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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=220.216.95.5 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-08T06:06:01Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 平良文 2018-06-25T16:14:37Z <p>220.216.95.5: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年12月22日 (木) 13:06 (UTC)|ソートキー=人0953年没}}<br /> {{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 平良文<br /> | 時代 = [[平安時代]]中期<br /> | 生誕 = 不詳&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;chiba&quot;&gt;『千葉大系図』では、[[仁和]]2年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[886年]][[4月29日]])生まれ、[[天暦]]6年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[953年]][[1月11日]])没とするが信憑性は確かめられておらず、例えば『日本古代中世人名辞典』などの人名辞典では「生没年不詳」としている。&lt;/ref&gt;<br /> | 死没 = 不詳&lt;ref group=&quot;注釈&quot; name=&quot;chiba&quot;/&gt;<br /> | 改名 = <br /> | 別名 = [[名田#苗字との関係|村岡五郎]]、邑岡五郎<br /> | 墓所 = [[神奈川県]][[藤沢市]]渡内の[[二伝寺]]、[[千葉県]][[香取市]]阿玉台の夕顔観音塚<br /> | 官位 = [[従五位上]]、[[陸奥守]]、[[鎮守府将軍]]<br /> | 主君 = [[醍醐天皇]]<br /> | 氏族 = [[桓武平氏]][[平高望|高望王]]流([[坂東平氏]])<br /> | 父母 = 父:[[平高望]]&lt;br /&gt;母:[[藤原範世]]娘([[藤原師世]]娘とも)<br /> | 兄弟 = [[平国香|国香]]、[[平良兼|良兼]]、[[平良将|良将]]、[[平良広|良広]]、[[平良孫|良孫]]、&#039;&#039;&#039;良文&#039;&#039;&#039;、[[平良茂|良茂]]&lt;br /&gt;[[平良正|良正]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot; &gt;『[[尊卑分脈]]』では、良正を良茂の子とし、[[三浦氏]]・[[鎌倉氏]]・[[長尾氏]]・[[大庭氏]]・[[梶原氏]]等の祖は、良文ではなく良正としている。&lt;/ref&gt;、[[藤原維幾]]室ほか<br /> | 妻 = [[正室]]:[[大野茂吉]](上野国豪族)の娘?<br /> | 子 = [[平忠輔|忠輔]]、[[平忠頼|忠頼]]、[[平忠光|忠光]](忠輔の養子となる)<br /> | 特記事項 =}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;平 良文&#039;&#039;&#039;(たいら の よしふみ)は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[桓武天皇]]四世。[[平高望]]の五男とされ、生母は高望の[[側室]]である[[藤原範世]](または[[藤原師世]])の娘とされる。官位は[[従五位上]]、[[陸奥守]]、[[鎮守府将軍]]。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> [[仁和]]2年([[886年]])3月18日に京で生まれたとされ(『千葉大系図』)、優しい風貌の勇将であったと伝わる。<br /> <br /> [[昌泰]]元年([[898年]])に父の平高望が東国に下向した際には、[[正室]]の子である[[平国香]]、[[平良兼]]、[[平良持]]は従ったが、[[側室]]の子である良文は従わなかった。[[延長 (元号)|延長]]元年([[923年]])、36歳の良文は[[醍醐天皇]]から「相模国の賊を討伐せよ」との[[勅令]]を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。<br /> <br /> その後[[武蔵国]]熊谷郷村岡(現・[[埼玉県]][[熊谷市]]村岡)、[[相模国]][[鎌倉郡]][[村岡村 (神奈川県)|村岡]](現・[[神奈川県]][[藤沢市]]村岡地区)に移り、そこを本拠に[[名田#苗字との関係|村岡五郎]]を称したとされるが、謎の多い人物である{{Refnest|group=&quot;注釈&quot;|一定の信憑性を評価されている『将門記』には良文の名はなく、『尊卑分脈』の坂東八平氏の系図には混乱が見られることから、実際には平高望とは無縁の氏族が後世になって仮冒したものと考えられている&lt;ref&gt;『姓氏家系大辞典 第二巻』、「平」の項(3584頁)。&lt;/ref&gt;。}}。加えて[[下総国]][[結城郡]][[大形村 (茨城県)|村岡]](現・[[茨城県]][[下妻市]])にも所領を有し、現在の[[千葉県]][[東庄町]]の[[大友城]]、同[[香取市]]にも居館があったとされる。<br /> <br /> [[天慶]]2年([[939年]])4月17日、[[陸奥守]]であった良文は[[鎮守府将軍]]に任じられて乱を鎮圧し、[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]である[[胆沢城]]にとどまった。実際に同日、[[出羽国]]で[[俘囚]]と秋田城司の軍勢が衝突しており[[朝廷]]は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年([[940年]])5月、良文は関東に帰国した。<br /> <br /> [[ファイル:Historic site of Muraoka Castle, Fujisawa, Kanagawa.jpg|サムネイル|村岡城跡]]<br /> 晩年は[[下総国]][[海上郡]]、さらに[[阿玉郡]]へ移り[[天暦]]6年([[952年]])12月18日に67歳で没したと云われる。千葉県香取市の阿玉には「伝[[平良文館]]」があり、[[城郭]]の遺構として[[堀|空堀]]、[[土塁]]、物見台などが確認された。藤沢市村岡東に村岡城跡と伝わる場所があり、良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・[[東郷平八郎]]が額を書いた(撰書は海軍中将・[[東郷吉太郎]])城址碑が建つ。<br /> <br /> === 源宛との一騎討ち ===<br /> 『[[今昔物語集]]』には[[源宛]](箕田宛)との[[一騎討ち]]の説話が収められている&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;『今昔物語集』の記述は説話であり、史実を記録したものではないので、それをもって実在したとする証にはできない。&lt;/ref&gt;。これによると源宛との一騎討ちは以下のようなものであった。今は昔、東国に[[源宛]]・平良文という二人の武士がおり、二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎討ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人の素晴らしい技に敵味方関係なく喝采が送られた。二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえ合い今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。<br /> <br /> === 平将門と良文 ===<br /> 『[[将門記]]』には良文に関する記述は無く[[承平天慶の乱]]の際の詳しい動向は不明であるが、武蔵国あるいは相模国の村岡に居て[[平将門|将門]]側にあったのではないかと推察されている{{Refnest|group=&quot;注釈&quot;|将門に敵対した[[平繁盛|繁盛]]は、子の忠頼から「仇敵」とよばれていることから、良文は将門と親しかったものと推測されている&lt;ref&gt;『日本古代中世人名辞典』、「平良文」の項(596頁)。&lt;/ref&gt;。}}{{Refnest|group=&quot;注釈&quot;|しかし、最初に将門殺害の情報を発したとされる「平良□」を「平良文」とし、反将門側に属していたとする説もある&lt;ref&gt;『平将門と東国武士団』、「良文流平氏と平忠常の乱」(172頁)。&lt;/ref&gt;。}}。[[千葉神社]]の染谷川の碑文によると、伯父の平国香(平貞盛の父)らが染谷川で将門を襲撃した際、叔父の良文が将門を援護し両者は逆襲したとされる。記録では将門討伐には加わっておらず手柄を立てたわけでもないのに将門の旧領である下総国[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]を与えられている。<br /> <br /> === 妙見菩薩と良文 ===<br /> [[ファイル:Myokenji.jpg|サムネイル|染谷川沿いの妙見寺・妙見社]]<br /> 平将門が伯父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは[[妙見寺 (高崎市引間町)|妙見寺]]という[[北斗七星]]の化身・[[妙見菩薩]]を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。<br /> <br /> また、後代[[千葉氏]]の一族によって編纂された『[[源平闘諍録]]』には、良文が甥である将門の養子となっていたので、将門の窮地を救った[[妙見菩薩]]が良文から[[平忠頼|忠頼]]を経て千葉氏に伝わり、[[結城浜の戦い]]では[[千葉成胤]]を助け[[源頼朝]]を守ったとする記述がある。<br /> <br /> ===夕顔と良文===<br /> 晩年、良文は[[夕顔]]の花を愛し、死に際して子の忠頼に「自分に会いたくなったら、畑に植えた夕顔の実を開けよ」と遺言した。忠頼が畑の夕顔を割ったところ、中から観音像が出てきた。のちに、千葉のまちを開いた[[千葉常重]]の夢枕に「この夕顔観音を祀れ」とのお告げがあったため、大治年間中、現在の千葉県香取市小見川付近に白華山樹林寺が開かれた。近くにある良文の墓は「夕顔観音塚」と呼ばれる。<br /> <br /> [[徳川家康]]の関東移封に伴い、高遠から下総多古に封ぜられた[[保科正光]]は、この夕顔観音を深く信仰し、[[高遠城]]に戻る際、複製を造らせて持ち帰った。このため、高遠城の近くにも同じ樹林寺という名の寺がある。このほか、[[東京都]][[葛飾区]]の安福寺にも夕顔観音がある。<br /> <br /> == 子孫 ==<br /> 良文には5人の子がおり(『二中歴』)、長男の平忠輔は早世したが、[[春姫 (如春尼)|春姫(平将門の娘)]]を正室とした三男・[[平忠頼]]からは[[千葉氏]]、[[上総氏]]、[[秩父氏]]、[[河越氏]]、[[江戸氏]]、[[渋谷氏]]などが、五男・[[平忠光]]からは三浦氏、[[梶原氏]]、[[長江氏]]、[[鎌倉氏]]などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に、[[源頼朝]]による源平合戦([[治承・寿永の乱]])に従軍して[[鎌倉幕府]]の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な[[御家人]]になった者の多くがこの良文流平氏に属する。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> &lt;!-- 文献参照ページ --&gt;<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!-- 実際に参考にした文献一覧 --&gt;<br /> * [[太田亮]] 『姓氏家系大辞典 第二巻』 [[角川書店]] 昭和38年(1963年)、ISBN 4-04-030220-6<br /> * [[平野邦雄]]・[[瀬野精一郎]] 『日本古代中世人名辞典』 [[吉川弘文館]] 平成18年(2006年)、ISBN 4-642-01434-9<br /> * [[鈴木哲雄]] 『平将門と東国武士団』 吉川弘文館 平成24年(2012年)、ISBN 978-4-642-06440-8<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> * [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[風と雲と虹と]]』<br /> : 平良文を演じた俳優:[[渡辺文雄 (俳優)|渡辺文雄]]<br /> : 原作:[[海音寺潮五郎]]『平将門』『海と風と虹と』<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[桓武平氏]]<br /> * [[坂東八平氏]]<br /> * [[熊谷市#歴史]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://f-machikyo.or.jp/ohanasi05.htm 財団法人藤沢市まちづくり協会 村岡のおはなし]<br /> * [http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM 古樹紀之房間 古代及び中世の氏族系譜 桓武平氏概観]<br /> <br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:たいら の よしふみ}}<br /> [[category:平安時代の武士]]<br /> [[category:平氏|よしふみ]]<br /> [[Category:下総国の人物]]<br /> [[Category:武蔵国の人物]]<br /> [[Category:相模国の人物]]<br /> [[Category:生没年不詳]]</div> 220.216.95.5 紀清両党 2018-06-25T16:01:40Z <p>220.216.95.5: /* 宇都宮氏改易まで */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年5月24日 (火) 10:33 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;紀清両党&#039;&#039;&#039;(きせいりょうとう)とは[[下野国]][[宇都宮二荒山神社|宇都宮大明神]]の座主である[[下野宇都宮氏|宇都宮氏]]の家中の精鋭として知られた[[武士団]]。東国武士の武勇を代表する武士団として有名である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 名前の由来 ===<br /> 紀清両党の「&#039;&#039;&#039;紀&#039;&#039;&#039;」は[[益子氏]]の本姓である[[紀氏]]から、「&#039;&#039;&#039;清&#039;&#039;&#039;」は[[芳賀氏]]の本姓である[[清原氏]]からであり、それらの一族で構成されている。<br /> <br /> === 紀清両党の誕生~鎌倉時代 ===<br /> [[文治]]5年([[1189年]])の時点で[[芳賀氏|芳賀]]・[[益子氏]]は宇都宮氏の[[郎従]]として合戦に従っていることが確認されているが、紀清両党がいつ組織されたかは明らかになっていない。<br /> <br /> 文治5年7月から9月にかけて起こった[[奥州合戦]]では、[[益子正重]]、[[芳賀高親]]が[[宇都宮朝綱]]に従い戦功をあげており、[[源頼朝]]から[[源氏]]の白旗一流ずつを贈られた。このことが後世まで[[芳賀氏|芳賀]]・[[益子氏]]の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。<br /> <br /> 以後も紀清両党は[[宇都宮氏]]の筆頭武士団として武を支えた。<br /> <br /> === 鎌倉時代後期~室町時代 ===<br /> [[宇都宮氏]]は[[鎌倉時代]]に[[鎌倉幕府]]から強大な軍事力を持つ存在とみなされ、度々重用されるほどにまでになっていた。<br /> <br /> [[元弘の乱]]でも当主[[宇都宮公綱]]に従い戦う。[[益子貞正]]や[[芳賀高名]](禅可)などが活躍しており、[[楠木正成]]は「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評し、宇都宮氏及び紀清両党の武勇を恐れ、兵を退いた話は有名である。その他にも[[天王寺の戦い]]・[[千早城の戦い]]などで奮戦し、活躍している。<br /> <br /> 公綱の嫡男[[宇都宮氏綱]]が北朝に従った際には、[[芳賀禅可]]、[[益子貞正]]ら紀清両党も氏綱に従い活躍。前当主の[[宇都宮公綱]]とは敵対関係となった。<br /> <br /> [[観応の擾乱]]で[[春日顕時]]に隙を突かれ紀党[[益子氏]]の居城である[[西明寺城]]や清党の[[八木岡城]]を落とされたりしたが、[[薩た峠の戦い (南北朝時代)|薩埵峠の戦い]]などで活躍し、[[足利尊氏]]の勝利に貢献した。清党の[[芳賀氏]]は[[薩タ山体制|薩埵山体制]]下で[[上野国]]、[[越後国]]の事実上の守護代を任されるほどにまでなった。<br /> <br /> 『[[太平記]]』によれば[[芳賀禅可]]は清党のことを「東国に名ある武士は多しといえども、弓矢の道において指をさされぬは、ただ我が一党なり」と言い放っている。<br /> <br /> しかし体制崩壊後、越後・上野守護代職を奪われたことで激怒した芳賀禅可が[[上杉憲顕]]に対して[[クーデター]]を起こすが敗北。家臣を多く失い弱体化してしまった。さらに宇都宮氏も徐々に没落し、不遇の時代を迎えることとなる。<br /> <br /> === 戦国時代 ===<br /> ==== 芳賀氏の最盛期と没落 ====<br /> [[享徳の乱]]では[[芳賀成高]]などが活躍しており、[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])の合戦で[[益子延正]]が討死。当主の[[宇都宮正綱]]は病死という散々な結果だった。清党[[芳賀氏]]は[[宇都宮明綱]]、[[宇都宮正綱]]が幼くして家督を継いだ際にも彼らを支え、家中の中でもかなり強大な権力を有したのに対し、紀党[[益子氏]]は徐々に没落していった。<br /> <br /> その後、正綱の嫡男の[[宇都宮成綱]]と[[武茂氏]]の間で家督を巡った争いが勃発。[[芳賀高益]]は単独で成綱を支持し、武茂氏と芳賀氏の政争にまで発展。この争いに芳賀氏は勝利し、さらなる権力を得た。<br /> その後、[[芳賀景高]]、[[芳賀高勝]]と清党による専横が続くことになった。<br /> <br /> [[永正]]期には[[古河公方]]の対立を機に[[宇都宮成綱]]と芳賀高勝の対立が表面化し、高勝は成綱を恐れ、謀略によって成綱を隠居させ、[[宇都宮忠綱]]を擁立することに成功するが、成綱の方が一枚上手だったために[[宇都宮錯乱]]で敗北。清党の軍事力は大きく弱体化した。高勝は成綱に殺され、[[芳賀高経]]、[[芳賀高孝]]は助命されたが、[[宇都宮城]]に抑留させられた。[[宇都宮成綱]]によって家中は成綱を頂点とする支配体制に取り込まれた。この間に[[古河公方]]の対立に連動して宇都宮成綱と[[佐竹義舜]]が北関東の覇権を巡り争った[[竹林の戦い]]・[[縄釣の戦い]]が発生しているが紀清両党も活躍している。<br /> <br /> [[大永]]期には忠綱の家中の統制強化に反対する[[芳賀高経]]、[[芳賀高孝]]、[[益子勝清]]、[[益子勝宗]]、[[塩谷孝綱]]などが[[宇都宮興綱]]を擁立。さらには[[結城政朝]]と手を組んで忠綱を追放することに成功した。興綱の代に再び清党及び[[芳賀氏]]は復権に成功している。<br /> <br /> [[天文 (元号)|天文]]期には芳賀高経が急激に勢力を伸ばす[[壬生綱房]]と[[小山氏]]を巡る外交政策で対立。綱房は[[宇都宮俊綱]]に接近し、高経は孤立化する。その後反乱を起こすが敗北し、俊綱に殺された。<br /> <br /> ==== 益子氏の復権 ====<br /> [[芳賀高経]]の後を継いだのは[[益子勝宗]]の三男[[芳賀高定]]であり、この時期の紀清両党は清党も紀党も当主が[[紀氏]]系だった。<br /> しかし、[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])には[[水谷正村]]による下野侵攻によって[[中村玄角]]や[[八木岡定家]]を失ったり、[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])3月には[[益子勝宗]]が兄の[[益子勝家]]を殺害し、家督を奪った。そのことが原因で水谷正村の下へ逃れるなど、困難を極めた。<br /> <br /> 天文18年([[1549年]])[[五月女坂の戦い]]で[[宇都宮尚綱]]が討死すると、[[壬生綱房]]が宇都宮城を占拠したため、まだ幼い[[宇都宮広綱]]を連れて[[真岡城]]に逃れる。<br /> 高定の懸命な活躍によって[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に宇都宮城を奪還することに成功している。<br /> <br /> その後は家中の代表として広綱を支えており、[[佐竹氏]]との婚姻成立などにも貢献した。[[芳賀氏]]の家督は息子ではなく、高経の子[[芳賀高継]]に譲り、自身は隠居した。<br /> <br /> ==== 益子氏の離反~紀党の滅亡~ ====<br /> [[益子勝宗]]は兄の殺害後、[[水谷正村]]の下へ逃れていたが許されたことによって再び益子へ戻っており、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]と結んだりなど主家とはやや独立した行動を多くしていたが、紀党益子氏一門はその独立性を保ちながらも[[宇都宮氏]]に対しては恭順的なものであった。<br /> <br /> しかし、[[芳賀高継]]による[[益子氏]]冷遇や[[益子家宗]]が家督を継ぐにあたって周辺地域が混乱したこと、[[天正]]12年([[1584年]])に、紀党の[[七井勝忠]]が宇都宮氏に反乱を起こし、毒殺されたことなどが原因で[[益子氏]]は[[宇都宮氏]]に反乱を起こした。<br /> [[益子家宗]]は宇都宮国綱の追討によって討死し、[[益子氏]]は一族の[[益子重綱]]が継いで何とか存続したが、今度は宇都宮一族の[[笠間氏]]との対立が表面化し、紀党は[[笠間氏]]と度々合戦をするが、敗北し、[[下総国]]や[[常陸国]]へ逃れた。<br /> <br /> ==== 宇都宮氏改易まで ====<br /> [[天正]]期には[[後北条氏]]による侵攻が本格化しており、撃退には成功しているものの、こちらから攻めることはできなかった。<br /> <br /> [[芳賀高継]]は、[[1580年]]代年半ばに、[[宇都宮広綱]]の正室・[[南呂院]]らの要望で、[[宇都宮国綱]]の弟・時綱(後の[[芳賀高武]])に跡を譲り、宇都宮に近い芳賀家の[[飛山城]]に隠居した。<br /> <br /> [[芳賀高武]]ら清党は[[天正]]18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣し、[[下野宇都宮氏]]の所領安堵に貢献した。<br /> しかし、その後[[芳賀高武]]は[[浅野長政]]の子を宇都宮氏の養子として迎える問題で紛争を起こしてしまい、それが原因で[[下野宇都宮氏]]は改易されてしまった。<br /> <br /> その後はお家再興に尽力した。<br /> <br /> [[Category:武士団|きせいりょうとう]]<br /> [[Category:宇都宮氏|*]]<br /> [[Category:宇都宮成綱|きせいりょうとう]]<br /> [[Category:芳賀氏|*]]<br /> [[Category:益子氏|*]]</div> 220.216.95.5
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