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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=122.218.113.253 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-18T01:11:15Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 浜田幸一 2018-07-20T05:22:35Z <p>122.218.113.253: /* バラエティなど */</p> <hr /> <div>{{Redirect|ハマコー|その他の用語|ハマコウ}}<br /> {{政治家<br /> |人名 = 浜田 幸一<br /> |各国語表記 = はまだ こういち<br /> |画像 = <br /> |画像サイズ = <br /> |画像説明 = <br /> |国略称 = {{JPN}}<br /> |生年月日 = {{生年月日と年齢|1928|9|5|no}}<br /> |出生地 = {{JPN}} [[千葉県]][[君津郡]][[青堀町]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1928|9|5|2012|8|5}}<br /> |死没地 = {{JPN}} 千葉県[[富津市]]<br /> |出身校 = [[日本大学]][[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|農獣医学部]]拓殖学科中退<br /> |前職 = [[青年団|青年団員]]<br /> |現職 = <br /> |所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br /> |称号・勲章 = <br /> |世襲の有無 = 無<br /> |親族(政治家) = <br /> |配偶者 = <br /> |子女 = [[浜田靖一]]<br /> |サイン = <br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = JPN<br /> |職名 = [[衆議院|衆議院議員]]<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = [[千葉県第3区 (中選挙区)|旧千葉3区]]<br /> |当選回数 = 7回<br /> |就任日 = [[1969年]][[12月28日]] - [[1980年]][[5月19日]]&lt;br /&gt;[[1983年]][[11月28日]]<br /> |退任日 = [[1993年]][[6月18日]]<br /> |退任理由 = <br /> |所属委員会 = <br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;浜田 幸一&#039;&#039;&#039;(はまだ こういち、[[1928年]]([[昭和]]3年)[[9月5日]] - [[2012年]]([[平成]]24年)[[8月5日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[タレント]]。[[YAMATO (企業)|株式会社YAMATO]][[名誉顧問]]&lt;ref&gt;[http://ameblo.jp/hamakoblog/entry-10473235234.html 名誉顧問になった だう!|浜田幸一オフィシャルブログ「このままじゃいかんのだよ!!」]{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[衆議院|衆議院議員]]として通算7回の当選に及び、衆議院[[予算委員会|予算委員長]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、[[国務大臣]]の任命経験が得られないまま、1993年(平成5年)に政界を引退した。<br /> <br /> 「&#039;&#039;&#039;ハマコー&#039;&#039;&#039;」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。政界引退後は「[[政治活動家]]」と自称していたほか、テレビ番組 『[[ビートたけしのTVタックル]]』([[テレビ朝日]])では、「悪党党幹事長」を名乗っていた。<br /> <br /> == 来歴・人物 ==<br /> === 少年期 ===<br /> [[千葉県]][[君津郡]][[青堀町]](現・[[富津市]])出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町[[助役]]を務めるほどの名士だったにもかかわらず、[[大政翼賛会]]の役員でもあったこともあって戦後、[[戦犯者]]に指定され[[公職追放]]&lt;ref&gt;『ハマコーだう!ツイッターの言葉力』154ページ&lt;/ref&gt;、その後[[博打]]にのめり込み破産。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという&lt;ref&gt;<br /> [http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/164/index.html グレートマザー物語]{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:[[千葉県立木更津高等学校]])に入学。ちょうど[[太平洋戦争]]が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から[[学徒動員]]で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた&lt;ref&gt;『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.86-87 〔ISBN 406256033X〕&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 中学3年のときに[[土浦海軍航空隊]]に赴き、[[海軍飛行予科練習生]]の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している&lt;ref&gt;『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.88-89 〔ISBN 406256033X〕&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で[[南満州鉄道]]に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で[[玉音放送]]を聴いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死&lt;ref&gt;『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.90,92 〔ISBN 406256033X〕&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> それから[[日本大学]]農獣医学部拓植学科(現:[[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|生物資源科学部]]国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで[[芸者]]遊びや[[喧嘩]]に明け暮れる日々を送った&lt;ref&gt;『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.95 〔ISBN 406256033X〕&lt;/ref&gt;。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。ただ、大学生時代に[[応援団]]の活動はしていた。東京の[[高田馬場]]に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に[[早稲田大学]]の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって[[東京六大学]]の応援活動をしていた&lt;ref&gt;『予言集』183-185ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[青年団]]活動を行っており、[[竹下登]]や[[野中広務]]と知り合う&lt;ref&gt;魚住昭『[[野中広務 差別と権力]]』講談社&lt;/ref&gt;。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、[[日本青年団協議会]]顧問を務めた。<br /> <br /> === 政治活動 ===<br /> 富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった[[第32回衆議院議員総選挙|1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から[[千葉県第3区 (中選挙区)|旧千葉3区]]で初当選し、[[交友クラブ|川島派]]に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に[[小沢一郎]]・[[羽田孜]]・[[梶山静六]]・[[奥田敬和]]・[[渡部恒三]]・[[綿貫民輔]]・[[塩崎潤]]・[[森喜朗]]・[[村田敬次郎]]・[[松永光]]・[[江藤隆美]]など)。<br /> <br /> 1973年(昭和48年)には[[中川一郎]]・[[渡辺美智雄]]・[[石原慎太郎]]らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である[[青嵐会]]を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産[[政務次官]]・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた([[#「宮本顕治人殺し」発言|後述]])。<br /> <br /> 1990年(平成2年)の総選挙の際に暴漢に襲われて[[失語症]]の傾向が出たため、1993年(平成5年)7月に息子である[[浜田靖一]]に地盤を譲り、政界を引退した。当選7回を数えたが、[[国務大臣]]への就任は1度も無かった。<br /> <br /> この間、勲2等の[[叙勲]]、国会議員表彰、共に辞退している&lt;ref name=themis&gt;月刊[[THEMIS]] 2001年6月号 98ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 政界引退後 ===<br /> 議員引退後の1993年(平成5年)12月に著書『[[日本をダメにした九人の政治家]]』([[講談社]])を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『[[お玉・幸造夫婦です]]』で、[[八千草薫]]と夫婦役を演じた。その他にも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。<br /> <br /> 2007年(平成19年)の[[第21回参議院議員通常選挙]]では自由民主党の選挙用[[テレビコマーシャル]]に出演。<br /> <br /> 2010年(平成22年)1月21日、[[アメーバブログ]]にてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日には[[Twitter]]のアカウントを取得した。<br /> <br /> 2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、[[千葉県警察]]捜査2課などに[[背任罪]]で逮捕され、[[千葉地方検察庁]]は8月31日に、[[千葉地方裁判所]]へ起訴した&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100831-OYT1T00956.htm<br /> |title=背任事件で浜田幸一容疑者を起訴<br /> |work=YOMIURI ONLINE<br /> |newspaper=[[読売新聞]]<br /> |date=2010-08-31<br /> |accessdate=2010-08-31<br /> |language=日本語<br /> }}{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかしその後、[[認知症]]が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された&lt;ref name=sankei20120808&gt;{{Cite news<br /> |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120808/trl12080820190007-n1.htm<br /> |title=浜田元議員死去で背任罪の公訴棄却 千葉地裁<br /> |work=MSN産経ニュース<br /> |newspaper=[[産経新聞]]<br /> |date=2012-08-08<br /> |accessdate=2012-08-14<br /> }}{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;。2012年(平成24年)8月5日、[[心不全#急性心不全|急性心不全]]のため[[富津市]]大堀の自宅で死去した&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |url=http://mainichi.jp/select/news/20120806k0000m040023000c.html<br /> |title=浜田幸一元衆院議員が死去=「ハマコー」「暴れん坊」の異名<br /> |work=<br /> |newspaper=[[時事通信]]<br /> |date=2012-08-05<br /> |accessdate=2012-08-05<br /> |language=日本語<br /> }}{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120805/stt12080512070001-n1.htm 「国会の暴れん坊」 「ハマコー」こと浜田幸一氏が死去] 産経新聞2012年8月5日閲覧{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://gendai.net/news/view/93978 ハマコーこと浜田幸一さん死去] ゲンダイネット2012年8月5日閲覧{{リンク切れ|date=2013年10月}}&lt;/ref&gt;。{{没年齢|1928|9|5|2012|8|5}}。背任罪の公判は、被告人たる浜田本人が死亡したことで、[[8月8日]]に[[刑事訴訟法]]の規定により[[公訴棄却]]が決定し終結した&lt;ref name=sankei20120808 /&gt;。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> === 「元ヤクザ」 ===<br /> {{告知|質問|}}<br /> <br /> テレビ等のメディアにおいて「千葉で[[ヤクザ]]をしていた」と公言。自身の著書{{要出典|date=2014年5月}}において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の不良行為に対して我慢ならず現場を見つけては撃退していたと語っている。<br /> <br /> 傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「[[木更津市|木更津]]の[[ダニ]]」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、[[富津市|富津]]のダニと言っていた。この渾名は当時([[1951年]](昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。24歳のころケンカに巻き込まれ、&lt;!-- 神社で --&gt;相手を刺してしまい、『日雇い人夫浜田幸一』の見出しで報じられた。この時、浜田の母が、木更津で最も有名な[[弁護士]]を雇い息子を助けた。<br /> <br /> 自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の[[暴力団]]、[[稲川会]]初代会長の[[稲川聖城]]であった。上記の事件で懲役1年の実刑判決を受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、[[児玉誉士夫]]に紹介してくれた。後年『[[新潮45]]』の企画にて[[ビートたけし]]と対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。<br /> <br /> 児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する[[国際興業]]で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。公費では[[運転手]]は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後の[[バーニングプロダクション]]社長・[[周防郁雄]]である。1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と[[小佐野賢治]]に加え[[笹川良一]]や[[町井久之]]が後援者に加わったとされる。{{誰範囲|date=2014年6月21日|当選後ある議員}}に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=[[再チャレンジ]])できないような社会をつくってはいけない」と述べている。<br /> <br /> 政治学者の[[高畠通敏]]は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜幸を&quot;現役&quot;ヤクザの一員として誰も怪しまない」ことに驚いたという&lt;ref&gt;高畠通敏『地方の王国』岩波同時代ライブラリー、1997年、69頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 成田空港問題 ===<br /> 千葉県議会議員・千葉県選出の国会議員として[[成田空港問題]]とのかかわりが深い政治家であった。<br /> <br /> 成田での空港建設が[[閣議決定]]された直後の[[1966年]][[8月17日]]に浜田は自民党県議団の一員として現地を視察したが、その際反対派に取り囲まれ、警察によって進路が確保されるまで一時立ち往生している&lt;ref&gt;{{Cite book|author=飯高春吉|title=北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録|date=|year=1976|accessdate=|publisher=千葉日報社出版局|page=32|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1968年]][[2月26日]]に[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]と新左翼学生らが成田市街地で機動隊と衝突した際、千葉県連青年部長として現地に派遣された浜田は地元議員の[[伊能繁次郎]]・自民党学生部長の[[佐藤文生]]らとともに、流血の惨事を目撃した&lt;ref&gt;{{Cite book|author=佐藤文生|title=はるかなる三里塚|date=|year=1978|accessdate=|publisher=講談社|pages=9-16|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])開港前に、浜田はテレビ討論で[[三里塚闘争]]のリーダーである[[戸村一作]]に「あなたは農民でもないのに、なぜ反対するのですか」と非常に厳しく糾弾し、戸村を憤慨させた(戸村は[[成田市]][[三里塚 (成田市)|三里塚]]の中でも空港敷地外である市街地に居住しており、農民相手の農機販売業を営んでいた)&lt;ref&gt; {{Cite web |author=岡田清 |date= |url=http://www.npf-airport.jp/news/airportnews/news_0203/rensai_01.html |title=空港間競争と成田空港 |work= |publisher=ナリタエアポートニュース |accessdate=2017-09-25}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1978年]][[3月26日]]の[[成田空港管制塔占拠事件]]を受けて、同年[[4月4日]]に開催された自民党衆参両議院総会で、青嵐会に属するタカ派議員であった浜田は[[福田赳夫]]に対して「[[福田赳夫内閣 (改造)|この(福田)内閣]]には統治の責任が欠けている。現行法で何ができるのか。[[自由民主党 (日本)#立党宣言|立党の精神]]、[[自由民主党 (日本)#1955年綱領|政策綱領]]を守り、自由主義国家の責任ある体制強化を図らねばならない。[[5月20日]]の(出直し)開港に当たって、『[[火炎瓶]]攻撃を仕掛ける者があれば[[射殺]]せよと命令する責任がある』と首相は明言すべきだ。射殺することが法に触れるかどうかは裁判をやってみればよい。政権を投げ出してでも国民の信頼を取り戻す首相であることを願う」と強硬論を主張し、福田が現行法を最大限活用するとともに足りないことは[[成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法|新立法]]を用いて成田開港と日本全体の治安を確たるものすることを約束したうえで「浜田君から訓示めいた話があったが、私は訓示を聞くまでもなく日本国に責任を負っている」と答えた。これに対し、浜田は「訓示というつもりではない。あなたの将来は短くても、国家の将来は長いのだから」と述べた&lt;ref&gt;1978年4月4日付朝日新聞夕刊2面。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同[[4月7日]]の運輸委員会でも、浜田は[[日本共産党]]・[[日本社会党]]・[[極左暴力集団]]・戸村を厳しく批判したうえで、成田空港問題に取り組んできた[[友納武人]]前[[千葉県知事]]を賞賛するとともに[[大塚茂]][[新東京国際空港公団]]総裁を激励した&lt;ref&gt;{{Cite web |date=1978-04-07|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0290/08404070290006c.html |title=第084回国会 運輸委員会 第6号 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2017-09-25}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 浜田は一方で、反対派と行政側が話し合いをする前段階として「[[地域振興連絡協議会]]」が設立される際に、広い参加を呼び掛ける[[三里塚芝山連合空港反対同盟|反対同盟]]熱田派と[[沼田武]][[千葉県知事]]と間で斡旋を行った&lt;ref&gt;朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、138頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 後述する[[自由民主党本部放火襲撃事件]]や、木更津市にある浜田の事務所への放火&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2004-12-08|url=http://www.hanae.ne.jp/inage/0412_02.htm |title= 千葉の歴史検証シリーズ28 成田国際空港「血と涙の歴史」 6 |publisher=稲毛新聞 |accessdate=2017-09-25}}&lt;/ref&gt;も、成田空港問題絡みの[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]による[[左翼テロ]]とされる。<br /> <br /> === 金丸信 ===<br /> [[川島派]]解散後は無派閥となったが、田中派の[[金丸信]]の所へ押しかけ強引に用心棒となった。金丸の関係者は浜田を侍らすことを心配したが、金丸は「なんとかとハサミだ。あれはあれで使い道がある」と意に介さなかったという。ただし、副幹事長時代、社会労働委員長の[[田川誠一]]が約束の日に採決を取らなかった際、幹事長の金丸に真顔で「田川を刺します」と言い、これにはさすがの金丸も止めたらしい。<br /> <br /> === ハマコーの武功 ===<br /> {{See also|四十日抗争|大平正芳|福田赳夫}}<br /> 1979年(昭和54年)に、自民党史上最大の危機と言われた[[四十日抗争]]で、党内の反主流派が築いたバリケードを強行突破。両院議員総会の開催を導いた。<br /> <br /> 当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して自分の私的所有物でもない物品でバリケードを築いたことに怒りを爆発させる。<br /> <br /> バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「&#039;&#039;&#039;いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!&#039;&#039;&#039;」という演説を張る&lt;ref name=yuigon61&gt;『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』61ページ&lt;/ref&gt;。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。<br /> <br /> 浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。<br /> 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。<br /> <br /> === ラスベガス事件 ===<br /> [[1980年]](昭和55年)[[3月6日]]に発覚した。[[1973年]](昭和48年)11月に「[[ラスベガス]]の[[カジノ]]で、当時の[[為替レート]]に換算して4億6000万円程度を一晩ですってしまった」事件である。<br /> <br /> 当然そんな大金を浜田が用意できるわけはなく、当時浜田が不動産関係で世話になっていた[[小佐野賢治]]が代わりに用立てて支払った。ところが、その金が実は[[ロッキード]]から小佐野に流れた金であるとの[[アメリカ合衆国議会]]での証言が、[[アメリカ合衆国]]で行われ大騒ぎになった。浜田も言うとおり、[[ロッキード事件]]とは直接関係はなかった。<br /> <br /> しかし、ロッキード事件渦中の小佐野から大金を用立てされている繋がりや、当時の[[外国為替法]]に違反し、届け出無しで外国に日本円を持ち出して、[[アメリカ合衆国ドル]]へ両替した事実(発覚時は[[公訴時効]]が成立)なども報じられ、また[[刑法 (日本)|刑法]]で[[賭博]]を禁じている立場の与党国会議員が、[[脱法]]的に海外で賭博を行ったことへの道義的非難も受ける。<br /> <br /> 野党も「浜田問題」を与党追及の柱に掲げたため、まずは党の国民運動本部長を辞任、ついで議員辞職を余儀なくされ、さらに[[第36回衆議院議員総選挙|この年に行われた総選挙]]へ自民党の公認が得られなかった。自ら出馬を見送り収入の無くなった浜田は、小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている。<br /> <br /> なぜ4億6000万円という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で[[平沢勝栄]]に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲーム([[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]])で損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いを誘うことがあった。<br /> <br /> 現地の[[日本人]]向け旅行会社では、ツアーガイドが浜田が大損をしたホテル({{仮リンク|サンズホテル|en|Sands Hotel}})の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていた。本人もこの事をネタにしていた。<br /> <br /> === 法相殴打事件 ===<br /> {{See also|自由民主党本部放火襲撃事件}}<br /> 1984年(昭和59年)9月19日に、自由民主党本部が[[日本の新左翼|新左翼]]の&#039;&#039;&#039;中核派&#039;&#039;&#039;に放火され炎上した。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の[[法務大臣]]であった[[住栄作]]が酔っ払った状態で現れ、「&#039;&#039;&#039;[[マッチポンプ]]な真似しやがって&#039;&#039;&#039;」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。後に住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した&lt;ref&gt;1984年9月21日 [[中日新聞]] 23面&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1984年(昭和59年)9月20日に、日本テレビのワイドショーにおいて、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている&lt;ref&gt;『浜田幸一物語 最強暴れん坊伝説』(中大輔・原作、木村シュウジ・作画 [[竹書房]])201ページ、及び『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』75ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1984年(昭和59年)11月27日には、&#039;&#039;&#039;中核派&#039;&#039;&#039;によって[[木更津市]]の事務所に[[時限爆弾]]を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。<br /> <br /> === 「宮本顕治人殺し」発言 ===<br /> 1988年(昭和63年)の通常国会で衆議院予算委員長に就任。2月6日、予算委員会で質疑に立った日本共産党の[[正森成二]]議員が、「過激派への[[日本国政府|政府]]の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、[[竹下登]]首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁した。これに対し正森が、自由民主党本部放火襲撃事件後にワイドショーで当時同委員会委員長だった浜田が述べた発言(参照:[[#法相殴打事件]])を引用したところ、浜田はその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、[[日本の降伏|終戦]]直後より、殺人者である[[宮本顕治]]君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と主張した。正森は激昂したが、浜田が正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したこともあり、正森は浜田とのやり取りを打ち切り、他の質問に移った。<br /> <br /> しかし委員会終了間際、円ドル為替問題についての質疑中であった正森に、唐突に浜田が、<br /> {{cquote2|[[1933年|昭和八年]][[12月24日|十二月二十四日]]、[[宮本顕治]]ほか数名により、当時の財政部長[[小畑達夫]]を股間に……針金で絞め、[[私刑|リンチ]]で殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。<br /> <br /> 私が言っているのは、ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)が[[殺人|人を殺した]]と言っただけじゃないですか。}}<br /> と発言([[日本共産党スパイ査問事件]]を指す)。正森が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった&lt;ref&gt;{{Cite web |date=1988-02-06|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/112/0380/11202060380007c.html |title=第112回国会 予算委員会 第7号議事録 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2017-09-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 浜田本人は、この[[国会中継]]の審議の模様は[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で[[生放送]]されており、中継放送の終了時間を逆算したうえでの、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための確信的発言であると述べている。<br /> <br /> この時、浜田を予算委員長に推薦した[[金丸信]]の妻・悦子は「[[馬鹿|バカ]]!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と[[議事録]]削除阻止を狙っていたが、結局予算委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「[[大草原の小さな家]]」を再放送したことに対し、NHKには苦情の電話が殺到した。<br /> <br /> 後日[[国会議事堂]]の廊下で正森とすれ違った際に、浜田は「俺の首を獲りやがって」と発言したが、目は笑っていたという。<br /> <br /> === メディア出演 ===<br /> 議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多の[[バラエティ番組]]に出演。連続ドラマ『[[お玉・幸造夫婦です]]』では、その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が失笑を買い、今も[[スカパー!]]で再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。この頃には「かわいい」として、[[女子高生]]からの人気をも集めた&lt;ref&gt;『何の因果で』 P.19 - [[ナンシー関]] [ISBN 4041986052]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === その他 ===<br /> {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2014年5月}}<br /> *その強面からは意外だが本人曰く「[[下戸]]」だと言う。これは息子の靖一も同様らしい。<br /> *歌好きであり、自作の『お母さんの歌』を、涙を流しつつよく歌っていたことがあった&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20120806-996150.html|title=政界の暴れん坊・浜田幸一氏 最期は静かに|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2012-08-06|accessdate=2014-07-23}}&lt;/ref&gt;。また本項の「音楽」の節にあるように、曲を出したり、作詞提供、台詞入れでも活動していた。特に印象にある歌手として、[[ディック・ミネ]]、[[田端義夫]]を挙げていた&lt;ref&gt;『予言集』108-109ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *[[時代劇]]好きでもあった。理由は「今の時代の中で失われつつある正義感というものがはっきり表現されている」からで、好きな俳優に[[松平健]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]を挙げていた&lt;ref&gt;『予言集』219-220ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *[[野球]]も好きであり、兄も野球の[[投手]]をしていたことで、その相手として[[捕手]]役を務めたことがその始まりであった。[[日本の高校野球|高校野球]]を見るのも好きで、千葉県大会で観た[[習志野市立習志野高等学校|習志野高校]]時代の[[掛布雅之]]のバッティングが印象に残ったことで、知り合いの[[読売ジャイアンツ|巨人]]のスカウトに掛布を推薦したことがあった&lt;ref&gt;『予言集』57-58ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *選挙区で、浜田の出身地である[[富津市]]の二代目市長だった[[白井長治]]は、ハマコー嫌いで知られていた。県連会長や自治体の首長が議員よりチカラを持っているのが珍しくない[[関東地方]]で、白井の豪腕ぶりも有名だった。[[講談社]]の[[月刊誌]]「現代」(1981年2月号)の取材で、白井は[[ラーメン]]の汁がついた[[ワイシャツ]]のままインタビューを受けている。[[記者]]が「浜田さんは何で選挙に強いんですか?」と聞くと、白井は「[[賄賂|コレ]]に決まってんだろう」と、太い親指と人差し指で輪を作ってみせた。「議員も議員なら市長も市長だ」とこの[[インタビュー]]はまとめている。<br /> *選挙の際の自己紹介は、「浜」で働き、「田」で働き、「幸」せ、「一」番であった。人心掌握術には卓越したものがあった。[[選挙カー]]で地元を回っているとき、田んぼで農作業をしている有権者が手を振ってくれている姿を確認すれば、車を停めてスーツと革靴のまま田んぼに入って行き、泥だらけのその手を両手で握りしめ相手を感動させる、といった逸話が伝わっている。そのために同じスーツを何着も持っていて、車に常備していたらしい。<br /> *千葉県議会議員時代に[[小佐野賢治]]と出会い、以後は不動産取引で大もうけした。[[第32回衆議院議員総選挙|昭和44年の衆議院議員選挙]]で初当選した時、出馬当初はほとんど[[泡沫候補]]扱いされていたが、大規模災害時には大雨などにも関わらず、浜田一人で各家庭に[[ろうそく]]を配るなど、日頃の行動が実を結んだ[[当選]]である、と自称している。<br /> *当時、[[田中角栄]]が属していた[[佐藤栄作]]の[[周山会]]入りを希望するも、同期当選の佐藤派議員数名から「[[ヤクザ]]のハマコーが佐藤派に入るのなら、派閥から出て行く」という声が上がり、断念。角栄の命を受けて、[[川島正次郎]]の許に身を寄せる。川島と角栄の他、中川一郎、金丸信に師事した。<br /> *元々[[青嵐会]]は、田中角栄内閣による[[中国共産党]]の[[一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]との間の所謂「[[日中国交正常化]]」に伴う、同国と対立している[[中華民国]]との国交断絶に反発した若手議員による政策集団、という色彩が濃厚であったが、浜田はその中でも特に強硬な親中華民国、反中華人民共和国派議員であった。後の[[福田赳夫]]内閣における[[日中平和友好条約]]承認審議を巡って、青嵐会の取った抵抗は本会議の欠席であった。しかし浜田と[[中山正暉]]だけはあえて出席し、反対票を投じている。この時浜田は「青嵐会が中華民国に対して、信義を重んじる世界の人々に対して、公約を実行できなかったことを顔向けできないことだと思っている」と語った。<br /> *さらに青嵐会は田中に対する反発から、[[第10回参議院議員通常選挙|昭和49年の参議院議員選挙]]において、既に自民現職が2人もいる[[北海道選挙区]](定数4)に「青嵐会公認」と称し無所属の[[高橋辰夫]]を立てる。この時浜田も高橋の応援に駆けつけている。高橋は落選したものの意外に票を取り、結果現職2人も共倒れとなった。非公認候補の擁立、応援はれっきとした党規違反であり、ましてや[[北海道]]の全議席を失なった責任は重大であった。しかし浜田含む青嵐会への処分は不問とされた。<br /> *自著『弾丸なき抗争』で、「[[田中角栄]]、[[三木武夫]]、[[福田赳夫]]の3人の権力亡者は今すぐ死ね」と言い切っている。田中は、その出版記念パーティーで「浜田君に死んじゃえと言われた田中角栄です」と挨拶して、会場の爆笑を誘った。しかし、浜田本人はカーテンの陰で終始かなりムッとしていた、という。<br /> *[[竹下登]]が、衆議院[[予算委員会]]で[[英語]]を引用して「{{lang|en|There is no rule without exceptions.}}(例外のない規則はない)」と答弁したところ、予算委員長の浜田は「総理、ここは[[日本]]の[[国会 (日本)|国会]]ですから、[[日本語]]で答弁してください」と注意した。<br /> *新人議員のころ、国会内で[[英字新聞]]を読んでいた人物に対し、「日本の国会議員なら日本語の新聞を読みなさい」と言った。するとその人物は「英語かぶれ」で有名な[[宮澤喜一]]だった。議員歴、年齢共に先輩である宮澤に対し、さすがの浜田も恐縮していると、宮澤は「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞くらいお読みなさい」(英語の理解と広い国際視野の獲得せよという意味合いの激励と見られる)と返した。この言葉に浜田は「自分では勉強できないと思ったので息子([[浜田靖一|靖一]])を留学させて、勉強させた。」と語る。上記のように他国に対し、強硬な主張をすることが多く、また自著『日本をダメにした九人の政治家』で宮澤を批判している浜田だが、このエピソードは好意的に語ることが多い。戦後日本の国益に果たした宮澤の役割については、積極的に評価している。<br /> *[[梶山静六]]については、『日本をダメにした九人の政治家』で「独断専行で自由民主党をダメにした」と批判しているが、一方で「田中角栄を自らの首を賭けて守った」「きちんと筋をとおした」「政治力には、評価すべき点も多い」と、一定の評価をしている。<br /> *[[三木武夫]]に向かって「話し方やら性格やら、私は三木さん、あなたが大嫌いだ」と、言ったという話も残っている。[[三木おろし]]の最中の自民党両院議員総会では、「誰が辞めさせるといったって、本人が辞める気にならなけりゃ辞め(させ)られない。だから[[中曽根康弘|中曽根(康弘)]][[自由民主党幹事長|幹事長]]は偉いと言ってるんだ。嫌がる人をようやく辞めさせる気になったんだから!」と演説、壇上の三木は腕を組んで険しい表情のままであった。『日本をダメにした九人の政治家』では「表向きはクリーンイメージがある」と評している。<br /> *[[森喜朗]]の政治姿勢を厳しく批判することが多く、テレビタックルでは、[[内閣総理大臣]]だった森のことを「あんなの」と呼び、共演者の笑いを誘った。また、自民党の幹事長会に出た現職首相の森に「森、てめぇこのやろうぶっ飛ばすぞ」と言い、それを止めに入った[[古賀誠]][[自由民主党幹事長|幹事長]]に「調子にのってんじゃねえぞ」と言った。森は苦笑いをしていた。<br /> *[[東京湾アクアライン]]建設の立役者。[[神奈川県]][[川崎市]]と[[千葉県]][[木更津市]]をつなぐ[[自動車専用道路]]の[[日本の一般有料道路一覧|有料道路]]建設を推進した。建設費は1kmあたり1,000億円で、僅か15km程の道路で建設費用が約1兆5,000億円も掛かったという。川崎市から[[海ほたるパーキングエリア]]までは[[海中道路]]で、海ほたるPAから木更津市は海上道路となる。アクアラインの通行料4,000円が高いことや、通行する自動車数が予測よりも少なく、[[赤字]]となっており、国会などでも問題となった。この点を指摘されると「私の責任です」と言い、続けて「あと100年後したら、必ずこの[[費用対効果|事業の意義]]が分かる時がくる」と述べた。<br /> *自らの過去の行動を顧みて、息子だけは立派に育てて社会に恩返しをするとの信念から、息子・[[浜田靖一]]を幼少の頃から[[渡辺美智雄]]の家に預ける。1993年7月、靖一に地盤を譲り政界引退。[[羽田孜]]から新党への誘いを受けていたが、これを固辞。本人は後年インタビューで「二世議員なんてもってのほかだと思っていたから、息子が政治家を目指すにしても地盤を継がせる気はなかった。でも自分の意に沿わない後継者が選ばれるのは嫌でしょうと説得された」と語っている。靖一の選挙に応援することはほとんどなかったが、[[第45回衆議院議員総選挙|平成21年の衆議院総選挙]]で自民党候補が軒並み苦戦し、[[防衛大臣]]の職にあった靖一は地元で十分な運動が出来なく、[[落選]]のピンチに陥った際には、息子の応援演説に立ち、[[木更津駅]]前で[[涙]]ながらに[[土下座]]し「どうか、どうか、靖一を勝たせてやって下さい」 と叫んだ&lt;ref&gt;読売新聞2009年8月25日&lt;/ref&gt;。<br /> *[[予算委員会#衆議院予算委員会|衆議院予算委員会]]において、日本社会党の[[安宅常彦]]に対し「黙れ!強姦野郎!」「[[強姦]]をやるのとはわけが違うんだぞ!」と、[[野次]]を飛ばし問題となった。しかし結果的に浜田自身は何の処分も受けず、逆に安宅の方が、次期総選挙で党公認を貰えず引退に追い込まれている。<br /> *1989年(平成元年)の日本社会党の[[マドンナブーム]]直後に「社会党は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]から[[賄賂|金を貰っている]]」と発言した。<br /> *1993年(平成5年)の[[政治改革関連法案]]の是非を決める[[総務会]]で、[[ピケッティング|ピケ]]を張り開会を妨害しようとする若手議員に対し、わざと躓き「[[殺人|人殺し]]が」と絶叫するシーンは、今でもテレビ番組でよく放映されている。<br /> *1996年(平成8年)開催予定だった[[世界都市博覧会]]については、中止反対の立場だった。理由には「参加予定だった[[世界]]各国の信頼を傷付けかねない」「尽力してきた関係者、[[ボランティア]]として参加予定だった皆さんに申し開きが付かない」「会場跡地を、災害に備えて備蓄施設に再利用出来るはずとその活用法に期待していた」と言うことを挙げていた&lt;ref&gt;『予言集』80-83ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *過去の経歴や、その口の悪さのために、知名度が高く政治家歴が長かったものの、[[国務大臣]]に就くことはなかった。四十日抗争の後に、大平正芳から入閣を打診され、一度は受諾し、[[閣僚認証式]]に着ていくための礼服とエナメルの革靴も準備していた。そのことを田中角栄に報告すると「そんなつまらないのやらずに[[内閣官房副長官]]をやれ。官房長官が死んだら格上げで[[内閣官房長官]]になれるぞ」と言われたため、田中が手配してくれるものと思って、先の閣僚ポストを断った。しかし田中は手配してくれておらず、浜田は閣僚ポストを逃すことになった。また[[安倍晋太郎]]からは「浜ちゃんを使えるのは俺しかいないから」「自分が首相になったら、国務大臣に登用する」と言われていたが、結局安倍は[[内閣総理大臣]]の地位を目前にして、この世を去ることになった。ただし浜田本人は「自分を使いこなせる総理大臣がなかなかいなかった」「もし大臣になっていたら、自民党はもっと早く潰れていただろう」と語っている。<br /> * 最晩年は、たびたび私服姿で[[船橋駅]]周辺や、[[津田沼駅]]周辺をブラつく姿が目撃されていた。[[趣味]]として[[囲碁]]を嗜んでおり、津田沼囲碁クラブ&lt;ref&gt;[http://homepage2.nifty.com/igoclub/ 津田沼囲碁公式ホームページ]&lt;/ref&gt;([[千葉工業大学]]向いのモリシアビルディング7F)の常連となっていた。<br /> *[[ブログ]]や[[Twitter]]に挑戦したり、[[iPhone]]を購入するなど、最先端技術やトレンドに対する関心が強い&lt;ref&gt;「『つぶやきは秘書のやったことです』――81歳『ハマコー』ツイッター大人気」『[http://www.j-cast.com/2010/02/09059848.html 「つぶやきは秘書のやったことです」 81歳「ハマコー」ツイッター大人気 (1/2) : J-CASTニュース]』[[ジェイ・キャスト]]、2010年(平成22年)2月9日。&lt;/ref&gt;。自由民主党本部が、[[第22回参議院議員通常選挙]]立候補予定者を対象とした『ツイッター講座』を開催したと知ると、「あえて言おう、遅すぎる!!」&lt;ref name=&quot;hamako20100209&quot;&gt;浜田幸一『[http://twitter.com/555hamako/status/8799061504 Twitter / 浜田幸一: 先週、自民党次期参院選候補者対象に、第一回ツイッター ...]』2010年2月9日。&lt;/ref&gt;と苦言を呈し「すぐやれ!! みんなやれ!! なう!!」&lt;ref name=&quot;hamako20100209&quot;/&gt;と叱咤している。<br /> *『[[読売新聞]]』の「編集手帳」で、その死を悼んで「独自の愛嬌と[[浪花節]]の男っぽさが親しまれもした。2人いれば迷惑だし、5人いたら組織がもたないが、1人もいないとそれでさびしい。そういうタイプの人」と、掲載された&lt;ref&gt;『読売新聞』2012年8月7日(火)朝刊&lt;/ref&gt;。<br /> *[[田中角栄]]にお金を貰ったことがある、という事実を[[テレビ放送]]で自ら発言し、はっきり認めていた。<br /> <br /> == 発言 ==<br /> ; 郵政民営化<br /> : 2005年(平成17年)の[[郵政民営化]]騒動の際、[[小泉純一郎]]首相が[[衆議院解散]]を示唆し始めたころ、民営化反対の自民党議員たちに対し、「(衆議院の)解散もいやだ、自民党にも残りたい、では筋が通らない」と述べていた。<br /> ; 天国と地獄のアクアライン構想<br /> : 2009年、今やりたいことについてという問いに「父はおそらく地獄にいるが、母は天国へいると思う。天国と地獄を結ぶ[[東京湾アクアライン|アクアライン]]はまだ出来ていないと聞いている。母の肩を叩くために、今度生まれてきたら天国と地獄をつなぐアクアラインを造りたい。通行料はただにしたい」と発言した&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://japan.techinsight.jp/2012/08/naomaru201208061150.html|title=「面白いオジサンだった」 ハマコーさんを偲んで。有吉弘行がバラエティ番組で共演した思い出を語る。|publisher=エンタがビタミン♪|date=2012-08-06|accessdate=2014-07-22}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』127ページ&lt;/ref&gt;。<br /> ; 後期高齢者医療制度<br /> : 2008年(平成20年)には、同年6月8日投開票の[[沖縄県議会]]選挙に合わせた自民党の[[テレビコマーシャル]]に出演、自らも対象(79歳)となっている[[後期高齢者医療制度]]についてアピールした&lt;ref&gt;{{YouTube|QPBICWwKVZI|自民党CM「長寿医療制度編」~医療制度を語る。浜田幸一79歳~}}・LDPChannel&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 語録 ==<br /> * 「[[自由民主党 (日本)|自民党]]が滅んだら[[日本]]も終わり」&lt;ref&gt;[[新潮45]] 2008年11月号 43ページ&lt;/ref&gt; <br /> * 「日米安保なくして日本の存続はない」&lt;ref&gt;『予言集』321ページ&lt;/ref&gt;<br /> * {{要出典範囲|date=2014年7月22日 (火) 15:14 (UTC)|「これから大増税時代が来る」}}<br /> * 「いいか、断っとくけどな。かわいい子供たちの時代のために、自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためだけに自民党があるんじゃないぞ!!」- 自民党[[四十日抗争]]の際、自民党本部に築かれた[[バリケード]]を片付けていた際に発言&lt;ref name=yuigon61/&gt;。<br /> * 「平和は願っているだけではやってこない。平和を得るためには自ら果たさなければならない義務がある」&lt;ref name=themis/&gt;<br /> * {{要出典範囲|date=2014年7月22日 (火) 15:14 (UTC)|「大体日本の全体が[[非核三原則]]だって寝ぼけた事言っているから間違ってるんだよ」 - 昭和61年11月、衆議院[[予算委員会]]で当時[[社会民主連合]]所属の[[菅直人]]が質疑した事に対する[[野次]]}}。<br /> * 「支持したのは今日までだ!明日からは違うぞ!」- 昭和47年6月、長期に渡り政権を維持し続けた[[佐藤栄作]]元内閣総理大臣に向けて&lt;ref name=yuigon160&gt;『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』160-183ページ『ハマコー語録』の節。&lt;/ref&gt;。<br /> * 「黙れ、[[強姦]]野郎!!」- 昭和53年2月衆議院[[予算委員会]]にて。[[日本社会党]]の安宅常彦への野次&lt;ref name=yuigon160/&gt;。<br /> * 「日本も核を持つべきだ。」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「あんたのやり方が気に入らないんだ。一体、いつからそんなに偉くなったんだ!」- 平成5年、当時自民党幹事長だった[[梶山静六]]の肩をつかみ、戦いを挑んだ際の発言&lt;ref name=yuigon160/&gt;。<br /> * 「今か、今かと[[地震]]に怯えながら暮らすのは、頭のいい人のすることではない。しかし、いつ地震が来ても大丈夫なように、心のモノを備えておくことは大切なことだ。」- 平成7年、[[阪神・淡路大震災]]を受けての発言&lt;ref name=yuigon160/&gt;。<br /> * 「選挙に行きたくなければ行かなきゃいい。でも選挙に行かない日本人は日本人ではない。」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「日本は[[アメリカ合衆国51番目の州|アメリカの植民地]]である。アメリカがいいと言わなきゃ、何一つできやしないんだ。」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「大臣室へ入っていく姿で将来がわかる。」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「あれは[[小沢一郎]]からきた[[賄賂|カネ]]だ!!」- 平成19年1月、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]代議士会における[[菅直人]]代表代行(当時)の演説&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;菅直人が「浜田さんが予算委員長時代、10万円分の[[商品券]]を配っていた」と発言したのを受けて、浜田が[[鳩山由紀夫]]に電話し「あの菅君の発言は民主党の統一見解か?」と言うことを問い質すつもりで「あれは商品券ではなく現金だ」と言い、更にこう発言した(『YUIGON』177ページに記述)。&lt;/ref&gt;を受けての発言&lt;ref name=yuigon160/&gt;。<br /> * 「三人以上の子供を産まない女性は、国家にとって必要じゃない。」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「[[バラク・オバマ|オバマ]]は合気道だ!」&lt;ref name=yuigon160/&gt;<br /> * 「自分を育ててくれた両親を、誰よりも大事にする青年になってください。」- 平成22年、[[東京大学]]学園祭で行った講演での発言&lt;ref name=yuigon160/&gt;。<br /> * 「自民党は長い政権与党であった間に、自由経済を規制する法律を作り過ぎた結果、日本は社会主義経済になってしまった」&lt;ref&gt;[[週刊現代]] 2003年10月11日号 35ページ&lt;/ref&gt;<br /> * 「今の日本の各政党はバラバラ。自民党は『自眠党』、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]は『眠主党』、[[日本共産党|共産党]]は『恐惨党』、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]は『斜壊眠主党』だ」&lt;ref&gt;[[週刊ポスト]] 2002年5月10日号 59ページ&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 家族 ==<br /> 実弟の浜田正雄は[[京葉銀行]]の[[頭取]]を務めた。息子の[[浜田靖一]]は後継者として[[衆議院議員]]となり、[[麻生内閣]]では[[防衛大臣]]に就任した。<br /> <br /> == 著書 ==<br /> *弾丸なき抗争―権謀術数に生きる男の戦い(1983年1月)  ISBN 4584005028<br /> *不肖ハマコーがゆく―一所懸命に闘い、一所懸命に死ぬ(1989年7月) ISBN 4890367691<br /> *実力者に問う!!―これからの日本をどうする(1990年11月) ISBN 4062051877<br /> *[[日本をダメにした九人の政治家]](1993年12月) ISBN 406206779X<br /> *永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史(1994年2月) ISBN 406256033X<br /> *ハマコーの世の中間違っとる(1994年4月) ISBN 4643940352<br /> *ハマコーの証人諫問―国民のために代表質問いたします(1994年7月) ISBN 4334970907<br /> *ハマコーの何度言ったらわかるんだ!(1995年5月) ISBN 4643950382<br /> *たまには誉めてやる これからの18人―ハマコーの政治家“私”観(1995年6月) ISBN 4331504921<br /> *ハマコーの非常事態宣言(1995年7月) ISBN 4391117622<br /> *新版 日本をダメにした九人の政治家(1995年10月) ISBN 4062561190<br /> *みっともない「生き方」はするな!―ハマコー、この“破天荒人生”に知恵あり(1996年3月) ISBN 4837916317<br /> *予言集(1996年6月) ISBN 4643960590<br /> *石原慎太郎くんへキミは「NO」と言えない(1999年6月) ISBN 482110671X<br /> *日本を救う9人の政治家とバカ1人(2001年7月) ISBN 4575292524<br /> *お願いだから、わかって下さい。国会というところ…(2002年4月) ISBN 4591072118<br /> *ハマコーだう!ツイッターの言葉力(2010年6月) ISBN 9784062162661<br /> *YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。(2011年5月、ポプラ社) ISBN 9784591124468<br /> <br /> == 論文 ==<br /> * [http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%80&amp;count=100&amp;sortorder=3 国立情報学研究所収録論文(No.3,12を除く)] [[国立情報学研究所]]<br /> <br /> == 出演番組 ==<br /> === ドラマ ===<br /> *[[お玉・幸造夫婦です]](1994年 [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 浜口幸造 役<br /> *[[車椅子の弁護士・水島威]](1)(1996年 [[テレビ朝日]]) - 大沢良 役<br /> *[[科捜研の女|新・科捜研の女]] 第5シリーズ 第1話(2004年 テレビ朝日) - 笹山 役<br /> === バラエティなど ===<br /> <br /> *ダウンタウンDX(よみうりテレビ)<br /> *[[森田一義アワー 笑っていいとも!]](2002年4月 - 9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br /> *[[ビートたけしのTVタックル]](テレビ朝日)<br /> *:公式には2008年3月、それまでの同志に対して罵詈雑言を浴びせたことで降板となったとされている。その後スタジオ収録には復帰していない。2009年7月20日放送分で、VTR出演ではあるが久々に登場し、番組20周年に対するコメントを寄せている。<br /> *[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]] [[絶対に笑ってはいけないホテルマン24時]](2009年 日本テレビ)<br /> *[[いつみても波瀾万丈]] (2002年1月20日 日本テレビ)ゲスト出演<br /> *[[たかじんのそこまで言って委員会]](読売テレビ)<br /> *[[爆笑問題&amp;日本国民のセンセイ教えて下さい!]](テレビ朝日)<br /> *[[モーニングショー]]<br /> *[[いきなり結婚生活]]([[テレビ東京]])<br /> *[[ライオンのごきげんよう]](フジテレビ)<br /> *[[太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。]](日本テレビ)<br /> *:乱入というかたちで不定期に登場していたが、2010年2月以降は特別企画が増えたため、ほぼレギュラーとなっている。<br /> *[[ハマコーと氣志團翔の木更津だう!]]([[フジテレビONE]])2010年6月22日 -<br /> <br /> == 出演CM ==<br /> *[[道三めん]] 新生タイプ すごいやつ<br /> *[[サッポロビール]] サッポロ生黒ラベル(2002年)<br /> *自由民主党 長寿医療制度編(2007年)<br /> <br /> == 音楽 ==<br /> *[[鶴岡雅義と東京ロマンチカ|浜博也]]「男の浪漫」(1994年、[[日本クラウン]]) - 台詞、作詞<br /> *浜田幸一「道」「君達へのメッセージ」(1996年、日本クラウン) - 唄、作詞<br /> *[[浅野のぼる]]「感謝」(2003年、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]) - 作詞<br /> <br /> == 出典・注釈 ==<br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot; /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[石井準一]]<br /> *[[浜田靖一]]<br /> *[[自由民主党本部放火襲撃事件]]<br /> *[[四十日抗争]]<br /> *[[日本をダメにした九人の政治家]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> ; メールマガジン<br /> * [http://www.mag2.com/m/0001103980.html 浜田幸一公式メルマガ 【ハマコーワールド】&lt;&lt;黙って死ねるか!!&gt;&gt;]([[まぐまぐ]])<br /> ; FACE BOOK<br /> *[http://ja-jp.facebook.com/hamako555?sk=wall ハマコーこと浜田幸一(Kouichi Hamada)]{{リンク切れ|date=2013年10月}}<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{flagicon|JPN}} [[防衛省|防衛]]政務次官<br /> | years = 1976年 - 1977年<br /> | before = [[中村弘海]]<br /> | after = [[竹中修一]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = {{flagicon|JPN}} [[農林水産省|農林水産]]政務次官<br /> | years = 1975年 - 1976年<br /> | titlenote = [[江藤隆美]]と共同<br /> | before = [[江藤隆美]]・[[柴立芳文]]<br /> | after = [[山崎平八郎]]・[[片山正英]]<br /> }}<br /> {{s-par}}<br /> {{Succession box<br /> |title = {{flagicon|JPN}} [[予算委員会|衆議院予算委員長]]<br /> |years = 1987年 - 1988年<br /> |before = [[砂田重民]]<br /> |after = [[奥田敬和]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> |title = {{flagicon|JPN}} 衆議院建設委員長<br /> |years = 1983年 - 1984年<br /> |before = [[松永光]]<br /> |after = [[保岡興治]]<br /> }}<br /> {{s-ppo}}<br /> {{succession box<br /> | title = [[自由民主党青年局|自由民主党青年局長]]<br /> | before = [[西岡武夫]]<br /> | years = 1972年 - 1976年<br /> | after = [[深谷隆司]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> <br /> {{衆議院建設委員長|1983年-1984年}}<br /> {{衆議院予算委員長|1987年-1988年}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:はまた こういち}}<br /> [[Category:浜田幸一|*]]<br /> [[Category:ヤクザ]]<br /> [[Category:日本のタレント]]<br /> [[Category:日本の政治評論家]]<br /> [[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br /> [[Category:千葉県選出の衆議院議員]]<br /> [[Category:千葉県の地方議会議員]]<br /> [[Category:千葉県出身の人物]]<br /> [[Category:成田空港問題に関連する人物]]<br /> [[Category:富津市の歴史]]<br /> [[Category:1928年生]]<br /> [[Category:2012年没]]</div> 122.218.113.253
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