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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-06-04T14:30:38Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
徳富蘇峰
2018-09-14T15:19:04Z
<p>119.26.250.102: </p>
<hr />
<div>{{Infobox 作家<br />
| name = 徳富 蘇峰<br />
| image = Soho Tokutomi 1 cropped.jpg<br />
| imagesize = 220px<br />
| caption = 『蘇峰自伝』掲載の写真(1935年)<br />
| pseudonym = 菅原 正敬<br />大江 逸<br />大江 逸郎<br />山王草主人<br />頑蘇老人<br />蘇峰学人<br />
| birth_name = 徳富 猪一郎<br />
| birth_date = [[1863年]][[3月14日]]<br />([[文久]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]])<br />
| birth_place = {{Flagicon|JPN}} [[肥後国]][[上益城郡]]杉堂村(現[[熊本県]][[上益城郡]][[益城町]])<br />
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1863|3|14|1957|11|2}}<br />
| death_place = {{Flagicon|JPN}} [[静岡県]][[熱海市]]<br />
| resting_place = [[多磨霊園]]<br />
| occupation = [[ジャーナリスト]]<br />[[歴史家]]<br />[[評論家]]<br />[[政治家]]([[貴族院 (日本)|貴族院議員]])<br />
| nationality = {{JPN}}<br />
| alma_mater = [[同志社英学校]]中退<br />
| period = [[1885年]] - [[1957年]]<br />
| genre = <br />
| subject = <br />
| movement = [[時事問題|時事]][[評論]]<br />[[伝記]]執筆<br />歴史研究<br />
| notable_works = 『将来之日本』([[1886年]])<br />『大日本膨脹論』([[1894年]])<br />『時務一家言』([[1913年]])<br />『勝利者の悲哀』([[1952年]])<br />『[[近世日本国民史]]』([[1918年]] - [[1952年]])<br />
| awards = [[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]([[1923年]])<br />[[文化勲章]]([[1943年]])<br />
| debut_works = 『第19世紀日本の青年及其教育』(1885年)<br />
| spouse = 徳富静子<br />
| partner = <br />
| children = 徳富太多雄(長男)<br />
| relations = [[徳富一敬]](父)<br />徳富久子(母)<br />[[阿部賢一]](三女の夫)<br />徳富敬太郎(孫)<br />[[浜田義文]](孫の夫)<br />[[竹崎順子]](伯母)<br />横井津世子(叔母)<br />[[横井小楠]](義叔父)<br />[[矢嶋楫子]](叔母)<br />[[湯浅初子]](姉)<br />[[徳冨蘆花]](弟)<br />[[湯浅治郎]](義兄)<br />[[横井時雄]](従兄)<br />[[海老名みや]](従姉)<br />[[海老名弾正]](義従兄)<br />[[久布白落実]](姪)<br />[[湯浅八郎]](甥)<br />
| influences = <br />
| influenced = <br />
| signature = <br />
| website = <br />
<!--| footnotes = --><br />
}}<br />
<br />
'''徳富 蘇峰'''(とくとみ そほう、[[1863年]][[3月14日]]([[文久]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[1957年]]([[昭和]]32年)[[11月2日]])は、[[明治]]から[[昭和]]戦後期にかけての[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[思想家]]、[[歴史家]]、[[評論家]]。『[[國民新聞]]』を主宰し、大著『[[近世日本国民史]]』を著したことで知られる。<br />
<br />
蘇峰は[[号 (称号)|号]]で、本名は'''猪一郎'''(いいちろう)。[[字]]は'''正敬'''(しょうけい)。[[筆名]]は'''菅原 正敬'''(すがわら しょうけい)、'''大江 逸'''(おおえ いつ、'''逸郎'''とも)。[[雅号]]に'''山王草堂主人'''、'''頑蘇老人'''、'''蘇峰学人'''、'''銑研'''、'''桐庭'''、'''氷川子'''、'''青山仙客'''、'''伊豆山人'''など。生前自ら定めた[[戒名]]は'''百敗院泡沫頑蘇居士'''(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。<br />
<br />
小説家の[[徳冨蘆花]]は弟である。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 生い立ちと青年時代 ===<br />
[[1863年]][[3月14日]]([[文久]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]])、[[肥後国]][[上益城郡]]杉堂村(現[[熊本県]][[上益城郡]][[益城町]]上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、[[熊本藩]]の一領一疋の[[郷士]]・[[徳富一敬]]の第五子・長男として生れた<ref name=sugi>杉井(1989)</ref><ref name=tashiro>田代(2004)</ref><ref>父42歳、母35歳、祖父美信が猪一郎と命名。猪は亥で文久3年癸亥に生まれたことを証明するものである(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 31ページ)</ref>。徳富家は代々[[葦北郡]][[水俣市|水俣]]で[[庄屋|惣庄屋]]と[[代官]]を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「[[維新の十傑]]」<ref group="注釈">1884年(明治17年)3月刊の[[山脇之人]]『維新元勲十傑論』に由来する。</ref> のひとり[[横井小楠]]に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、[[肥後実学党]]の指導者として[[藩政改革]]ついで初期県政にたずさわり、[[幕末]]から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した<ref name=sugi/><ref>人間は真面目かつ正直で重厚質実であり、どこを探しても横着や軽薄という所はなかったという。老年に至っては好々爺であり、篤実の君子として世間からも生ける聖徒のように思われていた。しかし非常な癇癪持ちの側面もあったとされる(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 25ページ)</ref>。<br />
<br />
蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)<ref>肥後の最南端で、薩摩と境を接している。前は海に面し、後ろに山を背負っている。熊本から二十五里、鹿児島から二十八里で、双方のほぼ中間である。上古よりの駅路にて、[[延喜式]]にも記載せられている。大なる部落で山から材木、炭、薪をだし、浜辺には塩田があった。価格は第三位であった(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 18-19ページ)</ref>に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った<ref>徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 43ページ</ref>。[[1871年]]([[明治]]4年)から[[兼坂諄次郎]]に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『[[四書]]』『[[五経]]』『[[左伝]]』『[[史記]]』『歴史網鑑』『国史略』『[[日本外史]]』『八家文』『通鑑網目』なども読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。[[1872年]](明治5年)には[[熊本洋学校]]<ref>この学校は細川侯が維新に当初に創立した。横井太平氏などの尽力でできた。多分最初は兵学校にでもするつもりであった。(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 53ページ)</ref>に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという<ref>(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 53ページ)</ref>。その後[[1875年]](明治8年)に再入学する。この間、肥後実学党系の[[漢学]]塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約[[聖書]]』などにふれて西洋の学問や[[キリスト教]]に興味を寄せ、[[1876年]](明治9年)、[[横井時雄]]、[[金森通倫]]、[[浮田和民]]らとともに[[熊本バンド]](花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・[[儒学]]から距離をおくようになった<ref name=tashiro/><ref name=toyama>遠山(1979)pp.231-232</ref>。<br />
<br />
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|東京英語学校]]に入学するも10月末に退学、[[京都市|京都]]の[[同志社英学校]]に転入学した。同年12月に創設者の[[新島襄]]により[[金森通倫]]らとともに[[洗礼]]を受け<ref name=tashiro/>、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった<ref name=sugi/>。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「[[神の王国]]」を建設することをめざした<ref name=sugi/>。<br />
<br />
[[1880年]](明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した{{Refnest|group="注釈"|このとき蘇峰は西京第二公会に退会を申し出て、除名処分を受けた。しかし、新島に寄せた敬意は終生変わることがなかった。<ref name=sugi/>}}。蘇峰は、こののち[[東京市|東京]]で新聞記者を志願したが志かなわず、翌[[1881年]](明治14年)、帰郷して[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]系の民権結社[[相愛社]]に加入し、[[自由民権運動]]に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿して[[ナショナリズム]]に裏打ちされた自由民権を主張している<ref name=tashiro/>。<br />
<br />
[[1882年]](明治15年)3月、[[元田永孚]]の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「[[大江義塾]]」を創設する。[[1886年]](明治19年)の閉塾まで英学、[[歴史]]、[[政治学]]、[[経済学]]などの講義を通じて青年の[[啓蒙]]に努めた<ref name=tashiro/>。その門下には[[宮崎滔天]]や[[人見一太郎]]らがいる{{Refnest|group="注釈"|大江義塾の思い出として宮崎は、当時21歳の蘇峰が口角泡を飛ばして[[清教徒革命]]や[[フランス革命]]について熱く語っていたことを述懐している。<ref name=1000ya>[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0885.html 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』]</ref>}}。<br />
<br />
=== 『國民新聞』の創刊と平民主義 ===<br />
[[ファイル:徳富蘇峰.jpg|220px|thumb|right|『蘇峰文選』に掲載された国民新聞社時代の蘇峰]]<br />
[[ファイル:Soho Memorial hall.JPG|thumb|right|250px|[[水俣市]]にある市立蘇峰記念館(旧水俣市立図書館「淇水文庫」)]]<br />
大江義塾時代の蘇峰は、[[リチャード・コブデン]]や[[ジョン・ブライト]]ら[[マンチェスター学派]]と呼ばれる[[ヴィクトリア朝]]の[[自由主義]]的な思想家に学び、[[馬場辰猪]]などの影響も受けて[[平民主義]]の思想を形成していった<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な[[人権]]の尊重と[[平等主義]]が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった<ref name=1000ya/>。これは、当時の[[藩閥]]政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、[[平和主義]]を特徴としていた。蘇峰の論は、[[1885年]](明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌[[1886年]](明治19年)に刊行された『将来之日本』<ref>[{{NDLDC|798586/1}} 『将来之日本』]</ref> に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである<ref name=tashiro/><ref group="注釈">[[1883年]](明治16年)10月には「東京毎週新報」に「官民ノ調和ヲ論ズ」という評論を4回にわたり連載している。</ref>。彼の論は、[[富国強兵]]、[[鹿鳴館]]、[[徴兵制]]、[[帝国議会|国会]]開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。<br />
[[ファイル:Iichiro(Soho) Tokutomi.jpg|145px|left|thumb|蘇峰24歳(1886年夏)]]<br />
蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して[[高知市|高知]]にあった[[板垣退助]]を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている<ref name="taka">[http://fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2005/12/post_1470.php 高野静子『後藤新平と徳富蘇峰の交友』]</ref><br />
{{Refnest|group="注釈"|板垣は、原稿よりもむしろ蘇峰の人物そのものに興味をもち、政治家をやらせてみたいと述べたといわれる。<ref>高野(2005)</ref>}}。同書は蘇峰の上京後に[[田口卯吉]]の[[経済雑誌社]]より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした<ref name=toyama/><ref name=hisa27>久恒(2011)p.27</ref>。これが蘇峰の出世作となった。<br />
<br />
[[1887年]](明治20年)2月には東京[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]榎坂に姉・[[湯浅初子|初子]]の夫・[[湯浅治郎]]の協力を得て言論団体「[[民友社]]」を設立し、月刊誌『[[国民之友]]』を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から採用したものだといわれている<ref name="jog">[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog466.html 人物探訪「徳富蘇峰」文章報国70余年]</ref>。<br />
<br />
民友社には弟の[[徳冨蘆花|蘆花]]をはじめ[[山路愛山]]、[[竹越與三郎]]、[[国木田独歩]]らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「[[欧化主義]]」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、[[三宅雪嶺]]、[[志賀重昂]]、[[陸羯南]]ら[[政教社]]の掲げる[[国粋主義]](国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、[[1888年]](明治21年)から[[1889年]](明治22年)にかけては、[[大同団結運動]]支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』{{Refnest|group="注釈"|ウイリアム・グラハムの『新旧社会主義』やジョン・レーの『現時の社会主義』によりながら社会主義原論・歴史を体系的に叙述し、社会主義入門書として当時の青年に影響を与えた。<ref>海野(1992)pp.262-263</ref>}}を[[1893年]](明治26年)に発刊するなど[[社会主義]]思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった<ref name=toyama/><ref>隅谷(1974)p.173</ref>。<br />
<br />
その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、[[森田思軒]]、[[朝比奈知泉]]らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、[[坪内逍遥]]や[[森鴎外|森鷗外]]、[[幸田露伴]]などが参加した<ref name=kinen>[http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/nenpu.html 徳富蘇峰記念館「略年譜」]</ref>。<br />
<br />
[[1890年]](明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に[[国民新聞社]]を設立して『[[國民新聞]]』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたって[[オピニオンリーダー]]として活躍することとなった<ref name=tashiro/>。さらに蘇峰は、[[1891年]](明治24年)5月には『国民叢書』、[[1892年]](明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している<ref name=sugi/>。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた<ref name=1000ya/>。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、<br />
{{quotation|<br />
当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった。<br />
|『蘇峰自伝』<br />
}}<br />
と記している<ref name=kinen/>。<br />
<br />
蘇峰は1891年(明治24年)10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、[[旧制中学校|中学校]](旧制)に進学せず、地方の町村[[役場]]で吏員となっている若者や[[小学校]]の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して生産活動に参画せしむるべきことを主張している<ref>多仁(1989)pp.54-55</ref>。<br />
[[ファイル:18EPKK.jpg|200px|thumb|『大日本膨脹論』(一部)]]<br />
一方では1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、[[1894年]](明治27年)、[[硬六派|対外硬六派]]に接近して[[第2次伊藤内閣]]を攻撃し{{Refnest|group="注釈"|1894年[[3月28日]]には、硬六派を支持する反政府系、反自由党系の新聞記者たちは、[[尾崎行雄]]、[[肥塚龍]]、[[末広鉄腸]]、[[鈴木天眼]]、[[陸実]]、[[川村惇]]、徳富蘇峰を中核として「新聞の同盟」を結成することを約している。<ref>佐々木(1999)p.194</ref>}}、[[日清戦争]]に際しては、[[内村鑑三]]の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである<ref>大日方(1989)p.284</ref>。蘇峰は戦況を詳細に[[報道]]、自ら[[広島市|広島]]の[[大本営]]に赴き、現地に[[従軍記者]]を派遣した{{Refnest|group="注釈"|国木田独歩は、国民新聞記者として軍艦[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]に搭乗して[[威海衛]]攻撃に従軍した。<ref>海野(1992)p.77</ref>}}。<br />
さらに蘇峰は、参謀次長・[[川上操六]]、[[軍令部]]長・[[樺山資紀]]らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行した<ref>[{{NDLDC|783468/1}} 『大日本膨脹論』]</ref>。<br />
<br />
=== 「変節」と政界入り ===<br />
従軍記者として日清戦争後も[[旅順]]にいた32歳の蘇峰は、[[1895年]](明治28年)4月の[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス第三共和政|フランス]]によるいわゆる[[三国干渉]]の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ<ref>隅谷(1974)p.57</ref>、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した<ref name=hisa27/>。<br />
<br />
蘇峰は、<br />
{{quotation|<br />
この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。<br />
|『蘇峰自伝』}}<br />
と回想している<ref>隅谷(1974)pp.57-58。原出典は『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。</ref><br />
{{Refnest|group="注釈"|『蘇峰自伝』によれば、蘇峰はこのとき、[[清国]]に返還した[[遼東半島]]にとどまることを潔く思わず、せめていったんは日本の[[領土]]となった記念にと旅順の[[礫|小石]]や[[砂]]を[[ハンカチ]]に包んで一刻も早い帰国を願ったと続けている。<ref>隅谷(1974)p.58</ref>}}。<br />
<br />
[[遼東半島]]の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌[[1896年]](明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の[[深井英五]]であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した<ref name=jog/>。その欧米巡歴は、[[ロンドン]]を皮切りに[[オランダ]]、ドイツ、[[ポーランド]]を経てロシアに入り、[[モスクワ]]では文豪[[レフ・トルストイ]]を訪ねた<ref group="注釈">奇しくも弟蘆花もトルストイをのちに訪ねている。蘇峰は、このとき「人道と愛国心は背反する」と述べたトルストイに反論している。</ref>。その後、[[パリ]]に入って[[イギリス]]に戻り、さらに[[アメリカ合衆国]]に渡航している<ref name=1000ya/>。ロンドンでは、『[[タイムズ]]』や『[[デイリー・ニューズ (イギリス)|デイリー・ニューズ]]』などイギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている<ref name=jog/>。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。<br />
<br />
帰国直後の[[1897年]](明治30年)、[[第2次松方内閣]]の[[内務省 (日本)|内務省]][[勅任]][[参事官]]に就任、従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された<ref name=hisa27/>{{Refnest|group="注釈"|松方内閣で同志社出身の蘇峰が勅任参事官となったのと同時に[[東京専門学校]]の[[高田早苗]]が[[外務省]]通商局長となり、隈板内閣では東京専門学校[[校長]]の[[鳩山和夫]]が外務次官となるなど、明治30年代にはいると、政府と民間の垣根はしだいに取り払われ、[[私学]]の反政府的傾向も徐々に弱まっていった。<ref>隅谷(1974)p.212</ref>}}。<br />
<br />
蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、[[田岡嶺雲]]は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し<ref>隅谷(1974)p.60。原出典は『第二嶺雲揺曳』</ref>、[[堺利彦]]もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
[[1898年]](明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として[[政治家]]と交際し、[[政界]]や[[官僚|官界]]に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある<ref>佐々木「徳富蘇峰と権力政治家」(2006)</ref>。<br />
<br />
蘇峰はこののち[[山縣有朋]]や[[桂太郎]]との結びつきを深め、[[1901年]](明治34年)6月に[[第1次桂内閣]]の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、[[1904年]](明治37年)の[[日露戦争]]の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した<ref name=jog/>。しかし、[[1905年]](明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約([[ポーツマス条約]])調印について、<br />
{{quotation|<br />
図に乗って[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]や[[今川義元]]や[[豊臣秀吉|秀吉]]のようになってはいけない。引き際が大切なのである。<br />
}}<br />
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、[[9月5日]]の[[日比谷焼打事件]]に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた<ref name=jog/>。社の[[印刷]]設備を破壊しようとする暴徒と社員が社屋入り口付近でもみ合いとなり、駆けつけた[[日比野雷風]]が抜刀してかろうじて撃退している<ref>佐々木(1999)p.227</ref>。<br />
<br />
[[1910年]](明治43年)、[[韓国併合]]ののち、初代朝鮮総督の[[寺内正毅]]の依頼に応じ、[[朝鮮総督府]]の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。『[[京城日報]]』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった<ref name=Matsuo>松尾(1989)p.8</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[朝鮮語]]新聞では『[[毎日申報]]』のみが発行を許された。<ref name=Matsuo/>}}。<br />
<br />
翌[[1911年]](明治44年)[[8月24日]]には[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]に任じられている<ref>『官報』第8454号、明治44年8月25日。</ref>。前年5月には[[大逆事件]]の[[検挙]]が始まり、1911年(明治44年)1月には[[幸徳秋水]]ら24人に死刑判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった<ref>隅谷(1974)pp.441-444</ref>。<br />
<br />
[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]、明治天皇崩御。蘇峰は[[明治天皇]]の死について、<br />
{{quotation|<br />
国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや。<br />
}}<br />
と言及している<ref>隅谷(1974)p.457。原出典は『大正政局史論』</ref>。<br />
<br />
=== 大正デモクラシー時代と『近世日本国民史』の執筆 ===<br />
[[1913年]]([[大正]]2年)1月の[[護憲運動#第一次憲政擁護運動|第一次護憲運動]]のさなか桂太郎の[[立憲同志会]]創立趣旨草案を執筆している{{Refnest|group="注釈"|桂太郎の死後すぐに発足した立憲同志会は、中国の[[辛亥革命]]に直面した桂が従来型の特定勢力の利害を代表する政党では対外的危機に充分に対応することができないとして、帝国の有力者を網羅することによって危機克服をめざす意図でつくられた。同志会の会員には、日比谷焼打事件などに関係した、都市民衆運動のリーダーも含まれていた。<ref>加藤(2002)p.167</ref>}}。<br />
『國民新聞』は[[大正政変]]に際しても[[第3次桂内閣]]を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた<ref name=sugi/>。『蘇峰日誌』などによれば、このとき国民新聞社社員は活字用の溶解した[[鉛]]まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名は[[ピストル]]を発射、それにより少なくとも死者1名、重傷者2名を出し、更に日本刀による応戦で負傷者多数が生じている<ref>佐々木(1999)pp.242-243</ref>。<br />
<br />
蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった<ref name=toyama/>。[[1914年]](大正3年)の父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した<ref name=sugi/>。<br />
<br />
[[第一次世界大戦]]のさなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。日清・日露の両戦争に勝利した日本は、独立そのものを心配しなくてはならないような状況は見あたらないから、彼らに創業者(維新の[[青年]])のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争のなかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、国家は意識的に[[国是]]を定めるべきだと主張した<ref>有馬(1999)pp.24-25</ref>。<br />
<br />
[[1915年]](大正4年)11月、[[第2次大隈内閣]]は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき[[黒岩涙香]]、[[村山龍平]]、[[本山彦一]]らとともに勲三等を受章した<ref>佐々木(1999)p.245</ref>。なお、蘇峰の『國民新聞』は[[立憲政友会]]に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは[[第1次西園寺内閣]]時代の1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった[[原敬]]が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった<ref>佐々木(19999)pp.267-268</ref>。[[二個師団増設問題]]の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、[[1918年]](大正7年)の[[原内閣]]成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった<ref>佐々木(1999)pp.270-271</ref>{{Refnest|group="注釈"|1900年(明治33年)に伊藤博文が立憲政友会を組織して[[藩閥]]が伊藤系と山縣系とに分裂する状態になると、『[[東京日日新聞]]』と『[[中央新聞]]』が伊藤系に、『国民新聞』と『[[やまと新聞]]』が山縣系について、たがいに争った。<ref>佐々木(1999)p.267</ref>}}<br />
{{Refnest|group="注釈"|[[明治時代]]後期から[[大正時代]]中期にかけて、『[[日本 (新聞)|日本]]』、『中央新聞』、『[[毎夕新聞]]』、『[[大阪新報]]』が政友会系ないし政友会機関紙であったが、原が敵視していたのは『[[報知新聞]]』、『やまと新聞』、『[[万朝報]]』、さらに蘇峰の『國民新聞』であった。<ref>佐々木(1999)p.389</ref><br />
}}。<br />
<br />
1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した<ref name=sugi/>。同年7月、55歳となった蘇峰は『[[近世日本国民史]]』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰の[[ライフワーク]]であり<ref name=hisa26>久恒(2011)p.26</ref>、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには[[幕末]]、幕末を知るには[[江戸時代]]が記されなければならないとして、結局、[[織田信長]]の時代以降の歴史を著したものとなった<ref name=hisa28>久恒(2011)p.28</ref>。『近世日本国民史』は、東京の[[大森 (大田区)|大森]](現[[大田区]])に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という[[鉄筋コンクリート造]]、地上3階、地下2階の書庫が建てられた<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
[[1923年]](大正12年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、[[帝国学士院]]の[[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]を受賞した<ref>「第13回(大正12年5月27日)」『[http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/jyusho/011to020.html 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院]』[[日本学士院]]。</ref>。この年は[[9月1日]]に[[関東大震災]]が起こっているが、その日[[神奈川県]][[逗子市|逗子]]にいた蘇峰は、周囲が[[津波]]に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
[[1925年]](大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、[[皇室神道|皇室思想]]の普及などを目的とする施設「[[青山会館]]」が、蘇峰の寄付によって東京・[[青山 (東京都港区)|青山]]に完成している。<br />
<br />
[[ファイル:Reinanzaka Church 1929 December 12 TOKUTOMI Soho.JPG|thumb|250px|[[霊南坂教会]]創立50周年記念祝会([[1929年]](昭和4年)12月12日)]]<br />
ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、[[大正デモクラシー]]の隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「[[皇室]]中心主義」を唱え、また、[[国民皆兵]]主義の基盤として[[普通選挙制]]実現を肯定的にとらえている<ref>『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』所収「国民自覚論」(1923)</ref>。[[1927年]]([[昭和]]2年)、弟の蘆花が死去。[[1928年]](昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。<br />
<br />
帝国学士院会員としては、1927年(昭和2年)5月に「維新史考察の前提」、1928年(昭和3年)1月に「[[神皇正統記]]の一節に就て」、[[1931年]](昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している<ref name=sugi/>。<br />
<br />
なお、関東大震災後に国民新聞社の[[資本]]参加を求めた[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が副社長として腹心の[[河西豊太郎]]をすえると根津と河西のあいだに確執が深まり、[[1929年]](昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177477/10 東京堂年鑑編輯部編『出版年鑑 昭和5年版』東京堂、1930年、pp.11-12]</ref>。その後は、本山彦一の引きで[[大阪毎日新聞社]]・[[東京日日新聞社]]に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。<br />
<br />
=== 軍部との提携と大日本言論報国会 ===<br />
1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった[[満州事変]]以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」{{Refnest|group="注釈"|白色人種の[[ヘゲモニー]]に対峙する国民的自覚を持つべきの意。[[澤田次郎]]は蘇峰が同語を使い始めたのは、1913年(大正2年)の[[カリフォルニア州外国人土地法]](排日土地法)の成立が契機となったと指摘している。<ref>澤田(1999)</ref>}}、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。<br />
<br />
[[1935年]](昭和10年)に『蘇峰自伝』、[[1939年]](昭和14年)に『昭和国民読本』、[[1940年]](昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、[[1937年]](昭和12年)6月に[[帝国芸術院]]会員となった。1940年(昭和15年)9月、[[日独伊三国軍事同盟]]締結の建白を[[近衛文麿]]首相に提出し、[[太平洋戦争]]の始まった[[1941年]](昭和16年)12月には[[東條英機]]首相に頼まれ、[[大東亜戦争]]開戦の[[詔書]]を[[添削]]している。<br />
<br />
[[1942年]](昭和17年)5月には[[日本文学報国会]]を設立してみずから会長に就任、同年12月には[[内閣情報局]]指導のもと[[大日本言論報国会]]が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、[[皇国史観]]で有名な[[東京帝国大学]][[教授]]・[[平泉澄]]や、[[京都帝国大学]]の[[哲学]]科出身で[[京都学派]]の[[高山岩男]]、[[高坂正顕]]、[[西谷啓治]]、[[鈴木成高]]らの発言権が大きかった<ref>森(1993)p.218</ref>。<br />
<br />
[[1943年]](昭和18年)4月に蘇峰は、[[三宅雪嶺]]らとともに[[東條内閣]]のもとで[[文化勲章]]を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、[[三叉神経痛]]や[[眼病]]を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している<ref name=hisa28/>{{Refnest|group="注釈"|当時の原稿用紙の余白に「本日は顔面神経尤も劇(はげし)。ソノ為シバシハ筆ヲ投シ、漸ク之ヲ稿了セリ。後人ソノ苦ヲ察セヨ」という文が記されたものがある。<ref name="Hisakaki">久恒(2011)p.29</ref>}}。[[1944年]](昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。<br />
<br />
[[1945年]](昭和20年)7月に[[ポツダム宣言]]が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。[[昭和天皇]]の[[非常大権]]の発動を画策したが、実現しなかった。<br />
<br />
=== 『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰 ===<br />
[[ファイル:Soho Tokutomi self-portrait at the age 88.jpg|thumb|160px|「達磨」88歳時の自画自賛像。「別有天地非人間」([[李白]]の詩句)]]<br />
1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後に[[A級戦犯]]容疑をかけられたが、老齢と三叉神経痛のために[[連合国軍総司令部|GHQ]]により自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。[[公職追放]]処分を受けたため、[[1946年]](昭和21年)[[2月23日]]に貴族院勅選議員などの公職を辞して[[静岡県]][[熱海市]]に蟄居した。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章を返上した。[[1948年]](昭和23年)[[12月7日]]、妻の静子が死去。熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに[[達磨]]画を描いている。<br />
<br />
蘇峰は終戦後も日記を書き続けており<ref group="注釈">[[2006年]](平成18年)から2007年(平成19年)にかけて『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題し、[[講談社]]から全4巻が刊行された。</ref>、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている{{Refnest|group="注釈"|[[山本武利]]は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。<ref>山本(2006)pp.248-254</ref>}}。<br />
<br />
[[1951年]](昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、[[1952年]](昭和27年)[[4月20日]]、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、[[史料]]を駆使し、[[織田信長]]の時代から[[西南戦争]]までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された<ref name=hisa28/>。[[平泉澄]]の校訂により[[時事通信社]]で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の[[1963年]](昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、[[1954年]](昭和29年)3月から[[1956年]](昭和31年)6月まで『[[読売新聞]]』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。<br />
<br />
[[1957年]](昭和32年)[[11月2日]]、熱海の晩晴草堂で死去。享年94。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の[[霊南坂教会]]でおこなわれた。墓所は東京都立[[多磨霊園]]にある。<br />
<br />
== 業績と評価 ==<br />
=== 思想家蘇峰 ===<br />
思想家、言論人としての蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない<ref name=hisa27/>。蘇峰自身も、<br />
{{quotation|<br />
維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。<br />
}}<br />
と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実である。それに対し、[[松岡正剛]]は、敬虔な[[クリスチャン]]、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
戦前における国権主義的な言論活動については評判が悪く、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには[[軍国主義]]の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
その一方で、[[久恒啓一]]は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている<ref name=hisa27/>。<br />
<br />
近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者である[[ジョン・ピアーソン]]([[1977年]])、[[ビン・シン]]([[1986年]])によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
=== 歴史家蘇峰 ===<br />
{{See also|近世日本国民史}}<br />
歴史家としての名声は[[山路愛山]]とならび、特にその史論が高く評価される<ref name=toyama/>。<br />
<br />
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている<ref>『近世日本国民史』第100巻</ref>。<br />
<br />
{{quotation|所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。<br />
従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。<br />
}}<br />
<br />
『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、[[ギネスブック]]に「最も多作な作家」と書かれているほどである<ref name=hisa28/>。『近世日本国民史』の構成は、<br />
* 緒論…織田豊臣時代〔10巻〕<br />
* 中論…徳川時代〔19巻〕・[[孝明天皇]]の時代〔32巻〕<br />
* 本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕<br />
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムと[[グローバリズム]]とが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
蘇峰は執筆当初、[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には[[林羅山]]・[[林鵞峰]]の『[[本朝通鑑]]』(5,700ページ)や[[徳川光圀]]のはじめた『[[大日本史]]』(2,500ページ)の規模を上まわった<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
『近世日本国民史』の最終巻は[[西南戦争]]にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため[[西郷隆盛]]は保守反動として片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている<ref>上田(1989)p.303</ref>。<br />
<br />
[[杉原志啓]]によれば、[[アナキスト]]の[[大杉栄]]が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、[[正宗白鳥]]、[[菊池寛]]、[[久米正雄]]、[[吉川英治]]らによっても愛読されていた。[[松本清張]]は歴史家蘇峰を高く評価しており、[[遠藤周作]]も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという<ref>杉原(1995)</ref>。<br />
<br />
蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史([[中国史]])を書きたいとの意向を示していたという<ref name="Hisakaki"/>。<br />
<br />
蘇峰は死ぬまで[[昭和維新]]、[[日本国憲法第9条]]、[[朝鮮戦争]]等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は[[松岡正剛]]によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
=== 言論人蘇峰 ===<br />
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった[[夏目漱石]]の『[[吾輩は猫である]]』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部(初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる<ref name=jog/>。<br />
<br />
蘇峰は[[朝比奈知泉]]、[[福地源一郎]](桜痴)、[[陸羯南]]などと同様、当時の[[メディア]]をリードした傑出した編集者であり記者であったが、その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と[[裁量権]]を有するが、ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった<ref name=sasaki16>佐々木(1999)p.16</ref>。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「[[番記者]]」のごとく既存の組織に属することによって活動して自らの地位を築いたのではなかった<ref>佐々木(1999)p.265</ref>。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」<ref name=sasaki16/> と評される{{Refnest|group="注釈"|[[有山輝雄]]は[[1986年]](昭和61年)に、創刊直後の『[[朝日新聞]]』が政府から厖大な助成金を得て政府寄りの報道をおこなう密約をむすんでいたことを一次史料を駆使して明らかにしており、[[1992年]](平成4年)には『徳富蘇峰と国民新聞』を著して言論の独立と政治・経営の関係を追究している。<ref>佐々木(1999)p.21</ref>}}。<br />
しかしながら、蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた<ref name=1000ya/>。<br />
<br />
== 人物と交友関係 ==<br />
蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる<ref name=hisa27/>。<br />
<br />
=== 多岐にわたる交友者 ===<br />
蘇峰の交友範囲は広く、[[与謝野晶子]]、[[鳩山一郎]]、[[緒方竹虎]]、[[佐佐木信綱]]、[[橋本関雪]]、[[尾崎行雄]]、[[加藤高明]]、[[斎藤茂吉]]、[[土屋文明]]、[[賀川豊彦]]、[[島木赤彦]]らの名前を掲げることができる<ref name=hisa28/>。また、[[後藤新平]]<ref name=taka/>、[[勝海舟]]、[[伊藤博文]]、[[森鴎外]]、[[渋沢栄一]]、[[東条英機]]、[[山本五十六]]、[[正力松太郎]]、[[中曽根康弘]]とも交遊があった。そこに[[イデオロギー]]や[[職業]]の違いはなく、あらゆる[[ジャンル]]、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった[[山縣有朋]]、勝海舟、伊藤博文、[[板垣退助]]、[[大隈重信]]、[[松方正義]]、[[西園寺公望]]、[[大山巌]]らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の[[短歌]]を詠んでいる<ref name=hisa28/>。<br />
{{quotation|<br />
*わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ<br />
*高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪<br />
}}<br />
<br />
=== 交友者からの書簡 ===<br />
神奈川県[[二宮町]]にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の[[書簡]]が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている<ref name=syokan>書翰通数と発信人数は『財団法人 徳富蘇峰記念塩崎財団所蔵 徳富蘇峰宛書簡目録』財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団、1995年による。</ref>。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身、『蘇翁言志録』(1936年)において、<br />
{{quotation|<br />
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。<br />
}}<br />
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた<ref name=taka/>。<br />
<br />
蘇峰自身も手紙魔であり、[[朝食]]前に20本もの書簡を書いていたという[[エピソード]]がある<ref name=hisa27/>。<br />
<br />
徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、[[高野静子]]によってまとめられ、『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)、『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)が出版されている。前者には、勝海舟、[[新島襄]]、徳富蘆花、[[坪内逍遥]]、森鴎外、[[山田美妙]]、[[内田魯庵]]、[[中西梅花]]、[[幸田露伴]]、[[森田思軒]]、[[宮崎湖処子]]、[[志賀重昂]]、[[佐々城豊寿]]、[[酒井雄三郎]]、[[小泉信三]]、[[松岡洋右]]、[[中野正剛]]、[[大谷光瑞]]などからの、後者には、[[島田翰]]、与謝野晶子、[[与謝野鉄幹]]、[[吉屋信子]]、[[杉田久女]]、[[夏目漱石]]、竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、[[潮田千勢子]]、[[植木枝盛]]、[[依田學海]]、[[野口そ恵子]]、[[吉野作造]]、[[滝田樗陰]]、[[麻田駒之助]]、[[菊池寛]]、[[山本実彦]]、[[島田清次郎]]、[[賀川豊彦]]などからの書簡が、それぞれ紹介されている。また、平成22年([[2010年]])には同じ作者により『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』として出版された。<br />
<br />
== 親族 ==<br />
=== 主な親族 ===<br />
祖父は[[辛島鹽井]]の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた[[頼山陽]]に会っている。<br />
<br />
父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した[[徳富一敬]]で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に[[百姓一揆]]が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。一敬は[[横井小楠]]の第一の門弟であり、[[坂本龍馬]]が小楠を訪ねた時にも同席し、その様子を書き留めている。父方の伯父に一義、高廉、昌龍、伯母にますも、はるがいる。<br />
<br />
母は上益城郡杉堂の矢嶋家出身の久子で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている<ref name="fukyu">[http://www11.big.or.jp/~tamomo/Aozora/001odasijidaizenpen/S0.htm 「普及版刊行に就て」『近世日本国民史』]</ref>。久子の姉・順子([[竹崎順子]])は熊本女学校(現[[熊本フェイス学院高等学校]])の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠夫人で[[同志社大学]]の基礎をきずいた[[海老名みや子]]の母にあたる。禁酒・廃娼を主張して[[婦人矯風会]]を設立した[[矢嶋楫子]]も徳富久子の妹で、久子は楫子の矯風運動を支援している<ref>[http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=722 歴史探訪「肥後の猛婦」]</ref>。順子・久子・つせ子・楫子の兄である[[矢嶋源助]]は小楠の第二の門弟であり、順子の夫である[[竹崎律次郎]]もまた小楠の門弟であった。<br />
<br />
妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる<ref name=hisa28/>。<br />
<br />
子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊(万熊)、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子、鶴子がいる。鶴子は一時期蘇峰の弟蘆花の養女となった。<br />
<br />
蘇峰の[[長男]]・太多雄は、弟の萬熊・武雄らと共に[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]卒業<!--府立一中如蘭会創立五十年史巻末卒業者一覧より-->。1912年(明治45年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を卒業し(海兵40期)海軍士官となるが、[[1931年]](昭和6年)[[9月9日]]、42歳で亡くなっている<ref name=fukyu/>。最終階級は海軍中佐。<br />
<br />
太多雄には三男二女がいたが、太多雄の死後は蘇峰が父親代わりとなり、太多雄の未亡人・美佐尾を援け、五人の孫の教育をした。<br />
* 長女・静子は[[日本女子大学]]を卒業した後、当時海軍政務次官であった[[松山常次郎]]の長男・望と婚姻した。<br />
* 長男の敬太郎は府立一中から海軍兵学校に進み海軍大尉で終戦を迎える。<br />
* 次男の剛二郎は[[東京大学農学部]]に進み、戦後[[宮崎大学]]農学部教授となる。<br />
* 三男の太三郎は[[陸軍幼年学校]]から[[陸軍航空士官学校]]に進み陸軍少尉で満州で終戦を迎える。<br />
* 二女の久子は[[お茶の水女子大学]]を卒業後、1954年(昭和29年)に当時[[熊本大学]]専任講師であった[[法政大学]][[名誉教授]]で[[イマヌエル・カント|カント]]学者の[[浜田義文]]と婚姻した。<br />
<br />
弟は[[小説家]]の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の[[湯浅初子|初子]]は政治家の[[湯浅治郎]]の後妻となった。初子は、日本で初めて男女共学による教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には[[昆虫学者]]の[[湯浅八郎]]らが生まれている。初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟・友喜がいた。<br />
<br />
[[日本の女性解放運動|女性解放運動家]]の[[久布白落実]]は姪、[[日本組合基督教会]]の指導者[[海老名弾正]]は遠戚にあたる。<br />
<br />
=== 弟・蘆花 ===<br />
小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』で知られる5歳年下の弟・[[徳冨蘆花]]は、[[1903年]](明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、[[大逆事件]]では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。<br />
<br />
[[1927年]](昭和2年)、蘆花が[[群馬県]][[伊香保温泉|伊香保]]で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている<ref name=hisa28/>。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる<ref>『弟 徳富蘆花』(1997)</ref><ref group="注釈">蘇峰と蘆花の関係については、[[2003年]](平成15年)、『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』が東京蘇峰会によって出版されている。</ref>。<br />
<br />
== 旧宅・墓地 ==<br />
[[File:Soho Tokutomi's Tombstone(Doshisha Graveyard,Kyoto-city).jpg|thumb|蘇峰の墓(京都市・同志社墓地)]]<br />
[[ファイル:Grave of Soho Tokutomi, Fuchu-city, Tokyo.jpg|サムネイル|多磨霊園にある徳富蘇峰の墓]]<br />
久恒啓一は、1人の人物について5つもの「記念館」が存在することは他に例をみないとして蘇峰の偉業を称えている<ref name=hisa27/>。そのうちの2館は旧宅、1館は生家である母の実家である。<br />
; 徳富旧邸・大江義塾跡<br />
: 蘇峰・蘆花の兄弟が父・一敬とともに居住したのが熊本市大江4丁目の徳富旧邸である。明治3年([[1970年]])の熊本藩の藩政改革の際、一敬は藩の民政局大属に任命されて水俣から熊本に移り住むこととなり、元田永孚の斡旋でこの家を入手した。蘇峰が民主的な学校を目指した私塾、大江義塾の跡地でもある。建物は熊本市の有形文化財、跡地は熊本県指定史跡となっている<ref>[http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/93_104_o.htm 徳富旧邸・大江義塾跡]</ref>。<br />
; 山王草堂<br />
: 蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている<ref group="注釈">JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座することにより、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。[[1868年]](明治元年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、[[1932年]](昭和7年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。</ref>。[[1924年]](大正13年)から昭和18年([[1943年]])まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。[[1988年]](昭和63年)、[[大田区]]により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。<br />
:* 所在地:東京都大田区[[山王 (大田区)|山王]]1-41-21。[[東日本旅客鉄道|JR]][[京浜東北線]][[大森駅 (東京都)|大森駅]]下車、徒歩15分。<br />
:* 開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日-1月3日、入館無料。<br />
; 多磨霊園<br />
: 墓所は東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]の東京都立[[多磨霊園]]。碑銘は「待五百年後、頑蘇八十七」。右に蘇峰の戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」、左に静子夫人の戒名「平常院静枝妙浄大姉」とある<ref name=sugi/>。<br />
; その他の墓地<br />
: 出身地である熊本県[[水俣市]]牧の内の徳富家代々の墓地、静岡県[[御殿場市]]の[[青竜寺 (御殿場市)|青竜寺]]、[[京都府]][[京都市]][[左京区]]の[[若王子同志社墓地]]にも分骨埋葬がなされている<ref name=sugi/>。<br />
<br />
== 賞歴・栄典 ==<br />
;賞歴<br />
* [[1923年]](大正12年)[[5月]] - [[恩賜賞 (日本学士院)|恩賜賞]]<br />
;栄典<br />
* [[1897年]](明治30年)[[10月30日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref><br />
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。</ref><br />
* [[1928年]](昭和3年)11月10日 - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。</ref><br />
* [[1943年]](昭和18年)[[4月]] - [[文化勲章]]([[1946年]](昭和21年)4月に返上)<br />
<br />
== 著作 ==<br />
=== 原刊行年順 ===<br />
<!-- 初版など元々の刊行された時の書誌情報を列記する項目 --><br />
*{{Cite book|和書|year=1884|title=明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス|publisher=私刊}}<br />
*『自由、道徳、及儒教主義』私刊、1884年。<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1886|month=10|title=将来之日本|publisher=経済雑誌社|series=}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1887|month=4|title=新日本之青年|publisher=集成社|series=}}<br />
*{{Cite book|和書|author=|editor=垣田純朗編|year=1889|month=1|title=日本国防論|publisher=民友社}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1891|month=6|title=進歩乎退歩乎|publisher=民友社|series=国民叢書第1冊}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=5|title=人物管見|publisher=民友社|series=国民叢書第2冊}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1892|month=9|title=青年と教育|publisher=民友社|series=国民叢書第3冊}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1893|month=12|title=吉田松陰|publisher=民友社|series=}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎|year=1894|month=12|title=大日本膨脹論|publisher=民友社|series=}}<br />
*{{Cite book|和書|author=徳富猪一郎、深井英五|year=1895|month=4|title=欧洲大勢三論|publisher=民友社|series=}}<br />
*『時務一家言』民友社、1913年。<br />
*『大正の青年と帝国の前途』民友社、1916年。<br />
*『杜甫と彌耳敦』民友社、1917年。<br />
*『支那漫遊記』民友社、1918年。<br />
*『大戦後の世界と日本』民友社、1920年。<br />
*『国民教育論』民友社、1923年。<br />
*『国民自覚論』民友社、1923年。<br />
*『蘇峰文粋 精神の復興』民友社、1924年。<br />
*『政界の革新』民友社、1924年。<br />
*『烟霞勝遊記 上下』民友社、1924年。<br />
*『大和民族の醒覚』民友社、1924年。<br />
*『烟霞勝遊記』民友社、1924年。<br />
*『静思余録』(改版本)、1924年。<br />
*『処世小訓』(改訂版)民友社、1924年。<br />
*『国民小訓』民友社、1925年。<br />
*『蘇峰随筆』民友社、1925年。<br />
*『三十七八年役と外交』民友社、1925年。<br />
*『第二蘇峰随筆』民友社、1925年。<br />
*『第一人物随録』民友社、1926年。<br />
*『野史亭独語』民友社、1925年。<br />
*『婦人の新教養』主婦之友社、1926年。<br />
*『西郷南洲先生』民友社、1926年。<br />
*『頼山陽』民友社、1926年。<br />
*『昭和一新論』民友社、1927年。<br />
*『大久保甲東先生』民友社、1927年。<br />
*『皇室と国民 蘇峰叢書1』民友社、1928年。<br />
*『名山遊記 蘇峰叢書2』民友社、1928年。<br />
*『国民と政治 蘇峰叢書3』民友社、1928年。<br />
*『好書品題 蘇峰叢書4』民友社、1928年。<br />
*『書斎感興 蘇峰叢書5』民友社、1928年。<br />
*『人物偶録 蘇峰叢書6』民友社、1928年。<br />
*『関東探勝記 蘇峰叢書7』民友社、1928年。<br />
*『言志小録 蘇峰叢書8』民友社、1928年。<br />
*『国民的教養 蘇峰叢書9』民友社、1929年。<br />
*『新聞記者と新聞 蘇峰叢書10』民友社、1929年。<br />
*『関西遊記 蘇峰叢書』民友社、1929年。<br />
*『読書と散歩 蘇峰叢書』民友社、1929年。<br />
*『日本名婦伝』主婦之友社、1928年。<br />
*『中庸の道』民友社、1928年。<br />
*『維新回天の偉業に於ける水戸の功績』民友社、1928年。<br />
*『木戸松菊先生』民友社、1928年。<br />
*『夫婦の道』主婦之友社、1928年。<br />
*『赤穂義士観』民友社、1929年。<br />
*『余は何故に国民新聞を去りたる乎』新聞時代社、1929年。<br />
*『維新回天史の一面』民友社、1929年。<br />
*『土佐の勤王』民友社、1929年。<br />
*『台湾遊記』民友社、1929年。<br />
*『日本帝国の一転機』民友社、1929年。<br />
*『時勢と人物』民友社、1929年。<br />
*『人間界と自然界』民友社、1929年。<br />
*『生活と書籍』民友社、1930年。<br />
*『歴史の興味』民友社、1930年。<br />
*『老記者叢話』民友社、1930年。<br />
*『時代と女性』民友社、1930年。<br />
*『景仰と自省』民友社、1930年。<br />
*『書窓雑記』民友社、1930年。<br />
*『教育勅語四十年』大阪毎日新聞社、1930年。<br />
*『修史余課』民友社、1931年。<br />
*『持身小訓』民友社、1931年。<br />
*『奉公小訓』民友社、1931年。<br />
*『世界の動きと維新史の教訓』偕行社、1931年。<br />
*『現在日本と世界の動き』民友社、1931年。<br />
*『卓上小話』民友社、1931年。<br />
*『わが母』民友社、1931年。<br />
*『吾が同胞に訴ふ』近代社、1931年。大谷光瑞と共著<br />
*『人間山陽と史家山陽』民友社、1932年。<br />
*『史境遍歴』民友社、1932年。<br />
*『読書人と山水』民友社、1932年。<br />
*『大事小事』民友社、1932年。<br />
*『明治天皇の御盛徳』民友社、1932年。<br />
*『勝海舟 偉人伝全集 第七巻』改造社、1932年。<br />
*『ペルリは日本の恩人か』日本講演通信社、1932年。<br />
*『武藤全権大使及其一行を送る』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1932年。<br />
*『床次君八面談』近代社、1932年。<br />
*『典籍清話』民友社、1932年。<br />
*『東西史論』民友社、1933年。<br />
*『蘇峰随筆 愛書五十年』ブツクドム社、1933年。<br />
*『欧州現代史の暗流』民友社、1933年。<br />
*『増補国民小訓』民友社、1933年。<br />
*『成簣堂閑記』書物展望社、1933年。<br />
*『聖徳景仰』民友社、1934年。<br />
*『明治維新の大業』民友社、1935年。<br />
*『四時佳興』民友社、1935年。<br />
*『漢籍を観る』大東出版社、1935年。<br />
*『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。<br />
*『史論新集』民友社、1936年。<br />
*『我等の日本精神』民友社、1936年。<br />
*『蘇翁言志録』民友社、1936年。<br />
*『老記者の旅』民友社、1937年。<br />
*『現代女性訓』民友社、1937年。<br />
*『戦時慨言』民友社、1937年。<br />
*『皇道日本の世界化』民友社、1938年。<br />
*『我が交遊録』中央公論社、1938年。<br />
*『天然と人間』民友社、1938年。<br />
*『昭和国民読本』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1939年。<br />
*『満州建国読本』日本電報通信社、1940年。<br />
*『必勝国民読本』毎日新聞社、1944年。<br />
*『皇國必勝論』明治書院、1945年。<br />
*『日本を知れ』東京日日新聞社、1945年。<br />
*『国史隋想 平安朝の巻』宝雲舎、1948年。<br />
*『世界の二大詩人』宝雲舎、1948年。<br />
*『敗戦学校 国民の鍵』宝雲舎、1949年。<br />
*『読書九十年』大日本雄弁会講談社、1952年。<br />
*『勝利者の悲哀』大日本雄弁会講談社、1952年。<br />
<br />
=== 主な没後刊行 ===<br />
<!-- 復刻や再録など現在入手できたり、多くの図書館が所蔵している版を列記する項目 --><br />
*『三代人物史』 [[読売新聞社]]、1971年 --- 『[[近世日本国民史]]』以外で最後の単著。明治・大正・昭和三代にわたる人物回顧<br />
*『[[日本の名著]]40 徳富蘇峰 [[山路愛山]]』 中央公論社、1971年。責任編集 [[隅谷三喜男]]<br />
**<small>『将来之日本』(1886年)、『吉田松陰』(1893年)を収録</small><br />
***『将来の日本 吉田松陰』 [[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2015年。解説[[杉原志啓]]<br />
*『[[明治文学全集]]34 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1974年<br />
**<small>『官民調和論』(刊行年不明、熊本時代)、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(1884年私刊)、『自由、道徳、及儒教主義』(1884年私刊)、『将来之日本』(1886年)、『三版 新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『吉田松陰』(1893年)、『大日本膨脹論』(1894年)、『時務一家言』(1913年)を収録</small><br />
*『[[近代日本思想大系]]8 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1978年<br />
**<small>『新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『大正の青年と帝国の前途』(1916年)、『国民自覚論』(1923年)、『敗戦学校・国史の鍵』(1948年)、『勝利者の悲哀』(1952年)を収録</small><br />
*『吉田松陰』 岩波文庫 1981年、ワイド版2001年<br />
*『読書法』 [[講談社学術文庫]] 1981年<br />
*『静思余録』 講談社学術文庫 1984年<br />
*『蘇翁夢物語 わが交遊録』 中公文庫 1990年-初版は1938年(昭和13年)<br />
*『蘇峰 書物随筆』(全9巻)、[[ゆまに書房]]、1993年 <small>(明治38年〜昭和10年の復刻版)</small><br />
*『弟 徳富蘆花』 中央公論社 1997年、[[中公文庫]]、2001年<br />
*『蘇峰自伝』 日本図書センター「人間の記録22」(復刻新版)、1997年-初版は中央公論社、1935年(昭和10年)<br />
*『徳富蘇峰 黒岩涙香 近代浪漫派文庫5』[[新学社]]、2004年<br />
**<small>『嗟呼国民之友生れたり』、『「透谷全集」を読む』、『還暦を迎ふる一新聞記者の回顧』、『紫式部と清少納言』、『淡窓全集』、『世界三文豪の満一百年忌』、『敗戦学校』、『宮崎兄弟の思ひ出』を収録</small><br />
*『勝利者の悲哀 日米戦争と必勝国民読本』[[毎日ワンズ]]、2013年<br />
**<small>『必勝国民読本』、『勝利者の悲哀』を収録</small><br />
<br />
=== 書簡・日記 ===<br />
*『往復書簡 後藤新平 - 徳富蘇峰 1895-1929』 高野静子編著、[[藤原書店]]、2006年、書簡全70通を収む。<br />
**編者は『蘇峰とその時代 よせられた書簡から』(正は中央公論社・続は蘇峰記念館)を刊行。記念館にて購入可能。<br />
**『蘇峰への手紙 <small>中江兆民から松岡洋右まで</small>』 高野静子編著、藤原書店、2010年<br />
*『徳富蘇峰関係文書(全3巻)』([[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]ほか編、[[山川出版社]]、1982-87年)<br />
**徳富蘇峰記念館が所蔵する蘇峰宛の書簡約4万6,000通から抄録。発信人は約1万2,000人に及ぶ<ref name=syokan/>。<br />
*『頑蘇夢物語 徳富蘇峰終[[終戦日記|戦後日記]]』(全4巻) [[講談社]]、2006-07年 ---(昭和20年-昭和22年の日記)<br />
**『徳富蘇峰終戦後日記 頑蘇夢物語』(第1巻)、講談社学術文庫、2015年。[[御厨貴]]解説<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
[[画像:蘇峰學人書齋.jpg|thumb|200px|蘇峰學人書齋]]<br />
<br />
=== 全般 ===<br />
* [[民友社]]<br />
* [[国民之友]]<br />
* [[国民新聞社]]<br />
* [[國民新聞]]<br />
* [[日本文学報国会]]<br />
* [[大日本言論報国会]]<br />
* [[近世日本国民史]]<br />
* [[大江義塾]]<br />
* [[千葉工業大学]] - 前身の興亜工業大学設立に携わった。<br />
<br />
=== 人物 ===<br />
* [[横井小楠]]<br />
* [[宗像政]]<br />
* [[野田卯太郎]]<br />
* [[中江兆民]]<ref group="注釈">兆民の著した『[[三酔人経綸問答]]』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。</ref><br />
* [[海老名弾正]]<br />
* [[留岡幸助]]<br />
* [[宮武外骨]]<br />
* [[長谷川才次]]<br />
<br />
=== 揮毫先 ===<br />
* [[学校法人奈良大学]]<ref group="注釈">前身の[[南都正強中学]]の創立者[[藪内敬治郎]]([[陸軍士官学校]]出身)は、蘇峰の信奉者の一人であり、学園に冠された「正強」の二文字は蘇峰が贈ったものである。</ref><br />
<br />
=== 関連作品 ===<br />
* [[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機]](2008年、TBS) - 演:[[西田敏行]]<br />
* [[八重の桜]](2013年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]) - 演:[[中村蒼]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
<br />
=== 参照 ===<br />
{{Reflist|3}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
=== 基礎資料 ===<br />
* [[電通]]から徳富蘇峰あての書簡(株券同封)、徳富蘇峰記念館{{small|[http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/10098]}}。<br />
*「年譜」、和田守編 『[[明治文学全集]] 34 徳富蘇峰集』 筑摩書房、1974年。<br />
**「参考文献」一覧、和田守編、同上。<br />
* 徳富蘇峰 『蘇峰自伝』 「人物の記録22」日本図書センター、1997年 ISBN 482054263X<br />
<br />
=== 研究書 ===<br />
*『評伝 徳富蘇峰—近代日本の光と影』 ビン・シン(原著は1986年)、[[杉原志啓]]訳、岩波書店、1994年<br />
*『近代日本と徳富蘇峰』 [[和田守]]著、御茶の水書房、1990年<br />
*『徳富蘇峰と国民新聞』 [[有山輝雄]]著、吉川弘文館、1992年<br />
*『蘇峰と「近世日本国民史」』 [[杉原志啓]]著、[[都市出版]]、1995年<br />
*『近代日本人のアメリカ観—日露戦争以後を中心に』 [[澤田次郎]]著、[[慶應義塾大学出版会]]、1999年<br />
*『条約改正と国内政治』 [[小宮一夫]]著、[[吉川弘文館]]、2001年<br />
*『徳富蘇峰—日本ナショナリズムの軌跡』 [[米原謙]]著、[[中公新書]]、2003年<br />
*『陸羯南—政治認識と対外論』 朴羊信著、岩波書店、2008年<br />
*:[[陸羯南]]を徳富蘇峰と比較し、1880年代後半から日露戦争前までを追跡する。蘇峰研究としても参照すべき内容。<br />
*『徳富蘇峰とアメリカ』 [[澤田次郎]]著、拓殖大学、2011年<br />
*『稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰』 杉原志啓・[[富岡幸一郎]]編、[[藤原書店]]、2013年<br />
*『[[植手通有]]集2 徳富蘇峰論』 あっぷる出版社、2015年<br />
**『―1 明治思想における人間と国家』の「第3章 蘇峰の平民主義と羯南の国民主義」も参照すべき内容。<br />
<br />
=== 出典 ===<br />
* [[隅谷三喜男]]『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』[[中央公論社]]&lt;[[中公文庫]]&gt;、初版1974年8月(新装改版2006年)。ISBN 4-12-204703-X。<br />
* 徳富蘇峰「国民自覚論」『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』[[筑摩書房]]、1978年6月。<br />
* [[遠山茂樹]]「徳富蘇峰」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第7巻 つ-の』[[河出書房新社]]、1979年11月。<br />
* [[上田滋]]「西南戦争-西郷隆盛の『世直し』」、[[毛利敏彦]]編『朝日百科日本の歴史98 近世から近代へ-10 西南戦争と琉球処分 近代日本の境界』[[朝日新聞社]]、1988年3月。ISBN 4-02-380007-4<br />
* [[大日方純夫]]「時代閉塞の現状-煩悶する青年たち」、[[大江志乃夫]]編『朝日百科日本の歴史108 近代I-9 殖民地 内と外』朝日新聞社、1988年5月。ISBN 4-02-380007-4<br />
* [[松尾尊兌|松尾尊兊]]「アジア大陸への侵出」松尾尊兊編集『朝日百科日本の歴史111 近代II-1 第一次世界大戦前後』朝日新聞社、1988年6月。ISBN 4-02-380007-4<br />
* [[多仁照廣]]「地方に生きる-青年団の歩み」[[大濱徹也]]編集『朝日百科日本の歴史112 近代II-2 現代庶民生活の原型』朝日新聞社、1988年6月。ISBN 4-02-380007-4<br />
* [[杉井六郎]]「徳富蘇峰」国史大辞典編集委員会『国史大辞典第10巻 と-にそ』[[吉川弘文館]]、1989年9月。ISBN 4-642-00510-2<br />
* [[海野福寿]]『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』[[集英社]]、1992年11月。ISBN 4081950180<br />
* [[森武麿]]『集英社版 日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社、1993年1月。ISBN 4081950202<br />
* [[杉原志啓]]『蘇峰と『近世日本国民史』―大記者の「修史事業」』[[都市出版]]、1995年7月。ISBN 4924831212<br />
* 徳富蘇峰『弟 徳富蘆花』中央公論社、1997年10月。ISBN 412002735X<br />
* [[有馬学]]『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本』中央公論新社、1999年5月。ISBN 4-12-490104-6。中公文庫で再刊<br />
* [[佐々木隆 (歴史学者)|佐々木隆]]『日本の近代14 メディアと権力』中央公論新社、1999年9月。ISBN 4-12-490114-3。同上<br />
* [[澤田次郎]]『近代日本人のアメリカ観—日露戦争以後を中心に』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年11月。ISBN 4766407660<br />
* [[加藤陽子]]『戦争の日本近代史』[[講談社]]&lt;[[講談社現代新書]]&gt;、2002年3月。ISBN 4-06-149599-2<br />
* [[田代和久]]「徳富蘇峰」[[小学館]]編『日本大百科全書』小学館(スーパーニッポニカProfessional Win版)、2004年2月。ISBN 4099067459<br />
* [[高野静子]]「後藤新平と徳富蘇峰」『機 2005年12月号』[[藤原書店]]、2005年。<br />
* 佐々木隆「徳富蘇峰と権力政治家」[[山本武利]]編『岩波講座「帝国」日本の学知第4巻 メディアのなかの「帝国」』[[岩波書店]]、2006年3月。ISBN 4000112546<br />
* 山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」講談社『現代』40巻9号(2006年9月号)、2006年。<br />
* [[久恒啓一]]「日本偉人伝 徳富蘇峰の歩いた道」『致知』、2011年5月号 [[致知出版社]]。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Tokutomi Sohō}}<br />
{{ウィキポータルリンク|文学|[[ファイル:Pluma.png|40px]]}}<br />
=== 記念館 ===<br />
* [http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=74 徳富記念園(徳富蘇峰旧居・大江義塾跡)](熊本県熊本市)<br />
* [http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/sanno/ 山王草堂記念館](東京都大田区)<br />
* [http://www.soho-tokutomi.or.jp/ 徳富蘇峰記念館](神奈川県二宮町)<br />
* [http://www.mishimayukio.jp/soho.html 山中湖文学の森公園 徳富蘇峰館](山梨県南都留郡山中湖村)<br />
* [http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/284929/www.pref.kumamoto.jp/shinkoukyoku/kamimashiki_hp/kankouchi/parts/084_tokutomi.htm 蘇峰生誕の家記念館 旧矢嶋家](熊本県上益城郡益城町)<br />
* [http://www.toshihiro.co.jp/tokutomi/sohoukinenkan 水俣市立蘇峰記念館](熊本県水俣市)<br />
<br />
=== 書評 ===<br />
* [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0885.html 徳富蘇峰『維新への胎動』1993 講談社学術文庫](「[[松岡正剛]]の千夜千冊」第885夜2003年11月07日)<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tokutomi_so.html 徳富蘇峰の墓]([http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/index.html 歴史が眠る多磨霊園])<br />
: 墓所に面した道路に向かって「蘇峰 徳富猪一郎先生墓所」の木塔がたつ。<br />
* [http://www.hi-ho.ne.jp/tastevin/soho/sohomain.html 徳富蘇峰のページ]<br />
: 徳富蘇峰の著作と参考文献一覧表。<br />
* [http://www.ne.jp/asahi/sanno/suzuki/sanno.htm 山王のこと]<br />
: 蘇峰の住んだ東京大森の山王の歴史紹介。<br />
* {{青空文庫著作者|1369|徳富 蘇峰}}<br />
<br />
{{熊本バンド}}<br />
{{キリスト教 横}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{リダイレクトの所属カテゴリ<br />
|redirect1 = 徳富猪一郎<br />
|1-1 = 東邦協会の人物<br />
|1-2 =<br />
|1-3 =<br />
}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:とくとみ そほう}}<br />
[[Category:徳富蘇峰|*]]<br />
[[Category:日本のジャーナリスト]]<br />
[[Category:日本の歴史学者]]<br />
[[Category:千葉工業大学の人物]]<!--詳しくは興亞工業大學設立趣意書を参照のこと--><br />
[[Category:日本の思想家]]<br />
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[[Category:日清戦争のジャーナリスト]]<br />
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[[Category:勲二等瑞宝章受章者]]<br />
[[Category:帝国学士院会員]]<br />
[[Category:日本藝術院会員]]<br />
[[Category:日本キリスト教婦人矯風会]]<br />
[[Category:新島襄から受洗した人物]]<br />
[[Category:熊本バンド]]<br />
[[Category:同志社英学校出身の人物]]<br />
[[Category:肥後国の人物]]<br />
[[Category:熊本県出身の人物]]<br />
[[Category:1863年生]]<br />
[[Category:1957年没]]</div>
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