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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=2400%3A402E%3A8883%3A3300%3A788B%3A8479%3A8759%3AB40A miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-03T17:10:24Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 黒田孝高 2018-07-13T00:16:12Z <p>2400:402E:8883:3300:788B:8479:8759:B40A: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 黒田孝高&lt;br /&gt;{{smaller|(黒田如水 / 黒田官兵衛)}}<br /> | 画像 = Yoshitaka Kuroda.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = 如水居士画像(崇福寺蔵)<br /> | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期<br /> | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]15年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1546年]][[12月22日]])&lt;br /&gt;([[グレゴリオ暦]][[1547年]][[1月1日]])<br /> | 死没 = [[慶長]]9年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[1604年]][[4月19日]])享年59<br /> | 改名 = 小寺万吉([[幼名]])→祐隆→孝隆→黒田孝高{{Efn|name=&quot;imina&quot;|「&#039;&#039;&#039;祐隆&#039;&#039;&#039;」(「祐」の字は[[赤松義祐]]より受けたものか)の名は、[[永禄]]10年([[1567年]])12月23日の「&#039;&#039;&#039;小寺祐隆&#039;&#039;&#039;下地売券」に見られ、同13年([[1570年]])3月12日の「&#039;&#039;&#039;小寺孝隆&#039;&#039;&#039;借銭請取状」では「&#039;&#039;&#039;孝隆&#039;&#039;&#039;」とあることからこの間に改名しているものとみられる。「&#039;&#039;&#039;小寺孝隆&#039;&#039;&#039;」の名は、[[天正]]11年([[1583年]]、[[賤ヶ岳の戦い]]を記録した『[[天正記]]-柴田退治記』など)の段階までに確認され、これ以降に[[黒田氏|黒田]]に改姓および曽祖父・[[黒田高政 (戦国時代)|黒田高政]]以前の[[通字]]である「高」の字を取って「&#039;&#039;&#039;黒田孝高&#039;&#039;&#039;」と名乗ったと思われる。}}→如水円清(法名)<br /> | 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:官兵衛&lt;br /&gt;略称:小官、黒官&lt;br /&gt;号:如水軒<br /> | 戒名 = 龍光院殿如水円清大居士<br /> | 神号 = 水鏡権現<br /> | 霊名 = シメオン<br /> | 墓所 =[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]( [[福岡市]][[博多区]]千代)&lt;br/&gt;[[大徳寺]]塔頭・[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]([[京都市]][[北区 (京都市)|北区]])&lt;br /&gt;[[高野山#主な施設・寺院|高野山奥の院]]([[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]])<br /> | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[勘解由使|勘解由次官]]、贈[[従三位]]<br /> | 主君 = [[小寺政職]]→[[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]<br /> | 氏族 = [[小寺氏]]、[[黒田氏]](自称[[宇多源氏]])<br /> | 父母 = 父:[[黒田職隆]]&lt;br /&gt;母:[[明石正風]]の娘([[小寺政職]]の養女)<br /> | 兄弟 = &#039;&#039;&#039;孝高&#039;&#039;&#039;、[[黒田利高|利高]]、香山妙春([[三木清閑]]室)、虎([[妙円尼]]・[[尾上武則]]室、麻生某室{{Efn|先夫・尾上武則の死後、孝高より毛利家臣との縁談を紹介されたが、断り地元の[[麻生氏]]と再婚した。}})、[[黒田利則|利則]]、[[黒田直之|直之]]、心誉春勢([[一柳直末]]室)、[[浦上清宗]]室{{Efn|name=&quot;uragami&quot;|『備前軍記』によると孝高の娘とされているが、年齢的に合わず、孝高ではなく父の職隆の子ではないかという説がある。なお黒田氏の系図類ではその名は一切見られず、養女と見る向きもある。}}?<br /> | 妻 = 正室:[[櫛橋伊定]]の娘・&#039;&#039;&#039;[[櫛橋光|光]]&#039;&#039;&#039;(幸円)<br /> | 子 = &#039;&#039;&#039;[[黒田長政|長政]]&#039;&#039;&#039;、[[黒田熊之助|熊之助]]&lt;br /&gt;養子:&#039;&#039;[[黒田一成|一成]]&#039;&#039;([[加藤重徳]]の次男)、&#039;&#039;松寿丸&#039;&#039;([[一柳直末]]の息子)<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;黒田 孝高&#039;&#039;&#039;(くろだ よしたか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。戦国の[[三英傑]]に重用され[[筑前国]][[福岡藩]]祖となる。[[キリシタン大名]]でもあった。<br /> <br /> [[諱]](実名)は初め&#039;&#039;&#039;祐隆&#039;&#039;&#039;(すけたか)、&#039;&#039;&#039;孝隆&#039;&#039;&#039;(よしたか)、のち&#039;&#039;&#039;孝高&#039;&#039;&#039;といった{{Efn|name=&quot;imina&quot;}}が、一般には[[仮名 (通称)|通称]]をとった&#039;&#039;&#039;黒田 官兵衛&#039;&#039;&#039;(くろだ かんべえ){{Efn|今日では一般的に「黒田官兵衛」とは黒田孝高のことを指すが、他にも後世の黒田家の当主が「官兵衛」を通称としている。}}、あるいは剃髪後の号をとった&#039;&#039;&#039;黒田 如水&#039;&#039;&#039;(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、[[豊臣秀吉]]の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。[[竹中重治]](半兵衛)とともに秀吉の[[参謀]]と評され、後世「[[両兵衛]]」「二兵衛」と並び称された&lt;ref&gt;[[福本日南]]『黒田如水』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出身 ===<br /> [[黒田氏]]は、『[[寛永諸家系図伝]]』などによれば、[[賤ヶ岳]]山麓の[[近江国]][[伊香郡]]黒田村(現在の[[滋賀県]][[長浜市]][[木之本町]]黒田)の出身とされるが、定かではない{{Efn|[[偽書]]とされることが多い『[[江源武鑑]]』、及びこれを参考とした貞享4年(1687年)に[[福岡藩]]士[[貝原益軒]]が編纂した『黒田家譜』などにも「[[近江源氏]][[佐々木氏]]([[京極氏]])の傍系である」と同様に記載されるが不明瞭で、『[[寛政重修諸家譜]]』などには省かれている。<br /> &lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/381-390/382/382_01.htm 福岡市博物館 - 黒田家のご先祖探し]&lt;/ref&gt;}}。<br /> 孝高の祖父・[[黒田重隆]]の代に[[備前国]][[邑久郡]][[福岡 (瀬戸内市)|福岡村]]から[[播磨国]]に入り{{Efn|[[浦上村宗]]から逃れたとされる。}}、[[龍野城]]主・[[赤松政秀]]{{Efn|[[置塩城]]の[[守護]]・[[赤松晴政]]に属したとも言われる。}}、後に[[守護]]・[[赤松晴政]]重臣で[[御着城]](現在の[[姫路市]]東部)を中心に[[播磨平野]]に勢力を持っていた[[戦国大名]]の[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]・[[小寺政職|政職]]父子に仕えた。[[小寺氏]]は黒田氏を高く評価し、[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に重隆を[[姫路城]]代に任じた。重隆の子、[[黒田職隆]]には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせた。<br /> <br /> === 播州時代 ===<br /> [[天文 (元号)|天文]]15年11月29日(1546年12月22日)、孝高は黒田職隆の嫡男として播磨国の[[姫路市|姫路]]に生まれた&lt;ref name=&quot;kafu&quot;&gt;[[貝原益軒]]『黒田家譜』&lt;/ref&gt;。幼名は万吉。永禄2年([[1559年]])、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;。永禄4年([[1561年]])、[[小寺政職]]の近習となる。そして永禄5年([[1562年]])、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;。この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。永禄7年([[1564年]])、[[室津]]の[[浦上清宗]]が、婚礼当日に敵対する[[赤松政秀]]に攻められ、父・[[浦上政宗|政宗]]とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある{{Efn|name=&quot;uragami&quot;}}。永禄10年([[1567年]])頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる[[櫛橋伊定]]の娘・[[櫛橋光|光]](てる)を正室に迎え、姫路城代となった。また、従兄弟の[[明石則実]]との同盟を結ぶ。<br /> <br /> 永禄11年([[1568年]])9月、放浪中の[[足利義昭]]が[[織田信長]]と[[美濃国]]で会見して上洛を要請{{Efn|小寺則職にも要請が届いている。}}し、[[三好三人衆]]を退けて[[室町幕府]]15代将軍となる。永禄12年([[1569年]])、3年前に[[山陰地方|山陰]][[山陽地方|山陽]]に勢力を張る[[毛利元就]]により滅ぼされていた[[尼子氏]]の残党の[[立原久綱]]、[[山中幸盛]]らが[[尼子勝久]]を擁し、[[但馬国]]の[[山名祐豊]]や[[浦上宗景]]らに後援され、[[大友義鎮|大友宗麟]]と[[多々良浜の戦い (戦国時代)|多々良浜]]で交戦中であった元就の背後をつく形で[[出雲国]]で再興のために決起する([[尼子再興軍の雲州侵攻]])。元就は義昭に救援を要請した。<br /> <br /> 8月、祐豊に木下秀吉(後の[[豊臣秀吉|羽柴(豊臣)秀吉]])が率いる2万の兵が差し向けられる。更に義昭と誼を結んだ赤松政秀{{Efn|2月に娘・さこの方を義昭の侍女としている。&lt;ref&gt;『大阪城天守閣所蔵文書』&lt;/ref&gt;}}が、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくる。政職は[[池田勝正]]、[[別所安治]]らに攻められ、宗景は[[宇喜多直家]]に離反され、孝高には300の兵しか無かったが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたり戦い、[[三木通秋]]の援軍などもあって撃退に成功する([[青山・土器山の戦い]])。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、[[信長包囲網]]が張られ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。<br /> <br /> [[元亀]]4年([[1573年]])、包囲網は[[甲斐国]]の[[武田信玄]]の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の[[三木城]]主・[[別所長治]](安治の子)が攻めこんでくる([[印南野の戦い]])。7月、内紛により三好氏の[[篠原長房]]が討死。9月、信長が[[浅井長政]]を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。天正2年([[1574年]])、義昭は[[毛利輝元]](元就の嫡孫)の領内の[[鞆の浦]]へ逃れた。<br /> <br /> 天正3年([[1575年]])、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に[[長篠の戦い]]で[[武田勝頼]]を破っていた織田氏への臣従を進言。7月、羽柴秀吉の取次により[[岐阜城]]で信長に謁見し、信長から名刀「[[へし切長谷部|圧切長谷部]]」を授かる。さらに年明けには政職にも、[[斎村政広|赤松広秀]](政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる(『[[信長公記]]』)。一方で9月には、浦上宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。<br /> <br /> 天正4年([[1576年]])1月、[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が、[[赤井直正]]攻めの[[明智光秀]]を攻撃([[黒井城の戦い]])して信長より離反。4月、信長と本願寺の和睦が決裂。7月、輝元の叔父・[[小早川隆景]]配下の水軍の将・[[乃美宗勝|浦宗勝]]が、信長の水軍を破る(第一次木津川口の戦い)。天正5年([[1577年]])5月、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である[[英賀]]に上陸させた。孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5,000の兵を退ける([[英賀合戦]])&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;&gt;『黒田家文書』&lt;/ref&gt;{{Efn|『黒田家譜』では天正4年の事とするが、感状から天正5年の誤りとされる。}}。この戦いの後、長男の松寿丸(後の[[黒田長政]])を人質として信長の元へ送る。<br /> <br /> 10月、信長は[[信貴山城の戦い]]で[[松永久秀]]を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である[[市川 (兵庫県)|市川]]を挟んで姫路城の南西に位置する[[飾東郡]]の[[国府山城]]{{Efn|別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。}}に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、[[参謀]]として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]を[[但馬国]]の[[生野銀山]]を管轄する[[太田垣景近]]の[[竹田城]]攻めに向かわせる(11月4日落城)。孝高は秀吉本隊の[[上月城の戦い|上月城攻め]]に従い、[[佐用城]]攻めでは[[竹中重治]]らと共に先陣を務めている。[[上月城]]は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久、山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任される。<br /> <br /> === 織田家臣時代 ===<br /> ところが天正6年([[1578年]])3月、別所長治がほとんどの周辺豪族を引き込んで{{Efn|孝高の妻・光の実家である櫛橋氏なども離反し、東播磨で織田方に残ったのは孝高の従兄弟にあたる明石則実、当初より織田派であった[[別所重宗]]、赤松広秀など僅か。}}反旗を翻し([[三木合戦]])、これに[[毛利氏]]が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、[[書写山]]まで撤退した{{Efn|8月、別所氏に呼応した[[書写山]]西向かいの、[[峰相山]]・[[鶏足寺 (姫路市)]]を攻めている}}。<br /> <br /> 双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は宇喜多直家を調略することに成功する&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;{{Efn|直家は、[[小西行長]]を取次として秀吉に帰属を申し入れている。}}。しかし、今度は織田家の重臣で[[摂津国]]を任されていた[[荒木村重]]が信長に対して謀反を起こし、[[有岡城]]に[[籠城]]した([[有岡城の戦い]])。この時、主君の小寺政職も村重に呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。1年後の天正7年([[1579年]])10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は[[栗山利安]]に救出された。<br /> <br /> 天正8年([[1580年]])1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。小寺政職も、信長の嫡男・[[織田信忠]]によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、[[名字]]に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている{{Efn|[[賤ヶ岳の戦い]]を当時に記録した『[[天正記]]-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。}}{{Efn|天正8年([[1580年]])7月に、秀吉が姫路城普請を命じた文書に黒官兵と記されているのが、黒田姓の初見。一方で天正16年(1588年)のフロイスの手紙には、「Condera Cambioyedono」とある。}}。<br /> 秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して謝絶する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;/&gt;。9月、孝高は[[揖東郡]]福井庄([[網干]]周辺)に1万石を与えられる。<br /> <br /> 天正9年([[1581年]])6月、前年に降伏した[[山名豊国]]を追放して3月に[[吉川経家]]を城主に迎え入れていた[[因幡国]]の[[鳥取城]]へ、秀吉は再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により[[若狭国]]などの商人が周辺の米を買い占めた上で包囲して補給路を絶ち、更に城周辺の人家を孝高らの隊が襲撃、住民の多くを鳥取城に避難させた上で[[兵糧攻め]]を行ったため、城内の兵糧は短期間で枯渇、飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇(かつ)え殺し)、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。天正8~10年頃に孝高は、毛利氏と結んだとされる[[淡路島]]の[[由良城]]主・安宅河内守攻め、[[志知城]]から信長側に付いた[[阿波国]]の三好氏の支援などに、[[小西行長]]らとともに関わっている&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;/&gt;。<br /> <br /> また天正10年([[1582年]])、毛利氏の武将・[[清水宗治]]が守る[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;{{Efn|『吉田大略記』によると孝高の家臣[[吉田長利]](八代道慶と乳母の子で[[黒田二十四騎]]の1人)から孝高へ提案されている。}}。<br /> <br /> === 豊臣家臣時代 ===<br /> [[備中高松城の戦い|高松城攻め]]の最中の6月2日、京都で明智光秀により[[本能寺の変]]が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、[[中国大返し]]を成功させたという逸話がある&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;{{Efn|大返しの前に小早川隆景より人質と共に20本の旗を借り受け、宇喜多秀家の旗10本と共に掲げた。中国の大勢力が加勢していると見せて、味方を増やし、敵を弱気にさせる策略とされる。&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;}}。<br /> [[山崎の戦い]]では[[天王山]]に布陣し、裾野の[[中川清秀]]隊を追い落とそうとする明智軍と戦闘を繰り広げた{{Efn|高名していた配下の[[秦桐若丸]]を、この戦いの負傷が元に失っている{{要出典|date=2018年6月}}。}}。9月頃より、毛利氏・宇喜多氏の国境線確定交渉を行い、[[蜂須賀正勝]]ととも毛利側の[[安国寺恵瓊]]と交渉した。<br /> <br /> 天正11年([[1583年]])、[[大坂城]]の[[縄張り]]に当たる。秀吉と[[柴田勝家]]との[[賤ヶ岳の戦い]]では、[[佐久間盛政]]の攻撃に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが守り抜いた&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/select/news/20130511k0000m040028000c.html 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見](毎日新聞2013年5月10日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 天正12年([[1584年]])、[[小牧・長久手の戦い]]の当初においては、大坂城で[[留守居役]]を務めている。黒田長政らは[[岸和田城#沿革|岸和田の戦い]]で[[根来盛重]]、[[鈴木重意]]、[[長宗我部元親]]{{Efn|[[香宗我部親泰]]の与力の[[菅達長]]。}}らの兵を破った。中入りの時期には、蜂須賀正勝ら{{Efn|黒田孝高、黒田長政、蜂須賀正勝、[[前野長康]]、[[生駒親正]]、明石則実ら在番衆。(『浅野家文書』)}}とともに本営の備えとして召喚され、小牧山包囲からの撤退戦となった5月1日の[[織田信雄]]・[[徳川家康]]連合軍との[[二重堀砦跡|二重堀砦]]の戦いで、[[木村重茲]]らと殿軍を務めている。7月、二重堀砦の戦いの最中の無断離脱を問われ改易された[[神子田正治]]の[[山崎城 (播磨国)|山崎城]]を含む播磨国[[宍粟郡]]を与えられ5万石の大名となっている。<br /> <br /> 天正13年([[1585年]])の[[四国攻め]]には、[[讃岐国]]から攻め込んだ[[宇喜多秀家]]軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていった。[[植田城]]に対してはこれを囮であると見抜いて[[阿波国]]へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の[[岩倉城 (阿波国)|岩倉城]]が攻略されたところで長宗我部軍は撤退・降伏した。この頃に、孝高は[[高山右近]]や[[蒲生氏郷]]らの勧めによって[[キリスト教]]に入信している{{Efn|『[[フロイス日本史]]』によると、天正11年(1583年)頃から[[室津]]の小西行長に影響され、[[明石城]]の高山右近や蒲生氏郷らに勧められ、天正13年に洗礼を受けた[[三木城]]の前野長康(間も無く[[出石城]]へ移り、[[中川秀政]]が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。}}。<br /> <br /> 天正14年([[1586年]])、[[従五位|従五位下]]・[[勘解由使|勘解由次官]]に叙任された。10月、大友宗麟の要請による[[九州平定|九州征伐]]では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として[[豊前国]]に上陸し、長野鎮辰の[[馬ヶ岳城]]他、[[時枝鎮継]]の[[時枝城]]などを収容。[[宇留津城]]、[[香春岳城]]など{{Efn|他に、[[障子岳城]]、原田信種の[[高祖城]]など。}}を陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の[[日向国|日向]]方面陣営の先鋒を務めて南下し、[[島津義久]]の軍勢と戦い、戦勝に貢献している([[根白坂の戦い]])。戦後は[[石田三成]]と共に[[博多]]の復興(太閤町割り)を監督している{{Efn|家臣の[[久野重勝]]が担当し、博多商人の[[神屋宗湛]]と[[島井宗室]]が参画している。}}。<br /> <br /> ==== 豊前国主 ====<br /> 九州平定後の天正15年([[1587年]])7月3日、馬ヶ岳城をはじめとする[[豊前国]]の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は[[大友義統|大友吉統]]領)、およそ12万石([[太閤検地]]後17万石以上{{Efn|[[蔵入地]]は2万石程。自己申告である差出検地を認められている。}})を与えられ、[[中津城]]の築城を開始。7月に[[佐々成政]]が[[肥後国]]の統治に失敗し、[[隈部親永]]らによる[[肥後国人一揆]]が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前国でも[[野中鎮兼]]ら[[国人]]勢力が肥後国人に呼応し、[[伊予国]]への転封を拒否し3万石を[[改易]]されていた[[城井鎮房]]が挙兵して居城であった城井谷城を占拠するなど、大規模な反乱となる{{Efn|豊前国でも[[上毛郡]]の如法寺久信などによる規模な一揆は起きていた。(『金苗文書』)}}。長政が一旦は鎮圧に失敗する([[岩丸山の戦い]])などしたため、黒田氏は持久戦策をとり{{Efn|その間、妹婿の[[尾上武則]]などが戦死している。}}、兵站を断ち徐々に鎮圧する{{Efn|天正15年([[1587年]])12月、下毛郡の犬丸城の攻略に対し、秀吉より長政が感状を受けている。}}。天正16年([[1588年]])1月頃、中津城が完成。同年4月、嫡男・[[城井朝房]]と娘・鶴姫を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;/&gt;、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;{{Efn|『黒田家譜』によると、孝高が朝房を伴い肥後国に出陣していた際、中津城を訪れた鎮房を、長政が酒宴の席で謀殺した。その報告を受けて、孝高は陣に加わっていた朝房を殺害した。}}{{Efn|[[金子堅太郎]]は、位牌や系図などから事件は天正17年([[1589年]])の出来事としている。&lt;ref&gt;金子堅太郎 『黒田如水傳』(博文館、1916年、のちに文献出版から1976年に再版)&lt;/ref&gt;}}{{Efn|『川角太閤記』では、まだ妻がいなかった長政に鎮房の17歳の息女と縁組をし、孝高が出陣中に留守居役として鎮房を誘い出して殺害した。孝高は「息女たちは親類のいる周防国へ送れ」と指示していたが、長政は手ぬるいとして息女と乳母を火炙りの刑、侍女たちを磔の刑にしたとする。ただし、既に長政には蜂須賀正勝の娘・糸姫を正室としている。}}。<br /> <br /> 天正17年([[1589年]])5月、家督を嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城はほとんど長政に任せ、孝高は猪熊、[[伏見区|伏見]]の京屋敷や[[天満]]の大坂屋敷を拠点とする。<br /> <br /> 天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]では[[北条氏政]]・[[北条氏直|氏直]]父子を[[小田原城]]に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は中津で留守居役をしていた長政に宛てた7月10日付の[[朱印状]]にて「小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残所なく仰せ付けられ候、今度の首尾、勘解由、渕底候条、委曲申し遣わすべく候」と、孝高の活躍により戦いは終結したと、功績を称えている&lt;ref&gt;福岡市博物館蔵、黒田家文書&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;/&gt;。この時、北条氏直から名刀「[[福岡一文字|日光一文字]]」などの家宝を与えられている&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、[[加藤清正]]、小西行長などの暴走で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国した。文禄2年([[1593年]])3月15日、孝高は再び朝鮮に渡ったが、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対し、石田三成、[[増田長盛]]らと対立し、秀吉を直接説得するために5月21日に[[東莱城]]より名護屋城へ帰国したといわれる(『フロイス日本史』)。しかし秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされ、朝鮮に追い返されている(『益田孝氏所蔵文書』)。同年6月の第二次[[晋州城攻防戦]]においての[[後藤基次]]らが用いた亀甲車の設計や、[[倭城|和式城郭]]の縄張りなどに携わっている。8月、剃髪して「&#039;&#039;&#039;如水軒円清&#039;&#039;&#039;」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していたが、秀吉によって赦免されている{{Efn|この如水剃髪に関わる三奉行との確執も、戦略・戦術をめぐっての建設的な衝突ではなく、豊臣政権内における主導権争いであり、それも太閤権力を一手に握ろうとする三奉行の一方的な仕掛けによるものであったために、如水としては弁明の機会も失い、自ら剃髪する以外に危機を脱する術がなかったとされている&lt;ref&gt;[[宮本義己]]「如水剃髪の真相」(『別冊歴史読本』32巻24号、2007年)&lt;/ref&gt;。}}。<br /> <br /> 慶長2年([[1597年]])からの[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では総大将・[[小早川秀秋]]の軍監として[[釜山]]に滞陣。[[蔚山城の戦い#第一次蔚山城の戦い|第一次蔚山城の戦い]]において、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退けたといわれる(『黒田家譜』)が、過大宣伝であるという指摘もある{{要出典|date=2018年6月}}。勝利した日本軍が戦線縮小を図ると、秀吉は軍令に従わず全羅道攻略を放棄したと見なして、黒田長政、[[蜂須賀家政]]、加藤清正、小西行長など、多くの武将が叱責や処罰を受けた(『看羊録』)。<br /> <br /> === 関ヶ原の戦い ===<br /> 慶長3年([[1598年]])8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた[[吉川広家]]宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。<br /> <br /> 明くる慶長4年([[1599年]])1月、生前の秀吉が『[[御掟|大坂城中壁書]]』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や[[福島正則]]らが抵触すると、それを詰問した[[前田利家]]・石田三成ら大老・奉行衆との間に緊張が高まる。この時、如水は蜂須賀家政や[[藤堂高虎]]らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や[[細川忠興]]らを引き込んだ長政らが[[七将#石田三成襲撃事件|三成襲撃事件]]を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の[[佐和山城]]に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。<br /> <br /> 慶長5年([[1600年]])6月2日、家康が[[会津]]の[[上杉景勝]]討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女{{Efn|実父は[[保科正直]]}}・栄姫と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[8月25日]])、石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、[[関ヶ原の戦い]]が起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。<br /> <br /> 中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[10月15日]])、再興を目指して西軍に与した[[大友義統]]が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である[[杵築城]]を包囲攻撃した。城将・[[松井康之]]と[[有吉立行]]は如水に援軍を要請。同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。<br /> <br /> 道中の諸城を攻略した後、[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]([[10月19日]])、石垣原(現在の[[別府市]])で大友義統軍と衝突した。[[母里友信]]が緒戦で大友軍の[[吉弘統幸]]に破れる等苦戦するも[[井上之房]]らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した([[石垣原の戦い]])。<br /> <br /> [[9月19日 (旧暦)|9月19日]]([[10月25日]])、[[富来城]]の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である[[垣見一直]]からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した[[太田一吉]]の[[臼杵城]]([[佐賀関の戦い]])などの諸城{{Efn|[[熊谷直盛]]の[[安岐城]]、[[毛利高政]]の[[角牟礼城]]と[[日隈城]]、[[毛利勝信]]の[[小倉城]]、[[毛利信友]]の[[香春岳城]]など。}}を落としていった。[[国東半島]]沖の[[豊後水道]]付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた[[島津義弘]]の軍船と戦い、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した[[毛利秀包|小早川秀包]]の居城である[[久留米城]]攻めへ向かう。[[鍋島直茂]]・[[鍋島勝茂|勝茂]]父子が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川城の支城である[[海津城 (筑前国)|海津城]]を落とす。その後、[[宇土城]]攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、[[立花宗茂]]は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後国の[[水俣市|水俣]]まで進軍したとき、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。<br /> <br /> === 晩年と葬儀 ===<br /> 関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として[[豊前国]][[中津]]12万石から[[筑前国]]名島([[福岡市|福岡]])52万石への大幅加増[[転封|移封]]をした後、[[井伊直政]]や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は[[福岡城]]に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた[[太宰府天満宮]]内に草庵(如水が茶で使用した井戸が残る)などを構えている。 また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の[[摂津国]][[有馬温泉]]に、療養滞在している。<br /> <br /> 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、[[京都]]伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。享年59。辞世の句は「&#039;&#039;おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて&#039;&#039;」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして、<br /> * 自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと。<br /> * 息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること。<br /> * イエズス会に2,000タエス(約320石に相当)を与え、うち1,000タエスを長崎の管区長に、1,000タエスを博多{{Efn|当時、「博多」という地名は「福岡と博多を合わせた双子都市」を指した。{{Sfn|キリシタン研究19|pp=116, 131, 137, 153, 168}}}}に教会を建てるための建築資金に充てること。<br /> を遺言した{{Sfn|キリシタン研究19|pp=23}}。また、家臣の[[殉死]]を禁止している。<br /> <br /> 4月のある夜、午後10時半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった[[黒田直之]]が十字架を掲げ、直之の息子と、[[徳永宗也]]の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている{{Sfn|キリシタン研究19|pp=23-24}}。<br /> <br /> 如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日([[1606年]]4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後、長政は宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、如水の妻・照福院(光)は教会のための特別な寄付をしたという{{Sfn|キリシタン研究19|pp=27}}。<br /> <br /> 後に長政は京都の[[臨済宗]][[大徳寺]]に、父・如水を弔う為に塔頭・[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]を建立。法要が行われた。同院は当初、大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが[[国宝茶席三名席]]の一つの密庵である。<br /> <br /> また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地{{Efn|滋賀県[[長浜市]]木之本地区、兵庫県[[但馬]]地方、[[香美町]]村岡地区など。}}に残存し、近年盛んに研究されている。<br /> <br /> 明治35年([[1902年]])[[11月13日]] 、従三位を追贈された&lt;ref&gt;『官報』第5812号「叙任及辞令」1902年11月17日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 伝承・後世の俗説 ==<br /> 孝高に関する話は、[[ルイス・フロイス]]などの宣教師、菩提寺の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]住職・[[景轍玄蘇]]といった直接面識のあった人物の記述の他、『[[川角太閤記]]』、『[[常山紀談]]』、『故郷物語』、『[[名将言行録]]』、『黒田如水伝』([[金子堅太郎]]著、[[1916年]])などによる、伝聞を記述された物も多く知られる。[[備中高松城の戦い|備中高松城水攻め]]と[[中国大返し]]は孝高の献策などといった話は、三代福岡藩主・[[黒田光之]]の命において[[寛文]]11年([[1671年]])に編纂を開始された『黒田家譜』([[貝原益軒]]著、[[1688年]])以降の逸話である{{Efn|渡邊大門は『黒田家譜』について「参考になる点は多々ある一方で、孝高については黒田家藩祖として顕彰する傾向がある」としている。&lt;ref&gt;[[渡邊大門]] 『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』([[中経出版]]、2013年)&lt;/ref&gt;}}。<br /> <br /> また慶長5年(1600年)10月の[[吉川広家]]に宛てた書状に、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」{{Efn|(原文)「 上方、美濃口御取り相い当月までも御座候は、中国へ切りあげ、花々と見知返し候て、一合戦仕るべしと存じ候に、むやく内府御勝手に罷り成り残り多し候」}}とある。現代に於ける「天下を狙った野心家・黒田如水」との俗説はここからきていると思われる。<br /> <br /> == 号 ==<br /> 孝高の隠居後の号である如水の由来について、[[ルイス・フロイス]]は次のように記している。<br /> {{Quotation|官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、<br /> それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。|フロイス日本史&lt;ref&gt;完訳[[フロイス日本史]]5 第44章&lt;/ref&gt;}}<br /> [[ファイル:Siegel Yoshitaka.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|黒田如水の印章。]]<br /> また、孝高は「シメオン」という洗礼名を持つ[[キリシタン大名]]でもあり、如水についても[[モーセ]]の後継者であり、[[カナン]]の地を攻め取った[[旧約聖書]]の[[ヨシュア]]のポルトガル語読みである[[ジョズエ]]({{Pt|Josué}})から取ったとも言われる{{要出典|date=2014年1月}}。孝高は宣教師からジョズエについて城攻めの才能がある人物として伝えられていた。<br /> <br /> 孝高が用いた印章には、「IOSUI SIMEON/SIMEON IOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがあり&lt;ref&gt;西日本文化協会 福岡県地域史研究所編『福岡県史』近世史料編 福岡藩初期(下)(西日本文化協会、1983年)pp.487,489。&lt;/ref&gt;、いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「シメオン じょすい/じょすい シメオン」、「くゎん(ひゃうゑ/びゃうゑ){{Efn|「くゎんひゃうゑ(くわんひやうゑ)」は「官兵衛」当時の正式なカナ表記。実際の発音としては「かんびょーえ」などが知られる。&lt;ref&gt;クリセル神父校閲・吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史(上)』岩波書店、1938年、p.39など&lt;/ref&gt;}}」と考えられる{{Efn|ローマ字で表記された以下の人名は全て黒田孝高を指す。Simon Condera (Simon 小寺), Simeon Condera (Simeon 小寺), Kodera Cambyoye (小寺官兵衛), Kodera Kambyoye (小寺官兵衛), Quadera Quanbioi (小寺官兵衛), Kuroda Kambroye (黒田官兵衛、なお KambroyeはKambyoyeの誤読と考えられる), Cuwanbioye (官兵衛), Cambioiendono (官兵衛殿、なお母音のつぎにdなどが続くと、その母音を発音するときに息を鼻に送る&lt;ref&gt;池上岑夫訳『日本語小文典 上』岩波書店、1993年、73頁&lt;/ref&gt;。donoの前のnはこの鼻母音を表したものと考えられる), Quambioi-dono (官兵衛殿), and Condera-quansioye (小寺官兵衛、なお18世紀以前、sは時にſと書かれており、quansioyeはquanfioyeの誤読と考えられる。「兵衛」の読みはfioyeとbioyeの二通りがあった&lt;ref&gt;池上岑夫訳『日本語小文典 下』岩波書店、1993年、198頁&lt;/ref&gt;}}。<br /> なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた&lt;ref&gt;土居忠生ほか訳『邦訳 日葡辞書』(岩波書店、1980年)巻末「ローマ字綴り・音注対照表」(p.863の次の頁)、また、池上岑夫訳『ロドリゲス 日本語小文典(上)』(岩波書店、1993年)p.266。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 他にも『老子道徳経』の有名な一節である「上善如水」から引用されたという説もある。手柄を立てながらも、過度に報酬を要求しなかった姿勢などから老子の思想の鱗片が伺える。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> * 築城の名手として知られ、居住した妻鹿城、中津城や[[福岡城]]の他、[[前野長康]]や[[浅野長政]]らと共に、[[姫路城]]、[[大坂城]]、[[高松城 (讃岐国)|讃岐高松城]]、[[石垣山城]]、[[名護屋城]]、[[広島城]]など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行った。<br /> ** [[加藤清正]]は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちないなどと賞賛している。西には草が江を利用した広大な池沼濠(大濠)、東から攻めてくる敵軍に対する防壁としては、博多に面した那珂川に長さ1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによる。<br /> * 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば[[黒田長政]]の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。<br /> * [[徳川秀忠]]は孝高を「今世の[[張良]]なるべし」と評した([[三河後風土記]])。<br /> * 歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予測し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する([[#逸話|後述]]も参照)。<br /> * 史実として確認できる業績からは、[[下克上]]や天下取りの野心を示した事は一度もない。小寺政職には「裏切った」のではなく「裏切られた」のであり、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(立場上は)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、なおかつ同じ東軍であったから、敵対すらしていない。<br /> * 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。<br /> * 筆頭家老・[[栗山利安]]と[[母里友信]]は如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙。本来なら今はもう返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思ってる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐中に入れたという(古郷物語)。<br /> * [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]に所在する[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]に伝来する[[肖像]]は慶長9年(1604年)の作で、家臣の[[井上之房]](九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の[[春屋宗園]]による賛が記されている。如水像は他にも何点かあるが、どれも[[脇息]]にもたれかかり、片膝を立てくつろいだ姿で描かれている。これはしばしば足が不自由だからとする説明があるが、こうした図像は[[柿本人麻呂]]像を始めとする歌人の肖像によく見られる形式であり、歌人としての一面もあった如水の像もこれに倣っていると考えられる&lt;ref&gt;黒田長政と二十四騎展実行委員会編集・発行 『黒田長政生誕四四〇年記念展 黒田長政と二十四騎 黒田武士の世界』 [[福岡市美術館]]、2008年9月、p.93。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==人間関係==<br /> ===秀吉との関係===<br /> 逸話として、秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたと、後の時代に書かれることがある。だが、「おまえは弟の小一郎([[豊臣秀長]])と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない&lt;ref name=&quot;bunsho&quot;/&gt;。<br /> <br /> 孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「[[軍配者]]」が存在し、「[[軍師]]」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と[[千利休]]であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある{{Sfn|諏訪|2013}}。<br /> <br /> しかし、ルイス・フロイス著の『日本史』には、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない。<br /> <br /> 印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあったが、そのとき秀吉は機嫌を悪くして「汝は彼ら(パーデレ達)を愛護し、キリシタンたるが故に予が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。下(九州地方)の戦闘に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時パーデレ及びイルマンに対する不快から、その後、豊前国の大部分と王の名称しか与えなかった事を。」&lt;ref&gt;新井トシ訳『グスマン東方伝道史』下巻、養徳社、1945年、536-537頁。原文:..., te quite grande parte de darte lo que auia determinado do darte (dixo esto) porque siendo su capi tan en las guerras del Ximo, le auia prometido de darle dos Reynos, y con el disgusto que enton ces tomo contra los Padres, y corra la Christiandad, no quiso darle despues sino la mayor parte te del Reyno de Buygen, con el titulo de aquel reyno.&lt;/ref&gt;と言ったという。<br /> <br /> ===竹中重治との関係===<br /> [[File:Site of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado&#039;s Positions.jpg|thumb| 関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]]<br /> 孝高(官&#039;&#039;&#039;兵衛&#039;&#039;&#039;)は、同じく秀吉の「軍師」とされる[[竹中重治]](半&#039;&#039;&#039;兵衛&#039;&#039;&#039;)と並んで「&#039;&#039;&#039;[[両兵衛]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;二兵衛&#039;&#039;&#039;)」と呼ばれることがある。<br /> <br /> [[荒木村重]]謀反([[有岡城の戦い]])の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の[[小寺政職]]と共に村重方に寝返ったからだと判断し{{Efn|毛利側にも、御着、志方、山﨑、野間などと共に、姫路も寝返ったと伝わっている。(『毛利家文書』)}}、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように命じたが、機転を利かせた重治は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用い{{Efn|この家紋とは石餅(こくもち)の事を指す。石餅とは石高の加増を願う家紋である。}}、また重治の子の[[竹中重門]]の[[元服]]の際には孝高が[[烏帽子親]]を務めた。<br /> <br /> 秀吉の死後、[[関ヶ原の戦い]]の際には、黒田長政と竹中重門が隣り合わせで陣を張ったことが陣跡に残されており、「両兵衛」の絆は息子たちにも受け継がれている。<br /> <br /> === 毛利家との関係 ===<br /> * [[毛利輝元]]率いる毛利家とは秀吉の名代としてたびたび交渉にあたっており、フロイスの日本史にも「関白は彼を通じて山口の国主(毛利)と交渉している」と書かれてある。また毛利家上洛の折は官兵衛がすべて取り仕切っている記述が残されている。<br /> * [[小早川隆景]]とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。[[豊臣秀吉]]の養子であった[[小早川秀秋]]は、[[豊臣秀頼]]誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、[[小早川氏|小早川家]]の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。&lt;!-- もっとも、腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。(ただし、筑紫は隆景自身の領地であり、黒田長政の領地となったのは隆景が亡くなった後の関ヶ原以降。) --&gt;隆景の末弟で養子の[[毛利秀包|小早川秀包]]を、[[黒田長政]]や[[大友義統]]らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の[[久留米城]]に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。<br /> * [[吉川広家]]とは小早川隆景の死後、特に親密となり、関ケ原の折に孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。<br /> === その他の人間関係 ===<br /> * 自身を幽閉した荒木村重(道糞)とは共に秀吉の家臣になった後も交流があった。書簡の写しが残っている&lt;ref&gt;[http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml 官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認]&lt;/ref&gt;。<br /> * 茶道にも造詣深く京都の[[聚楽第]]内の猪熊の屋敷(現在の京都市如水町・小寺町)は一条の[[千利休]]邸と隣り合い、[[茶道]]を学んでいる。堺の豪商・[[津田宗及]]の『天王寺屋会記』や博多の豪商・[[神屋宗湛]]の『宗湛日記』によれば、利休はじめ秀吉ら多くの貴人と同席した記録が残っており、中でも正客として招かれた「野菊の茶会」は著名である。如水は自ら『御茶堂之記』という記録を残し、利休に寄せる自分流の茶道の心得を記している。他にも茶人や造園家として有名な武将・[[小堀政一|小堀遠州]]らとも交流があり、大坂天満の自邸の茶室など、遠州が設計に関わっているとされる。<br /> * [[関白]]の[[豊臣秀次]]とは複数の交換書状が残っており懇意だった事が文面からも解る。如水と称した後にも[[将棋]]などの相手や、朝鮮出兵で病気をした時に秀次が当代一の医者を如水に送ったという記録が残る。史実として隠居した如水に対し褒美加増をするなど親しい間柄であった事が解る。また妹・心誉の夫であった[[一柳直末]]から貰い受けた短刀、[[厚藤四郎]]及び北条氏から買い取った[[鎬藤四郎]]を秀次に献上したとされる。[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]では、秀吉の[[播磨国]]入り以来、陣営を共にしてきた従弟の[[明石則実]]が、[[前野長康]]らと連座となった。<br /> * 風流人で[[和歌]]や[[連歌]]などをたしなんでおり、幼い頃から[[源氏物語]]などを読み母親の明石氏{{Efn|孝高の母方の祖父に当たる[[枝吉城]]主・[[明石正風]]は風流武人であったと記録が残る。}}などの影響もあり教養深かったとされる。京都の公家、[[摂家|五摂家]]や[[堂上家]]の人々とも多く親交を持っている。関白・[[近衛信尹]]とは特に親しく、複数の交換書状(書簡)が太宰府天満宮などに所蔵されている。<br /> * [[徳川家康]]の庶子である[[結城秀康]]は、[[小牧・長久手の戦い]]の和睦の際に、人質として[[豊臣秀吉]]に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・[[豊臣鶴松]]が誕生し、[[小田原征伐]]の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた[[結城晴朝]]の養子となり、後を継いだ。[[関ヶ原の戦い]]の後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。<br /> * 京都[[大徳寺]]の名僧・[[春屋宗園]]は如水と大変仲が良く、書状などが複数残っており、[[福岡市美術館]]蔵の肖像画には、宗園の讃が漢文で丁寧に書かれている。晩年は、息子・長政の建立した塔頭・龍光院にて隠棲している。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> * 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は[[大正時代]]の『黒田如水傳』である。[[小寺休夢]]宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。<br /> * 有岡城内の孝高の安否を、家臣の[[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[井上之房]]などが、城下の商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って確認していたとされる。<br /> * 有岡城内では[[村田吉次]]の伯母、[[黒田一成]]の父([[加藤重徳]])などに、世話をされていたとされる。<br /> * 旧主の小寺政職の嫡男・[[小寺氏職]]を庇護したため、[[小寺氏]]は存続する事となった。<br /> * [[九州征伐]]後の[[豊前国]]5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを[[石田三成]]の讒言などによるものとしている。[[湯浅常山]]の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。[[ルイス・フロイス]]の手紙は、孝高がキリシタンであったため迫害を受けたとしている。<br /> * 次男の熊之助が海難で亡くなった([[#子孫|後述]])後、まだ長政に男子がいなかったため、[[山中城]]の戦いで戦死した妹婿の[[一柳直末]]の遺児で、孝高の養子となっていた松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。<br /> * [[関ヶ原の戦い]]の折、[[石田三成]]方で本戦に加わっていた[[太田一吉]]や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。<br /> * 関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた?(家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが([[#人物|前述]]も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。ただし慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。<br /> * 関ヶ原で西軍側についた[[宇喜多氏]]の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある[[明石全登]]を、弟・直之の元で庇護したとされる。<br /> * 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという&lt;ref name=&quot;meisho&quot;/&gt;。<br /> * 身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。<br /> * 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。ただし、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。ちなみに家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり、死罪を命じたりしていない。<br /> * 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の[[海音寺潮五郎]]はこの事を指して、信長・秀吉・家康の[[三英傑]]より人物的には勝っていると評した。<br /> * [[名将言行録]]によれば本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後の秀吉は孝高の智謀を恐れるようになったという。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は[[徳川家康]]や[[前田利家]]の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るであろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の真の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている&lt;ref name=&quot;meisho&quot;&gt;岡谷繁実 『[[名将言行録]]』 前編下冊 巻之二十九&lt;/ref&gt;。<br /> * [[文禄]]5年([[1596年]])の[[慶長伏見地震]]の際、如水は蟄居中の身でありながら倒壊した[[伏見城]]に駆けつけたが、秀吉は同じく蟄居中の[[加藤清正]]の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「わしが死なず残念であったろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。<br /> * 鳥取城の兵糧攻めや備中高松の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである(『鳥取城合戦始末』記)が、献策を示すような資料があるわけではない。<br /> <br /> == 遺品 ==<br /> 如水が使用したと伝わる遺品が各地に残っている。<br /> * 愛用した[[兜]]「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である[[栗山利安]]にこれを贈っている&lt;ref name=&quot;Ichizoku&quot;&gt;{{Harvnb|黒田如水と一族|p=5}}&lt;/ref&gt;。この兜は後に起こった[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]にて利安の子である[[栗山利章]]が[[陸奥国]]盛岡へ流された後、[[盛岡藩]]主・[[南部氏|南部家]]へ献上された&lt;ref&gt;(福岡市博物館発行『黒田家の甲冑と刀剣』第二版)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Ichizoku&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2008/kuroda_24ki/images/kuroda_24ki_list.pdf 黒田長政と二十四騎]-福岡市博物館のウェブサイトより-2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;。現在この兜は同地にある[[もりおか歴史文化館]]に保存されている&lt;ref name=&quot;Ichizoku&quot;/&gt;。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄9年(1565年)、[[志方城]]主・[[櫛橋氏]]から黒田家にやって来た縁者によってもたらされたといわれ、光が孝高に嫁いだ際に持参したと考えられている&lt;ref&gt;諏訪勝則『黒田官兵衛』(中央公論新社、2013年、34-35頁)&lt;/ref&gt;。後に福岡藩3代藩主の[[黒田光之]]が如水を偲んで、同形式の兜(朱漆塗合子形兜)をつくらせた。こちらは[[福岡市博物館]]に保管されている。<br /> * 如水所有の[[刀]]のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。<br /> ** 刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)&lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/katana/html/katana01.html 国宝刀 名物「へし切長谷部」]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Ichizoku&quot;/&gt;<br /> **: 天正3年(1575年)7月、[[美濃国]][[岐阜城]]にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が[[山城国]]の[[刀工]][[長谷部国重]]の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。<br /> ** 刀 備前長船祐定(安宅切)&lt;ref&gt;[http://www.rosenet.ne.jp/~wabi/kassen-7.htm 第一次四国征伐]ー2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/161-170/165/je165_02.html 刀と能面]-福岡市博物館ウェブサイトより-2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Ichizoku&quot;/&gt;<br /> **: 天正9年(1581年)11月、[[四国攻め#織田政権の四国進出|四国攻め]]の際に[[淡路国]]にて安宅河内守([[安宅清康]]かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から[[埋忠明寿]]の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。<br /> ** 太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)&lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/katana/html/katana02.html 国宝太刀 名物「日光一文字」]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;P4&quot;&gt;{{Harvnb|黒田如水と一族|p=4}}&lt;/ref&gt;<br /> **: 天正18年(1590年)の小田原征伐の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の[[北条氏直]]より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。なお太刀を入れていた黒繻子に舞鶴紋が施された刀袋は散逸している。<br /> * 小田原征伐の降伏交渉の際に北条氏直から[[平経正]]ゆかりとされる伝説の[[琵琶]]の名器『青山』、歴史書の『[[吾妻鏡]]』と[[法螺貝]]の『北条白貝』も如水に贈られ&lt;ref name=&quot;P4&quot;/&gt;、『吾妻鏡』は[[国立公文書館]]に{{Sfn|黒田如水と一族|p=65}}、『北条白貝』、琵琶名器『青山』は[[福岡市美術館]]に保存されている&lt;ref&gt;[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/kurodake/html/kurodake_09.htm 黒田家 その歴史と名宝展]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認&lt;/ref&gt;{{Sfn|黒田如水と一族|p=25}}。<br /> * 黒田孝高所用の[[鞘#拵と白鞘|太刀拵(鞘)]]が現存している。[[明治]]35年([[1902年]])に、黒田侯爵家から[[明治天皇]]に献上された名宝刀『[[菊一文字]]』が収められていたと考えられている&lt;ref&gt;[http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20100803/03.html][[開運!なんでも鑑定団]]&lt;span&gt;2010年8月3日放送分&lt;/span&gt;&lt;/ref&gt;。天正10年([[1582年]])10月、[[足利義昭]]より、羽柴秀吉に帰京許可の執り成しを依頼され、その返礼として贈られたとされる&lt;ref&gt;金子堅太郎『黒田如水傳』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連史跡等 ==<br /> * [[宇佐神宮]]([[大分県]][[宇佐市]])- [[大友義鎮|大友宗麟]]の戦火により消失した、[[神宮寺]]・弥勒寺の再建に当たっている。<br /> * 安楽寺天満宮([[太宰府天満宮]])- 如水は[[中興の祖]]といわれ、境内には茶の湯で使用した「[[如水の井戸]]」が残っている。<br /> * [[合元寺]](大分県[[中津市]])- 城井鎮房が中津城で暗殺された際、城井家臣40名が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。[[庫裏]]の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。<br /> *黒田家の播磨での先祖の伝承がある[[兵庫県]][[西脇市]]、[[荘厳寺 (西脇市)|荘厳寺]]では、毎年、官兵衛を偲び法要が行われている。[[File:Kuroda Josui&#039;s Tombstone.jpg|thumb|250x250px|黒田如水の墓([[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]])]]<br /> * 墓所<br /> ** [[福岡市]][[博多区]]の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]。<br /> ** [[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]塔頭・[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]。<br /> * 祀社<br /> ** 福岡市中央区[[西公園 (福岡市)|西公園]]の[[光雲神社]]。黒田孝高を祭神、「水鏡権現」として祀る。<br /> <br /> == 子孫 ==<br /> {{main|黒田長政#子孫}}<br /> 孝高の子は、[[正室]]の[[櫛橋光]]との間に生まれた[[黒田長政]](長男、[[1568年]](永禄11年)生誕)と[[黒田熊之助]](次男、[[1582年]]([[天正]]10年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、[[側室]]を持つことはなかった。<br /> <br /> 次男・熊之助は[[慶長]]2年([[1597年]])、[[朝鮮出兵]]に参加していた父や兄を見舞うために、母里吉太夫([[母里友信]]の嫡男)・加藤吉松([[黒田一成]]の弟)・[[木山紹宅]]を従え[[朝鮮半島]]を目指していた途中で暴風に遭って船が沈没し亡くなった(享年16)。<br /> <br /> ==その他==<br /> * 筑前国[[福岡市|福岡]]の地名は元は[[福崎]]であり、如水が曾祖父・[[黒田高政 (戦国時代)|黒田高政]]の代から関わりが深く、洪水で壊滅した[[備前国]][[福岡 (瀬戸内市)]]の地名にちなみ変更されたとされる{{Efn|『如水公夢想連歌』の一節、慶長7年(1602年)1月16日付で「松むめ(梅)や 末なか(長)かれと みとり(緑)たつ 山よりつゝく(続く) さとはふく岡(福岡)」と詠んだ記載が現在の初見。&lt;ref&gt;[[西日本新聞]]2013年7月10日&lt;/ref&gt;}}。<br /> * 『黒田家譜』を編纂した[[貝原益軒]]の祖父・[[貝原信盛]]は[[備前国]]の[[吉備津神社]]の神官であり、[[武田信玄]]に仕えた後、[[九州平定|九州攻め]]の際に孝高に出仕して[[外交官]]を&lt;ref name=&quot;kafu&quot;/&gt;、[[慶長]]7年には福津崎の代官を務めている&lt;ref&gt;『「如水発行 勝浦浜「塩」皆済状」』。&lt;/ref&gt;。<br /> * 江戸時代には如水の家臣から24人の精鋭が選出され、[[黒田二十四騎]]と呼ばれた。そして、この24人の中の親族や譜代重臣の[[黒田利高]]、[[栗山利安]]、[[井上之房]]、[[後藤基次]]や[[母里友信]]など8人が、[[黒田八虎]]とされた。この二十四騎の成立については江戸時代初期、[[江戸城]][[百人組]][[番所]][[鉄砲隊]]の二十五騎組との関連性が指摘されている。<br /> * 19世紀の福岡藩士・[[山口武乕]]の調査により発見された系図『黒田家略系図(荘厳寺本)』によると、[[足利尊氏]]の有力守護大名である[[赤松則村|赤松円心]]の弟・円光の子を[[1351年]]より氏祖として代々黒田城主を務め、赤井忠家([[赤井直正]]の祖父)に落城させられる最後の当主のその弟を孝高とする、とされる&lt;ref&gt;[http://www.geocities.jp/kurodazensi/ 「播磨黒田氏 黒田官兵衛」]参照。&lt;/ref&gt;。黒田庄が[[黒田氏]]ゆかりの地である可能性は、『[[播磨鑑]]』の記述や初期の家臣団の出身地などから否定出来ないものの、[[赤松氏]]の『赤松諸家大系図』を始めとする他の眷属や姻族の系図などに拠る裏付けも無く、黒田氏の祖先を赤松氏につなげようとした意図がみられる&lt;ref&gt;渡邊大門「黒田官兵衛の生涯」(『歴史読本』58巻5号、2013年)&lt;/ref&gt;。<br /> * 平成25年(2013年)、黒田官兵衛中津顕彰会によって、黒田孝高の人物屋外像(石造)が中津城に史上初めて建立された&lt;ref&gt;[http://www.nakatsu-kanbee.com/docs/2013122700015/ 官兵衛スポットに新戦力!~中津城下で黒田官兵衛“石造”除幕式が開催されました~]、2015年6月5日閲覧。&lt;/ref&gt;。2016年には正室、櫛橋光の石像も隣に建立され「夫婦和合の像」として紹介されている&lt;ref&gt;{{Cite web|url=https://www.city-nakatsu.jp/mayor-docs/2016041900061/|title=【市長フォト】黒田官兵衛正室「光姫」石造除幕式 {{!}}|accessdate=2018年6月2日|publisher=中津市役所}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> &lt;!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--&gt;<br /> ; 小説<br /> * [[長谷川伸]]「黒田如水軒」(1930年12月、『講談倶楽部』)<br /> * [[武者小路実篤]]「黒田如水」(1935年5月、『キング』)<br /> * [[菊池寛]]「黒田如水」(1936年1月、黎明社刊『日本武将譚』収録)<br /> * [[鷲尾雨工]]『黒田如水』(1940年9月、アカツキ)<br /> * [[吉川英治]]『黒田如水』(1943年11月、朝日新聞社)<br /> * [[坂口安吾]]『[[二流の人 (小説)|二流の人]]』(1947年1月、九州書房)<br /> * [[松本清張]]「軍師の境遇」(1956年4月 - 1957年3月、『高校コース』)<br /> * [[池波正太郎]]「智謀の人」(1968年11月、芸文社刊『武士の紋章』収録)<br /> * [[司馬遼太郎]]『[[播磨灘物語]]』(1975年6月 - 8月、講談社)<br /> * [[海音寺潮五郎]]「城井谷崩れ」(1984年8月、六興出版刊『三河武士』収録)<br /> * [[童門冬二]]『小説 黒田如水』(1994年6月、富士見書房)<br /> * [[高橋和島]]『新史黒田官兵衛』(1997年6月、PHP研究所)<br /> * [[赤瀬川隼]]「官兵衛受難」(1998年7月、新人物往来社刊『天紙風筆』収録)<br /> * [[岳宏一郎]]『乱世が好き』(1997年10月、毎日新聞社 ※講談社文庫収録時に『軍師官兵衛』、光文社文庫収録時に『群雲、賤ヶ岳へ』と改題)<br /> * [[安部龍太郎]]『風の如く 水の如く』(1999年3月、集英社)<br /> * [[西村京太郎]]「天下を狙う」(2003年1月、角川書店刊『天下を狙う』収録)<br /> * [[葉室麟]]『風渡る』(2008年6月、講談社)<br /> * 同『風の王国 官兵衛異聞』(2009年9月、講談社)<br /> * [[火坂雅志]]『軍師の門』(2008年11月、角川学芸出版)<br /> * [[上田秀人]]『日輪にあらず 軍師黒田官兵衛』(2012年9月、徳間書店 ※徳間文庫刊の『月の武将 黒田官兵衛』『鏡の武将 黒田官兵衛』を改稿)<br /> * [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]『軍師黒田官兵衛』(2013年11月、潮出版社)<br /> * [[新井恵美子]]『官兵衛の夢』(2013年11月、プレーン)<br /> ; 漫画<br /> * [[平田弘史]]『黒田・三十六計』[[リイド社]]<br /> * [[さいとう・たかを]]『戦国謀略図』リイド社<br /> * [[重野なおき]]『[[軍師 黒田官兵衛伝]]』[[白泉社]]<br /> * [[山田俊明]]『[[義風堂々!! 疾風の軍師 -黒田官兵衛-]]』[[徳間書店]]<br /> ; 音楽<br /> * [[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]「[[二流の人 (海援隊の曲)|二流の人]]」(『倭人傳』、[[1979年]][[12月1日]]、MR-3191)※黒田孝高の人物像を、天下を狙うも不運ゆえに果たせず終わった、との俗説を元に描いている。<br /> * 兵衛&#039;z「ベー・アンベシャス」2011年 『[[戦国鍋TV~なんとなく歴史が学べる映像~#兵衛&#039;z|戦国鍋TV]]』の「ミュージック・トゥナイト」内でのユニット。<br /> ; テレビドラマ<br /> * 『[[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]]』([[2011年]]、[[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇]])[[高橋克典]]<br /> * 『[[軍師官兵衛]]』([[2014年]]、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]) [[岡田准一]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[金子堅太郎]] 『黒田如水傳』[[博文館]]、1916年(文献出版、1976年)<br /> * 筑紫豊 『さいふまいり』([[西日本新聞社]]、1976年)<br /> * {{Cite book|和書|year = 1979 |title = キリシタン研究〈第19輯〉|editor = キリシタン文化研究会 |publisher = [[吉川弘文館]] |asin = B000J7FYR8 |ref = {{SfnRef|キリシタン研究19}}}}<br /> * [[安藤英男]] 『黒田如水のすべて』([[新人物往来社]]、1992年、ISBN 9784404019554)<br /> * 「黒田如水」(『歴史群像シリーズ 』38号、 1994年、ISBN 9784056005851)<br /> * 武野要子 『博多』([[岩波新書]]、2000年)<br /> * 森弘子 『太宰府発見』([[海鳥社]]、2003年、ISBN 4874154220)<br /> * [[太宰府市]]編 『太宰府市史』(2004年)<br /> * [[本山一城]] 『黒田軍団~如水・長政と二十四騎の牛角武者たち~』([[宮帯出版社]]、2008年、ISBN 9784863502871)<br /> * [[浦辺登]] 『太宰府天満宮の定遠館』([[弦書房]]、2009年、ISBN 9784863290266)<br /> * {{Cite book|和書|year = 2007|title = 稀代の軍師 黒田如水と一族|publisher = [[新人物往来社]]|series = 別冊[[歴史読本]]|isbn = 9784404033765|ref = {{SfnRef|黒田如水と一族}}}}<br /> * [[小和田哲男]] 『黒田如水 臣下百姓の罰恐るべし』(ミネルヴァ日本評伝選)、ミネルヴァ書房、2011年、ISBN 4623062457<br /> * 「徹底検証! 黒田官兵衛」(『歴史読本』58巻5号、2013年)<br /> * [[渡邊大門]] 『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』([[中経出版]]、2013年、ISBN 9784806148470)<br /> * 渡邊大門 『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書、2013年)<br /> * {{Cite book|和書|author = 諏訪勝則 |year = 2013 |title = 黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像|publisher = [[中央公論社]] |series = [[中公新書]] |isbn = 9784121022417 |ref = {{SfnRef|諏訪|2013}}}}<br /> * [[本山一城]] 『秀吉に天下を獲らせた男 黒田官兵衛』([[宮帯出版社]]、2014年、ISBN 9784863669123 )<br /> * [[小和田哲男]]監修 『黒田官兵衛―豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師』([[宮帯出版社]]、2014年、ISBN 9784863669147)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Kuroda Yoshitaka}}<br /> * [[福岡藩]]<br /> * [[黒田氏]]<br /> * [[黒田二十四騎]]<br /> * [[黒田八虎]]<br /> * [[へし切長谷部]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://harima-kurodabushi.com/ 播磨の黒田武士顕彰会] - 黒田官兵衛・長政父子とその家臣たちを広く顕彰し、[[大河ドラマ]]化を目指していた。<br /> * [http://www.geocities.jp/kazzuki2001/ 黒田武士の館] - 黒田氏の研究を行なっている[[漫画家]]の[[本山一城]]のホームページ。<br /> * [http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/odekake/ya0710261109.html 神戸新聞読者クラブ - はりま・名作の舞台 官兵衛を歩く]<br /> * [http://himeji-kanbee.jp/ ひめじ官兵衛プロジェクト]<br /> * [http://museum.city.fukuoka.jp/ 福岡市博物館] - 黒田記念室を設け、黒田氏伝来の品を所蔵し、展示している。<br /> * [http://www.city.fukuoka.lg.jp/charm/kanbei/ 福岡市 - みんなで盛り上げよう 福岡!2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」]<br /> * [http://kanbee.kako-navi.jp/ 黒田官兵衛と光(加古川観光協会)]<br /> * [http://kanvee.com/ 官兵衛の] - 福岡の若手作家、編集者、コピーライターらで結成された「『官兵衛の』実行委員会」が主催するポータルサイト。<br /> <br /> {{黒田氏歴代当主|第4代|1567年 - 1589年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くろた よしたか}}<br /> [[Category:黒田孝高|*]]<br /> [[Category:黒田氏|よしたか]]<br /> [[Category:小寺氏]]<br /> [[Category:戦国武将]]<br /> [[Category:織豊政権の大名]]<br /> [[Category:福岡藩の人物]]<br /> [[Category:播磨国の人物]]<br /> [[Category:姫路城]]<br /> [[Category:キリシタン]]<br /> [[Category:1546年生]]<br /> [[Category:1604年没]]</div> 2400:402E:8883:3300:788B:8479:8759:B40A
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