こんな馬鹿な息子とは思わなかった。まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、おまえの好き勝手にしろ」と突き放した{{Sfn|内藤國夫|1985|p=76}}。<br />
<br />
=== 政治家として ===<br />
[[1963年]](昭和38年)、大野の勧めで[[北海道第5区_(中選挙区)|旧北海道5区]]から[[第30回衆議院議員総選挙]]に出馬し、初当選した(当選同期に[[小渕恵三]]・[[橋本龍太郎]]・[[田中六助]]・[[伊東正義]]・[[藤尾正行]]・[[鯨岡兵輔]]・[[西岡武夫]]・[[奥野誠亮]]・[[三原朝雄]]など)。初代の後援会会長は幕別町の[[吉田菊太郎]]である。<br />
<br />
[[佐藤栄作]]・[[田中角栄]]両首相から[[大蔵政務次官]]に任命され、[[1977年]](昭和52年)に[[福田赳夫内閣]]を自民党国民運動本部長として支え、保守派の活動を通じて親交のあった作曲家[[黛敏郎]]に新たに立ち上げる[[党友]]組織[[自由国民会議]]初代代表就任を受諾してもらい、同年の[[福田内閣改造内閣]]で[[農林水産大臣|農林大臣]]([[省庁]]改称のため、[[1978年]][[7月5日]]より[[農林水産大臣]])、[[鈴木善幸内閣]]では[[科学技術庁長官]]に就任した。<br />
<br />
[[1973年]](昭和48年)には[[渡辺美智雄]]、[[石原慎太郎]]らと「[[青嵐会]]」を結成、若手[[タカ派]]として名を売った。[[福田赳夫]]に私淑し、後年は福田と政治行動を共にする。<br />
<br />
[[1978年]](昭和53年)の自民党総裁選挙で、福田が敗れ、12月6日に内閣総辞職をしたが、「予備選はインチキだ」として、農水相辞任に際し、福田内閣の最後の閣議で、内閣総辞職の署名を断固として拒否しぬいた<ref name="mayumi20">{{Cite web |url=http://www.mayumi.gr.jp/book/pdf/20.pdf |title=森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十章 |format=PDF |accessdate=2013-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071008122641/http://www.mayumi.gr.jp/book/pdf/20.pdf |archivedate=2007年10月8日 }} </ref>{{Sfn|内藤國夫|1985|p=103}}。単なるポーズや嫌がらせでなく、大平政権誕生阻止のため、喧嘩師・中川一郎が最後の大博打に打って出たと思われた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=104}}。<br />
<br />
[[1979年]](昭和54年)には石原、[[長谷川四郎 (政治家)|長谷川四郎]]、[[松沢雄蔵]]、[[長谷川峻]]らを結集して、[[自由革新同友会]](事実上の中川派)を結成した。<br />
<br />
[[1982年]](昭和57年)10月[[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]・予備選に[[中曽根康弘]]、中川、[[河本敏夫]]、[[安倍晋太郎]]らが立候補した。当時は立候補に国会議員50名の推薦が必要であったため、[[清和政策研究会|福田派]]から安倍に投票する予定の議員の名前を借りての出馬だった。結果は、中曽根一人で全党員の6割近い支持票を集め、中川は最下位だった。この時期には後述するように奇行が目立つようになる。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
総裁選後間もない[[1983年]](昭和58年)[[1月9日]]、[[札幌パークホテル]]10階1022号室バスルーム<ref>{{Cite book|和書|title=カメラがなくても写真は撮れる!!-北の写真記者奮闘記|author=河野誠|year=2001|month=7|publisher=[[廣済堂出版]]|isbn=978-4331508022}}</ref>にて中川が死んでいるのを、妻の貞子が発見した。当初死因は「急性[[心筋梗塞]]」と発表されたが、2日後に「自殺」に訂正された。<br />
<br />
中川の自殺から間もなく、[[高知県]]にいた[[後藤田正晴]][[官房長官]]には、1月9日午前の段階で[[北海道警察]]と古巣の[[警察庁]]のルートを通じて中川の自殺を知らせる急報が伝えられていた。急報を聞いた後藤田は[[中曽根康弘]]総理に[[電話]]でことの真相を伝えた後に、記者団に対して中川が急死したことを発表したが、その死因は遺族と中川の側近に配慮して伏せていた<ref>[[リイド社]] 『劇画 自民党総裁』 [[さいとう・たかお]] 原作 [[戸川猪佐武]] p.657~658</ref>。<br />
<br />
突然の訃報を聞いた[[堂垣内尚弘]][[北海道知事]]が駆けつけている。<br />
<br />
中川の遺体は、1月9日のうちに空路で札幌から東京の中川邸まで運ばれた<ref>リイド社 『劇画 自民党総裁』 さいとう・たかお 原作 戸川猪佐武 p.658</ref>。<br />
<br />
総裁予備選挙が終わってから中川は「夜、眠れない」と強く訴えるようになり、[[睡眠薬]]を服用していたという{{Sfn|内藤國夫|1985|p=132}}。<br />
<br />
衆議院での追悼演説は[[安井吉典]]<ref name="yasui">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/098/0001/09803110001011c.html 衆議院会議録情報 第098回国会 本会議 第11号] (1983年3月11日) </ref>。<br />
<br />
== 人物・逸話 ==<br />
=== 性格 ===<br />
一般には「明るい中川一郎と怖い中川一郎の2人がいる」と言われていた{{Sfn|鈴木宗男|2012|p=52}}。一方、中川を良く知る元秘書の[[鈴木宗男]]は、豪快さと繊細さが真の二面性と語っている{{Sfn|鈴木宗男|2012|p=52}}。<br />
<br />
=== 愛称 ===<br />
愛称は、“北海のひぐま”、“十勝のじゃがいも”など。<br />
<br />
{{Harvnb|今井久夫|1979|p=109-110}}によると、「中川が福田の蔵相の下で、はじめて大蔵政務次官になった時、中川を“北海道のひぐま”と呼んだのは福田である。それまで中川は、北海道の地元では“十勝のじゃがいも”といわれていた。中川を見ているとやっぱり“じゃがいも”より“ひぐま”の方がぴったりする。以後、地元でも中川を“ひぐま”あるいは略して“くま”と呼ぶようになった。このように福田はアダ名をつける名人である」という。<br />
<br />
=== 思想 ===<br />
中川は自他ともに認める熱烈な[[国粋主義]]者で、[[反共主義]]者だった{{Sfn|内藤國夫|1985|p=102}}。<br />
<br />
=== 憲法9条改正論者 ===<br />
農林水産大臣であった[[1978年]](昭和53年)10月6日、週刊誌などでの発言で解任された[[栗栖弘臣]][[統合幕僚会議議長]]の「超法規発言」について、衆議院予算委員会で[[民社党]]の[[大内啓伍]]から見解を求められ、「憲法についても改正すべきだという議論があるということも十分耳を傾けなければならぬ」と述べた<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/085/0380/08510060380005c.html 第85回国会 衆議院予算委員会 第5号 (53.10. 6) 議事録]</ref>。<br />
<br />
=== ペルソナ・ノン・グラータ ===<br />
[[中央情報局|CIA]]の諜報活動により、上記のように表向きは反共を唱えながらも裏では親[[ソビエト連邦|ソビエト]]政権の樹立を画策していたと見なされ、[[1983年]][[1月]]首相の名代としての[[アメリカ合衆国]]訪問に際し[[ペルソナ・ノン・グラータ]]を受ける<ref>{{Cite book|和書|author=加藤昭|title=鈴木宗男研究|year=2002|month=4|publisher=新潮社|isbn=978-4104536016|pages=24-26}}</ref>。こうしたことが彼の死にまつわる疑惑を形成することにもなった。<br />
<br />
=== 中川と酒 ===<br />
選挙にも酒にもけんかにも強い中川だったが、ある時期から、強いはずの酒が中川の人生を狂わせ始めた。酒飲み仲間の[[玉置和郎]]がその変わりようを証言する。<br />
:「中川一郎の酒の飲みっぷりは本来、朗らかそのものだった。酔っぱらうとね、もっている財布を[[芸者]]たちにバーンと投げ出す。好きなだけもっていけというわけだ。だから芸者にもてた。元来が、お金というものにあまり執着しなかった。それが同友会をつくった頃からかなあ、酔っぱらうと前後不覚になり、崩れるようになった。同時に愚痴っぽい酒飲みとなった。いつだったかも、腰が抜けるほどに酔っぱらってね、小便しに行くのに、どこが便所だかわからなくなり、ドアのところで放尿しようとするんだ。あわてて便所まで連れて行き、無事にすんだけど、ああいうこと、昔はなかったな。」{{Sfn|内藤國夫|1985|p=86}}<br />
<br />
[[国会議事堂]]の敷地内で立ち小便しているところを写真週刊誌に撮影されたことがある。{{Harvnb|今井久夫|1979|p=226}}によると、<br />
:「酒を飲んだあとの生理現象として、前をまくって放水する。これはだれでもやることであって、とがめるわけにはいかない。ところが中川は'''トイレにいかない'''のである。時には二階の窓から下の道路目がけて雨を降らせ、また時には部屋の隅のタン壺にそそぎこむ。そして呵々大笑してどてんと横になると、たちまちいびきをかいて寝てしまう。まことに天衣無縫、豪快きわまる酔いつぶれ方である」<br />
という。<br />
<br />
=== 自殺説と他殺説 ===<br />
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。<br />
<br />
遺書もなく、また急ぐように2日後には火葬したことや、死因の変更などでにわかに「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった[[鈴木宗男]]と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から[[北海道選挙区]]選出[[参議院議員]]となった[[高木正明_(国会議員)|高木正明]]が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。<br />
<br />
{{Harvnb|内藤國夫|1985|p=251}}によると、<br />
:「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員[[スタニスラフ・レフチェンコ|レフチェンコ]]から中川一郎が巨額な[[政治献金]]を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連の[[KGB]]に謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“[[肝臓ガン]]”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」<br />
という。<br />
<br />
なお、[[2010年]]10月に鈴木宗男は、中川が[[1975年]]7月に[[世界銀行]]の招待で[[南アメリカ]]諸国を歴訪する出発前日に[[全日本空輸]]の藤原経営管理室長と[[料亭]]で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の[[東京地方検察庁|東京地検]][[特別捜査部|特捜部]]による「[[ロッキード事件]]」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、[[1976年]]8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを、月刊誌『[[新潮45]]』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の[[1982年]]に[[福田赳夫]]に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している<ref>{{Cite news|url= http://www.tokachi.co.jp/news/201010/20101022-0006971.php |title=鈴木宗男氏が故中川一郎氏の自殺語る|date=2010-10-22|newspaper=十勝毎日新聞日|accessdate=2015-03-01}}</ref>。<br />
<br />
中川の死から5日後の[[1983年]]1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、[[テレビ朝日]]専務だった[[三浦甲子二]]の話として「中川は明らかに他殺だ。[[中央情報局|CIA]]の手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている<ref>[http://www.elneos.co.jp/0209sf2.html 元木昌彦のメディアを考える旅54 執念の徹底取材で鈴木宗男を追及 権力と緊張関係を保ちつつ監視する]</ref>。<br />
<br />
自殺の原因としては、「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である<ref>リイド社 『劇画 自民党総裁』 さいとう・たかお 原作 戸川猪佐武 p.661</ref>。<br />
<br />
=== 妻・貞子との関係 ===<br />
中川一郎と貞子が結婚したのは、[[1951年]](昭和26年)[[7月9日]]。[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]南14条西4丁目にある[[弥彦神社 (札幌市)|弥彦神社]]で、神前結婚式が行われた。2人の結婚に当初から反対していた一郎の父・文蔵は姿を見せなかった{{Sfn|内藤國夫|1985|p=139}}。<br />
<br />
中川の夫婦仲の悪さは、政界でかなりの程度知られていた。中川にとっては兄貴分的存在で政治の指南役でもあった[[金丸信]]は、<br />
:「一度忠告してやったことがあるんだ。女房が怖いとか、俺の言うことに従わないって、あまりにもこぼすので『そんな女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。心配するな』と教えたんだ。私の忠告どおり女房を殴りつけていればこんなこと<ref group="注">中川が自殺したことを指す。</ref>にはならなかったかもしれないな」<br />
:「総裁選後の中川君と、それ以前の中川君とは、もう全然違う人間のように変わった。以前の彼と違って、以後の彼は、もうクヨクヨ、クヨクヨして話にならんのだ。目やになんか出しちゃったりしてね。顔じゅうに吹き出物がブツブツと出ているし。それで“キミ、なんか疲れているのと違うんか。目やにや吹き出物がどうしてでるんだ”って健康に注意したことがある。あとで考えてみれば、もうその頃から睡眠薬なんてものを奥さんが惜しげもなく大量に飲ましていたらしい。ウイスキーとの併用の弊害を無知で飲ましたとすれば許せるけれど、無知でなくて、承知で飲ましていたとすれば、これはもう許せないことだ」<br />
と述べている{{Sfn|内藤國夫|1985|p=41-42}}{{Sfn|内藤國夫|1985|p=131}}。<br />
<br />
貞子は中川一族の血を憎むだけでなく、一郎の生活スタイルからスマートさのかけらもない“百姓あがり”のずんぐり、むっくりした武骨な体軀そのものまでを嫌った{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。<br />
<br />
一方で皮肉なことに、中川一郎は「開拓農家出身であることを誇りにし、政治家になってからはその土着性、庶民性にあふれたムードを売りものにさえした」{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。中川夫妻は、「この一点だけでも“似合いの夫婦”の正反対、趣味から好き嫌い、人間の付き合いかた、生きざまとすべてが相反する、世にも稀なカップルであった」{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。<br />
<br />
長男の[[中川昭一|昭一]]には[[口唇口蓋裂|兎唇]]の障害があったため、幼児期と東大を卒業してからと2度にわたり、兎唇であることがわからぬよう手術を受けた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=140-141}}。したがってその跡はほとんど目立たなかったが、問題は1回目の手術の際、貞子のとった態度である{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。手術代を払えぬほど貧乏していたわけではないのに、「これはあなたがた中川兄弟の血に問題があるのですから、あなたがたでお支払いください」と冷たく言い放って、手術代を本家の中川正男に支払わせた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。“マドンナ賢妻”に頭のあがらない一郎は、妻の冷酷な仕打ちに人知れず泣き、兄弟姉妹には「申し訳ない。我慢してくれ」と頭を下げ詫びて回った{{Sfn|内藤國夫|1985|p=141}}。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
[[北海道]]に生まれ育った中川だが、[[スキー]]ができなかった。貧しさのためというより、病弱の母を助けて家事や牛馬の世話に追われ、学校から帰っても遊んでいる暇がなかったからという{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。<br />
<br />
[[1988年]](昭和63年)、故郷[[広尾町]]に中川一郎記念館が完成した。食肉卸業大手[[ハンナン]]の元オーナー[[浅田満]]は記念館の建設費として3億円支払っている<ref>{{Cite book|和書|title=昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち|publisher=宝島社|series=別冊宝島|year=2005|month=5|isbn=978-4796646208|page=35}}</ref>。大学時代の愛読書]]<ref name="yasui"/>だった[[河上肇]]の「貧乏物語」([[岩波文庫]])、初代大臣として自らが揮毫した[[農林水産省]]の看板のレプリカなどが展示されている。また敷地内には、片手を上げ軽く頭を下げて「ヨッ!」とあいさつしながら歩く、という生前お得意だったポーズの銅像が立ち、台座の揮毫は盟友であった[[安倍晋太郎]]の手になる。なお敷地の芝生は後に[[パークゴルフ]]場に改修された。<br />
<br />
== 著作 ==<br />
'''論文'''<br />
* {{Cite journal|和書|title=青嵐はなぜ必要か|author=中川一郎|journal=自由|volume=15|number=10|pages=178-186|year=1973|month=10|url= http://ci.nii.ac.jp/naid/40001671069 }}<br />
* {{Cite journal|和書|title=自民党五つの改革と日本の春|author=中川一郎|author2=末永基晴|journal=自由|volume=19|pages=118-128|year=1977|month=11|url= http://ci.nii.ac.jp/naid/40001673763 }}(末永基晴の徹底対談 12)<br />
* {{Cite journal|和書|title=米・魚からテロ・防衛まで|author=中川一郎|author2=小山内高行|journal=自由|volume=20|number=9|pages=52-66|year=1978|month=9|url= http://ci.nii.ac.jp/naid/40001673527 }}<br />
<br />
== 家族・親族 ==<br />
{{Main|中川昭一#家族・親族}}<br />
中川家は[[富山県]][[西礪波郡]][[福光町]](現[[南砺市]])、[[北海道]][[広尾郡]][[広尾町]]{{Sfn|鈴木宗男|2012|p=49}}、[[東京都]]と移動している。<br />
<br />
=== 実家 ===<br />
* 父・'''[[中川文蔵|文蔵]]'''(農業、雑貨商兼家畜商、政治家・[[広尾町]]会議員)<br />
*:[[富山県]][[西砺波郡]][[福光町]](現[[南砺市]])出身。[[1978年]]([[昭和]]53年)没{{Sfn|内藤國夫|1985|p=150}}。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”。“拙者文蔵”というのは文蔵が改まった時に使う一人称である。つまり文蔵は「拙者文蔵…」と切り出すような[[明治]]の古いタイプの人間であった{{Sfn|今井久夫|1979|p=240}}。<br />
* 母・'''セイ'''([[山形県]]出身)<br />
* 兄・'''竜太郎'''<br />
*:生まれて間もなく、[[いろり]]の火にころがり落ちて焼死した{{Sfn|内藤國夫|1985|p=73}}。<br />
* 姉、妹(一郎の姉妹は計5人いる)<br />
* 弟<br />
**'''正男'''(雑貨商、政治家・広尾町会議員)<br />
**'''健三'''(倉庫業)<br />
**'''[[中川義雄|義雄]]'''([[北海道庁]]職員、政治家)<br />
<br />
=== 自家 ===<br />
* 妻・'''貞子'''([[旧姓]]木下、父は[[日本国有鉄道|国鉄]]職員、兄は[[精神科]]医)<br />
* 長男・'''[[中川昭一|昭一]]'''(銀行員、政治家)<br />
*:[[1953年]]([[昭和]]28年)7月生 - [[2009年]]([[平成]]21年)10月没<br />
* 次男<br />
<br />
=== 他家 ===<br />
* 従弟・'''[[中川健一]]'''(医師) - [[中川文蔵]]の弟と、中川セイの妹との間に生まれた{{Sfn|内藤國夫|1985|p=194}}。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<!--* {{Cite book|和書|author=[[石原慎太郎]]|title=国家なる幻影-我が政治への反回想- 下|year=2001|month=10|series=文春文庫|isbn=|ref=harv}}--><br />
* {{Cite book|和書|author=今井久夫|title=反骨の宰相候補 中川一郎|year=1979|month=8|publisher=経済往来社|asin=B000J8FIEQ|ref=harv}}<br />
* {{Cite book|和書|author=[[鈴木宗男]]|title=政治の修羅場|year=2012|month=6|series=文春新書|isbn=978-4166608645|ref=harv}}<br />
* {{Cite book|和書|author=内藤國夫|title=悶死-中川一郎怪死事件-|year=1985|month=2|publisher=草思社|isbn=978-4794202123|ref=harv}}<br />
* [[吉原公一郎]]著 『擬装殺人 中川一郎怪死事件の真相』1983年9月 現代書林刊 ISBN 4-87620-014-9<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[野人]]<br />
* [[国粋主義]]<br />
* [[アメリカ国防情報局]] <br />
* [[ハンナン]]<br />
* [[山口組]]<br />
<br />
''' 関連人物 '''<br />
* 政治関係 - [[大野伴睦]]、[[中曽根康弘]]、[[渡辺恒雄]]<br />
* 元[[秘書]] - [[鈴木宗男]](元公設第一秘書)、[[平沼赳夫]]、[[高木正明_(国会議員)|高木正明]]、[[上草義輝]]、[[武部勤]]<br />
* [[青嵐会]] - [[石原慎太郎]]、[[藤尾正行]]、[[浜田幸一]]、[[近藤鉄雄]]、[[浅田満]]、[[宮崎正弘]]<br />
* 中川派([[自由革新同友会]]) - [[長谷川峻]]、[[古屋亨]]、[[亀井静香]]<br />
* [[スタニスラフ・レフチェンコ]]<br />
<br />
''' 演じた俳優 '''<br />
* [[脇田茂]](『[[小説吉田学校]]』、1983年)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{Cite web|url= http://www.town.hiroo.hokkaido.jp/choumin/koukyoushisetsu/bunka_shisetsu.html |title=文化施設|publisher=北海道広尾町|accessdate=2015-03-01}} - 中川一郎記念館の案内もある。<br />
* [http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20.seiji/1.html 十勝20世紀 第2部・政治編1 中川一郎の初陣]<br />
* [http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20.seiji/2.html 十勝20世紀 第2部・政治編2 中川一郎の死]<br />
* [http://www.park1964.com/ 札幌パークホテル]<br />
* [https://web.archive.org/web/20090401224010/http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/seijika.html 国会議員・大臣の自殺]<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{Flagicon|JPN}} [[農林水産大臣]]<br />
| years = 初代:1978年<br />
| before = [[農林水産大臣|農林大臣]]を廃止→<br />
| after = [[渡辺美智雄]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{Flagicon|JPN}} [[農林水産大臣|農林大臣]]<br />
| years = 第49代:1977年 - 1978年<br />
| before = [[鈴木善幸]]<br />
| after = 廃止→[[農林水産大臣]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
|title = {{Flagicon|JPN}} [[科学技術庁長官]]<br />
|before = [[長田裕二]]<br />
|years = 第35代:1980年 - 1982年<br />
|after = [[安田隆明]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
|title = {{Flagicon|JPN}} [[原子力委員会#歴代の原子力委員会委員長|原子力委員会委員長]]<br />
|before = [[長田裕二]]<br />
|years = 第35代:1980年 - 1982年<br />
|after = [[安田隆明]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{-}}<br />
{{衆議院運輸委員長|1976年}}<br />
{{農林水産大臣|1977年 - 1978年|農林大臣,農林水産大臣}}<br />
{{文部科学大臣|1980年 - 1982年|[[科学技術庁長官]]}}<br />
{{総理府原子力委員会委員長|1980年 - 1982年}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:なかかわ いちろう}}<br />
[[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br />
[[Category:北海道選出の衆議院議員]]<br />
[[Category:日本の閣僚経験者]]<br />
[[Category:科学技術庁長官]]<br />
[[Category:日本の農林大臣]]<br />
[[Category:地方公務員出身の人物]]<br />
[[Category:宇都宮大学出身の人物]]<br />
[[Category:九州大学出身の人物]]<br />
[[Category:中川文蔵家|いちろう]]<br />
[[Category:自殺した人物]]<br />
[[Category:日本の秘書]]<br />
[[Category:北海道出身の人物]]<br />
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]<br />
[[Category:鈴木宗男]]<br />
[[Category:1925年生]]<br />
[[Category:1983年没]]</div>
2402:6B00:4668:5F00:A0FF:4538:646F:6F22
九州大学農学部
2018-07-18T05:59:48Z
<p>2402:6B00:4668:5F00:A0FF:4538:646F:6F22: ←九州大学大学院農学研究院・大学院生物資源環境科学府・農学部へのリダイレクト</p>
<hr />
<div>#REDIRECT[[九州大学大学院農学研究院・大学院生物資源環境科学府・農学部]]</div>
2402:6B00:4668:5F00:A0FF:4538:646F:6F22
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