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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=126.224.78.239 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-21T11:52:02Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 タウンゼント・ハリス 2018-07-29T16:30:50Z <p>126.224.78.239: /* 登場作品 */</p> <hr /> <div>{{Infobox Officeholder<br /> |name = タウンゼント・ハリス&lt;br /&gt;{{Lang|en|Townsend Harris}}<br /> |image = Townsend Harris.jpg<br /> |imagesize = 200px<br /> |alt = <br /> |caption = <br /> |order = <br /> |office = [[ファイル:Flag of the United States (1859-1861).svg|border|25x20px]] 初代[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日本アメリカ合衆国弁理公使]]<br /> |term_start = [[1859年]][[11月5日]]<br /> |term_end = [[1862年]][[4月26日]]<br /> |monarch = <br /> |president = [[ジェームズ・ブキャナン]]<br /> |predecessor = <br /> |successor = [[ロバート・プルイン]]<br /> |birth_date = {{生年月日と年齢|1804|10|3|死去}}<br /> |birth_place = {{USA1795}}、[[ニューヨーク州]][[ワシントン郡 (ニューヨーク州)|ワシントン郡]]{{仮リンク|サンデーヒル|en|Hudson Falls, New York}}<br /> |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1804|10|3|1878|2|25}}<br /> |death_place = {{USA1877}}、ニューヨーク州[[ニューヨーク]]<br /> |birthname = <br /> |nationality = {{USA1877}}<br /> |party = <br /> |spouse = <br /> |relations = <br /> |children = <br /> |residence = <br /> |alma_mater = <br /> |occupation = [[外交官]]<br /> |religion = [[聖公会]]<br /> |signature = <br /> |website = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;タウンゼント・ハリス&#039;&#039;&#039;({{Lang-en|Townsend Harris}}, [[1804年]][[10月3日]] - [[1878年]][[2月25日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]。初代[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日本アメリカ合衆国弁理公使]]。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]員、敬虔な[[聖公会]]信徒で生涯独身・童貞を貫いた。&#039;&#039;&#039;タウンゼンド&#039;&#039;&#039;・ハリスと表記されることもある。<br /> <br /> 日本の[[江戸時代]]後期に訪日し、[[日米修好通商条約]]を締結したことで知られる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 苦学の末に貿易業を開始 ===<br /> [[1804年]][[10月3日]]、[[ニューヨーク州]][[ワシントン郡 (ニューヨーク州)|ワシントン郡]]サンデーヒル(後の{{仮リンク|ハドソン・フォールズ|en|Hudson Falls, New York}})に父ジョナサン・ハリスの六男として生まれる。家系は[[ウェールズ人|ウェールズ]]系。<br /> <br /> 家が貧しかったため、小学校・中学校を卒業後はすぐ父や兄の陶磁器輸入業を助け、[[図書館]]などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得し、文学を学ぶ。その苦学時代の体験が、長じて教育活動に目を向けることとなり[[1846年]]には[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]の教育局長となり、[[1847年]]に高等教育機関「[[フリーアカデミー]]」を創設。自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。[[1848年]]に辞職。<br /> <br /> 家業の経営が悪化したため、ハリスは[[1849年]]には[[サンフランシスコ]]で貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。[[清]]、[[ニュージーランド]]、[[インド]]、[[マニラ]]など太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた[[東洋]]に腰を落ち着ける。[[1853年]]には日本への第1次遠征を行っていた[[マシュー・ペリー]]率いるアメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]が清に滞在しており、[[上海市|上海]]にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。<br /> <br /> === アジアでの活動を経て初代駐日領事に ===<br /> ハリスは[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]など政界人の縁を頼って政府に運動し、[[1854年]]3月、[[台湾]]に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には[[寧波市|寧波]]の[[領事]]に任命される。アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された[[日米和親条約]]の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、[[1855年]]に大統領[[フランクリン・ピアース]]から初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に[[開国]]させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。また、[[タイ王国|シャム]]との通商条約締結も命じられた。当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに兼任させることが多かった&lt;ref name=honjo&gt;[http://books.google.co.jp/books?id=qZxlAgAAQBAJ&amp;pg=PA34 &quot;Japan&#039;s Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports&quot; ]Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ハリスは通訳兼書記官として[[オランダ語]]に通じた[[ヘンリー・ヒュースケン]]を雇い、[[1856年]]に出発。ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、[[バンコク]]において通商条約の締結に尽力する。さらに[[香港]]経由で8月21日([[安政]]3年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]])に日本へ到着し、[[伊豆国|伊豆]]の[[下田港|下田]]へ入港する。<br /> <br /> === 日米修好通商条約 締結、初代駐日公使へ ===<br /> [[ファイル:Treaty of Amity and Commerce between Japan and the United States 29 July 1858.jpg|thumb|300px|right|[[日米修好通商条約]]([[外務省外交史料館]]蔵)]]<br /> 日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・[[井上清直]]に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田[[玉泉寺 (下田市)|玉泉寺]]に領事館を構える。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では[[水戸藩]]の[[徳川斉昭]]ら[[攘夷]]論者が反対し、江戸出府は留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、[[1857年]]6月17日(安政4年5月26日)には[[日米追加条約|下田協定]]が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に[[看護婦]]を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の[[斎藤きち]]を送り3ヶ月だけ看病に入っている(→[[唐人お吉]])。<br /> <br /> ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、[[江戸幕府|幕府]]は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、[[江戸城]]への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。江戸では[[蕃書調所]]に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍[[徳川家定]]に謁見して親書を読み上げている。<br /> <br /> [[1858年]](安政5年)には[[大老]]となった[[井伊直弼]]が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、[[日米修好通商条約]]が締結された。これにより初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、[[1859年]][[7月7日]](安政6年6月8日)に江戸の元麻布[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]に公使館を置く&lt;ref&gt;[[#川崎(2012)|川崎(2012)]] p.40&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 開市の延期活動 ===<br /> [[File:Townsend_Harris_Memorial_-_Zenpukuji_-_Minato,_Tokyo_-_DSC06787.JPG|thumb|150px|right|ハリス顕彰碑([[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]境内)]]<br /> [[1860年]]8月1日、アメリカ国務長官[[ルイス・カス]]に対して書簡で、通商条約により再来年に控えた江戸の開市([[1862年]]1月1日の予定&lt;ref&gt;長崎・横浜は開港済み。1月に開港していた[[新潟]]は港湾状態や立地条件から重要視されていなかった。&lt;/ref&gt;)の延期を進言した&lt;ref&gt;ただし、当時アメリカでは[[1860年アメリカ合衆国大統領選挙|選挙]]直後の混乱期にあたり進言への返信はなかったとされる。&lt;/ref&gt;。実は下田に着任した当時、[[幕末の外国人襲撃・殺害事件#ハリス襲撃未遂事件|ハリスへの襲撃未遂事件]]があり、以降も[[攘夷]]による在留外国人に対する襲撃や焼き討ちが相次ぎ、また[[孝明天皇]]からの条約[[勅許]]はいまだ幕府から出ておらず、現在の幕政下での開市は時期尚早と判断していた。10月31日([[万延]]元年9月18日)、ハリスは老中[[安藤信正]]と会談し、急すぎる開市の延期を希望していた幕府との思惑とも一致し、また翌[[1861年]]1月14日(万延元年12月4日)にはヒュースケンが殺害される事件がおき、ハリスは確信に至ったと思われる。5月2日([[文久]]元年3月23日)、将軍[[徳川家茂|家茂]]名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出されると、ハリスはヒュースケン後任の[[アントン・ポートマン]]に翻訳させて5月8日(文久元年3月29日)付けでアメリカ本国へ急激なインフレ&lt;ref&gt;前年の金量目を変更した[[万延小判]]発行による。&lt;/ref&gt;が進行している旨と併せて報告した。<br /> <br /> 8月1日(文久元年6月25日)付けで[[エイブラハム・リンカーン]]大統領、[[ウィリアム・スワード]]国務長官から家茂宛の書簡がハリスに届くが、内容はヒュースケン殺害の補償までは開市延期を含む一切の譲歩はしないというものだった。ハリスは幕府の正信や[[久世広周]]と交渉して補償の合意を取り付けた後、11月27日にオールコックに5年間&lt;ref&gt;これは幕府から示された7年間よりも短い期間であり、後のロンドンやパリの覚書でもこれを踏襲している。&lt;/ref&gt;の開市延期の自由裁量を得たことを通知、12月6日、家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、12月14日(文久元年11月13日)に幕府から補償が実行された。12月28日、正信にはイギリス以外の各国の自国民にも併せて開市の延期を通達したと書簡で報告された。これは予定されていた開市のわずか3日前だった。この後、[[文久遣欧使節]]とイギリスとの間で[[ロンドン覚書]](1861年6月6日)、パリ覚書(同年10月2日)など、各国とも開市延期に同意している。<br /> <br /> === 帰国 ===<br /> [[1862年]]([[文久]]2年)には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国。辞任の理由に関しては、ハリスの日記にかねてからの体調不良があることや、また自分とは党派が異なる[[共和党 (アメリカ)|共和党]]のリンカーンが大統領で、[[南北戦争]]の故郷の心配があったことなども指摘されている。後任は[[ロバート・プルイン]]で、5月17日には着任して家茂に謁見している。<br /> <br /> 帰国後は業績を表彰され、[[1867年]]には議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決している。特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになった。[[1876年]]には保養地の[[フロリダ州]]に移住し、[[1878年]][[2月25日]]に74歳で死去。生涯独身であったため、姪が法定相続人となった。<br /> <br /> 墓所はニューヨーク市[[ブルックリン区]]の{{仮リンク|グリーンウッド墓地|en|Green-Wood Cemetery}}。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[File:Harris&#039; Ashiyu.JPG|thumb|200px|ハリスの足湯([[静岡県]][[下田市]])]]<br /> * アメリカ合衆国では、1847年設立のニューヨーク市「フリーアカデミー」(現在の[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]])の創設者として知られる。現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせたとされる最初の日本製[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]を始め、書き残した書状や所有物などが展示、保存されている。<br /> * 駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスとヒュースケンに対して侍女の手配を行う。役人はハリスを篭絡しようと[[芸者]]の[[斎藤きち|お吉]]という名の女性を派遣した。役人の意図を見抜いたハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している。ハリスが生涯独身であったことなどから後世に誤った風説が加わり、昭和初期には「[[唐人お吉]]」としての伝説が流布し、小説や映画の題材にもなった。<br /> * 大の[[牛乳]]好きである。ハリスが体調を崩した際、牛乳を欲しがったがなかなか手に入らず、侍女として雇われていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っている。この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したという。牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだという。これを記念して、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられている。<br /> * ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス第二帝政|フランス]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オランダ]]の4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。<br /> * 日本人を見る目は「[[喜望峰]]以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」とそれぞれ日記に称賛気味に書いている。しかし、風呂の[[混浴]]の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。<br /> * 下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。<br /> * [[1856年]](安政3年)に下田御用所において日本貨幣とアメリカ貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行った際、ハリスは金貨も銀貨も「同質同量の原則」すなわち、{{仮リンク|1ドル銀貨|en|Seated Liberty dollar}}は同じ質量に相当する[[一分銀]]3枚と交換すべきと主張し、一方幕府側は1ドル銀貨の地金価値は双替方式により[[丁銀|銀]]16[[匁]]に相当するから一分銀1枚であると主張し対立した。最終的にハリスの主張が通され、日本で金に両替し海外で売りさばくと暴利が得られることとなり、短期間のうちに多額に上る[[小判]]が日本国外へ流失した。その過程でハリス自身も小判を買い漁り、それを上海などで売却して利鞘を稼ぎ、それを慈善事業に充てた。然る後に幕府に対策を助言し、[[万延小判]]への改鋳によって混乱は終息するも、この過程でおびただしい金が日本から流出した([[幕末の通貨問題]]参照)。<br /> * ハリスと同じ時期に日本で暮らした商人の[[フランシス・ホール]]は、その日記のなかで、いかにハリスが居留地のアメリカ人の間で嫌われていたかについてを書き、下品な噂話まで記した&lt;ref&gt;[http://www.h-net.org/reviews/showrev.php?id=5563 The Aftermath of Perry&#039;s Visit (or Cutting a Journal Down to Size)]Humanities &amp; Social Sciences Online, 2001&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 阪田精一『ハリス』(人物叢書 [[吉川弘文館]])、1961年6月 ISBN 4-642-05084-1 c1323<br /> * [[ラザフォード・オールコック]]『大君の都』(山口光朔訳、[[岩波書店]] [[岩波文庫]]上中下)、1962年、ISBN 4003342410、ISBN 4003342429 <br /> * カール・クロウ『ハリス伝 日本の扉を開いた男』(田坂長次郎訳、[[平凡社東洋文庫]])、1979年、のち[[オンデマンド]]同版<br /> * [[佐藤雅美]]『大君の通貨』([[文藝春秋]]のち[[文春文庫]])、2003年3月 ISBN 4167627078<br /> * {{Cite journal|和書|author = 川崎晴朗|authorlink = 川崎晴朗|date = 2012-08-30|title = 研究ノート : 明治時代の東京にあった外国公館(2)|url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/12_1_2.pdf|journal = [[外務省調査月報]]|issue = 2012年度|volume = (1)|publisher = [[外務省]]第一国際情報官室|issn = 0447-3523|ref = 川崎(2012) }}<br /> <br /> == 登場作品 ==<br /> * [[黒船 (映画)|黒船]](1958年)演:[[ジョン・ウェイン]]<br /> * [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]](1963年)演:[[久米明]]<br /> * [[花の生涯 (1974年のテレビドラマ)|花の生涯]](1974年)演:[[ジェームス・キャロル]]<br /> * [[必殺仕事人ワイド 大老殺し 下田港の殺し技珍プレー好プレー|必殺仕事人ワイド 大老殺し]](1987年)演:[[大月ウルフ]]<br /> * [[花の生涯 井伊大老と桜田門]](1988年)演:[[ジョン・ワード]]<br /> * [[新選組!]](2004年)演:[[マーティ・キーナート]]<br /> * [[花燃ゆ]](2015年)演:[[リー・ロングショー]]<br /> *[[西郷どん (NHK大河ドラマ)]](2018年)<br /> * [[ギャグマンガ日和]]「ハリスインパクト」<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日米修好通商条約]]<br /> * [[ハリス (菓子メーカー)]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commonscat|Harris, Townsend}}<br /> * [http://www.cgj.org/150th/html/nyepiE2a.htm Townsend Harris: America&#039;s First Consul to Japan] - 在ニューヨーク日本国総領事館による伝記{{En icon}}<br /> * [http://milk.asm.ne.jp/rekishi/hi.htm 牛乳の碑]<br /> <br /> {{在日本アメリカ合衆国大使|1859年 - 1862年|弁理公使}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はりす たうんせんと}}<br /> [[Category:駐日アメリカ合衆国公使]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の教育者]]<br /> [[Category:幕末の日米関係]]<br /> [[Category:ウェールズ系アメリカ人]]<br /> [[Category:ニューヨーク州ワシントン郡出身の人物]]<br /> [[Category:1804年生]]<br /> [[Category:1878年没]]<br /> &lt;!--[[Category:独身を貫いた人物]]--&gt;</div> 126.224.78.239 和田誠 2018-07-29T10:11:38Z <p>126.224.78.239: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|イラストレーター|音楽評論家|和田誠 (評論家)}}<br /> {{ActorActress|<br /> | 芸名 = 和田 誠<br /> | ふりがな = わだ まこと<br /> | 画像ファイル = <br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像コメント = <br /> | 本名 = <br /> | 別名義 = <br /> | 出生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]]<br /> | 死没地 = <br /> | 国籍 = <br /> | 民族 = [[日本人]]<br /> | 身長 = <br /> | 血液型 = <br /> | 生年 = 1936<br /> | 生月 = 4<br /> | 生日 = 10<br /> | 没年 = <br /> | 没月 = <br /> | 没日 = <br /> | 職業 = [[イラストレーター]]、[[エッセイスト]]、[[映画監督]]<br /> | ジャンル = [[映画]]<br /> | 活動期間 = [[1959年]] -<br /> | 活動内容 = <br /> | 配偶者 = [[平野レミ]](1972年 - )<br /> | 著名な家族 = [[和田精]](父)&lt;br /&gt;[[山本紫朗]](伯父)&lt;br /&gt;[[和田唱]](長男)<br /> | 事務所 = <br /> | 公式サイト = <br /> | 主な作品 = &lt;!--皆が認める代表作品を入力--&gt;<br /> | アカデミー賞 = <br /> | AFI賞 = <br /> | 英国アカデミー賞 = <br /> | セザール賞 = <br /> | エミー賞 = <br /> | ジェミニ賞 = <br /> | ゴールデングローブ賞 = <br /> | ゴールデンラズベリー賞 = <br /> | ゴヤ賞 = <br /> | グラミー賞 = <br /> | ブルーリボン賞 = 監督賞&lt;br /&gt;[[1988年]]([[昭和]]63年)『[[快盗ルビイ]]』<br /> | ローレンス・オリヴィエ賞 = <br /> | 全米映画俳優組合賞 = <br /> | トニー賞 = <br /> | 日本アカデミー賞 = <br /> | その他の賞 = <br /> | 備考 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;和田 誠&#039;&#039;&#039;(わだ まこと、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[4月10日]] - )は、日本の[[イラストレーター]]、[[エッセイスト]]、[[映画監督]]。[[大阪府]]生まれ。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> 実父は[[築地小劇場]]の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた[[和田精]]。[[日劇]][[レビュー]]で演出家を担った[[山本紫朗]]は伯父にあたる。<br /> <br /> 妻は[[料理]]愛好家・[[シャンソン]][[歌手]]の[[平野レミ]]。長男は[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]・[[TRICERATOPS]]の[[和田唱]]で、その妻は[[上野樹里]]。次男の和田率は元[[電通]]勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター&lt;ref&gt;https://remy.jp/abouts/&lt;/ref&gt;。率の妻は[[和田明日香]]。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> 精が勤務していたJOBK(現在の[[NHK大阪放送局]])の当時の赴任地である[[大阪市]]で生まれる&lt;ref&gt;「プロフィルには大阪生まれと書きますので、雑誌の大阪人特集などで取材の依頼を受けることがありますが、たまたま父親の都合で大阪で生まれただけで、親戚もいないし、大阪人という意識はないんです。と言って東京人でもないし、郷土意識が何もありません」と当人は発言している。(『似顔絵物語』p.14)&lt;/ref&gt;。[[1945年]]([[昭和]]20年)、精の失職に伴い3月に一家で[[東京都]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]に転居。しかし誠は家族と一人離れて[[疎開]]した[[千葉県]]で敗戦を迎える。<br /> <br /> 東京へ戻り[[世田谷区立代沢小学校]]3年次に転入し、[[東京都立千歳高等学校]](現・[[東京都立芦花高等学校]])、[[多摩美術大学]]図案(現・デザイン)科卒業。『[[グレン・ミラー物語]]』([[1954年]])を観て、[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]に似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという&lt;ref&gt;『ジェイムズ・スチュアート&和田誠」(和田誠『ぼくが映画ファンだった頃』[[七つ森書館]] 2015年pp.218-228)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1959年]](昭和34年)に広告制作プロダクション[[ライトパブリシティ]]に[[グラフィックデザイナー|デザイナー]]として入社し、同年、[[日本たばこ産業|日本専売公社]]が発売予定の新商品の[[紙巻きたばこ]]「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」のパッケージデザインコンペに参加し採用される。ちなみに、同製品のデザインは、[[1964年]]開業の[[東海道新幹線]]の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている。他にも自社のライトパブリシティ及び、[[日本社会党|社会党]]の[[ロゴマーク]]を手掛け、[[キヤノン]]や[[東レ]]といった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、[[1968年]](昭和43年)退社。<br /> <br /> 退社後は[[フリーランス]]となり、「[[週刊文春]]」の表紙、[[星新一]]著作の挿絵などを手掛けたり、他にも、星新一・[[丸谷才一]]の一連の作品や[[村上春樹]]の『[[アフターダーク]]』、[[三谷幸喜]]、[[阿川佐和子]]作品を始め、数多くの[[ブックデザイン|装丁]]を担当する。通常、書籍の[[バーコード]]は裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、[[ISBN]]の数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは[[帯 (出版)|帯]]に印刷されることが多い。<br /> <br /> [[映画]]にも造詣が深く、[[1984年]](昭和59年)に「角川映画」として初監督作品である[[真田広之]]主演『[[麻雀放浪記#映画 麻雀放浪記|麻雀放浪記]]』を手掛けた後は、[[小泉今日子]]主演の『[[快盗ルビイ]]』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続で[[キネマ旬報ベストテン]]入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマの[[エッセイ]]集を出している。<br /> <br /> [[1992年]]、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。和田が脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された&lt;ref&gt;『怖がる人々を作った人々』(文藝春秋)のプロローグに記載あり。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アニメーション作家としての実績もあり、[[1960年]](昭和35年)に[[久里洋二]]・[[柳原良平]]・[[真鍋博]]が「アニメーション三人の会」を結成し、[[草月ホール]]で定期的に上映会を行っていた際に、[[横尾忠則]]や[[手塚治虫]]等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。[[1961年]](昭和36年)[[日本放送協会|NHK]]で放送開始の『[[みんなのうた]]』に参加し、初のアニメ映像作品『[[誰も知らない (みんなのうた)|誰も知らない]]』を始め、他9曲の映像を製作した。また、フジテレビ『[[ゴールデン洋画劇場]]』のオープニングタイトルを手掛けている。<br /> <br /> == 受賞歴 ==<br /> * [[1958年]]([[昭和]]33年) - 『夜のマルグリット』のポスターにより日本宣伝美術会賞受賞。<br /> * [[1960年]](昭和35年) - [[タバコ|たばこ]]の「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」のデザイン・コンペに入賞。<br /> * [[1964年]](昭和39年) - 短編アニメ映画『殺人 MURDER』により[[毎日映画コンクール]]大藤信郎賞受賞。<br /> * [[1969年]](昭和44年) - 似顔絵その他で[[文藝春秋漫画賞]]受賞。<br /> * [[1974年]](昭和49年) - 似顔絵集『PEOPLE』で[[講談社出版文化賞]](ブックデザイン部門)受賞。<br /> * [[1981年]](昭和56年) - 講談社出版文化賞(さしえ部門)受賞。<br /> * [[1982年]](昭和57年) - 『ビギン・ザ・ビギン』で角川書店日本ノンフィクション賞受賞。<br /> * [[1984年]](昭和59年) - 映画『麻雀放浪記』で[[報知映画賞]]新人賞受賞。[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子文化財団特別賞]]を受賞。<br /> * [[1989年]]([[平成]]元年) - 映画『快盗ルビイ』で[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]受賞。<br /> * [[1993年]](平成5年) - 『銀座界隈ドキドキの日々』で[[講談社エッセイ賞]]受賞。<br /> * [[1994年]](平成6年) - 幅広い活躍により[[菊池寛賞]]受賞。<br /> * [[1998年]](平成10年) - 『ねこのシジミ』で[[日本絵本賞]]受賞。<br /> * [[2006年]](平成18年) - 『どんなかんじかなあ』で日本絵本賞受賞。<br /> <br /> == 著作 ==<br /> *People : 和田誠肖像画集 和田誠 著 美術出版社 1973<br /> *デザイン街路図 和田誠 著 昭文社出版部 1973<br /> *にっぽんほら話 和田誠 著 講談社 1974<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ 和田誠 著 文芸春秋 1975 のち文庫<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ Part2 和田誠 著 文芸春秋 1976<br /> *日曜日は歌謡日 和田誠 著 講談社 1976<br /> *ポスターランド 和田誠 [画] 講談社 1976<br /> *People : 和田誠肖像画集 2 和田誠 画 美術出版社 1977<br /> *いつか聴いた歌 和田誠 著 文芸春秋 1977 のち文庫 のち愛育社<br /> *倫敦巴里 和田誠 著 話の特集 1977<br /> *和田誠百貨店 美術出版社 1978 <br /> *たかが映画じゃないか [[山田宏一]], 和田誠 著 文芸春秋 1978<br /> *落語横車 和田誠 著 講談社 1980 のち文庫<br /> *にっぽんほら話 和田誠 著 講談社 1980 のち文庫<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 3 和田誠 著 文芸春秋 1980<br /> *シネマッド・ティーパーティ 和田誠 著 講談社 1980 のち文庫<br /> *きなきな族からの脱出 和田誠 [著] 角川書店 1981 のち文庫<br /> *装幀パレード : 和田誠イラストレーション集 和田誠 著 岩崎美術社 1982<br /> *特別飛行便 : 和田誠・週刊文春表紙画選 和田誠 著 文芸春秋 1982<br /> *SF大会 : 和田誠イラストレーション集 和田誠 著 岩崎美術社 1982<br /> *映画に乾杯 : 歓談・和田誠と11人のゲスト 和田誠 ほか著 キネマ旬報社 1982<br /> *わたくし大画報 和田誠 著 講談社 1982<br /> *CMくらぶ : 和田誠イラストレーション集 和田誠 著 岩崎美術社 1982<br /> *ビギン・ザ・ビギン : 日本ショウビジネス楽屋口 和田誠 著 文芸春秋 1982 のち文庫<br /> *ポストカード・ニューヨーク 1 2 和田誠, [[篠山紀信]] 著 文芸春秋 1983 (文春絵はがき文庫)<br /> *プライヴェート・ニューヨーク 和田誠 文・絵,篠山紀信 写真 文芸春秋 1983<br /> *親馬鹿子馬鹿 [[和田唱]]・誠 著 講談社 1983<br /> *いろんなもの・いろんなうた 和田誠 著 新潮社 1984<br /> *モンローもいる暗い部屋 和田誠 編 新潮社 1985 (エッセイ・おとなの時間)<br /> *新人監督日記 和田誠 著 角川書店 1985<br /> *A面B面 : 作詞・レコード・日本人 阿久悠, 和田誠 著 文芸春秋 1985 のち、ちくま文庫<br /> *映画に乾杯 : 歓談・和田誠と11人のゲスト 2 和田誠 ほか著 キネマ旬報社 1985<br /> *日曜日は歌謡日 和田誠 [著] 講談社 1986 (講談社文庫)<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 4 和田誠 著 文芸春秋 1986<br /> *ひとコマランド傑作選 和田誠 編 講談社 1986<br /> *カメラ対ギャルス 和田誠 著 話の特集 1986<br /> *和田誠インタビューまたは対談 その2 和田誠 ほか著 話の特集 1987<br /> *和田誠百貨店〈B館〉 美術出版社 1988<br /> *心がぽかぽかする本 和田誠 編 NTT出版 1989<br /> *メイキング・オブ・快盗ルビイ 和田誠, [[長谷川隆]] 著 筑摩書房 1989<br /> *和田誠インタビューまたは対談 その3 和田誠 ほか著 話の特集 1989<br /> *心がぽかぽかする本 2 和田誠 編 NTT出版 1990<br /> *旅の絵日記 平野レミ, 和田誠 著,関原彰 写真 講談社 1990<br /> *Cats in Wadaland 和田誠 著 マガジンハウス 1991<br /> *シネマッド・カクテルパーティ 和田誠 著 講談社 1991<br /> *3D 和田誠 著 リブロポート 1991 (a-tempo ; 9)<br /> *ブラウン管の映画館 和田誠 著 ダイヤモンド社 1991 のち、ちくま文庫<br /> *心がぽかぽかする本 3 和田誠 編・絵 NTT出版 1992<br /> *映画とジャズ 和田誠 編著 ビクター音楽産業 1992 (ビクターブックス)<br /> *和田誠インタビューまたは対談 その4 和田誠 ほか著 話の特集 1992<br /> *和田誠装幀の本 和田誠, リブロポート 1993<br /> *銀座界隈ドキドキの日々 和田誠 著 文芸春秋 1993 のち文庫<br /> *おさる日記 和田誠 文,[[村上康成]] 絵 偕成社 1994<br /> *怖がる人々を作った人々 和田誠 [ほか]著 文芸春秋 1994<br /> *ことばの波止場 和田誠 著 白水社 1995<br /> *冒険がいっぱい 和田誠 作,[[長新太]] 画 文渓堂 1995 (おはなしメリーゴーランド)<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 5 和田誠 著 文芸春秋 1995<br /> *ことばのこばこ 和田誠 さく・え 瑞雲舎 1995<br /> *4人目の王さま 和田誠 作曲・え,[[八木正生]] 編曲 理論社 1995 (うたのほん)<br /> *ねこのシジミ 和田誠 作 ほるぷ出版 1996 (イメージの森)<br /> *日本の名随筆 別巻 63 芸談 和田誠編  作品社 1996<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 6 和田誠 著 文芸春秋 1996<br /> *かいぞくのうた 和田誠 [著] あかね書房 1996 (あかねピクチャーブックス ; 4)<br /> *ポートレイト・イン・ジャズ 和田誠, [[村上春樹]] 著 新潮社 1997 のち文庫<br /> *お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ pt.7 和田誠 著 文藝春秋 1997<br /> *装丁物語 和田誠 著 白水社 1997 のち白水Uブックス<br /> *それはまた別の話 和田誠, [[三谷幸喜]] 著 文藝春秋 1997 のち文庫<br /> *似顔絵物語 和田誠 著 白水社 1998 のち白水Uブックス<br /> *女の小説 [[丸谷才一]], 和田誠 著 光文社 1998 のち文庫<br /> *赤塚不二夫1000ページ [[赤塚不二夫]] 著,和田誠 責任編集 扶桑社 1998<br /> *ガクの絵本 和田誠 著 ほるぷ出版 1999<br /> *これもまた別の話 和田誠, 三谷幸喜 著 キネマ旬報社 1999 のち新潮文庫<br /> *今日も映画日和 和田誠, [[川本三郎]],[[瀬戸川猛資]] 著 文藝春秋 1999 のち文庫<br /> *時間旅行 和田誠 著 メディアファクトリー 2000<br /> *知らない町角 和田誠 著 白水社 2001<br /> *ジャズと映画と仲間たち 和田誠, [[猪腰弘之]] 著 講談社 2001<br /> *光と嘘、真実と影 : 市川崑監督作品を語る 和田誠, [[森遊机]] 著 河出書房新社 2001<br /> *仕事場対談 : 和田誠と27人のイラストレーター 和田誠 著 河出書房新社 2001<br /> *ポートレイト・イン・ジャズ 2 和田誠, 村上春樹 著 新潮社 2001<br /> *指からウロコ 和田誠 著 白水社 2001<br /> *物語の旅 和田誠 著 フレーベル館 2002<br /> *パイがいっぱい 和田誠 著 文化出版局 2002<br /> *白い嘘 : 句集 和田誠 著 梧葉出版 2002<br /> *No idea 安西水丸, 和田誠 著 金の星社 2002<br /> *青豆とうふ 安西水丸, 和田誠 著 講談社 2003 のち新潮文庫<br /> *旅のスケッチブック 和田誠 著 新書館 2004<br /> *シネマ今昔問答 和田誠 著 新書館 2004<br /> *誠の話 椎名誠, 和田誠 著 角川書店 2004<br /> *教養主義! 山田宏一, [[村上知彦]], [[中条省平]], [[石上三登志]], [[金井美恵子]], [[萩原健太]], [[高橋源一郎]], [[飯沢耕太郎]], 和田誠, [[井家上隆幸]], [[鷲田清一]], [[片岡義男]] 著 フリースタイル 2004<br /> *シネマ今昔問答 望郷篇 和田誠 著 新書館 2005<br /> *和田誠の絵本の仕事 和田誠 [画],ふくやま美術館 編 ふくやま美術館 2005<br /> *テーブルの上の犬や猫 [[安西水丸]], 和田誠 著 文藝春秋 2005<br /> *ぬすまれた月 和田誠 作・絵 岩崎書店 2006 (レインボーえほん ; 3)<br /> *ことばの波止場 和田誠 著 白水社 2006 (白水Uブックス ; 1088)<br /> *和田誠切抜帖 和田誠 著 新書館 2007<br /> *村上ソングズ 村上春樹, 和田誠 著訳 中央公論新社 2007<br /> *ポケットからなにがでる? 和田誠 [作] 福音館書店 2007<br /> *表紙はうたう : 和田誠・「週刊文春」のカヴァー・イラストレーション 和田誠 著・装幀 文藝春秋 2008<br /> *パートナーズ 安西水丸, 和田誠 [著] 文藝春秋 2008<br /> *ヒッチコックに進路を取れ 山田宏一, 和田誠 著 草思社 2009 のち文庫<br /> *本漫画 和田誠 著 毎日新聞社 2009<br /> *ぼくのしょうらいのゆめ [[市川準]], [[内田裕也]], [[大竹伸朗]], [[関野吉晴]], [[祖父江慎]], [[高橋悠治]], [[田中泯]], [[谷川俊太郎]], [[野口聡一]], [[舟越桂]], [[吉本隆明]], 和田誠 著 文藝春秋 2009 (文春文庫)<br /> *四人四色 : イラストレーター4人への30の質問 [[灘本唯人]], [[宇野亜喜良]], 和田誠, [[横尾忠則]] 著 白水社 2009<br /> *東京見物 和田誠 著 講談社 2009<br /> *ポケットに砂と雪 和田誠 文・絵 フェリシモ 2010 (おはなしのたからばこ ; 19)<br /> *連句遊戯 [[笹公人]], 和田誠 著 白水社 2010<br /> *Black &amp; White in Wadaland : 和田誠モノクローム作品集 和田誠 [画] 愛育社 2010<br /> *和田誠私家版絵本ボックス 和田誠 [絵] 復刊ドットコム 2011<br /> *和田誠展書物と映画 和田誠 デザイン・レイアウト 世田谷文学館 2011<br /> *Coloring in Wadaland : 和田誠カラー作品集 和田誠 [画] 愛育社 2011<br /> *五・七・五交遊録 和田誠 著 白水社 2011<br /> *Posters in Wadaland : 和田誠ポスター集 和田誠 デザイン 愛育社 2012<br /> *地にはピース 和田誠 [画] たばこと塩の博物館 2012<br /> *みんな猫である 和田誠 著 玄光社 2013 ([玄光社MOOK])<br /> *画廊の隅から : 東日本大震災チャリティ・イラストレーション作品集 和田誠 著 講談社 2013<br /> *回文の愉しみ [[土屋耕一]] 著,和田誠 編 東京糸井重里事務所 2013 (土屋耕一のことばの遊び場。)<br /> *聞いたり聞かれたり 和田誠 編著 七つ森書館 2013<br /> *生き物が見る私たち [[中村桂子]], 和田誠 著 青土社 2014<br /> *和田誠シネマ画集 和田誠 著 ワイズ出版 2014<br /> *Book Covers in Wadaland : 和田誠装丁集 和田誠 著 アルテスパブリッシング 2014<br /> *Record Covers in Wadaland : 和田誠レコードジャケット集 和田誠 著 アルテスパブリッシング 2014<br /> *ニャンコトリロジー 和田誠 著 ハモニカブックス 2014<br /> *ほんの数行 和田誠 著 七つ森書館 2014<br /> *連句日和 笹公人, [[矢吹申彦]], [[俵万智]], 和田誠 著 自由国民社 2015<br /> *ぼくが映画ファンだった頃 和田誠 著 七つ森書館 2015<br /> *村上春樹とイラストレーター -佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸- 村上春樹 (著), [[佐々木マキ]] (著), [[大橋歩]] (著), 和田誠 (著), 安西水丸 (著), ちひろ美術館 (監修) ナナロク社 2016<br /> <br /> === 挿絵担当書籍一覧 ===<br /> * きまぐれロボット<br /> * ポスターランド<br /> * 倫敦巴里<br /> * いつか聴いた歌<br /> * 金田一耕助の冒険<br /> * 真説 金田一耕助<br /> * 冷蔵庫より愛をこめて<br /> * ナポレオン狂<br /> * 深夜の散歩-ミステリの愉しみ-<br /> * 探偵たちよ、スパイたちよ<br /> * 和田誠百貨店<br /> * ことばのこばこ<br /> * デザイン街路図<br /> * 装丁物語<br /> * お楽しみはこれからだ Part 1-7<br /> * シネマッド・カクテルパーティ<br /> * 新人監督日記<br /> * 銀座界隈ドキドキの日々<br /> * たかが映画じゃないか<br /> * それはまた別の話<br /> * これもまた別の話<br /> * 時間旅行<br /> * 今日も映画日和<br /> * マイナス・ゼロ、他(『広瀬正・小説全集』全6冊、集英社、1982年)<br /> * 指からウロコ<br /> * 物語の旅<br /> * パイがいっぱい<br /> * 気まずい二人<br /> * [[ぼくは王さま]]、[[ノコ星ノコくん]](王さまシリーズの挿絵は1冊目のみ。その後は[[和歌山静子]]に交代している。誠は[[寺村輝夫]]の同級生の教え子にあたる)<br /> * [[丸谷才一]]著の[[エッセイ]]本の装丁<br /> * [[三谷幸喜]]著のエッセイ本の装丁<br /> * [[東海林さだお]]著のエッセイ本の装丁・挿絵多数<br /> * 連句遊戯 [[笹公人]]共著([[白水社]])ISBN 4560080798<br /> * [[サワコの朝]]([[MBSテレビ|毎日放送]]・[[TBSテレビ|TBS]]共同制作の[[トーク番組]]。同番組のタイトルロゴを製作)<br /> * Black and White Wadaland和田誠モノクローム作品集<br /> * Coloring in Wadaland和田誠カラー作品集<br /> * 和田誠 私家版絵本ボックス<br /> <br /> === 翻訳 ===<br /> * オフ・オフ・マザー・グース<br /> * [[スチュアート・カミンスキー]]・「トビー・ピータース」シリーズ(挿絵も担当)&lt;ref&gt;12年振りの翻訳出版となった3作目の『我輩はカモじゃない』では訳者が田口俊樹に代わり、解説と挿絵を担当。この経緯について解説の中で「カミンスキーは次々書いていたのだが、翻訳を約束していた私がサボっていたのである。(中略)わたしは絵と解説という形で辛うじてシリーズに踏みとどまらせてもらった。」とある。&lt;/ref&gt;<br /> ** ロビン・フッドに鉛の玉を<br /> ** 虹の彼方の殺人<br /> * [[劇団四季]]ミュージカル『[[クレイジー・フォー・ユー]]』訳詞<br /> <br /> === 映画作品 ===<br /> * [[新しい動画 3つのはなし]](1961年(昭和36年)) 監督・作画<br /> * 殺人 MURDER(1964年(昭和39年)) 制作・監督・作画<br /> * パンパの活躍([[1970年]](昭和45年)) 美術・アニメーション<br /> * 恋の大冒険(1970年(昭和45年)) 美術<br /> * [[金田一耕助の冒険]](1979年(昭和54年)) タイトルデザイン<br /> * [[麻雀放浪記#映画 麻雀放浪記|麻雀放浪記]](1984年(昭和59年)) 監督・共同脚本<br /> * ヒロシマという名の少年(1987年(昭和62年)) イラスト<br /> * [[快盗ルビイ]]([[1988年]](昭和63年)) 監督・脚本 主題歌「[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]」の作詞もした<br /> * 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年(昭和63年)) 製作・監督・作曲<br /> * [[フィルムは生きている]] 手塚治虫フィルモグラフィー 1962-1989(1990年(平成2年)) タイトル字慕デザイン<br /> * 怖がる人々(1994年(平成6年)) 監督・脚本<br /> * [[しずかなあやしい午後に]](第1話 ガクの絵本)([[1997年]](平成9年)) 監督・脚本<br /> * [[真夜中まで]]([[1999年]](平成11年)) 監督・脚本<br /> * [[みんなのいえ]]([[2001年]](平成13年)) 出演<br /> * [[かあちゃん]]([[2001年]](平成13年)) タイトル画<br /> *照明熊谷学校([[2004年]](平成16年)) 監修<br /> *[[ふしぎな岬の物語]]([[2014年]](平成26年)) 題字デザイン<br /> *[[フューチャーカード バディファイト|フューチャーカード バディファイトX]]([[2017年]](平成29年)) 原案協力<br /> <br /> === みんなのうた ===<br /> 無印は映像が存在する曲。▲マークは存在しない曲。&lt;!--参考:「みんなのうた」サイト--&gt;<br /> * [[誰も知らない (みんなのうた)|誰も知らない]]([[楠トシエ]]) - 『みんなのうた』初のアニメ。2種類有り。<br /> * [[ビビディ・バビディ・ブー]]([[スリーグレイセス]])▲<br /> * [[ママごめんなさい]]([[中尾ミエ]])<br /> * [[つむじ風]]([[立川澄人]]、[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]])▲<br /> * [[小さなカレンダー]](東京放送児童合唱団)▲<br /> * [[お化けなんてないさ]]([[弘田三枝子]])▲<br /> * [[猫踏んじゃった|ねこふんじゃった]]([[天地総子]]、東京放送児童合唱団)<br /> * [[四人目の王さま]]([[坂本九]]) - 初のカラー作品。<br /> * [[パパのバイオリン]]([[友竹正則]]、[[杉並児童合唱団]])▲<br /> * [[みんみんぜみの歌]]([[荒木一郎]]、[[みすず児童合唱団]])▲<br /> * [[バケツの穴]]([[熊倉一雄]]、東京放送児童合唱団)<br /> 初のアニメ作品を手掛けたものの、その映像はわずかしか現存せず、[[2011年]]開始の「[[みんなのうた#発掘プロジェクト|みんなのうた発掘プロジェクト]]」でも、音声曲は提供されたが、映像曲は提供されなかった。<br /> <br /> ===CD===<br /> *いつか聴いた歌 I&#039;ve heard that song before (ソング・アンド・ダンス) 和田誠 監修・選曲 2013<br /> *いつか聴いた歌 I&#039;ve heard that song before 2 (ソング・アンド・ダンス) 和田誠 監修・選曲 2014<br /> *和田誠ソングブック The Wada Makoto song book 和田誠 [作曲],デューク・エイセス, 岸洋子 ほか歌 ウルトラ・ヴァイヴ 2015 (TV age)<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> * 12人の[[グラフィックデザイナー]](第2集)・美術出版社編集部編・[[美術出版社]]・[[1977年]](昭和52年)([http://www.booksrepublic.com/art-22detail.html])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{allcinema name|118548|和田誠}}<br /> * {{Kinejun name|91939|和田誠}}<br /> * {{JMDb name|0379640|和田誠}}<br /> * {{IMDb name|0538706|Makoto Wada}}<br /> <br /> {{講談社エッセイ賞|第9回}}<br /> {{ブルーリボン賞監督賞}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:わた まこと}}<br /> [[Category:日本のイラストレーター]]<br /> [[Category:日本の随筆家]]<br /> [[Category:日本の映画監督]]<br /> [[Category:日本のアニメーション監督]]<br /> [[Category:日本の作詞家]]<br /> [[Category:日本の作曲家]]<br /> [[Category:装幀家]]<br /> [[Category:講談社エッセイ賞受賞者]]<br /> [[Category:菊池寛賞受賞者]]<br /> [[Category:多摩美術大学出身の人物]]<br /> [[Category:大阪市出身の人物]]<br /> [[Category:1936年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 126.224.78.239
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