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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-06-05T02:08:57Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ソロモン
2018-09-24T05:42:16Z
<p>119.230.24.142: /* 生涯 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|[[古代イスラエル]]の国王|その他|ソロモン (曖昧さ回避)}}<br />
{{基礎情報 君主<br />
| 人名 = ソロモン<br />
| 各国語表記 = Solomon({{lang|he|שְׁלֹמֹה}})<br />
| 君主号 = イスラエル王<br />
| 画像 = Saabaghiberti.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像説明 = [[シバの女王]]と会談するソロモン(サン・ジョヴァンニ洗礼堂、[[フィレンツェ]])<br />
| 在位 = [[紀元前971年]] - [[紀元前931年]]<br />
| 戴冠日 = <br />
| 別号 = <br />
| 全名 = <br />
| 出生日 = [[紀元前1011年]]<br />
| 生地 = [[エルサレム|イェルサレム]]<br />
| 死亡日 = [[紀元前931年]]<br />
| 没地 = イェルサレム<br />
| 埋葬日 = <br />
| 埋葬地 = <br />
| 継承者 = <br />
| 継承形式 = <br />
| 配偶者1 = [[ナアマ (ソロモンの妻)|ナアマ]]<br />
| 配偶者2 = [[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]の娘<br />
| 子女 = [[レハブアム]]<br />
| 王家 = <br />
| 王朝 = ダビデ朝<br />
| 王室歌 = <br />
| 父親 = [[ダビデ]]<br />
| 母親 = [[バト・シェバ]] <br />
}}<br />
'''ソロモン'''({{翻字併記|he|שלמה|Šəlōmōh Shlomo|n|区=、}}、 {{Lang-el|Σολομών}}、 {{Lang-la|Salomon}}、 {{翻字併記|ar|سليمان|Sulaymān|n|区=、}}、 {{Lang-tr|Süleyman}}、 [[紀元前1011年]]頃 - [[紀元前931年]]頃)は、[[旧約聖書]]の『[[列王記]]』に登場する[[古代イスラエル]]([[イスラエル王国]])の第3代の王<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/ソロモン-90543 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-13 }}</ref>(在位[[紀元前971年]] - [[紀元前931年]]頃)。父は[[ダビデ]]。母は[[バト・シェバ]]。[[古代エジプト|エジプト]]に臣下の礼をとり、[[ファラオ]]の娘を[[降嫁]]されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いた。<br />
<br />
[[正教会]]で[[聖人]]とされる。<br />
<br />
==生涯==<br />
{{See also|イスラエル王国#ソロモンの時代}}<br />
[[ファイル:084.The Judgment of Solomon.jpg|200px|right|thumb|知者ソロモンの裁き([[ギュスターヴ・ドレ]])]]<br />
イスラエルの王[[ダビデ]]は家臣ウリヤの妻[[バト・シェバ]]と不義の関係を結び、夫ウリヤを死に追いやった。この2人の最初の子が[[神の怒り]]に触れて死んだ後、2人目の子として生まれたのがソロモンであり、彼は父の死後、兄の{{仮リンク|アドニヤ|en|Adonijah}}など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となった。<br />
<br />
ソロモンは[[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]<ref>{{仮リンク|シアメン|en|Siamun}}であるという説が有力であるが確定していない。資料はカルナック神殿の碑文である。</ref> の娘をめとり、[[ギブオン]]で盛大なささげものをした<ref>[[s:列王紀上(口語訳)#3:1|列王紀上(口語訳)#3:1-4]]</ref>。そこで[[ヤハウェ|神]]がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵を求めた<ref>[[s:列王紀上(口語訳)#3:5|列王紀上(口語訳)#3:5-9]]</ref>。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した<ref>[[s:列王紀上(口語訳)#3:10|列王紀上(口語訳)#3:10-14]]</ref>。ここからソロモンは知恵者のシンボルとなり、ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話<ref>[[s:列王紀上(口語訳)#3:16|列王紀上(口語訳)#3:16-28]]</ref>は広く世界に伝わり、後に江戸時代の[[大岡忠相#大岡政談|大岡裁き]]の話にも取り込まれた<ref>[http://pub.ne.jp/lost_arrow/?entry_id=340349 大岡裁判の大本に聖書あり] お江戸今昔堂</ref>。<br />
<br />
このことから、長きにわたって[[ユダヤ教]]の伝承ではソロモンは[[知恵文学]]の著者とされていたが、歴史的な裏付は無く、考古学的には疑問視する意見も少なくない。また、一説には神から知恵(指輪)を授かった、もしくはユダヤ教の秘儀カバラが記された『[[天使ラジエルの書|ラジエルの書]]』を託されたとも言われ、多くの天使や悪魔を使役したとされる。またソロモンの指輪という指輪をはめて動物や植物との会話もしたという。更には60マイル(約90km)もある絨毯で空を飛んだともいう。<br />
<br />
ソロモンはダビデとは正反対に内政を重んじて、外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。また、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化している。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と[[条約]]を交わし、政略結婚<ref>エジプト第21王朝の後ろから2番目のファラオであった{{仮リンク|シアメン|en|Siamun}}の娘と結婚(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 26ページ)</ref> を重ねて自国を強国に育てあげた。[[イスラエル王国]]の領土は[[ユーフラテス川]]からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができた<ref name=shimazaki44>島崎(2010)pp.44-45</ref>。ソロモンは初めて[[エルサレム神殿]]を築いた。<br />
<br />
ソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られ、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったという。なかでも最も親交の深かったのは、[[ツロ]]の王ヒラムであった。こうしたなかに[[エチオピア]]の女王もおり、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたという。『ユダヤ古代誌』には、エチオピアの女王のことばとして、以下のことばを掲載している<ref name=shimazaki44/>。<br />
<br />
<div style="background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;"><br />
わたしは、ヘブル人の民は幸福だと思います。あなたの僕や友人方も同様です。毎日あなたに拝謁し、あなたの知恵に絶えず耳を傾けることができます。<br />
</div><br />
<br />
ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、彼の野心的な事業は重税と賦役を民衆に課した。またソロモンが自分の出身部族である[[ユダ族]]を優遇した<ref>税金や雑役の免除などに対して他の部族では不満が強まった</ref> ことも当時の部族長を中心とする寡頭政治の限界を暴き出し、君主政治支持者と部族分離主義者との対立を拡大させた。<br />
<br />
晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことは、[[ユダヤ教]]徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発した<ref>異国の妻が原因で異国の神々に従うようになり、主の怒りをかったとされる。[[s:列王紀上(口語訳)#11:1|列王紀上(口語訳)#11:1-13]]</ref>。<br />
<br />
ソロモンの死後、息子の[[レハブアム]]が継いだが、非妥協的であったため、[[紀元前922年]]に[[ヤロブアム1世|ヤロブアム]]を擁した[[イスラエルの失われた10支族|10支族]]によってイスラエルは南北に分裂、対立していくことになる。皮肉にもソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがソロモンの死とともに一気に噴出して、国家分裂を誘発してしまったのである。レハブアムは、[[ユダ王国]]の初代の王として、残されたユダ族、[[ベニヤミン族]]、[[レビ|レビ族]]を統治することとなった。ユダ王国は南に、イスラエル王国は北に生まれた。<br />
<br />
==金の盾==<br />
[[シバの女王]]との出会いの後に、ソロモンは金でできた大盾200個と金でできた小盾300個を作ったが、のちに[[エジプト第22王朝]]の[[ファラオ]]、[[シェションク1世]]に略奪された<ref>[http://ja.wikisource.org/wiki/歴代志下(口語訳)#12:9 歴代志下12:9 ウィキソース]</ref>。<br />
<br />
== キリスト教徒・イスラム教徒からみたソロモン ==<br />
=== エチオピア正教におけるソロモン ===<br />
[[エチオピア正教]]では、エチオピアの女王[[シバの女王]]もソロモンの知恵と王都[[エルサレム]]の繁栄を見て驚いたと伝えている。[[エチオピア帝国]]が13世紀に編纂した歴史書によれば、ソロモンとシバの女王の息子([[メネリク1世]])が{{仮リンク|ソロモン朝|en|Solomonic dynasty}}エチオピアを建国したとされる。<br />
<br />
=== ユスティニアヌス帝のことば ===<br />
[[537年]]12月、[[東ローマ帝国]]の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]は苦難の末に改修した[[コンスタンティノープル]]の[[アヤソフィア|聖ソフィア教会]]の竣工式において、[[祭壇]]に立って手をさしのべ、「我にかかる事業をなさせ給う神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり」と叫んだといわれる<ref>島崎(2010)pp.126-127</ref>。<br />
<br />
=== 諸教父の評価 ===<br />
こうして聖書に描かれるソロモンは、死後、救われたのだろうか。カトリックや正教など多くのキリスト教会は、特定の人について確実に地獄に墜ちた、と断言することは決してない。しかし、このように放縦な生活をおくり、為政者としての姿勢も信仰もそぞろだったソロモンについて、手厳しい評価をする教父は多く、カトリック教会の[[浦川和三郎]]司教は、「聖書は、ソロモンの堕落を述べて、その痛悔を語っていません。彼が、はたして父ダヴィドのように改心して神さまのおん赦しをいただいたか、随分疑わしいものだ、という人が多い」としている<ref>浦川和三郎『旧約のはなし』第27課、天主堂、1927年</ref>。<br />
<br />
=== イスラム社会におけるソロモン王 ===<br />
ソロモンは[[イスラム教]]においても[[預言者]]の一人とされ、現代でも[[アラビア語]]ではスライマーン({{翻字併記|ar|سليمان|Sulaymān|N|区=、}})と呼ばれ、また、現代[[ペルシア語]]ではソレイマーン ({{Lang|fa|Soleymān}})、[[トルコ語]]でもスレイマン({{Lang|tr|Süleyman}})とされ、ごく一般的な男子の名として普通に用いられる。[[ムスリム]]にあっては、預言者スライマーンは、知恵に満ちていたと同時に、[[アラブ]]の[[民間伝承]]である[[精霊]]([[ジン (アラブ)|ジン]])を自由自在に操ったとされている。<br />
<br />
== ソロモン伝承と偽ソロモン文書 ==<br />
[[旧約聖書]]には書かれていないが、第三代[[イスラエル王国|イスラエル王]]であった'''ソロモン'''がその英知をもって[[悪霊]]を支配していたという話は[[ヘレニズム]]期のユダヤ人の間に流布していた<ref>ソロモンが悪霊の軍団を遣わした、悪霊の手を借りて[[エルサレム]]を建設した、などといったソロモンと悪霊に関する話が、さまざまな古代の[[グノーシス文書]]や[[偽典]]に散見される {{Harv|南條|2010|p=59|Ref=none}}。1世紀から3世紀に成立したと言われる[[ギリシア語]]の旧約偽典『{{仮リンク|ソロモンの聖約|en|Testament of Solomon}}』(『ソロモンの遺訓』とも)には、[[エルサレム神殿]]を建設していた頃のソロモンが、大天使[[ミカエル]]より悪霊を支配する指輪([[ソロモンの指輪]])を授かり、悪霊たちを神殿建設に駆り出したことが記されている。同書にも[[ベルゼブル]]、[[アスモデウス]]などさまざまな悪霊が登場し、36名の悪霊とその撃退法を列挙した箇所もある {{Harv|南條|2010|p=60, pp. 190-217|Ref=none}}。</ref>。このような偉大な知恵者とされたソロモンにまつわる伝説から、その後千年に亘って、ソロモンに由来すると偽った文献群([[ノーマン・コーン]]は偽ソロモン文書 pseudo-Solomonic books と呼んだ<ref>{{Harvnb|Cohn|1993|p=104|Ref=none}}</ref>)が[[ヘブライ語]]や[[ギリシア語]]、[[アラビア語]]で書かれることになったが、[[中世盛期]]以降、魔術師が悪霊を呼び出す術([[降霊術|ニグロマンシー]])について記した、それまでとは趣を異にする偽ソロモン文書がヨーロッパで流布するようになった<ref>{{Harvnb|コーン|山本|1983|p=224|Ref=none}}</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
* [[島崎晋]]『名言でたどる世界の歴史』[[PHP研究所|PHPエディター・グループ]]、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3<br />
* {{Cite book |和書 |author=[[ノーマン・コーン]] |others=山本通訳 |year=1983 |title=魔女狩りの社会史 |publisher=[[岩波書店]]}}<br />
* {{Cite book |和書 |author=[[南條竹則]] |year=2010 |title=悪魔学入門 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-216126-8}}<br />
* {{Cite book |author=Norman Cohn |year=1993 |origyear=1973 |title=Europe's Inner Demons |edition=Rev. |location=Chicago |publisher=The University of Chicago Press |isbn=0-226-11307-8}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Solomon}}<br />
* [[古代イスラエル]]<br />
* [[ソロモンの知恵]]<br />
* [[イスラエル王国]]<br />
* [[ソロモンの大いなる鍵]]<br />
* [[ソロモンの指輪]]<br />
* [[シクラメン]]<br />
* [[ソロモン72柱]]<br />
* [[メネリク1世]] - [[エチオピア]]初代王。エチオピア帝国が編纂した歴史書に従えば、ソロモンとシバの女王の息子で、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治した。<br />
* [[ソロモン諸島]] - [[ガダルカナル島]]で[[砂金]]を発見した[[スペイン人]][[探検家]]の[[アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ]]が、これをソロモン王の財宝だと考え名付けた。<br />
* [[シバの女王]]<br />
*『[[ソロモンとシバの女王]]』 - [[1959年]]のアメリカ映画。 - 監督:[[キング・ヴィダー]]、ソロモン役:[[ユル・ブリンナー]]<br />
* [[ソロモンの鍵 (ゲーム)]] - [[1986年]]に[[テクモ]]株式会社から[[アーケードゲーム]]・[[ファミリーコンピュータ]]向け[[ゲーム]]として開発・販売された[[アクションパズル]]ゲーム、あるいはその関連作品。<br />
* [[ソロモン (ガンダムシリーズ)]] - [[アニメ]]『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』シリーズに登場する[[宇宙要塞]]の名前。 <br />
*[[シャムシール・エ・ゾモロドネガル]]<br />
*バーティミアス<br />
<br />
<center><br />
<table border=1 cellspacing="0" cellpadding="3"><br />
<tr style="background-color:#CCCCCC"><br />
<th colspan="3">[[古代イスラエル|古代イスラエル王国]]</th><br />
</tr><br />
<tr><br />
<td width = 30% align = center rowspan=2><br />
先代<br>[[ダビデ]]<br />
<td width = 40% align = center rowspan=2><br />
古代イスラエル国王<br>[[紀元前1035年]]頃 - [[紀元前925年]]頃<br />
<td width = 30% align = center><br />
次代 [[イスラエル王国]]<BR>[[ヤロブアム1世]]</td></tr><br />
<td>次代 [[ユダ王国]]<BR>[[レハブアム]]</td></tr><br />
</table><br />
</center><br />
<br />
{{ソロモン}}<br />
{{古代イスラエル・ユダの王}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:そろもん}}<br />
[[Category:古代イスラエル・ユダの君主]]<br />
<!-- [[Category:紀元前11世紀生]] --><br />
[[Category:紀元前920年代没]]<br />
[[Category:列王記]]<br />
[[Category:ソロモン|*]]<br />
<br />
<br />
{{Judaism-stub}}</div>
119.230.24.142
カラリパヤット
2018-09-02T23:53:15Z
<p>119.230.24.142: /* 概要 */</p>
<hr />
<div>{{脚注の不足|date=2015年11月12日 (木) 14:22 (UTC)}}<br />
{{告知|注意|山梨県立図書館等山梨県内のIP利用者による出典不明・独自研究的な内容の投稿の禁止|利用者‐会話:202.174.58.102|date=2015年12月11日 (金) 22:44 (UTC)}}<br />
{{Infobox_武道・武術<br />
|読み=<br />
|画像名=Kalarippayattu.jpg<br />
|画像サイズ=260px<br />
|画像説明= 武器を使用した競技<br />
|別名=<br />
|競技形式=<br />
|使用武器=[[剣]]、[[盾]]、[[棒]]、[[槍]]等<br />
|発生国={{IND}}<br />
|発生年=現在の形式は[[12世紀]]<br />
|創始者=不明<br />
|源流=[[ドラヴィダ]]武術、アーリア武術<br />
|流派=北派、南派、中間<br />
|派生種目=<br />
|主要技術=投げ技、固め技、当て身技<br />
|オリンピック=なし<br />
|公式ウェブサイト=<br />
}}<br />
'''カラリパヤット'''(കളരിപയറ്റ്)は[[インド]]南部の[[ケララ]]地方発祥の古くから伝わる[[武術]]である。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[サンスクリット語]]のカルーリカが訛ったカラリ、[[ドラヴィダ語]]のパヤットはともに『武術』を意味する言葉である。また、カラリには「道場」「寺院の前庭」といった場所を示す意味もある{{sfn|河野 |1990|pp=125-140}}。カラリパヤットはケララの[[カースト|ドミナント・カースト]]であるナイルの武術とされるが、実際には[[バラモン]]や他宗教の人々にも伝承されている。<br />
<br />
[[ライオン]]や[[ヘビ]]などの姿勢があり、約19種の[[蹴り技]]など素手での打撃技や逆関節を取ったり、投げたりする技法がある。また剣、盾、棒、鎖分銅など18種のアンガム・ウァイタニイと呼ばれる武器を使用する武器術もある。特徴的な武器として鞭のようにしなる長剣『[[ウルミ]]』がある。<br />
<br />
カラリパヤットの指導者(グルカル)は、マルマン医療([[アーユルヴェーダ]]のタントラ)、 [[ウリチル]]というオイル・マッサージを中心とした[[伝統医療]]の継承者でもある{{sfn|河野 |1990|pp=125-140}}。<br />
<br />
カラリパヤットと{{仮リンク|カターカリ|en|kathakali}}、{{仮リンク|ヤクシャガーナ|en|Yakshagana}}、{{仮リンク|パダヤニ|en|Padayani}}などケララの[[ダンス|舞踊]][[演劇|劇]]は基本となる構えや文化背景などに影響が見られる{{sfn|河野 |1990|pp=125-140}}。カターカリの最初の役者はカラリパヤットの修得者であり、その練習場は今日でもカラリと呼ばれている。<br />
<br />
日本では、[[アリナミン]]のテレビコマーシャルで蹴り技が披露され、広く知られるようになった。<br />
<br />
動くヨーガとも言われる。<br />
<br />
== 歴史・伝説 ==<br />
{{告知|質問|達磨の伝説について||date=2015年12月11日 (金) 22:58 (UTC)}}<br />
[[画像:Lion Posture or Simha Vadivu.jpg|サムネイル|280px|ライオンのポーズ]]<br />
インドには元々[[ドラヴィダ人]]が住んでいた。そこに[[アーリア人]]が来て住み着き、文化を築いた。南に残ったケララ一帯ではドラヴィダ人によるサンガム文化が発達した。サンガム文化では尚武の気風を尊んだ為、ドラヴィダ武術が発達していった。<br />
その後、西から異民族が攻めてきたので、一部のアーリア人が南下した。そこでアーリア人が身に着けていた武術と、ドラヴィダ武術が合わさってカラリパヤットの祖形が出来たといわれている。<br /><br />
伝説によれば、禅宗(「座禅」もヨガである)の僧・[[達磨]]大師がインドの格闘技を[[中国]]に伝道した。その際に禅の修行に僧達が耐えられるように、心身を鍛える術を記した『洗髄経』『易筋経』を与えた。それが現在の[[少林拳]](十八羅漢拳、達磨拳などがある)、になったと言われている<ref>{{Cite web |url=http://www.altaghat.com/kalari/ |title=http://www.altaghat.com/kalari/ |accessdate=2008-07-29 |deadlinkdate=2015-11-12}}</ref>。<br />
<br />
16世紀には最盛期を迎えたが、西洋から銃が入ってくると行う人が少なくなったことに加え、[[セポイの乱]]以降[[イギリス]]が「カラリパヤットを修める者は処刑する」という法を作って厳しく禁止したこともあり、貴重な流派が失伝するなど一時は衰退した。20世紀になって独立の気運が高まってくるとC.V.ナラヤナン・ナイールによるカラリパヤット復興運動がおきた。彼はCVNスタイルと呼ばれる近代カラリパヤットを整備し、多くの弟子を育成した。CVNスタイルについては従来の技術を簡単にしてしまったなどの批判もあるが、C.V.ナラヤナン・ナイールはカラリパヤットの日本で言う[[嘉納治五郎]]のような存在である中興の祖という扱いになっている。<br />
<br />
== 流派 ==<br />
{{雑多な内容の箇条書き|date=2015年11月12日 (木) 14:22 (UTC)}}<br />
中国武術のように地域によって傾向があり、それぞれ伝説や稽古の方法、体系が異なる。<br />
<br />
=== ワダッカン(北派) ===<br />
*伝説では、聖仙パラシュラーマが[[シヴァ|シヴァ神]]から学んだ武術が元になったとされる。<br />
*クリ・カラリ(錬兵場)という[[道場]]がある。この道場は土を掘って作った半地下にある。屋根が付いており、中には神殿がある。<br />
*稽古体系が厳しく定められている。基礎体錬から18の型に進み、その後武器術から素手の格闘術に進む。その後、奥伝としてツボ療法と[[瞑想]]が伝授される。このツボ療法をマスターしたものが師範になる事が出来る。<br />
*カヌールから[[コーリコード]]を中心に、主に[[ヒンドゥー教]]の信徒によって行われている。<br />
*CVNスタイルを主に継承している。<br />
<br />
=== テッカン(南派) ===<br />
*伝説では聖仙[[アガスティア]]が始祖とされる。<br />
*特に道場はなく、稽古は屋外で行う事も多い。<br />
*体系にはあまりこだわらない。素手の格闘術が中心で、最初から格闘術に入るのが特徴である。<br />
*ケララ州の州都[[ティルヴァナンタプラム]]を中心に行われている。イスラム教徒やキリスト教徒もいる。<br />
*どちらかと言うと土着のドラヴィダ武術の形を残していると言う。<br />
<br />
=== その他(中間) ===<br />
*北と南の中間的なシステムになっている。<br />
*CVNスタイル以前の古いスタイルが残っている。<br />
*トリシュールを中心に行われる。<br />
<gallery widths="200px"><br />
File:Snake Posture or Sarpa Vadivu.jpg|ヘビのポーズ<br />
File:Elephant Posture or Gaja Vadivu.jpg|ゾウのポーズ<br />
File:Peacock Posture or Mayura Vadivu.jpg|クジャクのポーズ<br />
File:Cat Posture or Marjara Vadivu.jpg|ネコのポーズ<br />
</gallery><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい--><br />
{{参照方法|date=2015年11月12日 (木) 14:22 (UTC)}}<br />
* {{Cite book |和書 |author=初見良昭 |title=世界のマーシャルアーツ |publisher=土屋書店 |series=武道選書 |date=2005-08 |isbn=978-4-8069-0789-3 }}<br />
* {{Cite book |和書 |author=知的発見!探検隊 |title=世界のすごい武術・格闘技 |publisher=[[イースト・プレス]] |date=2011-05 |isbn=978-4-7816-0592-0 }}<br />
* {{Cite book |和書 |editor=フル・コム編 |title=戦慄!未公開戦闘法 - 日本人の知らなかった技でもっと強くなる |publisher=[[東邦出版]] |series=BUDO-RA BOOKS 達人シリーズ -武の極意を目指し歩み続ける者たちへ- 第10巻 |date=2011-08 |isbn=978-4-8094-0970-7 }}<br />
* {{Cite journal |和書 |author = [[河野亮仙]] |title = 舞踊と武術 |journal = 身ぶりと音楽 |date = 1990 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |isbn = 4487752590 |ref = harv }}<br />
<br />
== 関連資料 ==<br />
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参照していないがさらなる理解に役立つ文献等を記載して下さい--><br />
* {{Cite book |和書 |author=伊藤武 |title=ヴェールを脱いだインド武術 - 甦る根本経典「ダヌルヴェーダ」 |publisher=出帆新社 |date=2004-06 |isbn=978-4-86103-017-8 }}<!--2008年7月29日 (火) 23:11 (UTC)--><br />
* 高橋京子 「{{PDFlink|[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/422pdf/02-06.pdf カラリパヤット Kalarippayattu の諸相 - 南インド、ケーララ州におけるマーシャルアーツの実証的研究]}}」、『立命館産業社会論集』 [[立命館大学]]産業社会学会、2006年9月、第42巻第2号、85-107頁。{{NAID|40015292480}}。2007年11月19日閲覧。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons category|Kalarippayattu}}<br />
* [http://www.kalarippayatacademy.com/ Kerala Kalarippayat Academy] {{en icon}}<!--2006年6月17日 (土) 05:51 (UTC)--><br />
* [http://www.kalaripayattu.org/ カヤリパヤット協会] {{en icon}}<!--2006年1月29日 (日) 01:29 (UTC)--><br />
* [http://heartland.geocities.jp/india_martial_arts/ 印度武術王国] {{ja icon}}<!--2009年1月15日 (木) 15:20 (UTC)--><br />
* [http://www.justmystage.com/home/bodycontrol/ インド式身体操作 カラリパヤットとマラカーンブ]<!--2008年6月20日 (金) 04:35 (UTC)--> <!--リンク切れか?-->{{リンク切れ|date=2015-11-12}}<br />
*[[ガッカ]]-シク教徒のカラリパヤット<br />
<br />
{{武道・武術}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:からりはやつと}}<br />
[[Category:武術]]<br />
[[category:格闘技]]<br />
[[Category:インド]]<br />
[[Category:インドの文化]]<br />
<br />
[[pt:Vajra mushti]]</div>
119.230.24.142
オオクチバス
2018-08-19T09:26:25Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{生物分類表<br />
|名称=オオクチバス<br />
|画像=[[File:Micropterus salmoides Tokyo Sea Life Park.jpg|250px]]<br />
|画像キャプション=<br />
|省略 = 条鰭綱<br />
|目=[[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}}<br />
|科=[[サンフィッシュ科]] {{Sname||Centrarchidae}}<br />
|属=[[オオクチバス属]] {{Snamei||Micropterus}}<br />
|種='''オオクチバス''' {{Snamei|M. salmoides}}<br />
|学名={{Snamei|Micropterus salmoides}}<br/>{{AUY|Lacépède|1802}}<br />
|英名=[[:en:Largemouth bass|Largemouth bass]]<br />
|和名='''オオクチバス'''(大口バス)<br/>ラージマウスバス<br/>ブラックバス<br />
}}<br />
'''オオクチバス'''(大口バス、ノーザン・ラージマウスバス、[[学名]] {{Snamei|Micropterus salmoides}}) は[[オオクチバス属]]に分類される[[淡水魚]]の一種<ref name="fb">{{FishBase species|genus=Micropterus|species=salmoides}}</ref>。原産地[[アメリカ合衆国]]では、[[アラバマ州]]・[[ジョージア州]]・[[ミシシッピ州]]・[[フロリダ州]]の州魚に指定されている{{要出典|date=2014年11月}}。<br />
<br />
[[1925年]]に[[神奈川県]][[芦ノ湖]]に初めて放流された。以降徐々に分布が拡大し、[[コクチバス]]同様問題となっている。全国に広がることを心配して、オオクチバスほかの魚をリリース(再放流)することを、禁止する自治体が増えている。<br />
<br />
==名称==<br />
;学名<br />
種小名salmoidesは「[[鮭]](サーモン)のようなもの」の意<ref name="r1g">赤星鉄馬『ブラックバッス』(イーハトーヴ出版・1996)による。</ref>。なお、属名Micropterusは「小さな尾」の意であるが、これは初めて捕獲された本属魚類の個体の尾鰭が負傷欠損によって小さかったために、誤ってその特徴が名付けられてしまったものである<ref name="r1g"/>。<br />
<br />
;日本<br />
英名を直訳した「オオクチバス」が標準和名である。由来はコクチバスに比べ口が大きいことから。[[コクチバス]] {{Snamei|M. dolomieu}}、[[フロリダバス]](フロリダ・ラージマウスバス){{Snamei|M. floridanus}} などと共に、通称「[[ブラックバス]]」と呼ばれることが多い。コクチバスよりも釣魚としての認知の浸透、普及が半世紀以上先行して定着している<ref name="r1g"/>ため、本種の別名として「ブラックバス」が使用される場合も多く、図鑑等における紹介でもしばしば「ブラックバス(オオクチバス)」と記述される<ref> [[神戸市]]ホームページ『須磨海浜水族園「ブラックバスを釣ってきて、入園料がタダ!!」』-写真キャプション「オオクチバス(ブラックバス)」[http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2010/09/20100928142001.html] </ref>。これはちょうど[[カムルチー]]が「[[ライギョ]]」と記される場合が少なくないのと同じである。略して単に「バス」と呼ばれることもある{{要出典|date=2014年11月}}。<br />
<br />
一方移入当初、商業漁獲対象魚としての観点からオオクチクロマス<ref name="r1g"/>とも呼ばれたが、サケ科のマス類と混同されるためにこの呼称は現在では使用されていない。<br />
<br />
;アメリカ/カナダ<br />
標準英名で呼ばれる。由来は和名に同じ。その他、釣魚としては背面の色彩に着目してコクチバスと区別したGreen backという呼び名がある<ref>http://www.fcps.edu/islandcreekes/ecology/largemouth_bass.htm</ref>。また、食用魚としてGreen bassという名で流通<ref>Green bass[http://www.takuyamorihisa.com/gallery/animalia/chordata/actinopterygii/perciformes/centrarchidae/micropterus/salmoides/m_salmoides_500_14.jpg]</ref>もしている。<br />
<br />
;中国<br />
大口黒鱸と呼ばれる。<br />
<br />
== 形態 ==<br />
[[File:Largemouth.JPG|thumb|right|200px|頭部]]<br />
成魚は全長30-50cmに達するが、最大で[[ジョージア州]]の[[ジョージ・ペリー]]が釣り上げた全長97.0cm・体重10.09kg・年齢23歳の記録がある。日本でも2009年7月2日に[[琵琶湖]]で[[栗田学]]によって全長73.5cm、体重10.12kgの世界記録タイ(IGFAオールタックル世界記録では体重で大きさが決まるため)が[[ブルーギル]]を餌にして捕獲されている{{要出典|date=2014年11月}}。<br />
<br />
体型は側偏した紡錘形。成長し亜成魚以降になると頭部後方から背鰭前方で背面が山なりに盛り上がる。上顎よりも下顎が前方に突き出る。<br />
<br />
外部形態上のコクチバスとの代表的識別点として、口角が眼の後端を越える<ref name="env">環境省HP - http://www.env.go.jp/nature/intro/1outline/list/L-sa-07.html</ref>。しかし、幼魚は口角が眼の後端に達しない個体も少なくない。また、口吻はコクチバスのほうがオオクチバスよりも相対的にやや長く鋭角的に突出し、オオクチバスはより寸の詰まったずんぐりした顔をしている。このため、側面からの見た目上の口のサイズは両種間にそれほど大きな差があるわけではない。しかしオオクチバスはコクチバスよりも側偏が弱いために体幅が大きく、そのぶん頭部の幅と口の開口面積も大きくなっている。<br />
<br />
背鰭は前後で第1、第2背鰭に分かれ、第1背鰭のほうが小さい。尾鰭後縁は黒く縁取られる。<br />
<br />
背面側の体色は緑がかった褐色、腹面側は白っぽい。体側中央をやや太くいびつな帯が一条走る。尾びれの後縁には黒い縁取りがある。ただこれらは個体の体調や置かれた環境により不明瞭な場合も少なくない。<br />
<br />
==生態==<br />
本来は[[ミシシッピ川|ミシシッピ水系]]を中心とした北アメリカ南東部の[[固有種]]である。しかし、[[釣り]](スポーツフィッシング)や食用の対象魚として世界各地に[[移植 (生物)|移入]]されたため、分布域の人為的拡大が著しい<ref name="fb"/>。<br />
<br />
湖、沼などの止水環境や流れの緩い河川に生息するが、[[汽水域]]でもしばしば漁獲される。天敵から身を隠したり獲物を待ち伏せするため、障害物の多い場所を好む。一方、回遊して餌を探す場合もあり、特に幼魚〜亜成魚はしばしば群を作り隊列を組んで回遊行動をおこなうことがある。<br />
<br />
食性は[[肉食性]]で、[[水生昆虫]]・[[魚類]]・[[甲殻類]]・昆虫などを捕食する。自分の体長の半分程度の大きさの魚まで捕食し、[[カエル]]や[[ネズミ]]、小型の[[鳥類]]まで丸飲みにする。<br />
<br />
春から秋には岸近くで活発に活動するが、冬は深みに移り物陰に群れを成して越冬する。<br />
<br />
繁殖は水温15℃の条件が必要である<ref name="fb"/>。この水温は、北アメリカの生息地では北部で5-6月、南部で12-5月である。日本では6月を盛期に5-7月である。また、多くの[[動物]]に見られるように、産卵は満月か新月の日に行われるのが一般的である。オスは砂地に直径50cmほどの浅いすり鉢状の巣を作り、メスを呼びこんで産卵させる。複数のメスを呼びこんで産卵するため、巣の卵数は1万粒に達することもある。日本では[[ムギツク]]に巣を襲われ、[[托卵]]されることもある。<br />
卵は10日ほどで孵化する。産卵後もオスは巣に残り、卵を狙う敵を追い払うなどして保護する。孵化した仔魚は全長2-3cmになるまでオスの保護下で群れを成して生活する。稚魚がある程度の大きさになると、オスは稚魚を食べることで巣からの自立を促す、この過程で卵から孵った幼魚の半分以上が淘汰されるという。日本ではブラックバスの稚魚は、[[ハス (魚)|ハス]]、 [[ウグイ]]、[[ニゴイ]]など魚食性の強いコイ科の魚や[[ライギョ]]、[[ナマズ]]、[[ドンコ]]などに捕食される。<br />
<br />
成熟齢は2年から5年といわれ、一般には23cm前後で成熟する。寿命は一部に10年を超える個体もみられるが、多くは8年程度とされている<ref>杉山秀樹(秋田県水産振興センター内水面利用部部長)「オオクチバスの生態、影響、駆除」- http://www.jeas.org/modules/backnumber/board2/member/seminar/tech_seminar/h16_3rd/01.pdf</ref>。<br />
<br />
=== 日本産ブラックバスの遺伝的知見 ===<br />
日本国内の19府県47地点から得られた(オオクチバス、コクチバス、フロリダバス)247個体のDNA[[ハプロタイプ]]を分析した。結果は、オオクチバスでは10のハプロタイプが知られているが、7タイプを確認した。山中湖には7タイプが生息しているが、ブラックバスに対し[[漁業権]]を設定しているため、資源量を維持する目的で全国各地から移植されている事が、ハプロタイプからも裏付けられた。琵琶湖ではフロリダバスとオオクチバスのハプロタイプが確認された<ref name="高村2005">{{Cite journal|和書|author=高村健二|year=2005| title=日本産ブラックバスにおけるミトコンドリアDNAハプロタイプの分布 |journal=魚類学雑誌 |volume=52|issue=2|url=http://www.wdc-jp.biz/pdf_store/isj/publication/pdf/52/5202_02.pdf|format=PDF|pages=107-114|accessdate=2012-05-07}}</ref>。<br />
<br />
アメリカ国内のハプロタイプ分布は十分に解明されておらず、日本に移入された個体の系統の由来地域の解明も不十分である。アメリカ及び日本国内のハプロタイプ分布が十分に解明されると、日本への移入が既知の1925年と1972年以外に行われていたのかの解明が行えると期待される。<br />
<br />
== 外来種問題 ==<br />
=== 日本への導入===<br />
日本において、本種は人為的に移入された外来種である。21世紀現在、国内全ての都道府県で生息が確認されており、湖・池といった多くの内水面で姿がみられる。日本に持ち込まれたのは、1925年に実業家の[[赤星鉄馬]]により[[芦ノ湖]]に放流されたのが最初である<ref name="自環研セ2008">{{cite book | 和書 | author = 多紀保彦(監修) 財団法人[[自然環境研究センター]](編著) | title = 決定版 日本の外来生物 | publisher = [[平凡社]] | date = 2008-04-21 | isbn = 978-4-582-54241-7 }}</ref>。<br />
<br />
その後、芦ノ湖から日本国内の他水域にも再移入がおこなわれた他、[[1945年]]の[[敗戦]]にともない、[[進駐]]してきた[[アメリカ軍]]人が自分たちのゲームフィッシング用に多くの個体を持ち込み、分布拡大がさらに進む。<br />
<br />
1970年代以降、日本での分布が急速に拡大し、環境問題に発展している<ref name="自環研セ2008"/>。釣り人による[[密放流]](ゲリラ放流)、[[琵琶湖]]産のアユ種苗やゲンゴロウブナへの混入などによりその生息域を広げたと考えられている。導入経路や非公式な違法放流については[[ミトコンドリアDNA]]の解析によりその実態が明らかになっている<ref name="高村2005"/><ref name="青木ほか2006">{{Cite journal|和書|author=青木大輔・中山祐一郎・林 正人・岩崎魚成|year=2006| title=琵琶湖におけるオオクチバスフロリダ半島産亜種(Micropterus salmoides floridanus)のミトコンドリアDNA調節領域の多様性と導入起源 |journal=保全生態学研究 |volume=11|issue=1|pages=53-60 }}</ref><ref name="北野ほか2008">{{Cite journal|和書|author=北野 聡・武居 薫・川之辺素一・上島 剛 |year=2008| title=長野県内で確認されたオオクチバス及びコクチバスのミトコンドリアDNAハプロタイプ |journal= 長野県環境保全研究所研究報告|volume=4|pages=75-78 }}</ref>。<br />
<br />
=== 影響 ===<br />
捕食や[[競争 (生物)|競争]]により本来日本の湖・池に生息していた魚(在来魚)を減少させるとして[[コクチバス]]や[[ブルーギル]]と並び問題視されている<ref name="自環研セ2008"/>。[[メダカ]]、[[ゼニタナゴ]]、[[ジュズカケハゼ]]、[[シナイモツゴ]]といった希少な魚を減少させるなど魚類相に大きな影響を与えている<ref name="自環研セ2008"/>。また、魚類だけでなく[[甲殻類]]や水生昆虫にも被害が発生しているほか、そうした生物を餌にする水鳥などの他の生物にも悪影響を及ぼす<ref name="自環研セ2008"/>。さらに、[[アカネズミ]]などの[[齧歯類]]や[[ヒミズ]]などの[[トガリネズミ目|食虫類]]といった小型哺乳類、[[アオジ]]や[[オオジュリン]]といった鳥類の直接的な捕食事例も確認されている<ref name="中野・西原2005">{{Cite journal|和書|author=中野晃生・西原昇吾|year=2005| title=オオクチバス Micropterus salmoides に摂食されたヒミズ Urotrichus talpoides |journal=哺乳類科学 |volume=45|issue=2|url=http://dx.doi.org/10.11238/mammalianscience.45.177}}</ref><ref name="嶋田・藤本2009">{{Cite journal|和書|author=嶋田哲郎・藤本泰文|year=2009| title= オオクチバスによる小鳥の捕食|journal=Bird Research |volume=5|url=http://dx.doi.org/10.11211/birdresearch.5.S7 |format=PDF|pages=7-9|accessdate=2012-05-07}}</ref><br />
本種は[[日本生態学会]]により[[日本の侵略的外来種ワースト100]]に選定されているが、[[国際自然保護連合]]によって[[世界の侵略的外来種ワースト100]]のひとつにも選ばれており世界的に問題となっている<ref name="生態学会2002">{{cite book | 和書 | author = 村上興正・鷲谷いづみ(監修) [[日本生態学会]](編著) | title = 外来種ハンドブック | publisher = [[地人書館]] | date = 2002-09-30 | isbn = 4-8052-0706-X }}</ref>。<br />
<br />
=== 対策 ===<br />
事態を重くみた環境省は、2005年(平成17年)6月施行の「[[外来生物法]](特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)」でコクチバスと共にオオクチバスの規制(輸入・飼養・運搬・移殖を規制する)を目指すことになった<ref name="瀬能2006">{{Cite journal|和書|author=瀬能 宏|year=2006| title=外来生物法はブラックバス問題を解決できるのか?|journal=哺乳類科学 |volume=46|issue=1|url= http://dx.doi.org/10.11238/mammalianscience.46.103|pages=103-109|accessdate=2012-05-07}}</ref>。しかし、2004年10月から開始されたオオクチバスを[[特定外来生物]]に選定する是非を決める会議では、全国内水面[[漁業協同組合]]連合会や外来種問題を危惧する研究者などの指定賛成派と、[[日本釣振興会]]、[[全日本釣り団体協議会]]、釣魚議員連盟といった指定反対派との間で意見が大きく対立し議論は難航した<ref name="瀬能2006"/>。この結果、2005年1月19日の第4回小会合にてオオクチバスの指定については半年まで検討期間を延長することになった<ref name="瀬能2006"/>。ところが、その2日後に当時の[[環境大臣]]がバスは指定されるべきとの発言をしたため急遽方針が転換され、結局オオクチバスは特定外来生物に1次指定されることが決定した<ref name="瀬能2006"/>。こうした混乱や衝突はオオクチバスが大規模なバス釣り産業を形成しており経済的に重要な価値を有することが背景にあり、外来種問題の解決の難しさが窺える事例となった<ref name="瀬能2006"/><ref name="Idb"/>。また、多くの都道府県でも、内水面漁業調整規則に基づき移殖放流が禁止されている<ref name="自環研セ2008"/>。1965年に移入された芦ノ湖の[[漁業権]]を管理する神奈川県は、オオクチバスを含めたブラックバスに関して移植をしてはならないとした<ref>[http://www.agri.pref.kanagawa.jp/SUISOKEN/naisui/news/kisoku.htm 神奈川県内水面漁業調整規則第30条の2]</ref>。さらに、日本国外ではイギリスや韓国などで国内への持ち込みが禁止されている<ref name="自環研セ2008"/>。<br />
<br />
稚魚のすくい取り、産卵床の破壊、人工産卵床の設置、地引き網、池干しといった方法で防除が行われている<ref name="Idb">[http://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/50330.html オオクチバス] [[国立環境研究所]] 侵入生物DB</ref><ref name="高橋2005">{{Cite journal|和書|author=高橋清孝|year=2005| title=オオクチバスMicropterus salmonides駆除の技術開発と実践|journal=日本水産学会誌|volume=71|issue=3|naid=110003161621 |pages=402-405 }}</ref>。環境省では2005年度から「オオクチバス等防除モデル事業」を伊豆沼・内沼、羽田沼、[[片野鴨池]]、犬山市内のため池群、琵琶湖、[[藺牟田池]]の6つの地域で実施した<ref name="種生物学会2010">{{cite book | 和書 | author = [[種生物学会]] | title = 外来生物の生態学 進化する脅威とその対策 | publisher = [[文一総合出版]] | date = 2010-03-31 | isbn = 978-4-8299-1080-1}}</ref>。また、市民活動も盛んに行われており、2005年には「全国ブラックバス防除市民ネットワーク」が結成されている<ref name="種生物学会2010"/><ref name="ノーバス">[http://www.no-bass.net/ 全国ブラックバス防除市民ネットワーク]</ref>。防除対策によって減少していた魚類の増加が確認され[[生態系]]の回復が実現している水域もある<ref name="高橋2005"/>。<br />
<br />
=== 漁業権と外来種問題 ===<br />
[[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]でのブラックバスの[[漁業権]]は1989-1994年に認められ、2005年施行の[[外来生物法]]でブラックバスの放流が禁じられた後も「特例」として許可されてきた。2014年1月の免許更新期を前に、地元漁協や自治体が継続を求め、[[日本魚類学会]]や[[NPO]]や[[自然保護団体]]などが反対していた。山梨県が地元漁協の免許の特例更新を認める方針を固めた。<br />
<br />
== 食用 ==<br />
身は癖のない白身で美味<ref name=excite>[http://www.excite.co.jp/News/bit/E1407304580442.html 臭いと噂のブラックバス おいしく食べるには]</ref>。[[ムニエル]]、[[フライ (料理)|フライ]]、[[ポワレ]]などで食べられる{{要出典|date=2014年11月}}。体表面の粘膜および浮き袋の付け根にある脂に生臭さがある場合が多いため、これを身につけないようにするのがコツとされる。表面に生臭みがある時は塩もみするか、濃い塩水中でたわしで洗うと落とせる。または、[[霜降り]]か[[泥抜き]]で臭みをとる。 小骨にも注意。また、生食では[[顎口虫症]]による健康被害が報告されており<ref>[http://www.pref.aichi.jp/eiseiken/5f/gnathostomiasis.html 日本顎口虫(がっこうちゅう)症] 愛知県衛生研究所</ref>[[寄生虫]]対策として一度冷凍するか、もしくは加熱調理して食べる必要がある。水のきれいな水域の個体が美味で、汚染の危険性も低い。<br />
{{main|ブラックバス}}<br />
<br />
オオクチバスを含めた[[サンフィッシュ科]]魚類は、原産地である北米では食用魚とされてきた。日本でも元々食用としての用途も意図されて移植されたが、専ら釣り(遊漁)の対象魚とされている。釣ったオオクチバスは再[[放流]]されることが多いが、一部ではオオクチバス料理を提供している店舗もある<ref name=excite/>。1980年代頃に全国的に生息域が拡大し、在来生物層の保護という観点から、1990年代初頭には沖縄県を除く全ての都道府県で無許可での放流が禁止された。<br />
<br />
== 漁業権魚種 ==<br />
日本国内でオオクチバスを漁業権魚種として認定している水域は現在、[[神奈川県]]の[[芦ノ湖]]、[[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]の4湖のみ。権利のない漁協権を行使して、料金をとっている[[漁協]]が多数あるようであるが、[[行政]]が長年の[[慣習]]から放置しているのが実情である{{要出典|date=2014年11月}}。<br />
<br />
ブラックバスが漁業権魚種ではない水域であっても入漁料の支払いを当該地域の漁協から求められることがある。これは目的釣魚がブラックバスであっても釣法(餌釣り等)によっては漁業権魚種が釣れてしまう「混獲」の可能性があり、たとえ即リリースする場合でも当該魚種を釣り人が「事実上の支配下」に置くことは漁業権魚種の漁獲とみなされるためであるとされている<ref>埼玉県ホームページ「Q&A(よくある質問)Q8 どんな場所で、どんな魚を釣ってもお金を払うのですか?」 [http://www.pref.saitama.lg.jp/site/suisanfaq/]</ref>。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons Category|Micropterus salmoides}}<br />
{{Wikispecies|Micropterus salmoides}}<br />
* [[魚の一覧]]<br />
* [[ルアー]]<br />
* [[ブラックバス]] - [[コクチバス]]<br />
* [[ブルーギル]]<br />
* [[内水面漁場管理委員会]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{cite web|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/suisan/joho/gairaisakana/documents/bass_1.pdf|title=長野県水産試験場研究報告-ブラックバス問題を考える|accessdate=2014-1-1}}<br />
* {{cite journal|author=中村 智幸, 片野 修, 山本 祥一郎|title=コクチバスとオオクチバスの成長における流水と水温の影響|journal=日本水産学会誌|volume=70|pages=745-749|year=2004|naid=110003161457}}<br />
*川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編『山渓カラー名鑑 改訂版 日本の淡水魚』(オオクチバス解説 : 前畑政善)ISBN 4-635-09021-3<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.fra.affrc.go.jp/bulletin/bull/bull12/yodo.pdf バス問題の経緯と背景] (独)水産総合研究センター<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:おおくちはす}}<br />
[[Category:サンフィッシュ科]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[category:淡水魚]]<br />
[[Category:特定外来生物]]<br />
[[Category:釣りの対象魚]]<br />
[[Category:北米の食文化]]<br />
[[Category:日本の外来種]]</div>
119.230.24.142
幸田露伴
2018-08-15T20:35:23Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{Infobox 作家<br />
| name = 幸田 露伴<br />
| image =Rohan Kōda 1937.jpg<br />
| image_size = 200px<br />
| caption =文化勲章を胸に(1937年2月)<br />
| pseudonym = <br />
| birth_name = 幸田 成行<br />
| birth_date = [[1867年]][[7月23日]]<br />
| birth_place = [[武蔵国]][[江戸]]<!-- [[下谷]] 当時下谷は地域名の為--><br />
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1867|7|23|1947|7|30}}<br />
| death_place = [[千葉県]][[市川市]]<br />
| resting_place = [[池上本門寺]]<br />
| occupation = [[小説家]]<br />
| language = [[日本語]]<br />
| nationality = {{JPN}}<br />
| education = [[文学博士]](京都帝国大学)<br />
| alma_mater = [[逓信官吏練習所#前史|電信修技学校]]<br />
| period = [[1889年]] - [[1947年]]<br />
| genre = [[小説]]<br />
| subject = [[理想主義]]<br />
| movement = [[写実主義]]<br />
| notable_works = 『露団々』(1889年)<br />『風流仏』(1889年)<br />『[[五重塔 (小説)|五重塔]]』(1891年)<br />『天うつ浪』(1905年)<br />『[[運命 (幸田露伴)|運命]]』(1919年)<br />
| awards = [[文化勲章]]([[1937年]])<br />
| debut_works = <br />
| spouse = <br />
| partner = <br />
| children = <br />
| relations = <br />
| influences = <br />
| influenced = <br />
| signature = <br />
| website = <br />
<!--| footnotes =--> <br />
}}<br />
'''幸田 露伴'''(こうだ ろはん、[[1867年]][[8月22日]]([[慶応 (元号)|慶応]]3年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[1947年]]([[昭和]]22年)[[7月30日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名は'''成行'''(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん<ref>家をもたないカタツムリに擬した命名。度々引っ越しを余儀なくされた自宅を指す。(小林勇『蝸牛庵訪問記』)</ref>)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。[[江戸]](現[[東京都]])[[下谷]]生れ。[[帝国学士院]]会員。[[帝国芸術院]]会員。第1回[[文化勲章]]受章。娘の[[幸田文]]も[[随筆家]]・小説家。[[高木卓]]の伯父。<br />
<br />
『風流仏』で評価され、『[[五重塔 (小説)|五重塔]]』『[[運命 (幸田露伴)|運命]]』などの[[文語体]]作品で文壇での地位を確立。[[尾崎紅葉]]とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸[[宗教]]にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[1867年]][[8月22日]]([[慶応]]3年7月23日)、[[武蔵国]][[江戸]][[下谷区|下谷]]三枚橋横町(現・[[東京都]][[台東区]])に、四男として生を受ける。父は[[幕臣]]の幸田利三(成延(しげのぶ))で、母は猷(ゆう)。幸田家は[[江戸時代]]、大名の取次を職とする[[坊主|表御坊主衆]]であった<ref name="aoki-tama-ichizoku">青木玉 『記憶の中の幸田一族』 講談社文庫、2009年、略系図、「母を語る」「祖父のこと、母のこと」など</ref>。幼名は鉄四郎<ref name="aoki-tama-ichizoku"/>。<br />
もともと病弱であり、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼時は何度も生死の境をさまよったことがあった。翌年、[[上野戦争]]が起こったため、浅草諏訪町に移る。<br />
<br />
下谷に戻った後、[[神田区|神田]]に落ち着いた。下谷泉橋通りの関千代([[書家]]・[[関雪江]]の姉)の塾で手習い、御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。[[1875年]]([[明治]]8年)、千代の勧めで[[東京高等師範学校|東京師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]])に入学。このころから草双紙、読本を愛読するようになった。<br />
<br />
卒業後の[[1878年]](明治11年)、東京府第一中学(現・[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])正則科に入学する。[[尾崎紅葉]]や[[上田萬年]]、[[狩野亨吉]]らと同級生であった。のちに家計の事情で中退し、数え年14歳で、[[東京英和学校|東京英学校]](現在の[[青山学院大学]])へ進むが、これも途中退学。[[東京都立図書館|東京府図書館]]に通うようになり、[[淡島寒月]]を知った。また兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、[[遅塚麗水]]とともに漢学、漢詩を学んだ。<br />
<br />
数え年16歳の時、給費生として[[逓信省]][[官立]]電信修技学校(後の[[逓信官吏練習所]])に入り、卒業後は官職である電信技師として[[北海道]][[余市町|余市]]に赴任。現地の芸者衆に人気があったと伝えられるが、[[坪内逍遥]]の『[[小説神髄]]』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。そのせいもあり、[[1887年]](明治20年)職を放棄し帰京<ref name="aoki-tama-ichizoku"/>。この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材である。また、道中に得た句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から「露伴」の号を得る<ref name="chikuma-23">『ちくま日本文学023 幸田露伴』 年譜</ref>。<br />
<br />
免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で[[井原西鶴]]を愛読した。[[1889年]](明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された<ref>「露伴の出世咄」、『思い出す人々』(内田魯庵、岩波文庫)所収。</ref> 。これが[[山田美妙]]の激賞を受け、さらに『風流佛』([[1889年]])、下谷区の谷中[[天王寺 (台東区)|天王寺]]をモデルとする『五重塔』([[1893年]])などを発表し、作家としての地位を確立する。<br />
<br />
[[1894年]](明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚。それ以降の数年で『ひげ男』([[1896年]])『新羽衣物語』([[1897年]])『椀久物語』([[1899年]]~[[1900年]])を発表。また当時としては画期的な都市論『一国の首都』([[1899年]])『水の東京』([[1901年]])も発表する。<br />
<br />
この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・[[森鴎外]]と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。<br />
<br />
[[1904年]](明治37年)、それまで何度も中絶のあった「天うつ浪」の執筆が途絶えた。これ以後、主に史伝の執筆や古典の評釈に主眼を移した。史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがある。一方、井原西鶴や『[[南総里見八犬伝]]』を評釈し、[[沼波瓊音]]、[[太田水穂]]ら芭蕉研究会の6人との共著『芭蕉俳句研究』を出した。[[1920年]]([[大正]]9年)には『芭蕉七部集』の注釈を始め、17年かけて晩年の[[1947年]]([[昭和]]22年)に評釈を完成させている。<br />
<br />
[[1907年]](明治40年)、[[唐]]の伝奇小説『[[遊仙窟]]』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。[[1908年]](明治41年)には[[京都大学|京都帝國大学文科大学]]初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に[[内藤湖南]]も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。<br />
<br />
露伴の指導を仰いだ[[青木正児]]によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『[[曽我物語]]』と『[[和讃]]』についての文学論・[[近松門左衛門|近松世話浄瑠璃]]などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美は翌[[1910年]]に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の[[1911年]](明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。<br />
<br />
しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』([[1915年]]から[[1917年]]の作品をまとめた短編集)『運命』([[1919年]])を発表し、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、[[道教]]研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は[[谷崎潤一郎]]らの絶賛を博したが、[[高島俊男]]は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては[[南條竹則]]が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、[[アンリ・マスペロ]]の『道教』と並んで未だに道教研究の古典として名高い。<br />
<br />
[[1937年]](昭和12年)[[4月28日]]には第1回[[文化勲章]]を授与され、帝国[[芸術院]]会員となる。[[1947年]](昭和22年)[[7月30日]]、[[肺炎]]に[[狭心症]]を併発し<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)138頁</ref>、戦後移り住んだ[[千葉県]][[市川市]]大字[[菅野 (市川市)|菅野]](現:菅野四丁目)において、満80歳で没。墓所は[[池上本門寺]]。[[戒名]]は、露伴居士。<br />
<br />
死後、[[墨田区]]寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。<br />
<br />
== 家族・親族 ==<br />
露伴は幸田成延、猷夫妻の四男である。長兄の成常は実業家で相模紡績専務などを務めた。次兄の[[郡司成忠|成忠]](しげただ)は海軍軍人、探検家で、郡司家へ養子に出された。弟は歴史家の[[幸田成友|成友]](しげとも)で、妹の[[幸田延|延]](のぶ)はピアニスト・バイオリニスト、[[安藤幸|幸]](こう)はバイオリニストである<ref name="aoki-tama-ichizoku"/>。<br />
<br />
幸田家は[[法華宗]]を宗旨としていたが、罷免された成延が延の学友である岩城寛と[[植村正久]]の勧めにより[[キリスト教]]へ改宗、他の家族も入信させた。余市の赴任から帰京した露伴も植村に改宗を勧められたが、これを拒絶している。そのため父母兄弟の中で露伴だけがキリスト教徒ではない。<br />
<br />
数え年29歳の時に山室幾美(きみ)と結婚。よき理解者であり、長女歌、次女[[幸田文|文]]、長男成豊(しげとよ)が生まれた。幾美は[[1910年]](明治43年)にインフルエンザで亡くなり、その2年後の[[1912年]](大正元年)に歌が若くして亡くなる<ref name="aoki-tama-ichizoku"/>。この年キリスト教徒の児玉八代(やよ)と再婚している。文は八代の計らいでミッション系の[[女子学院中学校・高等学校|女子学院]]へ通った。1926年(大正15年)、成豊が肺結核で亡くなる<ref>のち幸田文が小説『おとうと』として発表した</ref>。八代は[[1933年]](昭和8年)から別居し、[[1945年]](昭和20年)に亡くなった<ref name="aoki-tama-ichizoku"/>。<br />
<br />
文は、露伴の死の直前に随筆を寄稿し<ref>雑誌「藝林閒歩」1947年(昭和22年)「露伴先生記念号」。ただし、雑誌発行は露伴の没した直後であった</ref>、さらに露伴没後には父に関する随筆で注目を集め、その後小説も書き始め作家となった 。文の一人娘[[青木玉]]も随筆家、またその子[[青木奈緒]]はドイツ文学畑のエッセイストである。<br />
<br />
== その他 ==<br />
* [[1897年]](明治30年)から約10年間住んでいた「向島[[蝸牛庵]]」(東京府南葛飾郡寺島村)は、[[博物館明治村]]に移設保存されており、[[登録有形文化財]](建造物)である<ref>『新潮日本文学アルバム 幸田文』新潮社</ref><ref>[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース 「明治村幸田露伴住宅蝸牛庵」]</ref>。<br />
* [[未来学者]]としての一面も持ち合わせており、1911年に発表された『滑稽御手製未来記』では[[無線送電]]、[[動く歩道]]、[[モノレール]]、[[電気自動車]]等が記されていた。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
『露伴全集』は生前に1度、弟子の[[漆山又四郎]]を中心に編まれた。没後、[[塩谷賛]]等により第2次全集が編まれ、[[岩波書店]]で刊行された(新版全44巻、第2次全集を1978年から80年にかけて再刊し、増補巻を加えた版)。<br />
; 小説<br />
* 露団々(1889年、金港堂)<br />
* 風流仏(1889年、吉岡書籍店)<br />
* 縁外縁(1890年)<br />
* いさなとり(1891年前編、1892年後編、[[青木嵩山堂]])<br />
* [[五重塔 (小説)|五重塔]](1892年、[[青木嵩山堂]]『小説 尾花集』収録)<br />
* ひげ男(1896年、[[博文館]])<br />
* 新羽衣物語(1897年8月、村井商会)<br />
* 天うつ浪(1903年1月 - 05年1月、[[春陽堂]])<br />
* 滑稽御手製未来記 (1911年)<br />
* 雪たたき(1939年、『日本評論』)<br />
* 連環記(1941年、『日本評論』)<br />
; 史伝<br />
* [[二宮尊徳]]翁(1891年、博文館)<br />
* 頼朝(1908年、東亜堂)<br />
* [[運命 (幸田露伴)|運命]](1919年、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』4月創刊号)<br />
*: [[明]]の[[建文帝]]が[[永楽帝]]に追われて、何十年も潜伏して生活していたという伝説について書かれた話、他にも中国を舞台にした文語体作品が多数ある。<br />
* 蒲生氏郷<br />
* 平将門<br />
; 随筆・評論<br />
* 一国の首都(1899年 - 1901年、雑誌『新小説』)<br />
* 水の東京(1901年、雑誌『[[文芸倶楽部]]』)<br />
* 潮待ち草(1906年、東亜堂)<br />
* 蝸牛庵夜譚(1907年11月、春陽堂)<br />
*:「遊仙窟」を収録<br />
* 小品十種(1908年6月、成功雑誌社)<br />
* 普通文章論(1908年10月、博文館) - 「文章は楽しく書くべきである」など初学者向けの文章指南。<br />
* 努力論(1912年、東亜堂)<br />
; 俳諧評釈<br />
* 冬の日記抄(1924年9月、岩波書店)<br />
* 春の日・曠野抄(1927年6月、岩波書店)<br />
* ひさご・猿蓑抄(1929年12月、岩波書店)<br />
* 炭俵・続猿蓑抄(1930年1月、岩波書店)<br />
*『評釈[[芭蕉七部集]]』(1947年完成)<br />
*: 1983年に7巻組で復刻 <br />
; 紀行・日記<br />
* 枕頭山水(1893年9月、博文館)<br />
* 蝸牛庵日記(1949年8月、[[中央公論社]])<br />
; 戯曲<br />
* 名和長年<br />
; 校歌<br />
* 東京都立墨田川高等学校校歌<br />
<br />
== 近年刊の著作 ==<br />
* 『五重塔』 [[岩波文庫]]、改版1994年(1927年初版)<br />
* 『努力論』 岩波文庫、改版2001年<br />
* 『幻談・観画談 他三篇』 岩波文庫、1990年<br />
* 『連環記 他一篇』 岩波文庫、1991年。併収は「プラクリチ」<br />
* 『一国の首都』 岩波文庫、1993年。「水の東京」を併収<br />
* 『雲の影・貧乏の説』 [[講談社文芸文庫]]、1994年。<br />
* 『運命・幽情記』 講談社文芸文庫、1997年。<br />
* 『芭蕉入門』 講談社文芸文庫、2015年<br />
* 『蒲生氏郷 武田信玄 今川義元』 講談社文芸文庫、2016年<br />
* 『幸田露伴 近代浪漫派文庫6』 [[新学社]]、2005年<br />
* 『幸田露伴 [[ちくま日本文学]] 023』 [[筑摩書房]]〈文庫版〉、2008年<br />
* 『幸田露伴集 怪談 文豪怪談傑作選15』 ちくま文庫、2010年-[[東雅夫]]解説<br />
* 『幸田露伴 明治の文学12』 [[坪内祐三]]編、筑摩書房、2000年<br />
* 『幸田露伴集 新[[日本古典文学大系]] 明治編22』 岩波書店、2002年<br />
* 『露伴随筆集』 [[寺田透]]編、[[岩波文庫]](上・下)、1993年。上巻は考証篇、下巻は言語篇<br />
* 『辻浄瑠璃・寝耳鉄砲 他一篇』 岩波文庫、2014年 (1954年初版)<br />
* 『作家の自伝81 幸田露伴 少年時代/硯海水滸伝』 登尾豊編、[[日本図書センター]]、1999年。<br />
* 『[[二宮尊徳]]に学ぶ成功哲学 - 富を生む勤勉の精神』新・教養の大陸シリーズ、現代語訳 加賀 義、[[幸福の科学出版]]、2016年12月15日発刊、ISBN 978-4-86395-862-3 。<br />
<br />
== 主な回想・研究 ==<br />
* [[小林勇]] 『蝸牛庵訪問記』 岩波書店、1956年/筑摩書房「著作集」、1983年/講談社文芸文庫、1991年<br />
* [[塩谷賛]] 『幸田露伴』 中央公論社全3巻/中公文庫全4巻、1977年<br />
* 下村亮一 『晩年の露伴』 経済往来社、1979年<br />
* [[篠田一士]] 『幸田露伴のために』 岩波書店、1984年<br />
* 『近代作家 追悼文集成31 三宅雪嶺・武田麟太郎・織田作之助・幸田露伴・横光利一』 [[ゆまに書房]]、1997年<br />
* 瀬里廣明 『露伴と道教』 [[海鳥社]]、2004年<br />
* 関谷博 『幸田露伴論』 翰林書房、2006年<br />
* 登尾豊 『幸田露伴論考』 学術出版会〈学術叢書〉、2006年 <br />
* [[井波律子]]・[[井上章一]]編 『幸田露伴の世界』 [[思文閣出版]]、2009年<br />
* 斎藤礎英 『幸田露伴』 [[講談社]]、2009年<br />
* 関谷博 『幸田露伴の非戦思想 人権・国家・文明 -〈少年文学〉を中心に』 平凡社、2012年<br />
* 岡田正子 『幸田露伴と西洋 キリスト教の影響を視座として』 [[関西学院大学]]出版会、2012年<br />
<br />
== フィクションにおける幸田露伴 ==<br />
; 映画<br />
:* [[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]([[1960年]] 演:[[森雅之 (俳優)|森雅之]])<br />
:* [[おとうと (1976年の映画)|おとうと]]([[1976年]] 演:[[木村功]])<br />
:* [[帝都物語#映画版|帝都物語]]([[1988年]] 演:[[高橋幸治]])<br />
:* [[わが愛の譜 滝廉太郎物語]]([[1993年]] 演:[[柴田恭兵]])<br />
; テレビドラマ<br />
:* [[おとうと (1958年のテレビドラマ)|おとうと]]([[1958年]] 演:[[加藤嘉]])<br />
:* [[おとうと (1981年のテレビドラマ)|おとうと]]([[1981年]] 演:[[鈴木瑞穂]])<br />
:* [[おとうと (1990年のテレビドラマ)|おとうと]]([[1990年]] 演:[[中条静夫]])<br />
:* [[小石川の家]]([[1996年]] 演:[[森繁久弥]])<br />
:* [[山田風太郎からくり事件帖]]([[2001年]] 演:[[蓑輪裕太]])<br />
:* [[幸田家の人びと]]([[2002年]] 演:[[中村梅雀]])<br />
; 演劇<br />
:* [[有福詩人 (1964年の演劇)|有福詩人]]([[1964年]] 演:[[平幹二朗]])<br />
:* [[有福詩人 (1989年の演劇)|有福詩人]]([[1989年]] 演:[[中野誠也]])<br />
:* [[オペラ 瀧廉太郎]]([[1998年]] 演:[[藤田喜久]])<br />
; アニメ<br />
:* [[帝都物語#OVA版|帝都物語]]([[1991年]] 演:[[屋良有作]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Rohan Kōda}}<br />
* [http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1221000008.html 市川市|幸田 露伴・文]<br />
* [http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1057.html 市川市|市川市立図書館 ⇒市川ゆかりの著作家 幸田露伴]<br />
* {{青空文庫著作者|51|幸田 露伴}}<br />
* [http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/person/kindai/28.html ビールを愛した近代日本の人々・幸田露伴|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム|キリン]<br />
* 書評<br />
** [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0983.html 幸田露伴『連環記』1991 岩波文庫]([[松岡正剛]]の千夜千冊)第983夜2004年5月28日<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:こうた ろはん}}<br />
[[Category:日本の小説家]]<br />
[[Category:日本の文芸評論家]]<br />
[[Category:文化勲章受章者]]<br />
[[Category:帝国学士院会員]]<br />
[[Category:日本藝術院会員]]<br />
[[Category:明治時代の人物]]<br />
[[Category:京都大学の教員]]<br />
[[Category:武蔵国の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:東京英和学校出身の人物]]<br />
[[Category:1867年生]]<br />
[[Category:1947年没]]<br />
[[Category:東京都立日比谷高等学校出身の人物]]</div>
119.230.24.142
レオナルド・ダ・ヴィンチ
2018-08-15T11:26:21Z
<p>119.230.24.142: /* 人物 */</p>
<hr />
<div>{{redirect|ダビンチ|その他の用法|ダヴィンチ}}<br />
{{otheruses}}<br />
{{Infobox 芸術家<br />
| name = レオナルド・ダ・ヴィンチ<br/ >{{lang|it|Leonardo da Vinci}}<br />
| image = Leonardo da Vinci - Self-Portrait - WGA12798.jpg<br />
| imagesize = <br />
| alt = <br />
| caption = トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの[[自画像 (レオナルド・ダ・ヴィンチ)|自画像]]。1513年 - 1515年頃<br />
| birthname = {{lang|it|Leonardo di ser Piero da Vinci}}<br />
| birthdate = {{birth date|1452|4|15}}<br />
| location = [[フィレンツェ共和国]] [[ヴィンチ]]<br />
| deathdate = {{death date and age|1519|5|2|1452|4|15}}<br />
| deathplace = [[フランス王国]] [[アンボワーズ]]<br />
| nationality = <br />
| field = <br />
| training = <br />
| movement = [[盛期ルネサンス]]<br />
| works = 『[[モナ・リザ]]』<br />『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』<br />『[[ウィトルウィウス的人体図]]』<br />
| patrons = <br />
| influenced by = <br />
| influenced = <br />
| awards = <br />
| elected = <br />
| website = <br />
}}<br />
[[ファイル:Firma_de_Leonardo_Da_Vinci.svg|thumb|282px|レオナルドのサイン]]<br />
'''レオナルド・ダ・ヴィンチ''' ({{lang-it-short|Leonardo da Vinci}}、{{IPA-it|leoˈnardo da ˈvintʃi}} {{Audio|it-Leonardo di ser Piero da Vinci.ogg|発音}})[[1452年]][[4月15日]] - [[1519年]][[5月2日]]([[ユリウス暦]]))は、[[イタリア]]の[[ルネサンス|ルネサンス期]]を代表する[[芸術家]]。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ ({{lang|it|Leonardo di ser Piero da Vinci}}) で、[[音楽]]、[[建築]]、[[数学]]、[[幾何学]]、[[解剖学]]、[[生理学]]、動植物学、[[天文学]]、[[気象学]]、[[地質学]]、[[地理学]]、[[物理学]]、[[光学]]、[[力学]]、[[土木工学]]など様々な分野に顕著な業績と手稿を残した。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
<!-- NOTE The following paragraph is about HISTORIC OPINION not POV. It does not contravene Wiki policy, even though it uses words like "archetype", "greatest" and "most". It states how Leonardo has been DESCRIBED and CONSIDERED for 500 years. It cites 8 references which make these statements. --><br />
ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている<ref name=HG>{{Cite book|first=Helen|last=Gardner|title=Art through the Ages|year=1970|pages= 450 - 456}}</ref>。史上最高の呼び声高い[[画家]]の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である<ref name=genius>Vasari, Boltraffio, Castiglione, "Anonimo" Gaddiano, Berensen, Taine, Fuseli, Rio, Bortolon.</ref>。アメリカ人美術史家{{仮リンク|ヘレン・ガードナー|en|Helen Gardner (art historian)}}は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした<ref name=HG/>。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている<ref><br />
{{Cite book<br />
|first=Marco<br />
|last=Rosci<br />
|title=Leonardo<br />
|year=1977<br />
|page= 8<br />
}}</ref>。<br />
<br />
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、[[フィレンツェ共和国]]から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。<br />
<br />
1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあった[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]が、運営する工房に入門した。<br />
<br />
画家としてのキャリア初期には、[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]に仕えている。その後[[ローマ]]、[[ボローニャ]]、[[ヴェネツィア]]などで活動し、晩年は[[フランス君主一覧|フランス王]][[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。<br />
<br />
レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い<ref name=genius/>。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『[[モナ・リザ]]』と<ref>John Lichfield, ''[http://www.independent.co.uk/news/world/europe/the-moving-of-the-mona-lisa-6149165.html The Moving of the Mona Lisa]'', The Independent, 2005-04-02 (accessed 2012-04-24)</ref>、もっとも多くの[[複製画]]や模写が描かれた宗教画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』に比肩しうる絵画作品は、[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]が描いた『[[アダムの創造]]』以外には存在しないといわれている<ref name=HG/>。また、[[デッサン|ドローイング]]の『[[ウィトルウィウス的人体図]]』も{{仮リンク|文化的象徴|en|cultural icon}}と見なされており<ref>Vitruvian Man is referred to as "iconic" at the following websites and many others:[http://www.italian-renaissance-art.com/Vitruvian-Man.html Vitruvian Man], [http://artpassions.com/art/1109-Fine-Art-Classics/0000067329-Leonardo-Da-Vinci-Vitruvian-Man.html Fine Art Classics], [http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storyCode=403230&sectioncode=26 Key Images in the History of Science]; [http://www.ingenious.org.uk/read/identity/bodyimage/Curiosityanddifference/ Curiosity and difference]; [http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2006/aug/30/art1 The Guardian: The Real da Vinci Code]</ref>、イタリアの1ユーロ硬貨、[[教科書]]、[[Tシャツ]]など様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが[[完全主義者]]で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の[[実験]]に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる<ref group="注">作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた[[板絵]]だが、[[壁画]]、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。</ref>。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残した[[ドローイング]]や[[科学]]に関するイラストが描かれた[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿|手稿]]、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少の[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]だけであった。<br />
<br />
レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている<ref name=genius/>。[[ヘリコプター]]や[[戦車]]の概念化、[[太陽エネルギー]]や計算機の理論<ref><br />
{{cite web<br />
|url = http://192.220.96.166/leonardo/leonardo.html<br />
|title = The Controversial Replica of Leonardo's Adding Machine<br />
|accessdate = 2010-12-22<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110529140741/http://192.220.96.166/leonardo/leonardo.html<br />
|archivedate = 2011年5月29日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref>、二重船殻構造の研究、さらには初歩の[[プレートテクトニクス|プレートテクトニクス理論]]も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが<ref group="注">レオナルドの構想に必要とされる[[金属工学]]や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。</ref>、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした<ref group="注">レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。</ref>。また、[[解剖学]]、[[土木工学]]、[[光学]]、[[流体力学]]の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった<ref>Capra, pp.5–6</ref>。<br />
また、[[発生学]]の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。但し、そんな非凡な彼だが[[外国語]]と[[暗算]]が苦手という側面もあったという。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 幼少期、1452年から1466年 ===<br />
[[ファイル:Vinci casa Leonardo.jpg|thumb|[[ヴィンチ]]にあるレオナルドが幼少期を過ごした家。]]<br />
レオナルドは1452年4月15日([[ユリウス暦]])の「日没3時間後」{{refnest |group = "注" |レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in ''Leonardo da Vinci'', and Reynal & Co., ''Leonardo da Vinci'' (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦によるものである。この時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、夜中の12時を日付の境界とする考え方では4月14日ということになる。この日付を現在の[[グレゴリオ暦]]に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である<ref name=AV/>。}}に、[[トスカーナ州|トスカーナ]]のヴィンチに生まれた。ヴィンチは[[アルノ川]]下流に位置する村で、[[メディチ家]]が支配する[[フィレンツェ共和国]]に属していた<ref name= SerA>His birth is recorded in the diary of his paternal grandfather Ser Antonio, as cited by Angela Ottino della Chiesa in ''Leonardo da Vinci'', p. 83</ref>。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである<ref name=AV><br />
{{Cite book<br />
|first=Alessandro<br />
|last=Vezzosi<br />
|title=Leonardo da Vinci: Renaissance Man|year=1997<br />
}}</ref><br />
<ref name=Chiesa83><br />
{{Cite book<br />
|first=Angela Ottino<br />
|last=della Chiesa<br />
|title=The Complete Paintings of Leonardo da Vinci<br />
|year=1967<br />
|page=83}}</ref><br />
{{refnest |group = "注"<br />
|レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している<ref><br />
{{Cite news<br />
|first=Marta<br />
|last=Falconi<br />
|agency= Associated Press<br />
|publisher=Fox<br />
|place=USA<br />
|url=http://www.foxnews.com/wires/2006Dec01/0,4670,LeonardoapossFingerprint,00.html|title=Experts Reconstruct Leonardo Fingerprint<br />
|date=2006-12-12<br />
|accessdate=2010-01-06<br />
|edition=News<br />
|origyear=2006-12-1<br />
}}</ref>。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。[[カリフォルニア大学]]アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。<br />
}}。<br />
<br />
レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる<ref name=SerA/>。セル(メッセル ({{lang|it|Messer}})) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。<br />
<br />
[[ファイル:Study of a Tuscan Landscape.jpg|thumb|left|現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、[[ウフィツィ美術館]]([[フィレンツェ]])。]]<br />
レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている<ref name="LB"><br />
{{Cite book<br />
|first = Liana<br />
|last = Bortolon<br />
|title=The Life and Times of Leonardo<br />
|publisher=Paul Hamlyn<br />
|publication-place=London<br />
|year=1967<br />
}}</ref>。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった<ref>Rosci, p. 20.</ref>。<br />
レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである<ref>Rosci, p. 21.</ref>。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している<ref name=LB/>。<br />
<br />
レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている<ref>{{cite book<br />
|last=Brigstoke<br />
|first=Hugh<br />
|title=The Oxford Companion the Western Art<br />
|location=Oxford, ENG, UK<br />
|year= 2001<br />
}}</ref>。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』を著した[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った<ref>{{cite book<br />
|last=Vasari<br />
|first=Giorgio<br />
|title=Lives of the Artists<br />
|year=1568<br />
|publisher= Penguin Classics<br />
|pages=258–9<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年 ===<br />
[[ファイル:Andrea_del_Verrocchio,_Leonardo_da_Vinci_-_Baptism_of_Christ_-_Uffizi.jpg|thumb|left|220px|[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]とレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、[[ウフィツィ美術館]](フィレンツェ)。]]<br />
1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]に弟子入りした<ref name="Rosci">Rosci, p.13</ref>。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、[[ドメニコ・ギルランダイオ]]、[[ピエトロ・ペルジーノ|ペルジーノ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ロレンツォ・ディ・クレディ]]らがいる<ref name=LB/><ref name=DA/>。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた<ref>Rosci, p.27</ref>。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた<ref name=AM><br />
{{Cite book<br />
|first=Andrew<br />
|last=Martindale<br />
|year=1972<br />
|title=The Rise of the Artist<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』([[:en:The Baptism of Christ (Verrocchio)]])はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている<ref>Vasari, p.258</ref><ref group="注">ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。</ref>。『キリストの洗礼』は[[テンペラ]]で描かれた絵画の上から、当時の新技法だった[[油彩]]で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている<ref>della Chiesa, p.88</ref>。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェの[[バルジェロ美術館]]が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』([[:en:David (Verrocchio)]])と、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]が所蔵する『トビアスと天使』([[:en:Tobias and the Angel (Verrocchio)]])に描かれている大天使[[ラファエル]]である<ref name=Chiesa83/>。<br />
<br />
レオナルドは20歳になる1472年までに、[[聖ルカ組合]]からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象とした[[ギルド]]だった{{refnest |group = "注" <br />
|1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている<ref name=Chiesa83/>。<br />
}}。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった<ref name=LB/>。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである<ref group="注">このドローイングは、[[マドリード]]の[[ウフィツィ美術館]]が所蔵している。Drawing No. 8P.</ref><ref name= DA/>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 円熟期、1476年 - 1513年 ===<br />
[[ファイル:Leonardo da Vinci - Adorazione dei Magi - Google Art Project.jpg|thumb|250px|『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ))。未完成のこの作品には、多くの人々に囲まれた聖母子が描かれている。遠景には風景と崩壊した建物が表現され、聖母子のほうへとやってくる多くの人々が描かれている。]]<br />
1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が[[同性愛]]の容疑をかけられたが放免されたというものがある<ref name=Chiesa83/><ref group="注">ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。</ref>。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない<ref name="everything"><br />
{{Cite book<br />
|title=The Everything Da Vinci Book<br />
|first=Shana <br />
|last=Priwer<br />
|first2= Cynthia<br />
|last2=Phillips<br />
|year=2006<br />
|page=245<br />
}}</ref>。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で[[ネオプラトニズム|新プラトン主義者]]の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰する[[プラトン・アカデミー]]の一員だったという説を唱えている<ref name=Chiesa83/>。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。[[ヴェッキオ宮殿]]サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』([[:en:Adoration of the Magi (Leonardo)]])の制作依頼も受けている<ref name=Wasser1><br />
{{Cite book<br />
|first= Jack<br />
|last = Wasserman <br />
|title = Leonardo da Vinci <br />
|year = 1975 <br />
|pages = 77–78<br />
}}</ref>。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドが[[ミラノ公国]]へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。<br />
<br />
ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり<ref><br />
{{cite book<br />
|last=Winternitz<br />
|first=Emanuel<br />
|title= Leonardo Da Vinci As a Musician<br />
|year=1982<br />
}}</ref>、1482年に馬の頭部を意匠とした銀の[[ライアー|リラ]]を制作したとされている。フィレンツェの支配者[[ロレンツォ・デ・メディチ]]が、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]との間で平和条約を結ぼうとした<ref><br />
{{cite book <br />
|last= Rossi<br />
|first=Paolo<br />
|title=The Birth of Modern Science<br />
|year=2001<br />
|page=33<br />
}}</ref>。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である<ref name=DA/><ref><br />
{{cite web<br />
|title=Leonardo's Letter to Ludovico Sforza<br />
|work= <br />
|publisher =Leonardo-History<br />
|date= <br />
|url=http://www.leonardo-history.com/life.htm?Section=S5<br />
|accessdate=2010-01-05}}</ref>。<br />
<br />
レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『[[岩窟の聖母]]』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]]の壁画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である<ref name=Kemp><br />
{{Cite book<br />
|first=Martin<br />
|last=Kemp<br />
|title=Leonardo<br />
|year=2004<br />
}}</ref>。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている<ref>Codex II, 95 r, Victoria and Albert Museum, as cited by della Chiesa p. 85</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Study of horse.jpg|thumb|left|upright|馬の側面と、胸から上、右脚が描かれた習作。[[ロイヤル・コレクション]]、[[ウィンザー城]]。]]<br />
レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、[[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公[[フランチェスコ・スフォルツァ]]の巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、[[ドナテッロ]]の『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『[[バルトロメーオ・コッレオーニ#騎馬像|バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像]]』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」({{lang|it|Gran Cavallo}})として知られるようになっていった<ref name=DA/><ref group="注">ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。</ref>。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが<ref name=DA/>、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている<ref name=LB/>。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった<ref name=DA/>。<br />
<br />
1499年に[[第二次イタリア戦争]]が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子の[[ジャン・ジャコモ・カプロッティ|サライ]]や友人の数学者[[ルカ・パチョーリ]]とともに[[ヴェネツィア]]へと避難した<ref name=Chiesa85>della Chiesa, p.85</ref>。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている<ref name=LB/>。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道([[:en:Santissima Annunziata, Florence]])の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『[[聖アンナと聖母子]]』の習作ともいわれる『[[聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ]]』(1499年 - 1500年、[[ナショナルギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]])を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている<ref>Vasari, p.256</ref><br />
{{refnest |group = "注" <br />
|2005年になって、[[軍事地理学]]部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見された<ref><br />
{{cite news<br />
|first=Richard<br />
|last=Owen<br />
|title=Found: the studio where Leonardo met Mona Lisa<br />
|publisher=The Times<br />
|date= 2005-01-12<br />
|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article411195.ece|accessdate=2010-01-05|location=London<br />
}}</ref>。<br />
}}。<br />
<br />
[[ファイル:Leonardo da Vinci - Plan of Imola - Google Art Project.jpg|thumb|250px|レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密な[[イーモラ]]の地図。]]<br />
1502年にレオナルドは[[チェゼーナ]]を訪れ、ローマ教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の息子[[チェーザレ・ボルジア]]の軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した<ref name=Chiesa85/>。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築する[[イーモラ]]の開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した[[工兵]]の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、[[トスカーナ]]の渓谷地帯ヴァルディキアーナ([[:en:Valdichiana]])の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。<br />
<br />
レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎([[ヴェッキオ宮殿]])大会議室の壁画『[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]』のデザインと制作に2年間携わった<ref name=Chiesa85/>。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』([[:en:Battle of Cascina (Michelangelo))]])の制作に取り掛かっていた{{refnest |group = "注" |『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている<ref><br />
{{cite book<br />
|first=Ludwig<br />
|last= Goldscheider<br />
|title=Michelangelo: paintings, sculptures, architecture<br />
|year=1967<br />
|publisher=Phaidon Press<br />
|isbn=978-0-7148-1314-1<br />
}}</ref>。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのは[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]の手によるものである<ref>della Chiesa, pp.106–107</ref>。<br />
}}。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『[[ダビデ像|ダヴィデ像]]』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている<ref>Gaetano Milanesi, ''Epistolario Buonarroti'', Florence (1875), as cited by della Chiesa.</ref>{{refnest |group = "注"<br />
|『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]ら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた<ref>The minutes of the meeting were published in Giovanni Gaye, ''Carteggio inedito d'artisti del sec. XIV, XV, XVI,'' Florence, 1839–40, 2: 454–463. For an English translation of the document, see Seymour, ''Michelangelo's David,'' 140-155 and for an analysis, see Saul Levine, "The Location of Michelangelo's David: The Meeting of January 25, 1504, ''Art Bulletin'' 56 (1974): 31-49; N. Randolph Parks, "The Placement of Michelangelo's ''David:'' A Review of the Documents," ''Art Bulletin,'' 57 (1975) 560-570; and Rona Goffen, ''Renaissance Rivals: Michelangelo, Leonardo, Raphael, Titian,'' New Haven, 2002, 123–127.</ref>。<br />
}}。<br />
<br />
1506年にレオナルドはミラノを訪れた。[[ベルナルディーノ・ルイーニ]]、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ([[:en:Giovanni Antonio Boltraffio]])、マルコ・ドッジョーノ([[:en:Marco d'Oggione]])ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である<ref name=LB/><ref group="注">マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。</ref>。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた<ref name=Chiesa86>della Chiesa, p.86</ref>。<br />
<br />
=== 晩年、1513年 - 1519年 ===<br />
1513年9月から1516年にかけて、レオナルドは[[バチカン|ヴァチカン]]のベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若き[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]が活躍していた場所でもあった<ref name=Chiesa86/>。1515年10月にフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]がミラノ公国を占領し<ref name=Wasser1/>、レオナルドは[[ボローニャ]]で開催された、フランソワ1世とローマ教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]との和平会談に招かれた<ref name=LB/><ref>Georges Goyau, ''François I'', Transcribed by Gerald Rossi. The Catholic Encyclopedia, Volume VI. Published 1909. New York: Robert Appleton Company. Retrieved on 2007-10-04</ref><ref><br />
{{cite web<br />
|first=Salvador<br />
|last=Miranda<br />
|url=http://www.fiu.edu/~mirandas/bios1527-ii.htm|title=The Cardinals of the Holy Roman Church: Antoine du Prat<br />
|year=1998–2007<br />
|accessdate = 2007-10-04<br />
}}</ref>。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された<ref name="Vasari, p.265">Vasari, p.265</ref><br />
{{refnest |group = "注"<br />
|この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世の[[リヨン]]入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている<ref><br />
{{cite web<br />
|title=Reconstruction of Leonardo's walking lion<br />
|url= http://www.ancientandautomata.com/ita/lavori/leone.htm <br />
|language=Italian<br />
|accessdate= 2010-01-05<br />
}}</ref>。<br />
}}。<br />
<br />
[[ファイル:Clos luce 04 straight.JPG|250px|thumb|レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館。]]<br />
レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城[[アンボワーズ城]]近くの[[クロ・リュセ城|クルーの館]]が邸宅として与えられた<ref group="注">クルーの館は、現在博物館として使用されている。</ref>。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ|en|Francesco Melzi}}ら、弟子や友人たちとともに過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている<ref name=Chiesa86/>。<br />
<br />
レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、[[ドミニク・アングル]]、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家[[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]も同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である<ref group="注">レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかる[[サン=ジェルマン=アン=レー]]から王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド』({{lang|en|Leonardo: The First Scientist}})では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。</ref>。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている<ref>Vasari, p.270</ref>。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した<ref group= "注">レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。</ref>。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した<ref group = "注">上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。</ref><ref><br />
{{cite web<br />
|title=Leonardo's will<br />
|work= <br />
|publisher=Leonardo-history<br />
|date= <br />
|url=http://www.leonardo-history.com/life.htm?Section=S6<br />
|accessdate=2007-09-28<br />
}}</ref>。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。<br />
<br />
レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]の記録に記されている<ref><br />
{{cite book<br />
|author=Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo <br />
|title=Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems<br />
|url=http://books.google.com/?id=YISIUycS4HgC&pg=PA13&lpg=PA13&dq=leonardo+cellini+francois+philosopher|accessdate=2007-10-03|isbn=978-3-7643-6940-8|year=2004 <br />
|publisher=Birkhäuser<br />
}}</ref>。<br />
<br />
== 交友関係と影響 ==<br />
=== フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景 ===<br />
[[ファイル:Florenca146.jpg|thumb|left|upright|[[ロレンツォ・ギベルティ]]が制作した[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]の『天国への門』。当時のフィレンツェが誇る芸術作品で、その制作には多くの芸術家が参画した。]]<br />
レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、[[人文主義|ルネサンス人文主義]]における思想、文化の中心地だった<ref name="Rosci" />。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、[[風景画]]の発展に多大な貢献をなした画家[[パオロ・ウッチェロ]]は、すでに老境に入っていた。画家[[ピエロ・デッラ・フランチェスカ]]、[[フィリッポ・リッピ]]、彫刻家[[ルカ・デッラ・ロッビア]]、建築家・著述家[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]も60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]、ミーノ・ダ・フィエゾーレ([[:en:Mino da Fiesole]])らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、[[ロレンツォ・デ・メディチ]]の父親[[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ|ピエロ]]や伯父ジョヴァンニ([[:en:Giovanni di Cosimo de' Medici]])の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている<ref name=Hartt><br />
{{Cite book<br />
|first=Frederich<br />
|last=Hartt<br />
|title=A History of Italian Renaissance Art<br />
|year=1970<br />
|pages=127–333<br />
}}</ref><ref name=Rosci1>Rosci, ''Leonardo'', chapter 1, ''the historical setting'', pp.9–20</ref><ref name=Bruck/><ref name=Rach/>。<br />
<br />
また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像を[[フレスコ]]で描いた画家[[マサッチオ]]、人物と建築物が複雑な構成で表現された[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家[[ロレンツォ・ギベルティ]]など、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め<ref>Piero della Francesca, ''On Perspective for Painting (De Prospectiva Pingendi)''</ref>、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究と[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]の『絵画論』といった芸術論文が<ref>Leon Battista Alberti, ''De Pictura'', 1435. [http://www.noteaccess.com/Texts/Alberti/ ''On Painting'', in English], [http://www.liberliber.it/biblioteca/a/alberti/de_pictura/html/depictur.htm ''De Pictura'', in Latin] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061102203241/http://www.liberliber.it/biblioteca/a/alberti/de_pictura/html/depictur.htm |date=2006年11月2日 }}</ref>、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった<ref name=Hartt/><ref name=Bruck/><ref name=Rach/>。<br />
<br />
マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画、[[:en:The Expulsion from the Garden of Eden]])は、裸身で取り乱す[[アダムとイヴ]]を力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『[[ダヴィデ像 (ドナテッロ)|ダヴィデ]]』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵、[[:en:St. John the Baptist (Leonardo)]])に影響を与えている<ref name=Hartt/><ref name= Rosci1/>。<br />
<br />
[[File:Leonardo da Vinci Madonna of the Carnation.jpg|thumb|right|『カーネーションの聖母』、1478年 - 1480年、[[アルテ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])。レオナルドが描いた初期の聖母子像。]]<br />
フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、[[聖母子]]を描いた小規模な[[祭壇画]]がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、[[ルカ・デッラ・ロッビア|デッラ・ロッビア]]一族らの工房で制作された作品が多かった<ref name=Hartt/>。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年、[[アルテ・ピナコテーク]]、[[:en:Madonna of the Carnation]])と『[[ブノアの聖母]]』(1478年頃、[[エルミタージュ美術館]])がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『[[聖アンナと聖母子]]』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある<ref name=LB/>。<br />
<br />
レオナルドは[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]](1445年ごろ - 1510年)、[[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]](1449年 - 1494年)、[[ペルジーノ]](1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である<ref name=Rosci1/>。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、[[メディチ家]]が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした<ref name=LB/>。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた<ref name=Hartt/>。<br />
<br />
[[ファイル:Hugo van der Goes 006.jpg|thumb|left|[[フーゴー・ファン・デル・グース|フーホ・ファン・デル・フース]]が描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』中央パネル(1475年頃、[[ウフィツィ美術館]])。フィレンツェの[[サンタ・マリーア・ヌオーヴァ]]施薬院付属サンテディジオ教会の祭壇画用として制作された。]] <br />
ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]から、ヴァチカンの[[システィーナ礼拝堂]]壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』([[:en:Adoration of the Magi (Leonardo)]])だが、未完のままに終わっている<ref name=LB/>。<br />
<br />
レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に<!-- 【訳者(光舟)による注意書き】『ポルティナーリの三連祭壇画』がフィレンツェに持ち込まれたのは1483年のはずだけど、とりあえず英語版のまま訳す。 -->[[初期フランドル派]]の画家[[フーゴー・ファン・デル・グース|フーホ・ファン・デル・フース]]の油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、[[ウフィツィ美術館]]、[[:en:Portinari Altarpiece]])がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である[[油彩]]は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた<ref name=Rosci1/>。その後、[[シチリア]]出身の画家[[アントネロ・ダ・メッシーナ|アントネッロ・ダ・メッシーナ]]が油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]がメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる<ref name=Rosci1/><ref name=Rach/>。<br />
<br />
当時の代表的な建築家[[ドナト・ブラマンテ]]と[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ]]と同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった<ref name=Rosci1/><ref>Hartt, pp.391–2</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Ghirlandaio a-pucci-lorenzo-de-medici-f-sassetti 1.jpg|thumb|ギルランダイオが描いたフレスコ画。左から、アントニオ・プッチ([[:en:Antonio di Puccio Pucci]])、[[ロレンツォ・デ・メディチ]]、フランチェスコ・サセッティ([[:en:Francesco SassettFrancesco Sassetti]])、[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|ジュリオ・デ・メディチ]]。]]<br />
レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者は[[ロレンツォ・デ・メディチ]]だった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟の[[ジュリアーノ・デ・メディチ|ジュリアーノ]]は1478年に起きた、いわゆる[[パッツィ家の陰謀]]で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]は、レオナルドと同年の生まれである<ref name=Rosci1/>。<br />
<br />
レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の提唱者[[マルシリオ・フィチーノ]]、古典文学の注釈書の著者[[クリストフォロ・ランディーノ]]、ギリシア語教授で[[アリストテレス]]の著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ([[:en:John Argyropoulos]])ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者[[ピコ・デラ・ミランドラ]]の姿もあった<ref name=Rosci1/><ref name=Rach/><ref><br />
{{Cite book<br />
|first=Hugh Ross<br />
|last=Williamson<br />
|title=Lorenzo the Magnificent<br />
|year=1974<br />
}}</ref>。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない<ref name=LB/>。<br />
<br />
「[[盛期ルネサンス]]三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった<ref name=Rosci1/>。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである<ref name=Bruck><br />
{{Cite book<br />
|first=Gene A.<br />
|last=Brucker<br />
|title=Renaissance Florence<br />
|year=1969<br />
}}</ref><ref name=Rach><br />
{{Cite book<br />
|first=Ilan<br />
|last=Rachum<br />
|title=The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia<br />
|year=1979<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 私生活 ===<br />
[[ファイル:Da Vinci Isabella d'Este.jpg|thumb|left|upright|マントヴァ侯妃[[イザベラ・デステ]]の肖像習作。1500年、ルーヴル美術館]]<br />
{{Main|en:Leonardo da Vinci's personal life}}<br />
レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し<ref>Vasari, p.253</ref>、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている<ref>Vasari, p.257</ref><ref>Eugene Muntz, ''Leonardo da Vinci Artist, Thinker, and Man of Science'' (1898), quoted at [http://www.ivu.org/history/davinci/hurwitz.html Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism]</ref>。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者[[ルカ・パチョーリ]]は、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している<ref><br />
{{cite web<br />
|url = http://www.metmuseum.org/special/Leonardo_Master_Draftsman/draftsman_left_essay.asp<br />
|title = Leonardo, Left-Handed Draftsman and Writer<br />
|accessdate = 2009-10-18<br />
|last = Bambach<br />
|first = Carmen<br />
|year = 2003<br />
|location = New York<br />
|publisher = Metropolitan Museum of Art<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091110221047/http://www.metmuseum.org/special/leonardo_master_draftsman/draftsman_left_essay.asp<br />
|archivedate = 2009年11月10日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref>。フェラーラ公[[エルコレ1世・デステ]]の娘で、マントヴァ侯妃[[イザベラ・デステ|イザベラ]]とミラノ公妃[[ベアトリーチェ・デステ|ベアトリーチェ]]の姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない<ref>Cartwright Ady, Julia. Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475–1497. Publisher: J.M. Dent, 1899; Cartwright Ady, Julia. Isabella D'Este, Marchioness of Mantua, 1474–1539. Publisher; J.M. Dent, 1903.</ref>。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた<ref name=LB/>。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている<ref>http://www.corriere.it/cultura/13_ottobre_04/leonardo-mai-visto-una-collezione-privata-scoperto-ritratto-fatto-isabella-d-este-99d42288-2ccb-11e3-bdb2-af0e27e54db3.shtml</ref>。<br />
<br />
交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも[[ジークムント・フロイト]]が唱えた説が有名である<ref>Sigmund Freud, ''Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci'', (1910)</ref>。レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり<ref>ロレンツォ・デ・メディチの母[[ルクレツィア・トルナブオーニ|ルクレツィア]]は。トルナブオーニ家出身。</ref>、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある<ref>{{cite web<br />
|url=http://www.bnl.gov/bera/activities/globe/leonardo_da_vinci.htm <br />
|title=How do we know Leonardo was gay?<br />
|publisher=Bnl.gov <br />
|date=2001-05-03 <br />
|accessdate=2011-10-29<br />
}}</ref>。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる<ref>Michael Rocke, ''Forbidden Friendships'' epigraph, p. 148 & N120 p.298</ref> <!-- The info contained here is beyond dispute. It HAS been claimed. Please look at the main article and carry on the argument there. -->。<br />
<br />
=== 助手と弟子 ===<br />
[[ファイル:Leonardo da Vinci - Saint John the Baptist C2RMF retouched.jpg|thumb|upright|『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、[[ルーヴル美術館]]([[パリ]])。ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている<ref name="Salai as John the Baptist"><br />
{{cite news <br />
|url=http://www.artdaily.com/index.asp?int_sec=2&int_new=44665 <br />
|title=Art Historian Silvano Vinceti Claims Male Model Behind Leonardo da Vinci's Mona Lisa |agency=Associated Press <br />
|date=2011-2-2<br />
|accessdate=2011-11-16<br />
|author=Rizzo, Alessandra<br />
}}</ref>。]]<br />
「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られる[[ジャン・ジャコモ・カプロッティ]]がレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている<ref>Leonardo, Codex C. 15v, Institut of France. Trans. Richter</ref>。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている<ref>della Chiesa, p.84</ref>。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた<ref name="Vasari, p.265"/>」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ([[:en:Marco d'Oggiono]])、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ([[:en:Giovanni Antonio Boltraffio]])らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ・ヴァンナ』として知られる、『[[モナ・リザ]]』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている<ref>{{cite web<br />
|last = Gross<br />
|first = Tom<br />
|title = Mona Lisa Goes Topless<br />
|work = <br />
|publisher = Paintingsdirect.com<br />
|date = <br />
|url = http://www.paintingsdirect.com/content/artnews/032001/artnews1.html<br />
|accessdate = 2007-09-27<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070403073656/http://www.paintingsdirect.com/content/artnews/032001/artnews1.html<br />
|archivedate = 2007年4月3日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref>。後にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった<ref name=NR><br />
{{cite web<br />
|last=Rossiter<br />
|first=Nick<br />
|title=Could this be the secret of her smile?<br />
|work= <br />
|publisher=Telegraph.co.UK<br />
|date=2003-07-04<br />
|url=http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2003/04/07/banr.xml<br />
|accessdate=2007-10-03<br />
|location=London<br />
}}</ref>。<br />
<br />
レオナルドは1506年に[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]の貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている<ref name=LB/>。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。<br />
<br />
== 絵画作品 ==<br />
{{See also|en:List of works by Leonardo da Vinci}}<br />
近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われており<ref>(Daniel Arasse, ''Leonardo da Vinci'', pp.11–15)</ref>、いずれの作品も傑作だと見なされている。<br />
<br />
レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である<ref>Frederick Hartt, ''A History of Italian Renaissance Art'', pp.387–411.</ref>。<br />
<br />
=== 初期の絵画作品 ===<br />
[[ファイル:Leonardo Da Vinci - Annunciazione.jpeg|thumb|300px|『[[受胎告知 (レオナルド・ダ・ヴィンチ)|受胎告知]]』、1475年 - 1485年、[[ウフィツィ美術館]](フィレンツェ)。レオナルドの完成している絵画としては、最初期の作品と見なされている。]]<br />
レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14[[センチメートル|cm]]、横59cmの小さな絵画で、もともとは[[ロレンツォ・ディ・クレディ]]の大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている<ref>della Chiesa, pp. 88, 90</ref>。どちらの『受胎告知』も、[[フラ・アンジェリコ]]の『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『[[受胎告知 (レオナルド・ダ・ヴィンチ)|受胎告知]]』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館)は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている<ref name=Berti><br />
{{Cite book <br />
|first = Luciano <br />
|last = Berti<br />
|title = The Uffizi<br />
|year = 1971<br />
|pages = 59–62<br />
}}</ref>。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている<ref name=Hartt/>。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、[[神の母]]たる役割に服従するのではなく、自信に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している<br />
{{refnest |group = "注" <br />
|イギリス人美術史家[[マイケル・バクサンドール]]は、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない<ref><br />
{{Cite book<br />
|first=Michael<br />
|last=Baxandall<br />
|title=Painting and Experience in Fifteenth Century Italy<br />
|year=1974<br />
|pages=49–56<br />
}}</ref>。<br />
}}。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 1480年代の絵画作品 ===<br />
[[ファイル:Leonardo, san girolamo.jpg|left|thumb|upright|『荒野の聖ヒエロニムス』、1480年頃、[[バチカン宮殿|ヴァチカン宮殿]]、未完。]]<br />
レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている<ref name=LB/>。<br />
<br />
[[ファイル:Virgin of the Rocks (Louvre).jpg|thumb|『[[岩窟の聖母]]』、1483年 - 1486年、[[ルーヴル美術館]](パリ)。]]<br />
『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている{{refnest |group = "注" <br />
|『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家[[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]が所有していたが、後に裁断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている<ref name=Wasser2>Wasserman, pp.104–6</ref>。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。<br />
}}。[[ヒエロニムス]]は苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した<ref name=Wasser2/>。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。<br />
<br />
『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、[[ウフィツィ美術館]])で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年に[[ロレンツォ・デ・メディチ]]から、ミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]への使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった<ref name=Chiesa83/><ref name=Berti/>。<br />
<br />
この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『[[岩窟の聖母]]』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス([[:en:Giovanni Ambrogio de Predis]])と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた<ref>Wasserman, p.108</ref>。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている<ref><br />
{{cite web <br />
|title =The Mysterious Virgin <br />
|work = <br />
|publisher =National Gallery, London <br />
|url =http://www.nationalgallery.org.uk/collection/features/potm/2006/may/feature1.htm <br />
|accessdate = 2007-09-27 <br />
}}</ref>。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった<ref name=DA><br />
{{Cite book <br />
|first = Daniel <br />
|last = Arasse <br />
|title = Leonardo da Vinci <br />
|year = 1998 <br />
}}</ref><ref name="Chiesa85"/>。<br />
<br />
=== 1490年代の絵画作品 ===<br />
[[ファイル:Última Cena - Da Vinci 5.jpg|thumb|left|300px|『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』、1498年、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]](ミラノ)。]]<br />
レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノの[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院]]の食堂にある壁画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている<ref>『ヨハネによる福音書』13:21。</ref>」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『[[ヨハネによる福音書]]』の一場面をこの壁画に描き出したのである<ref name=DA/>。<br />
<br />
レオナルドの同時代人のイタリア人著述家[[マッテオ・バンデッロ]]([[:en:Matteo Bandello]]、1480年頃 - 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている<ref>Wasserman, p.124</ref>。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]に苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している<ref>Vasari, p.263</ref>。<br />
<br />
完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが<ref>Vasari, p.262</ref>、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった<ref>della Chiesa, p.97</ref>。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置ける[[フレスコ|フレスコ技法]]ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上から[[テンペラ]]を用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである<ref>della Chiesa, p.98</ref>。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。<br />
<br />
=== 1500年代の絵画作品 ===<br />
[[ファイル:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|『[[モナ・リザ]]』、1503年 - 1505年/1507年、[[ルーヴル美術館]]。]]<br />
レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、[[ルーヴル美術館]]が所蔵する『[[モナ・リザ]]』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「[[スフマート]]」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]はこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている<ref>Vasari, p.267</ref><br />
{{refnest |group = "注" <br />
|ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある<ref name=DA/>。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している<ref>{{cite news<br />
|publisher=BBC News <br />
|title= The Mona Lisa had brows and lashes <br />
|date = 2007-10-22<br />
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7056041.stm <br />
|accessdate=2008-02-22<br />
}}</ref>。<br />
}}。<br />
<br />
その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない{{refnest |group = "注" <br />
|ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる<ref>Wasserman, p.144</ref>。<br />
}}。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している<ref>Vasari, p.266</ref>。ルネサンス期に制作された[[板絵]]としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない<ref>della Chiesa, p.103</ref>。<br />
<br />
自然の風景の中に人物像を描くという『[[聖アンナと聖母子]]』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており<ref>Wasserman, p.150</ref>、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている<ref name=DA/>。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、[[アンドレア・デル・サルト]]らにも影響を与え<ref>della Chiesa, p.109</ref>、さらにはその弟子である[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[コレッジョ]]らにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家[[ティントレット]]や[[パオロ・ヴェロネーゼ]]らが好んで採用した。<br />
<br />
=== ドローイング ===<br />
{{multiple image<br />
| align = right<br />
| direction = horizontal<br />
| header_align = center<br />
| header = <br />
| image1 = Leonardo da vinci, The Virgin and Child with Saint Anne 01.jpg<br />
| width1 =175<br />
| alt1 = <br />
| caption1 = 『[[聖アンナと聖母子]]』、1510年頃、[[ルーヴル美術館]]。<br />
| image2 =Leonardo_da_Vinci_-_Virgin_and_Child_with_Ss_Anne_and_John_the_Baptist.jpg<br />
| width2 = 200<br />
| alt2 = <br />
| caption2 = 『[[聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ]]』、1499年 - 1500年ごろ、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]。<br />
}}<br />
レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿|手稿]]にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。現存するデッサンは900種とも言われている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある<ref name=Popham/>。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている<ref name=LB/><ref name=Popham><br />
{{Cite book <br />
|first = A.E. <br />
|last = Popham <br />
|title = The Drawings of Leonardo da Vinci<br />
|year = 1946 <br />
}}</ref>。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『[[ウィトルウィウス的人体図]]』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城[[ロイヤル・コレクション]])、160cm ×100cmの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある<ref name=Popham/>。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている<ref>della Chiesa, p.102</ref>。<br />
<br />
実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「[[戯画|カリカチュア]]」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している<ref>Vasari, p.261</ref>。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある<ref group = "注">「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。</ref>。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある<ref name=Popham/>。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺された[[パッツィ家の陰謀]]に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである<ref name=Popham/>。このスケッチにはレオナルドが流麗な[[鏡文字]]で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== ギャラリー ===<br />
以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 ({{lang|en|Universally accepted}})」、あるいは「ほぼ真作 ({{lang|en|Generally accepted}})]とされている絵画作品である。<br />
<gallery><br />
ファイル:Leonardo da Vinci - Ginevra de' Benci - Google Art Project.jpg|『[[ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像]]』、1476年 - 1478年頃(諸説あり)、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー・オブ・アート]]<br />
ファイル:Leonardo da Vinci Benois Madonna.jpg|『[[ブノアの聖母]]』、1479年 - 1480年頃(諸説あり)、[[エルミタージュ美術館]]<br />
ファイル:Leonardo da Vinci attributed - Madonna Litta.jpg|『[[リッタの聖母]]』、1481年 - 1497年頃(諸説あり)、[[エルミタージュ美術館]]、他者との合作という説もある<br />
ファイル:Leonardo_da_Vinci_-_Portrait_of_a_Musician.jpg|『音楽家の肖像』、1485年頃(諸説あり)、[[アンブロジアーナ図書館]]<br />
ファイル:Dama z gronostajem.jpg|『[[白貂を抱く貴婦人]]』、1490年頃、[[チャルトリスキ美術館]]<br />
ファイル:Leonardo da Vinci (attrib)- la Belle Ferroniere.jpg|『[[ミラノの貴婦人の肖像]]』、1496年 - 1497年頃(諸説あり)、[[ルーヴル美術館]]<br />
ファイル:Leonardo da Vinci, Madonna of the Yarnwinder, Buccleuch version.jpg|『[[糸車の聖母]]』、1501年 - 1507年頃(諸説あり)、2点のバージョンのうち、[[スコットランド国立美術館]](バクルー公爵家からの貸与絵画)所蔵の作品で他者との合作という説もある<!--<ref><br />
{{Cite book <br />
|last1=Syson <br />
|first1=Luke <br />
|coauthors=Larry Keith, Arturo Galansino, Antoni Mazzotta, Scott Nethersole and Per Rumberg <br />
|title=Leonardo da Vinci: Painter at the Court of Milan <br />
|location=London <br />
|publisher=National Gallery <br />
|year=2011 <br />
|page=294<br />
}}</ref>--><br />
<ref><br />
{{cite book <br />
|last=Zöllner <br />
|first=Frank <br />
|title=Leonardo da Vinci: The Complete Paintings and Drawings <br />
|year=2011 <br />
|volume=1 <br />
|location=Cologne <br />
|publisher=Taschen<br />
|page=239<br />
}}</ref><br />
File:Leonardo da Vinci or Boltraffio (attrib) Salvator Mundi circa 1500.jpg|『救世主』、1504年 - 1507年頃(諸説あり)、プライベートコレクション<br />
File:Leonardo da Vinci - Female head (La Scapigliata) - WGA12716.jpg|『ほつれ髪の女性』、1508年頃、パルマ国立美術館<br />
</gallery><br />
<br />
== 手稿 ==<br />
[[ファイル:Da Vinci Vitruve Luc Viatour.jpg|thumb|『[[ウィトルウィウス的人体図]]』、1485年頃、[[アカデミア美術館 (ヴェネツィア)|アカデミア美術館]](ヴェネツィア)]]<br />
{{seealso|レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿}}<br />
[[人文主義者|ルネサンス人文主義]]では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった<ref name=DA/>。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と[[自然哲学]]が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた<ref name=DA/>。<br />
<br />
レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは[[左利き]]であり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる<ref group = "注">左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Da Vinci Studies of Embryos Luc Viatour.jpg|thumb|left|子宮内の胎児が描かれた手稿。1510年頃、[[ロイヤル・コレクション]]([[ウィンザー城]])]]<br />
レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在では[[ウィンザー城]]の[[ロイヤル・コレクション]]、[[ルーヴル美術館]]、スペイン国立図書館([[:en:Biblioteca Nacional de España]])、[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻のアトランティコ手稿([[:en:Codex Atlanticus]])が、大英博物館にはアランデル手稿([[:en:Codex Arundel]])がそれぞれ所蔵されている<ref><br />
{{cite web <br />
|title =Sketches by Leonardo <br />
|work =Turning the Pages<br />
|publisher =British Library <br />
|url =http://www.bl.uk/onlinegallery/ttp/ttpbooks.html <br />
|accessdate =2007-09-27 <br />
}}</ref>。[[ビル・ゲイツ]]が所蔵するレスター手稿([[:en:Codex Leicester (Leonardo da Vinci)]])は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。<br />
<br />
レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている<ref>Windsor Castle, Royal Library, sheets RL 19073v-19074v and RL 19102 respectively.</ref>。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない<ref name=DA/>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 科学に関する手稿 ===<br />
[[ファイル:Leonardo polyhedra.png|thumb|upright|[[ルカ・パチョーリ]]の『神聖比率』の挿絵。レオナルドが描いたドローイングを版画にしたもの。]]<br />
レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドは[[ラテン語]]や[[数学]]の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。1490年代にレオナルドは[[ルカ・パチョーリ]]のもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』([[:en:De divina proportione]])の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている<ref name=DA/>。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた[[解剖学]]を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている<ref><br />
{{Cite book<br />
|last = O'Malley<br />
|last2 = Saunders<br />
|title = Leonardo on the Human Body<br />
|year = 1982<br />
|publisher = Dover Publications<br />
|publication-place = New York<br />
}}</ref>。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論』({{lang|it|Trattato della pittura}}、ウルビーノ手稿([[:en:Codex Urbinas]])とも呼ばれる)として出版された。1724年にはドイツでも出版されている<ref>della Chiesa, p.117</ref>。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった<ref name=DA/>。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者[[フリッチョフ・カプラ]]のようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世の[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[アイザック・ニュートン]]といった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している<ref>Capra, Fritjof. The Science of Leonardo; Inside the Mind of the Genius of the Renaissance. (New York, Doubleday, 2007)</ref>。<br />
<br />
=== 解剖学に関する手稿 ===<br />
[[ファイル:Studies of the Arm showing the Movements made by the Biceps.jpg|left|thumb|腕骨格の研究手稿、1510年頃。]]<br />
レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、[[筋肉]]、[[腱]]など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。<br />
<br />
著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院([[:en:Hospital of Santa Maria Nuova]])での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ([[:en:Marcantonio della Torre]])とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた<ref name=KDK/>。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった<ref name=DA/><ref name="KDK">Kenneth D. Keele, ''Leonardo da Vinci's Influence on Renaissance Anatomy'', (1964)[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1033412/pdf/medhist00157-0072.pdf]</ref>。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、[[ベンヴェヌート・チェッリーニ|チェッリーニ]]、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]らが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている<ref name=KDK/>。<br />
<br />
レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいう[[バイオメカニクス]]の初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている<ref name=Mason><br />
{{cite book<br />
|last = Mason<br />
|first = Stephen F.<br />
|title = A History of the Sciences<br />
|publisher = Collier Books<br />
|year = 1962<br />
|location = New York, NY<br />
|page = 550<br />
|isbn = <br />
}}</ref>。レオナルドは心臓や[[循環器]]、[[性器]]、[[器官|臓器]]などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている<ref name=Popham/>。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている<ref name=DA/><ref name=Popham/>。<br />
<br />
レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。<br />
<br />
=== 工学と創案に関する手稿 ===<br />
[[ファイル:Design for a Flying Machine.jpg|thumb|[[オーニソプター]]の概念図、1488年頃、[[フランス学士院]]。]]<br />
存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]に宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]も参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった<ref><br />
{{cite book <br />
|author = Roger Masters <br />
|title = Machiavelli, Leonardo and the Science of Power <br />
|year = 1996 <br />
}}</ref><ref><br />
{{cite book <br />
|author = Roger Masters <br />
|title = Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History <br />
|year = 1998 <br />
}}</ref> 。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ([[:en:Viola organista]])、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている<ref name=LB/><ref name=DA/>。<br />
<br />
1502年にレオナルドは、[[オスマン帝国]][[スルタン]]の[[バヤズィト2世]]が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋は[[ボスポラス海峡]]入り江の[[金角湾]]に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト([[:en:Vebjørn Sand Da Vinci Project]])で実際に建設された<ref><br />
{{cite web<br />
|url = http://www.vebjorn-sand.com/<br />
|title = The Leonardo Bridge Project<br />
|publisher = Vebjorn-sand.com<br />
|date = <br />
|accessdate = 2011-10-29<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20111104061901/http://www.vebjorn-sand.com/<br />
|archivedate = 2011年11月4日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref><br />
{{cite news<br />
|last = Levy<br />
|first = Daniel S.<br />
|title = Dream of the Master<br />
|publisher = ''Time'' magazine<br />
|date = October 4, 1999<br />
|url = http://www.vebjorn-sand.com/dreamsofthemaster.html<br />
|accessdate = 2007-09-27<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070912033510/http://www.vebjorn-sand.com/dreamsofthemaster.html<br />
|archivedate = 2007年9月12日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』([[:en:Codex on the Flight of Birds]])などで鳥の飛翔を研究し、[[ハンググライダー]]や[[ヘリコプター]]のような飛行器具の概念図を制作している<ref name=DA/>。イギリスのテレビ局[[チャンネル4]]は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械』({{lang|en|Leonardo's Dream Machines}})で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した<ref>[http://www.imdb.com/title/tt0365434/ Leonardo's Dream Machines]</ref>。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。<br />
<br />
== 名声と評価 ==<br />
{{Main|en:Cultural references to Leonardo da Vinci}}<br />
[[ファイル:Francois I recoit les derniers soupirs de Leonard de Vinci by Ingres.jpg|thumb|『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』、[[ドミニク・アングル]]、1818年。レオナルドはフランス王フランソワ1世に看取られながら死去したという伝承をもとに描かれた作品。]]<br />
レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている<ref name=DA/>。<br />
<br />
ヴァザーリは『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』の1568年に出版された第2版の<ref>Vasari, p.255</ref>、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。<br />
{{Quotation|<br />
多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこのような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。<br />
|[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』<br />
}}<br />
画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者[[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]は1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし<ref><br />
{{Cite journal<br />
|first = Baldassare<br />
|last = Castiglione<br />
|title = Il Cortegiano<br />
|year = 1528<br />
}}</ref>、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している<ref>"Anonimo Gaddiani", elaborating on ''Libro di Antonio Billi'', 1537–1542</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Leonardo IMG 1759.JPG|left|thumb|没地[[アンボワーズ]]にある、レオナルドの銅像。]]<br />
19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家[[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]が1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった<ref><br />
{{Cite journal<br />
|first = Henry<br />
|last = Fuseli<br />
|title = Lectures<br />
|volume = II<br />
|year = 1801<br />
}}</ref>。A. E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した<ref><br />
{{Cite journal<br />
|first = A.E.<br />
|last = Rio<br />
|title = L'art chrétien<br />
|year = 1861<br />
}}</ref>。<br />
<br />
19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。[[イポリット・テーヌ]]は1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている<ref><br />
{{Cite journal<br />
|first = Hippolyte<br />
|last = Taine<br />
|title = Voyage en Italie<br />
|year = 1866<br />
}}</ref>。美術史家[[バーナード・ベレンソン]]は1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している<ref><br />
{{Cite journal<br />
|first = Bernard<br />
|last = Berenson<br />
|title = The Italian Painters of the Renaissance<br />
|year = 1896<br />
}}</ref>。<br />
<br />
レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている<ref><br />
{{cite web<br />
|url = http://www.artnewsonline.com/currentarticle.cfm?art_id=1240<br />
|title = ArtNews article about current studies into Leonardo's life and works<br />
|first = Melinda<br />
|last = Henneberger<br />
|publisher = Art News Online<br />
|accessdate = 2010-01-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060505165842/http://www.artnewsonline.com/currentarticle.cfm?art_id=1240<br />
|archivedate = 2006年5月5日<br />
|deadlinkdate = 2017年9月<br />
}}</ref>。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している<ref name= LB/>。<br />
{{-}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|colwidth=30em|group="注"}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{reflist|25em}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{refbegin|2}}<br />
* {{cite book | author = Daniel Arasse| title = Leonardo da Vinci | publisher = Konecky & Konecky | year = 1997 | isbn = 1-56852-198-7}}<br />
* {{cite book | author = Michael Baxandall | title = Painting and Experience in Fifteenth Century Italy | year = 1974 | publisher = Oxford University Press | isbn = 0-19-881329-5}}<br />
* {{cite book | author = Fred Bérence | title = Léonard de Vinci, L'homme et son oeuvre | publisher = Somogy | year = 1965 | id = Dépot légal 4° trimestre 1965}}<br />
* {{cite book | author = Luciano Berti | title = The Uffizi | year = 1971 | publisher = Scala}}<br />
* {{cite book | author = Liana Bortolon| title = The Life and Times of Leonardo | publisher = Paul Hamlyn, London | year = 1967 | id = }}<br />
* {{cite book | author = Hugh Brigstoke| title = The Oxford Companion the Western Art | publisher = U.S.: Oxford University Press | year = 2001 | isbn = 0-19-866203-3}}<br />
* {{cite book | author = Gene A. Brucker| title = Renaissance Florence | publisher = Wiley and Sons| year = 1969 | isbn = 0-471-11370-0}}<br />
* {{cite book | author = Fritjof Capra | title = The Science of Leonardo | publisher = Doubleday | location = U.S. | year = 2007 |isbn = 978-0-385-51390-6}}<br />
* {{cite book | author = Cennino Cennini | title = Il Libro Dell'arte O Trattato Della Pittui | publisher = BiblioBazaar | location = U.S. | year = 2009 |isbn = 978-1-103-39032-8}}<br />
* {{cite book | author = Angela Ottino della Chiesa| title = The Complete Paintings of Leonardo da Vinci | publisher = Penguin Classics of World Art series | year = 1967 | isbn = 0-14-008649-8}}<br />
* {{cite book | author = Simona Cremante | title = Leonardo da Vinci: Artist, Scientist, Inventor | publisher = Giunti | year = 2005 | isbn = 88-09-03891-6 (hardback)}}<br />
* {{cite book | author = Frederich Hartt| title = A History of Italian Renaissance Art | publisher = Thames and Hudson | year = 1970 | isbn = 0-500-23136-2}}<br />
* {{cite book | author = Michael H. Hart | title = The 100 | publisher = Carol Publishing Group | year = 1992 | isbn = 0-8065-1350-0 (paperback)}}<br />
* {{cite book | author = Martin Kemp| title = Leonardo | publisher = Oxford University Press| year = 2004 | isbn = 0-19-280644-0}}<br />
*{{cite book | title=[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/84801/rec/2 ''Leonardo da Vinci: anatomical drawings from the Royal Library, Windsor Castle''] | location=New York | publisher=The Metropolitan Museum of Art | year=1983 | isbn=9780870993626}}<br />
* {{cite book| author = Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo | title = Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems| work = | publisher = Birkhauser| year = 2004| isbn = 3-7643-6940-X}}<br />
* {{cite book | author = John N. Lupia| title = The Secret Revealed: How to Look at Italian Renaissance Painting | publisher = Medieval and Renaissance Times, Vol. 1, no. 2 (Summer, 1994): 6–17 | issn = 1075-2110}}<br />
* {{cite book | author = Andrew Martindale| title = The Rise of the Artist | publisher = Thames and Hudson | year = 1972 | isbn = 0-500-56006-4}}<br />
* {{cite book | author = Roger Masters | title = Machiavelli, Leonardo and the Science of Power | publisher = University of Notre Dame Press | year = 1996 | isbn = 0-268-01433-7}}<br />
* {{cite book | author = Roger Masters | title = Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History | publisher = Simon & Schuster | year = 1998 | isbn = 0-452-28090-7}}<br />
* {{cite book | author = Charles D. O'Malley and J. B. de C. M. Sounders | title = Leonardo on the Human Body: The Anatomical, Physiological, and Embryological Drawings of Leonardo da Vinci. With Translations, Emendations and a Biographical Introduction | publisher = Henry Schuman, New York | year = 1952 | id = }}<br />
* {{cite book | author = Charles Nicholl | title = Leonardo da Vinci, The Flights of the Mind | publisher = Penguin | year = 2005 | isbn = 0-14-029681-6}}<br />
* {{cite book | author = Sherwin B. Nuland| title = Leonardo Da Vinci | publisher = Phoenix Press | year = 2001 | isbn = 0-7538-1269-X}}<br />
* {{cite book | author =A.E. Popham | title = The Drawings of Leonardo da Vinci | publisher = Jonathan Cape | year = 1946 | isbn = 0-224-60462-7}}<br />
* {{cite book | author =Shana Priwer & Cynthia Phillips | title = The Everything Da Vinci Book: Explore the Life and Times of the Ultimate Renaissance Man | publisher = Adams Media | year = 2006 | isbn = 1-59869-101-5}}<br />
* {{cite book | author = Ilan Rachum| title = The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia'' | publisher = Octopus | year = 1979 | isbn = 0-7064-0857-8}}<br />
* {{cite book | author = Jean Paul Richter | title = The Notebooks of Leonardo da Vinci | publisher = Dover | year = 1970 | isbn = 0-486-22572-0}} volume 2: ISBN 0-486-22573-9. A reprint of [http://www.gutenberg.org/etext/5000 the original 1883 edition].<br />
* {{cite book | author = Marco Rosci| title = Leonardo | publisher = Bay Books Pty Ltd| year = 1977 | isbn = 0-85835-176-5}}<br />
* {{cite book | author = Paolo Rossi| title = The Birth of Modern Science | publisher = Blackwell Publishing| year = 2001 | isbn = 0-631-22711-3}}<br />
* {{cite book | author = Bruno Santi | title = Leonardo da Vinci | publisher = Scala / Riverside | year = 1990}}<br />
* {{cite book |author = Theophilus | title = On Divers Arts | publisher = University of Chicago Press | location=U.S. |year = 1963 | isbn = 978-0-226-79482-2}}<br />
* {{cite book | author = Jack Wasserman | title = Leonardo da Vinci | publisher = Abrams | year = 1975 | isbn = 0-8109-0262-1}}<br />
* {{cite book | author = Giorgio Vasari| title = Lives of the Artists'' | publisher = Penguin Classics, trans. George Bull 1965| year = 1568 | isbn = 0-14-044164-6}}<br />
* {{Cite book | first = Hugh Ross | last = Williamson | title = Lorenzo the Magnificent | year = 1974 | publisher = Michael Joseph | isbn = 0-7181-1204-0}}<br />
* {{cite book | author = Emanuel Winternitz | title=Leonardo Da Vinci As a Musician | year=1982 | publisher=Yale University Press | location=U.S. | isbn=978-0-300-02631-3}}<br />
* {{cite book | author = Alessandro Vezzosi | title = Leonardo da Vinci: Renaissance Man | publisher = Thames & Hudson Ltd, London | year = 1997 (English translation) | isbn = 0-500-30081-X}}<br />
* {{cite book | author = Frank Zollner | title = Leonardo da Vinci: The Complete Paintings and Drawings | publisher = Taschen | year = 2003 | isbn = 3-8228-1734-1 (hardback)}} [The chapter "The Graphic Works" is by Frank Zollner & Johannes Nathan].<br />
{{refend}}<br />
<br />
== 関連文献 ==<br />
* 『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7<br />
* 『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6<br />
*: 万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。しかし、レオナルドの功績は絵画の革新など別の面にもある。<br />
*『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9<br />
*『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年<br />
*『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学』 カルロ・ペドレッティ、アンドレ・シャステル、パオロ・ガッルッツィ、ルカ・アントッチャ、マルコ・チャンキ共著、[[前田富士男]]・ラーン大原三恵・小林明子訳、イースト・プレス、2006年。<br />
*『[[下村寅太郎]]著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。 <br />
*『[[兒島喜久雄]] レオナルド研究寄與』[[澤柳大五郎]]編、座右宝刊行会 1973。<br />
*[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿]]<br />
** 『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説 <br />
**: 日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984。 <br />
**『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001 <br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿]]<br />
* [[クリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ]] - 宮廷料理人、"料理界のダヴィンチ"と呼ばれる<br />
* [[美しき姫君]]<br />
* [[ルネサンス期のイタリア絵画]]<br />
* [[フィウミチーノ空港|レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港]]<br />
* [[全日本空輸]] - 設立当初のロゴに、ダ・ヴィンチのヘリコプターが図案として使われていた<br />
* [[児島喜久雄]] - 戦前日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。<br />
* [[ダ・ヴィンチ・コード]] - レオナルドにまつわる謎を描いた小説<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Sisterlinks|commons=Leonardo da Vinci}}<br />
{{Wikisource author|Leonardo da Vinci}}<br />
* [http://www.gutenberg.net/etext04/7ldvc09.txt レオナルド・ダ・ヴィンチのノート] ([[プロジェクト・グーテンベルク|Project Gutenberg]])<br />
* [http://www.bbc.co.uk/science/leonardo/ BBCのレオナルド特集ページ]<br />
* {{ws|"[[wikisource:Catholic Encyclopedia (1913)/Leonardo da Vinci|Leonardo da Vinci]]" in the 1913 ''Catholic Encyclopedia''}}<br />
* [http://leonardovirginoftherocks.blogspot.com/ Leonardo da Vinci and ''the Virgin of the Rocks'', A different point of view]<br />
* {{gutenberg author|Leonardo_da_Vinci}}<br />
* {{gutenberg|no=7785|name=Leonardo da Vinci'' by Maurice Walter Brockwell'}}<br />
* [http://www.sacred-texts.com/aor/dv/index.htm Complete text & images of Richter's translation of the Notebooks]<br />
* [http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/leonardo/ Web Gallery of Leonardo Paintings]<br />
* [http://www.drawingsofleonardo.org/ Drawings of Leonardo da Vinci]<br />
* [http://arts.guardian.co.uk/features/story/0,,1860869,00.html Da Vinci Decoded] Article from ''[[The Guardian]]''<br />
* [http://www.ted.com/index.php/talks/view/id/235 The true face of Leonardo Da Vinci?]<br />
* [http://www.ivu.org/history/davinci/hurwitz.html Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism]<br />
* [http://fulltextarchive.com/pages/The-Notebooks-of-Leonardo-Da-Vinci-Complete1.php The Notebooks of Leonardo da Vinci]<br />
* [http://davincideluge.blogspot.com/ Selected 'prophecies' from Volume II of the notebooks (translated)]<br />
*[http://hos.ou.edu/galleries//15thCentury/Leonardo/ Online Galleries, History of Science Collections, University of Oklahoma Libraries] High resolution images of works by and/or portraits of Leonardo da Vinci in .jpg and .tiff format.<br />
* [http://www.royalcollection.org.uk/exhibitions/leonardo-da-vinci-anatomist Leonardo da Vinci: Anatomist] The Queen's Gallery, Buckingham Palace, Friday, 4 May 2012 to Sunday, 7 October 2012. High-resolution anatomical drawings.<br />
*[https://web.archive.org/web/20120629053406/http://news.yahoo.com/famous-leonardo-self-portrait-critical-condition-144805263.html Yahoo news, Leonardo's Self-portrait in critical condition]<br />
*[http://news.yahoo.com/blogs/sideshow/exclusive-500-old-leonardo-da-vinci-sculpture-horse-201456519.html Yahoo news, EXCLUSIVE: 500-year-old Leonardo da Vinci sculpture ‘Horse and Rider’ unveiled]<br />
* [https://owlstand.com/exhibition/room/ffc54ff6-1960-46ea-828d-1bae917148b6 レオナルド・ダ・ヴィンチ の高解像度オンライン展覧会]<br />
* [http://www.bl.uk/manuscripts/Viewer.aspx?ref=arundel_ms_263_f001r The Codex Arundel] 大英図書館所蔵 ダ・ヴィンチ手記<br />
{{レオナルド・ダ・ヴィンチ}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{Good article}}<br />
{{デフォルトソート:たういんち れおなると}}<br />
[[Category:レオナルド・ダ・ヴィンチ|*]]<br />
[[Category:イタリアの画家]]<br />
[[Category:イタリアの彫刻家]]<br />
[[Category:イタリアの建築家]]<br />
[[Category:イタリアの数学者]]<br />
[[Category:イタリアの哲学者]]<br />
[[Category:ルネサンス美術]]<br />
[[Category:フィレンツェ派]]<br />
[[Category:15世紀の美術家]]<br />
[[Category:15世紀の数学者|520415]]<br />
[[Category:15世紀の哲学者]]<br />
[[Category:16世紀の美術家]]<br />
[[Category:16世紀の数学者|-520415]]<br />
[[Category:16世紀の哲学者]]<br />
[[Category:ドローイング作家]]<br />
[[Category:航空の先駆者]]<br />
[[Category:数値解析研究者]]<br />
[[Category:水理学に関する人物]]<br />
[[Category:軍事顧問]]<br />
[[Category:軍事技術者]]<br />
[[Category:菜食主義者]]<br />
[[Category:イタリア・リラ紙幣の人物]]<br />
[[Category:1452年生]]<br />
[[Category:1519年没]]<br />
[[Category:数学に関する記事]]</div>
119.230.24.142
コイ
2018-08-13T09:55:42Z
<p>119.230.24.142: /* 生態 */</p>
<hr />
<div>{{生物分類表<br />
|名称 = 野ゴイ<br />
|色 = 動物界<br />
|画像=[[ファイル:Cyprinus carpio-2.JPG|250px]]<br />
|画像キャプション = 野ゴイ(滋賀県立琵琶湖博物館の飼育個体)<br />
|界 = [[動物界]] [[:w:Animalia|Animalia]]<br />
|門 = [[脊索動物門]] [[:w:Chordata|Chordata]]<br />
|亜門 = [[脊椎動物亜門]] [[:w:Vertebrata|Vertebrata]]<br />
|綱 = [[条鰭綱]] [[:w:Actinopterygii|Actinopterygii]]<br />
|上目 = [[骨鰾上目]] [[w:Ostariophysi|Ostariophysi]]<br />
|目 = [[コイ目]] [[:en:Cypriniformes|Cypriniformes]]<br />
|科 = [[コイ科]] [[:en:Cyprinidae|Cyprinidae]]<br />
|亜科 = [[コイ亜科]] [[:en:Cyprininae|Cyprininae]]<br />
|属 = [[コイ属]] ''[[:en:Cyprinus|Cyprinus]]''<br />
|種 = '''コイ''' ''C. carpio''<br />
|学名 = ''Cyprinus carpio''<br/><small>([[カール・フォン・リンネ|L]]. [[1758年|1758]])</small><br />
|和名 = 野ゴイ<br/>コイ<br />
|英名 = [[:en:Common carp|Common carp]]<br/>[[:en:carp|carp]]<br />
|status = VU<br />
|status_ref =<ref>{{IUCN2008|assessors=Freyhof, J. & Kottelat, M.|year=2008|id=6181|title=Cyprinus carpio|downloaded=08 May 2009}}</ref><br />
}}<br />
<br />
[[ファイル:Cyprinus carpio.jpeg|thumb|200px|コイ飼育型]]<br />
[[ファイル:carp.jpg|thumb|200px|コイ飼育型とソウギョ(中央はニシキゴイ)]]<br />
'''コイ'''('''鯉'''、[[学名]]:''Cyprinus carpio'')は、[[コイ目]]・[[コイ科]]に分類される[[魚]]で、比較的流れが緩やかな[[川]]や池、[[沼]]、[[湖]]、[[用水路]]などにも広く生息する[[淡水魚]]である。[[ニゴイ]]とは同科異亜科の関係にある。<br />
<br />
== 生態 ==<br />
コイは外見が同亜科異属の[[フナ]]に似るが、[[頭]]や[[目]]が体に対して小さく、口もとに2対の口[[ひげ]]がある。体長は 60センチ程度だがまれに1メートルを超すものもいる。飼育されたり[[養殖]]されてきた系統の個体は体高が高く、動きも遅いが、野生の個体は体高が低く細身な体つきで、動きもわりあい速い。なお雌に比べて雄の方が頭が大きい。<br />
<br />
食性はとても悪食で、[[水草]]、[[貝類]]、[[ミミズ]]、[[ゴカイ]][[昆虫類|、昆虫類]]、[[甲殻類]]、他の魚の卵や[[小魚]]、[[カエル]]、[[トウモロコシ]]、[[芋]]、[[麩]]、[[パン]]、[[カステラ]]など、口に入るものならたいていなんでも食べる。口に[[歯]]はないが、のどに咽頭歯という歯があり、これで硬い[[貝殻]]なども砕き割ってのみこむ。さらに口は開くと下を向き、湖底の餌をついばんで食べやすくなっている。なお、コイには[[胃]]がない。コイ科の特徴として、[[骨鰾上目#ウェーバー器官|ウェーバー器官]]を持ち、音に敏感である。<br />
<br />
産卵期は[[春]]から初夏にかけてで、この時期になると大きなコイが浅瀬に集まり、バシャバシャと水音を立てながら[[水草]]に産卵・放精をおこなう。一度の産卵数は50万-60万ほどもある。卵は付着性で水草などに付着し、数日のうちに[[孵化]]する。稚魚はしばらく浅場で過ごすが、成長につれ深場に移動する。<br />
<br />
生命力は極めて強く、魚にしては長寿の部類で、平均20年以上でまれに70年を超す個体もある。[[鱗]]の年輪から推定された最長命記録は、[[岐阜県]][[東白川村]]で飼われていた「[[花子 (コイ)|花子]]」と呼ばれる個体の226年だが、これは信憑性が疑問視されている。長寿であることのほか、汚れた水にも対応する環境適応能力が高く、しかも水から上げてしばらく水のないところで置いていても、他の魚に比べて長時間生きられるようである。水質の低温化にも強い。<br />
<br />
[[川]]の中流や下流、[[池]]、[[湖]]などの淡水域に生息する。飼育されたコイは流れのある[[浅瀬]]でも泳ぎまわるが、野生のコイは流れのあまりない深みにひそんでおり、産卵期以外はあまり浅瀬に上がってこない。[[滝]]を登るということがよく言われるがこれは[[中国]]の[[神話]][[伝説]]の類に由来する言い伝えであって、普通程度の大きさのコイが滝を登ることは通常は無い。コイはジャンプが下手であり、『モジリ』という水面下まで上がって反転する行動が一般にはジャンプと誤認されていることも多い。ただし小型のコイはまれに2メートル程度の高さまでジャンプすることがあり、この場合は滝を登ることがありうるものの、格別に「滝を登る」という習性がコイにあるわけではない。<br />
{{Anchors|野ゴイ}}<br />
<br />
=== ノゴイ ===<br />
漁師や釣り人などから、養殖され、放流もよく行われている体高の高いコイと、[[琵琶湖]]などの湖や[[四万十川]]のような大きな河川に見られる体高が低いコイの性質が、著しく異なることが古くから指摘されていた。後者は「ノゴイ」(野鯉)と呼ばれて前者の系統で野生繁殖しているものと区別されており、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]など従来よりこの相違に注目する研究者も多少はいた。21世紀になって[[コイヘルペスウイルス]]による感染症の流行で捕獲しにくいノゴイの死体が多数得られたことから、これを用いて遺伝子解析した研究が[[2006年]]になって報告された。<ref>{{Cite journal|和書 |author=馬渕浩司|coauthors=瀬能 宏・武島弘彦・中井克樹・西田 睦|year=2010-04-26 |title=琵琶湖におけるコイの日本在来mtDNAハプロタイプの分布 |journal=魚類学雑誌 |volume=57 |issue=1 |pages=1-12 |publisher=日本魚類学会 |naid=40017117020 |issn=00215090 |url=http://www.wdc-jp.biz/pdf_store/isj/publication/pdf/57/5701-01.pdf|ref=harv}}</ref>それによると、外来の体高の高いコイとノゴイは種レベルに相当する遺伝子の差があることが報告され、日本列島在来の別種として新種記載の必要性も指摘されている。<ref>馬渕浩司(2013年6月2日)「絶滅危機!日本のコイ」『[[サイエンスZERO]]』第427回。[[NHK教育テレビジョン]]。</ref><br />
<br />
=== 分布 ===<br />
==== コイ本来の分布 ====<br />
もともとは[[中央アジア]]原産とされるが、環境適応性が高く、また重要な食用魚として養殖、放流が盛んに行われたために現在は世界中に分布している。[[日本]]のコイは大昔に[[中国]]から移入された「史前[[外来種|帰化動物]]」とされたこともあったが、[[琵琶湖]]など各地に野生のコイが分布し、[[第三紀]]の[[地層]]から[[化石]]も発見されていることから、やはり古来日本に自然分布していたとされる。[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の『日本動物誌』<ref>シーボルト『[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b02/pisces.html 日本動物誌魚類]』京都大学電子図書館。</ref>においても、''Cyprinus conirostris''、''Cyprinus melanotus''、''Cyprinus haematopterus'' の3種が紹介されているが、学術的にさほど注目もされず今日に至っている。<br />
欧米でもドイツなどでは盛んに養殖され、食用の飼育品種も生み出されている。<br />
{{Anchors|錦鯉の放流と生態系の破壊問題}}<br />
<br />
==== コイによる生態系の破壊問題 ====<br />
<!--{{出典の明記|date=2015年3月9日 (月) 05:43 (UTC)|section=1}}--><br />
[[環境問題]]が重視されるようになって[[河川]]の[[環境保護]]等に力が注がれている。そうした活動のうちに[[自然]]の河川に[[魚]]を放流する事業があるが、中には地元の[[固有種]]とは関係の無いニシキゴイ等、本来自然界に存在すべきでない飼養種までもが放流されることがままある。こうした放流について、地元の固有種との交雑が起こって何万年もかけて築かれてきた固有種の[[絶滅]]を懸念する([[遺伝子汚染]])声<ref name="kkgrg">{{Cite book|和書|author=日本魚類学会自然保護委員会|title=見えない脅威“国内外来魚”|date=2013-07-10|publisher=東海大学出版会|coauthors=向井貴彦・鬼倉徳雄・淀大我・瀬能宏}}ISBN 978-4-486-01980-0</ref>もあるのだが、当事者には全く意識されていないのが現状である。 同様の問題は[[メダカ]]や[[金魚]]や[[蛍]]に関してもいえることである。また、ニシキゴイの放流が原因と推測される[[コイヘルペスウイルス]]による感染症が地元のコイに蔓延し大量死する事件もある。<br />
<br />
同じことは飼養種でないコイについても言える。コイは体が大きくて見栄えがするため、「コイが棲めるほどきれいな水域」というきわめて安直な趣旨で[[自治体]]レベルで[[川]]や[[ダム]]などに[[放流]]されることが多い。しかしコイはもともと[[生物化学的酸素要求量|BOD値]]の高い湖沼や河川を好んで住処とする種で、低酸素環境に対する高い耐性がある。これは、生物界における一般的な基準からすると、他の生物の嫌う水質の悪い水域にしか生息できないことを意味する。実際、逆に水質がよい小川の堰の内部に放流したニシキゴイが餌の問題から大量に[[餓死]]する例も報告<ref name=kkgrg/>されており、「コイが棲める=きれいな水域」という図式は成立し得ないことがわかる。<br />
<br />
市街地の汚れた河川を上から眺めれば、[[ボラ]]と放流されたコイばかりが目につくということが多々ある。しかもコイは各種水生生物を貪欲に食べてしまうので、往々にして河川環境の単純化を招きかねない<ref name=kkgrg/>。[[生物多様性]]の観点からすれば、もともとコイがいない水域にコイを放流するのは有害ですらある。<br />
<br />
日本では外来魚である[[ブラックバス]]の問題がたびたび引き合いに出されるが、上述したようなコイの放流はブラックバスの放流と同様の問題を抱えている。本種には低温に対する耐性や雑食性、さらに60センチ・メートルを超える大きさにまで育ち、大きくなると[[天敵]]がほとんどいなくなるといった特徴がある。こうした特徴はいずれも[[外来種|侵略的外来生物]]に共通するものであり、実際[[国際自然保護連合]]では、コイを[[世界の侵略的外来種ワースト100]]のうちの1種に数えている。<br />
<br />
特にコイを食す習慣のない北アメリカでは、在来の水生生物を圧迫するまでに繁殖している。人為的放流を禁じている州もあるほどで、北アメリカ以外でも猛威を振るっている例が報告されている。[[アメリカ合衆国]]では、中国原産のコイである[[ハクレン]]と[[コクレン]]が[[五大湖]]周辺に進出しており、これが五大湖に流れ込んだ場合、五大湖固有の魚が駆逐される可能性が指摘されている<ref>{{Cite news<br />
| url = http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date1&k=2012022800652<br />
| title = 五大湖、コイから守れ=5州の訴え実らず-米<br />
| publisher = 時事通信<br />
| date = 2012-3-2<br />
| accessdate = 2012-3-2<br />
}}{{リンク切れ|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date1&k=2012022800652|date=April 2018}}</ref>。<br />
<br />
== 保全状態 ==<br />
野生種本来の分布域に生息する[[個体群]]は、河川の改修にともなう[[生態系]]の破壊や、他地方からの移入個体との[[交雑]]による[[遺伝子汚染]]による在来個体群の絶滅が危惧されており、[[2008年]]に国際自然保護連合により'''危急'''(Vulnerable)に指定されている。<br />
<br />
== 文化 ==<br />
=== 観賞魚・錦鯉 ===<br />
{{main article|ニシキゴイ}}<br />
<br />
=== 食材 ===<br />
{{hidden begin|border = #aaa solid 1px|titlestyle=text-align: center; |title=コイの栄養価の代表値|bg=#F0F2F5}}<br />
{{栄養価 | name=コイ(生)| water =76.31 g| kJ =531| protein =17.83 g| fat =5.6 g| carbs =0 g| fiber =0 g| sugars =0 g| calcium_mg =41| iron_mg =1.24| magnesium_mg =29| phosphorus_mg =415| potassium_mg =333| sodium_mg =49| zinc_mg =1.48| manganese_mg =0.042| selenium_μg =12.6| vitC_mg =1.6| thiamin_mg =0.115| riboflavin_mg =0.055| niacin_mg =1.64| pantothenic_mg =0.75| vitB6_mg=0.19| folate_ug =15| choline_mg =65| vitB12_ug =1.53| vitA_ug =9| betacarotene_ug =0| lutein_ug =0| vitE_mg =0.63| vitD_iu =988| vitK_ug =0.1| satfat =1.083 g| monofat =2.328 g| polyfat =1.431 g| tryptophan =0.2 g| threonine =0.782 g| isoleucine =0.822 g| leucine =1.449 g| lysine =1.638 g| methionine =0.528 g| cystine =0.191 g| phenylalanine =0.696 g| tyrosine =0.602 g| valine =0.919 g| arginine =1.067 g| histidine =0.525 g| alanine =1.078 g| aspartic acid =1.826 g| glutamic acid =2.662 g| glycine =0.856 g| proline =0.631 g| serine =0.728 g| right=1 | source_usda=1 }}<br />
{| class="wikitable" style="float:right; clear:right"<br />
|+ コイ(100g中)の主な[[脂肪酸]]の種類<ref>[http://ndb.nal.usda.gov/ USDA National Nutrient Database]</ref><br />
|-<br />
! 項目 !! 分量(g)<br />
|-<br />
| [[脂肪]] || 5.6<br />
|-<br />
| [[飽和脂肪酸]] || 1.083<br />
|-<br />
| [[不飽和脂肪酸|一価不飽和脂肪酸]] || 2.328<br />
|-<br />
| 16:1([[パルミトレイン酸]]) || 0.655<br />
|-<br />
| 18:1([[オレイン酸]]) || 1.15<br />
|-<br />
| 20:1 || 0.071<br />
|-<br />
| 22:1 || 0.402<br />
|-<br />
| [[多価不飽和脂肪酸]] || 1.431<br />
|-<br />
| 18:2([[リノール酸]]) || 0.517<br />
|-<br />
| 18:3([[α-リノレン酸]]) || 0.27<br />
|-<br />
| 18:4([[ステアリドン酸]]) || 0.058<br />
|-<br />
| 20:4(未同定) || 0.152<br />
|-<br />
| 20:5 n-3([[エイコサペンタエン酸]](EPA)) || 0.238<br />
|-<br />
| 22:5 n-3([[ドコサペンタエン酸]](DPA)) || 0.082<br />
|-<br />
| 22:6 n-3([[ドコサヘキサエン酸]](DHA)) || 0.114<br />
|}<br />
{{hidden end}}<br />
食材としての鯉は、福島県からの出荷量が最多<ref>[http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001069811 内水面養殖業収獲量 都道府県別・魚種別収獲量] 農林水産省</ref>で、[[鯉こく]](血抜きをしない[[味噌]]仕立ての汁)、うま煮(切り身を砂糖醤油で甘辛く煮付けたもの)、[[甘露煮]]にする。稀に[[鱗]]を[[唐揚げ]]し、[[スナック菓子]]のように食べることもある。また、[[洗い]]にして酢味噌や山葵醤油を付けて食べる例もある。しかし、生食や加熱不完全な調理状態の物を摂食すると、[[肝吸虫]]<ref>[http://www.forth.go.jp/useful/attention/08.html こんなに怖い寄生虫] 厚生労働省検疫所</ref>や[[有棘顎口虫]] ({{snamei|Gnathostoma spinigerum}}) による[[寄生虫病]]を発症する可能性がある<ref>{{PDFlink|[http://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/H22_31.pdf 口虫(1/11) ※平成 22 年度食品安全確保総合調査] 食品安全委員会}}</ref><ref>[http://doi.org/10.11334/jibi1954.4.1_61 喉頭顎口虫症の1例] 耳鼻と臨床 Vol.4 (1957-1958) No.1 p.61-64</ref>。捕獲した鯉は、調理に際しきれいな水を入れたバケツの中に半日-数日程入れて泥の臭いを抜く。さばくときは濡れた布巾等で目を塞ぐとおとなしくなる。<br />
<br />
[[藍藻]]は[[ゲオスミン]]や2-メチルイソボルネオールを作り、これが[[魚]]の[[皮膚]]や血合に濃縮される。このゲオスミンが、鯉や[[ナマズ]]など水底に棲む淡水魚が持つ泥臭いにおいのもとでもある。ゲオスミンは[[酸性]]条件で分解するので、[[酢]]など酸性の[[調味料]]を[[調理]]に使えば泥臭さを抑えることができる。<br />
<br />
==== 食中毒 ====<br />
コイの[[胆嚢]](苦玉)は苦く、解体時にこれをつぶすと身に苦味が回る。胆嚢には[[コイ毒]](毒性物質は[[胆汁酸]]の[[5-αチブリノール]]と[[スルフェノール]])が含まれている場合があり、摂食により[[下痢]]や[[嘔吐]]、[[腎不全]]、肝機能障害、[[痙攣]]、[[麻痺]]、意識不明を引き起こすほか、まれに死亡例もある<ref name="kobe">[http://www.city.kobe.lg.jp/life/health/infection/trend/m/kg42_1.html <特集>マリントキシン]{{リンク切れ|url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/health/infection/trend/m/kg42_1.html|date=April 2018}}-神戸市環境保健研究所</ref><ref>[http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/poison/animal_det_05.html 自然毒のリスクプロファイル:魚類:胆のう毒]厚生労働省</ref>。その反面、視力低下やかすみ目などに効果があるとされ、'''鯉胆'''(りたん)という生薬名で錠剤にしたものが販売されている。<br />
<br />
==== 日本 ====<br />
海から離れた地域では古くから貴重な動物性タンパク源として重用され、[[将軍]]や[[天皇]]に出される正式な饗応料理や日常的にも慶事・祝事の席などでも利用されてきた<ref name="NAID.40016621269">中澤弥子、鈴木和江、小木曽加奈、吉岡由美、[http://id.nii.ac.jp/1118/00000151/ コイ刺身の食味と物性 : 佐久鯉と福島産鯉の比較] 長野県短期大学紀要 63 (2008): 25-31, NAID:40016621269</ref>。かつて[[サケ]]や[[ブリ]]の入手が困難であった地域では、[[御節料理]]の食材として今日でも利用されている。内陸の山間部である[[山形県]][[米沢市]]は冬場は雪に閉ざされ、住民はタンパク質が不足がちな食生活をしていた。タンパク質を補う目的で[[上杉鷹山]]は[[1802年]]に相馬から鯉の稚魚を取り寄せ、鯉を飼うことを奨励した。各家庭の裏にある台所排水用の小さな溜めで台所から出る米粒や野菜の切れ端を餌にして蓄養した。現在の養殖では、主に農業用の溜め池が利用されるほか、長野県[[佐久地域]]では稲作用水田も利用されている。食生活の変化から需要の減少<ref>[http://doi.org/10.3739/rikusui.74.1 【原著】霞ヶ浦における魚類および甲殻類の現存量の経年変化] 陸水学雑誌 Vol.74 (2013) No.1 P1-14</ref>と共に全国の生産額は年々減少し、[[1998年]]には3億6000万円ほどであったが[[2008年]]には1億5000万円余りまで減少している<ref>[http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001069810 年次別統計 (平成10年〜平成20年)/魚種別生産額 - 内水面養殖業 ] [[農林水産省]]</ref>。<br />
<br />
==== 中華人民共和国 ====<br />
[[中華料理]]では、山西省に鯉1尾を丸ごと[[から揚げ]]にして甘酢あんをかけた料理「糖醋鯉魚」(タンツウリイユィ)があり、日本でも代表的な宴会メニューの1つとなっている。<br />
<br />
==== ヨーロッパ ====<br />
鯉は[[中央ヨーロッパ|中欧]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]では、古くからよく食べられている。特に[[スラヴ人]]にとっては鯉は聖なる食材とされ、[[ウクライナ]]・[[ポーランド]]・[[チェコ]]・[[スロバキア]]・[[ドイツ]]・[[ベラルーシ]]などでは伝統的な[[クリスマス・イヴ]]の夕食には欠かせないものである。[[アシュケナジム|東欧系ユダヤ教徒]]が[[安息日]]に食べる魚料理「[[ゲフィルテ・フィッシュ]]」の素材としても、鯉がよく用いられた。しかし[[アングロアメリカ|北米]]では、鯉は水底でえさをあさるために泥臭いとして敬遠されており、[[釣り]](遊漁)の対象魚とはされても食材として扱われることは極めてまれである。ヨーロッパでは、鏡鯉から食用に品種改良され[[家畜]]化された鱗のない鯉、革鯉(Leather carp)と呼ばれる鯉が使われる。<br />
<br />
=== 釣り ===<br />
{{see|野鯉釣り}}<br />
<br />
=== 伝承 ===<br />
[[ファイル:Yoshitoshi The Giant Carp.jpg|thumb|right|100px|[[月岡芳年]]画:『金太郎捕鯉魚』]]<br />
中国では、鯉が滝を登りきると[[龍]]になる[[登龍門]]という言い伝えがあり、古来尊ばれた。その概念が日本にも伝わり、[[江戸時代]]に武家では子弟の立身出世のため、[[武士]]の庭先で[[端午]]の[[節句]]([[旧暦]][[5月5日 (旧暦)|5月5日]])あたりの[[梅雨]]期の[[雨]]の日に鯉を模した[[こいのぼり]]を飾る風習があった。[[明治]]に入って[[四民平等]]政策により武家身分が廃止され、こいのぼりは一般に普及した。現在では、[[グレゴリオ暦]]([[新暦]])[[5月5日]]に引き続き行なわれている。<br />
また比喩的表現として、将来、有能・有名な政治家・芸術家・役者になるため最初に通るべき関門を登龍門と指して言うこともしばしばある。<br />
<br />
『[[日本書紀]]』第七巻には、[[景行天皇]]が[[美濃国|美濃]]([[岐阜県|岐阜]])に[[行幸]]した時、美女を見そめて求婚したが、彼女が恥じて隠れてしまったため、鯉を池に放して彼女が鯉を見に出てくるのを待った、という説話が出てくる。<br />
<br />
日本では古くから女性が健康(体力作り)のために鯉を食したと言う伝説や伝承があり、妊婦が[[酸っぱい]]鯉を食べて健康になり、無事、安産できたと言う伝説もある。また、御産の後に鯉を食べると[[母乳]]がよく出ると言う伝承も見られる。こうした話は東西を問わず内陸地には多い伝承である。<br />
<br />
== 参考文献及び脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[人面魚]]<br />
* [[コイキング]]<br />
* [[四大家魚|五大家魚]]<br />
* [[広島東洋カープ]] - 球団名は[[広島城]]の異名・鯉城(りじょう)にちなむ。<br />
* [[魚の一覧]]<br />
* [[子持鯉の煮付]]<br />
<br />
{{Commonscat|Cyprinus carpio}}<br />
{{Wikispecies|Cyprinus carpio}}<br />
{{デフォルトソート:こい}}<br />
[[Category:コイ科]]<br />
[[Category:コイ亜科]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[Category:淡水魚]]<br />
[[Category:釣りの対象魚]]</div>
119.230.24.142
帰ってきたウルトラマン
2018-08-07T14:07:40Z
<p>119.230.24.142: /* 変身方法 */</p>
<hr />
<div>{{Pathnav|ウルトラシリーズ|frame=1}}<br />
{{基礎情報 テレビ番組<br />
| 番組名<br />
| 画像 =<br />
| 画像説明 =<br />
| ジャンル =<br />
| 放送時間 = 金曜 19:00 - 19:30<br />
| 放送分 = 30<br />
| 放送枠 =<br />
| 放送期間 = [[1971年]][[4月2日]] - [[1972年]][[3月31日]]<br />
| 放送回数 = 51<br />
| 放送国 = {{JPN}}<br />
| 制作局 = [[TBSテレビ|TBS]]<br />
| 企画 =<br />
| 製作総指揮 =<br />
| 監督 = [[本多猪四郎]]<br />
| 演出 =<br />
| 原作 =<br />
| 脚本 = [[上原正三]]<br />
| プロデューサー = [[円谷一]]<br />斎藤進<br />橋本洋二<br />
| 出演者 = [[団時朗|団次郎]]<br />[[塚本信夫]]<br />[[根上淳]]<br />[[池田駿介]]<br />[[西田健]]<br />[[三井恒]]<br />[[桂木美加]]<br />[[岸田森]]<br />[[榊原るみ]]<br />[[川口英樹]]<br />[[岩崎和子]]<br />
| ナレーター = [[名古屋章]]<br />
| 音声 = モノラル放送<br />
| 字幕 =<br />
| データ放送 =<br />
| OPテーマ = [[団時朗|団次郎]]、みすず児童合唱団<br />「帰ってきたウルトラマン」<br />
| EDテーマ =<br />
| 時代設定 =<br />
| 外部リンク =<br />
| 外部リンク名 =<br />
| 特記事項 =<br />
}}<br />
『'''帰ってきたウルトラマン'''』(かえってきたウルトラマン)は、[[1971年]](昭和46年)[[4月2日]]から[[1972年]](昭和47年)[[3月31日]]に[[TBSテレビ|TBS]]系で、毎週金曜19:00 - 19:30に全51話が放送された[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビ番組]]。<br />
<br />
怪獣と戦う防衛チーム・{{読み仮名|[[#MAT|MAT]]|マット}}や、巨大ヒーロー・ウルトラマンの活躍を描く。<br />
<br />
なお、本作の主役であるウルトラマンは、後年に'''ウルトラマンジャック'''という正式名称が設定されたが(詳細は[[#名称]]を参照)、本項では放送当時の名称に基づき、基本的に本作の主役ウルトラマン(ジャック)を「'''ウルトラマン'''」と表記し、「ウルトラマン 空想特撮シリーズ」に出てきた「[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]<ref name="syodai" group="注">単に「ウルトラマン」と言った場合、通常はこのキャラクターを指す。</ref>」を「'''初代ウルトラマン(初代マン)'''」と表記する。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
=== 誕生までの経緯 ===<br />
本作が製作された背景には、[[1970年]]に再放送された前3作品『[[ウルトラQ]]』『[[ウルトラマン]]』『[[ウルトラセブン]]』が高視聴率を得たこと<ref name="宇150">{{Harvnb|宇宙船150|2015|pp=110-111|loc=「帰ってきたウルトラマン」}}</ref>、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]出版(後に[[万創|株式会社 万創]]へ継承)の「[[飛び出す絵本]]」をはじめとした関連書籍、[[ブルマァク]]の[[フィギュア#分類|ソフビ人形]]などの関連商品が好調だったこと<ref>マーチャンダイジングライツレポート1991年5月号</ref>や、『[[ウルトラファイト]]』(1970年)の好反響などがあった<ref name = "白書82" />。<!--1978年にキングレコードから発売されたサントラLPのライナーノーツに、円谷一の商才(『セブン』終了後の各番組の度重なる再放送、ソフビなどの関連商品の継続販売、そして低予算の『ウルトラファイト』で人気を繋ぎ、第2期を実現させたこと)や、怪獣の再来を予言する謎の老人(実はムラマツ)に関する記述がありました。正確な内容を確認できる方がいらしたら補足願います。--><br />
<br />
本作の企画は、[[1969年]]4月28日に印刷された企画書{{Sfn|大全|2002|p=14}}『続ウルトラマン』から始まり、ウルトラマンとMATが復活した怪獣と戦う基本線はこの時点で確立している<ref name="C大全129">{{Harvnb|キャラクター大全|2015|pp=129-131|loc=「新たなるウルトラマンの創造」}}</ref>。同企画書は『ウルトラマン』から約30年後の地球にウルトラマンが帰ってくるという設定で<ref name = "全怪獣241">{{Cite book|和書 |date = 1990-03-24 |title = [[全怪獣怪人]] |publisher = [[勁文社]] |volume = 上巻 |pages = pp.241 - 242|id=C0676 |isbn = 4-7669-0962-3 }}</ref><ref name="C大全129" />、現存する第3話までの企画書には[[ウルトラマン#科学特捜隊|科学特捜隊]]から引退して久しいムラマツやハヤタが登場し、ウルトラマンと一体化したバン・ヒデキ(晩日出輝)が[[ウルトラマン#ベーターカプセル|ベーターカプセル]]で変身するなど、初代<ref group = "注">'''初代ウルトラマン'''という名称は本作のウルトラマンと区別するために付けられたもので、本作以前には使用されていなかった。</ref>を強く意識したものであった<ref name = "白書82">{{Harvnb|白書|1982|pp=82 - 83}}</ref><ref name="C大全129" />。<br />
<br />
当初は初代ウルトラマンが帰ってくる設定であったためにタイトルが『帰ってきたウルトラマン』となったが、商品化展開を踏まえると別人にすべきだというスポンサーの都合でこの設定は没となり、最終的に別人となった<ref name = "全怪獣241" />。『帰ってきたウルトラマン』は生前の[[円谷英二]]によって命名されたと言われる<ref>『テレビマガジン特別編集 ウルトラマン大全集II』(講談社)p.133より。</ref><ref name = "全怪獣241" /><ref name="C大全129" /><ref group = "注">なお、企画時のタイトルを「『ウルトラマンジャック』である」とする記事が稀にあるが{{Full|date=2014年1月}}、それは誤りである。『...ジャック』は 『[[ウルトラマンタロウ]]』 のNGタイトルであり、本作とは無関係。本作のウルトラマンが後年になって円谷プロから「ジャック」と名づけられたことによる誤認である。</ref>。<br />
<br />
続く企画書『帰って'''来'''たウルトラマン』では、バンを慕う姉弟や特訓による必殺技の獲得などの要素が盛り込まれたが、バンはウルトラマンの仮の姿という扱いであった<ref name="C大全129" />。企画書としてはこれが最終稿であるが、最終的なストーリーはプロデューサーの橋本洋二と脚本家・上原正三との間で詰められた<ref name="C大全129" />。<br />
<br />
=== 物語の展開 ===<br />
==== あらすじ ====<br />
世界各地で地殻変動や異常気象が相次ぎ、眠っていた怪獣たちが目を覚ます。<br />
<br />
カーレーサーを目指す青年・郷秀樹は怪獣[[タッコング]]が暴れ回る中、逃げ遅れた少年と仔犬を庇って命を落とす。しかし、[[M78星雲]]から地球を守るためにやって来た新たなウルトラマンが、郷の勇気ある行動を称えて一体化し、彼を蘇らせる。<br />
<br />
これを機に郷は、人類の自由と幸福を守る決意を胸に怪獣攻撃隊MATに入隊。常人離れしたウルトラマンとしての自分と人間としての自分とのギャップを抱えながら、怪獣や宇宙人と戦うことで成長していく。<br />
<br />
==== 初期の展開 ====<br />
『ウルトラマン』の主人公・ハヤタが人間的な隙のないヒーローとして描かれ、『ウルトラセブン』のモロボシ・ダンも私生活まで踏み込んだ演出は行われなかった。しかし、本作の主人公・郷秀樹は、レーサー志望の平凡な一市民として設定され、私生活面では彼の家族的な立場である坂田兄弟がレギュラーとして登場する<ref name = "全怪獣241" />。また、主人公がウルトラマンとしての能力に慢心したり、超能力を持つゆえにMAT隊員と軋轢を生むなど、日常的な困難を乗り越えるための努力が強調された。変身後のウルトラマンもしばしば怪獣に対して苦戦したり敗北したりしている。こうした作劇が、後年の評論で「人間ウルトラマン」と呼ばれている{{Sfn|キャラクターランド3|2015|pp=27-28}}。<br />
<br />
第1期ウルトラシリーズを放送していた[[タケダアワー]]がSF路線や怪奇路線から転換して『[[柔道一直線]]』となるなど、当時の子供たちの流行が[[スポ根]]ものに移行していったことから、本作でもその要素が意識されている<ref name = "全怪獣241" /><ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=81|id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref>。<br />
<br />
当初は前述のような郷の苦悩と成長などシリアスなドラマ性が強く打ち出された。その中で、<br />
*郷の挫折と再起を描いた第2話「タッコング大逆襲」<br />
*「スポ根もの」要素を取り入れた第4話「必殺! 流星キック」<br />
*二大怪獣とMATの激突を劇場怪獣映画並みのスケールで描いた第5話「二大怪獣 東京を襲撃」と第6話「決戦! 怪獣対MAT」<br />
など新たなタイプの秀作が生まれ、新たな試みがなされた。しかし、人気番組『ウルトラマン』の後継作として本作に期待される視聴率の水準は高いものがあり(TBS側では30%台を期待していた)、1クール目の視聴率はその期待に沿うものではなかった。その原因としては、シリアスなドラマが子供たちに充分受け入れられなかったこと、予算的な問題で舞台が山中や造成地になる場合が多く、都市破壊の爽快さを欠いたことなどが挙げられている。<br />
<br />
==== 中盤の展開 ====<br />
この状況で円谷プロは、アンケート調査や主な連載誌である[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]での読者調査などの[[マーケティング]]を行い、ウルトラマンの強化や宇宙怪獣の登場などが求められているとの結果を得、第18話の[[ベムスター]]をはじめとし、宇宙怪獣を数多く登場させた。また、ウルトラマンを救うべく、前作の主人公ウルトラセブンを登場させ、万能武器ウルトラブレスレットを与えさせる。このことにより、ウルトラマンのキャラクター強化に成功している。また、第13・14話では大津波と竜巻による東京破壊を映像化し、その高い特撮技術をアピールしたり、当時人気絶頂のキックボクサーで、本作の前番組『[[キックの鬼]]』のモデルでもある[[沢村忠]]を本人役でゲスト出演させた第27話や、ファンの高校生<ref group = "注">後に同様の経緯で『[[ゴジラvsビオランテ]]』の原案も手掛けた[[小林晋一郎]]。</ref>から投稿された原案を採用した第34話など対外的な話題作りも、番組の知名度アップに貢献した。<br />
<br />
数々の強化策の一方でドラマ面でも強化が図られ、<br />
*隊長交代というイベントに文明批評を重ねた第22話「この怪獣は俺が殺る」<br />
*内気で弱い少年の目覚めと旅立ちを南隊員の過去と交錯させて描いた第25話「ふるさと地球を去る」<br />
*差別への怒りをテーマとして前面に出した第33話「怪獣使いと少年」<br />
など、評価の高い作品が送り出された。特に第31話から第34話は、ちょうど放送月が一致したことで後に一部で「11月の傑作群」と呼ばれたほどで<ref name = "白書85">{{Harvnb|白書|1982|p=85}}</ref>、この時期の視聴率も20%台を順調に維持した。さらに、坂田アキ役の[[榊原るみ]]が別のドラマへの出演<ref group = "注">『[[気になる嫁さん]]』([[日本テレビ]])の主演。第27話から坂田とアキが暗殺される第37話までの期間は出演していなかった。</ref>のためにスケジュール確保が困難になり、第37・38話で健とアキは[[ナックル星人]]に虐殺されて物語から姿を消し、初代ウルトラマンとウルトラセブンの登場というイベントと相まって、ここで内容的にも視聴率的にも一つの頂点を迎えた。榊原の降板後のヒロインは村野ルミ子役の[[岩崎和子]]に引き継がれた。<br />
<br />
==== 終盤の展開とその後 ====<br />
ドラマ部分として郷の私生活は、坂田家で1人生き残った次郎と、隣人で次郎の姉代わりとなったルミ子を中心に描かれる。特撮部分の強化策として怪獣とそれを操る宇宙人の2体セットでの登場を増やし、娯楽性が強調された。この時期の視聴率([[#放映リスト]]を参照)は常に25%以上で推移しており、第2期ウルトラシリーズでは最高視聴率を記録した時期である<ref name="宇150" />。<br />
<br />
第51話では、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#触覚宇宙人 バット星人|バット星人]]が地球侵略に出ると同時に、その同族たちが[[M78星雲|ウルトラの国]]に全面戦争を仕掛ける。MAT基地を破壊され、次郎とルミ子を拉致されるなど、郷=ウルトラマンとMATは最大の危機に陥る。自ら操るマットアローが撃墜される寸前にウルトラマンに変身した郷に対し、バット星人は自ら育て上げた[[ゼットン#『帰ってきたウルトラマン』に登場したゼットン|ゼットン(二代目)]]とともに襲い掛かる。2体がかりの攻撃でウルトラマンを苦しめるが、ブレスレットの能力と自身が編み出した新必殺技「ウルトラハリケーン」でバット星人とゼットンは倒され、ウルトラマンは勝利する。そして、郷はバット星の艦隊からウルトラの星を守るために次郎とルミ子に別れを告げ、次郎にはウルトラマンとしての正体を明かしつつ地球を去る(MATのメンバーおよび公式には郷が殉職したと扱われる)ことで、物語は幕を閉じる。<br />
<br />
本作での歴代ウルトラマンの客演は好評を博し、『ウルトラマン』の最終回(第39話)に登場した[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]が長兄に当たる「[[ウルトラ兄弟]]」という、雑誌上で設定された捉え方がテレビ作品に導入される一種の「逆流現象」につながった。第51話でのバット星人のセリフにはウルトラ兄弟が明確なものとして用いられており、次作『[[ウルトラマンA]]』から本格的にその設定が多用されていく。<br />
<br />
=== 時代・舞台設定 ===<br />
本作の具体的な年代は劇中では明示されていない。非日常的な場所でのロケを多用し、「近未来」や「無国籍」を演出していた前2作品と比べると生活感のある場所での映像が多く、放映年代と同じ1970年代初頭の日本が意識されている。これは、前2作は海外販売が前提に制作されていたが、本作は純粋な日本国内向けに制作されているためである。劇中で映る日付や、語られる[[第二次世界大戦]]の体験<ref group = "注">第6話では設定年齢28歳の坂田健が「[[昭和20年]]に自分は3歳だった」と語っており、放映時の1971年とほぼ合致する。</ref>など、現実の日本と重ねた演出が散見される。また、国外の描写はほとんどなく、MATの他国支部の活動もわずかに語られるのみである。<br />
<br />
ウルトラ兄弟などの設定により、作品世界は他のウルトラシリーズ作品と繋がっているとされているが、劇中では前2作の作品世界との関係は明示されておらず、[[バルタン星人#『帰ってきたウルトラマン』に登場するバルタン星人Jr.|バルタン星人Jr.]]やゼットンの登場、第38話でのハヤタと[[ウルトラセブン (キャラクター)#モロボシ・ダン|モロボシ・ダン]]の登場で暗示されているのみである。第51話では、郷の夢の中に回想シーンとして『ウルトラマン』第39話での初代ウルトラマンとゼットンの戦闘シーンが流用されており(科学特捜隊日本支部の建物も背景に映っている)、郷や伊吹隊長もそれについて言及しているが、前2作の防衛チームからの継承や発展を示す具体的な演出はなかった。<br />
<br />
一方、[[#他作品での活躍|後述]]のように次作『ウルトラマンA』第10話で本作の後日談、第12話では本作の第26話での出来事が語られた他、『[[ウルトラマンタロウ]]』や『[[ウルトラマンレオ]]』では郷が登場することから、第2期ウルトラシリーズはすべて同一世界であることが明示されている。<br />
<br />
=== ウルトラ5つの誓い ===<br />
第51話で郷が地球を去る時に次郎に伝えた誓いで、次郎はこれを叫びながら郷を見送った。『ウルトラマンA』や『ウルトラマンメビウス』でも使用されている。<br />
<br />
#''' 一、腹ペコのまま学校へ行かぬこと'''<br />
#''' 一、天気のいい日に布団を干すこと'''<br />
#''' 一、道を歩く時には車に気を付けること'''<br />
#''' 一、他人の力を頼りにしないこと'''<br />
#''' 一、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと'''<br />
<br />
=== スタッフ・出演者 ===<br />
==== 監督 ====<br />
監督は[[円谷英二]]と縁の深い[[東宝]]の[[本多猪四郎]]を第1・2話で起用し、作品のオープニングを飾った<ref group="注">第1話のタイトルは本多が過去に監督を務めたゴジラ作品と同じ『[[怪獣総進撃]]』。</ref><ref name="宇150111">{{Harvnb|宇宙船150|2015|p=111|loc=「スタッフ百花繚乱」}}</ref>。本多は第7・9・51話(最終回)でも監督を務めた。<br />
<br />
東宝からは他に、筧正典と[[松林宗恵]]が参加<ref name="宇150111" />。また、[[東映]]から[[冨田義治]]、[[佐伯孚治]]、[[日活]]から鍛治昇、[[新東宝]]から[[山際永三]]、TBSから真船禎と、他の映画会社出身の監督招聘にも積極的であった。冨田は東映との関わりも深かったTBSプロデューサーの橋本洋二の要請により、佐伯は監督した『[[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]]』第25話「白昼夢 殺人金魚」を円谷プロプロデューサーの熊谷健が気に入ったことによりそれぞれ起用された<ref>{{Cite book|和書|author=和智正喜 |authorlink=和智正喜|title=KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.10 仮面ライダーZX|date=2004-10-25|publisher=[[講談社]]|page=30|chapter=仮面ライダー監督紳士録 第8回 佐伯孚治|isbn=4-06-367093-7}}</ref>。筧・山際・真船の3名はその後の第2期ウルトラシリーズでも主力を務めた<ref name="宇150111" />。<br />
<br />
本作での円谷プロ出身の監督は[[東條昭平]](『[[マイティジャック#『戦え! マイティジャック』|戦え! マイティジャック]]』以来3年ぶりに監督に復帰。しかし、復帰第1作となる第33話「怪獣使いと少年」がTBS上層部で問題視されたことから助監督に降格。結局、本作での監督作品はこれ1本のみ)と[[大木淳吉|大木淳]](本作の第32話で本編監督としてデビュー)のみである。<br />
<br />
==== 脚本 ====<br />
本作の脚本陣は、メインライターの[[上原正三]]が全51話中20本を担当。前・後編の話などを中心に東京が危機に陥る作品が目立つ。しかし、坂田兄妹が死亡後のシナリオは第51話を除いて担当していない<ref group = "注">その理由には、「次作『ウルトラマンA』の企画準備のため」、「『[[シルバー仮面]]』のシナリオを執筆するため」、「第33話『怪獣使いと少年』の内容が、児童向け番組の域を逸脱し過激であるとして問題となり、その責任を取らされて降板させられた」など、諸説ある。</ref>。後の『A』でメインライターを務めることになる[[市川森一]]は、本作では6本と少ないものの、セブンや新隊長が登場するターニングポイントとなる話を書いている。上原と市川は『[[仮面ライダー]]』の企画にも携わっていたが、本作のために離脱した<ref name="宇150111" />。<br />
<br />
また、円谷プロ出身の[[田口成光]]は本作でデビューし、6本のシナリオを執筆。田口は後に『タロウ』や『レオ』でメインライターを務めることになる。宇宙人や宇宙に絡む話は主に[[石堂淑朗]]が担当。侵略手段が横暴で性格的にも柄の悪い宇宙人を登場させるなど、一種独特な話を好んで執筆した一方、地方色や土着性の強い[[民話]]風のストーリーも得意としており、本作では9本のシナリオを担当。『レオ』に至るまで第2期ウルトラシリーズに積極的に関わった。<br />
<br />
第1期ウルトラシリーズで監督を務めた[[実相寺昭雄]]や[[飯島敏宏]](ペンネームの千束北男を使用)も、1本ずつ担当<ref name="宇150111" />。また、プロデューサー補の熊谷健と親交のあった[[小山内美江子]]も熊谷からの依頼で1本担当している<ref group = "注">小山内のウルトラシリーズでの脚本担当は、『ウルトラQ』第28話と本作の第48話「地球頂きます!」の2本のみ。本作を担当した当時、小山内には某エロチック映画と本作がほぼ同時にオファーがあったが、当時小さかった子供が物心がついた時に「色物よりもウルトラマンを書いていたと言ったほうが恥ずかしい思いをしないで済む」ということで本作を書いたとインタビューで語っている。</ref>。第1期ウルトラシリーズのメインライターであった[[金城哲夫]]も1本担当した<ref name="宇150111" /><ref group = "注">既に金城は円谷プロを辞め故郷の沖縄に帰っており、たまたま私用で海外へ行く際に東京を経由したところ、プロデューサーの円谷一に昔のよしみで頼まれて1本だけ3日で執筆したという経緯がある。円谷作品では本作が最後の脚本となった</ref>。<br />
<br />
他社で活躍していた脚本家としては、『[[隠密剣士]]』([[1962年]])や『[[仮面の忍者 赤影]]』([[1967年]])、本作の放映当時も『仮面ライダー』を担当するなど、[[宣弘社]]や東映作品を多数手掛けた[[伊上勝]]が第9・49話の2本を担当<ref name="宇150111" />。また、石堂の紹介で[[松竹]]から斉藤正夫が招かれて2本のシナリオ(第45・50話)を担当。<br />
<br />
坂田健役の[[岸田森]]は、朱川審のペンネームで第35話を執筆したということで大きな話題を呼んだ(2005年以降の調査で、実際には脚本家・[[山元清多]]が盟友である岸田のアイデアに基づいて書いたものと判明している<ref>武井崇著「岸田森 夭折の天才俳優・全仕事」洋泉社、2017年。P74-76。「特撮秘宝 Vol.7」洋泉社、2017年。P180、P207 </ref>)。また、第34話の原案は当時高校生だった[[小林晋一郎]]によるもの(シナリオは石堂)で、小林は映画『[[ゴジラvsビオランテ]]』でも同じく人間が作り出した植物の怪獣という原案が採用されている。小林によれば、第1期ウルトラシリーズとの作風の違いに違和感を覚えて1971年6月頃に作品への要望とともに13本分の怪獣デザインとストーリーを円谷プロに送ったところ、「いろいろあった末」に採用されたという{{Sfn|帰ってきた帰ってきた|1999|p=36}}。<br />
<br />
その他、新人時代の[[長坂秀佳]]が1本担当<ref name="宇150111" />。<br />
<br />
上原は郷とアキが最後は結ばれるというエンディングを想定していた旨を特撮情報誌『宇宙船』{{Full|date=2015年9月}}上で述べている。<br />
<br />
==== 美術・造形 ====<br />
特撮美術は『[[ウルトラセブン]]』に引き続き[[池谷仙克]]が担当したが、映画などで多忙になり1クールで降板した{{Sfn|宇宙船152|2016}}。後年のインタビューで池谷は本作品への参加には積極的でなかった旨を語っている{{Sfn|宇宙船152|2016}}。降板後、旧知の特技監督である大木淳が本編を初担当した第32話で大木からの依頼により怪獣キングマイマイのデザインを手掛けた{{Sfn|宇宙船152|2016}}。<br />
<br />
オープニングにはクレジットされていないが、着ぐるみ造形は主に開米プロが、一部を[[高山良策]](グドン、ツインテール、ステゴン)、[[東宝|東宝特殊美術部]](タッコング、ザザーン、アーストロン)、円谷プロ社内の造形スタッフ(キングザウルス三世)が担当{{Sfn|宇宙船152|2016}}。東宝特美による3体は見た目はしっかりしていたが硬くて動けず、開米プロが改修を行い、そのまま同プロが造形の中心となった{{Sfn|宇宙船152|2016}}。高山は『ウルトラセブン』から引き続いての参加であったが、同時期に『[[スペクトルマン]]』も担当していたため3体のみに留まった{{Sfn|宇宙船152|2016}}。<br />
<br />
オープニングには未クレジットだが本作の怪獣(宇宙人)デザインは、特撮班美術の池谷仙克や高橋昭彦のほかに、プロデューサー補佐の熊谷健(シーゴラス、ベムスターほか)や、[[米谷佳晃]](グロンケン、バリケーン、ヤドカリンほか)、[[利光貞三]](サータン)、末安正博(ゴキネズラ)などが担当。最終話に登場したバット星人は、当時の[[小学館]]編集部スタッフによる作とされている<ref>LDソフト「帰ってきたウルトラマン」Vol.11同封ライナーノーツ。発売:創美企画</ref>。<br />
<br />
==== 隊長の交代 ====<br />
既述通り、第22話でMAT隊長の途中交代がある。隊長役交代はウルトラシリーズ初の出来事だった<ref group = "注">その後のウルトラシリーズの隊長交代劇としては、『ウルトラマンタロウ』第51話で実質隊長としてZATの指揮を執っていた荒垣副隊長が宇宙ステーションに転任して二谷一美副隊長が月基地から着任した件と、『[[ザ☆ウルトラマン]]』第26話で科学警備隊のアキヤマ徹男キャップがアメリカの司令部に栄転して第28話でゴンドウ大介キャップが着任した件の2例がある。だが、隊員たちとの別れのシーンがあるのは本作のみであり、後のシリーズでは別れを告げずに去っている。</ref>。これは2クールから4クールへの番組延長にあたり、加藤勝一郎隊長役の[[塚本信夫]]が舞台公演のために出演不能となったと憶測が流れ、過去に発売された関連書籍でも舞台公演に関することを理由とした言及がなされ<ref>きくち英一・著『ウルトラマンダンディー 〜帰ってきたウルトラマンを演った男〜』([[風塵社]]・1995年)p.70・p.135.</ref>、それ以外にもさまざまな憶測を生んだ。また、番組の延長に伴うものではないということが、後に[[団時朗]](郷役)・[[池田駿介]](南猛役)・[[西田健]](岸田文夫役)の三者会談同窓会の記事で明かされているが、真相は語られていない<ref>『TV Bros([[テレビブロス]])』(発行:[[東京ニュース通信社]])(2003年3月1日-14日号) 「TV50年メモリアル①・帰ってきたウルトラマンMAT隊員同窓会」9-15頁</ref>。<br />
<br />
劇中設定としては、加藤隊長が宇宙ステーションに転任し<ref group = "注">各種書籍や公式の外伝コミックであるリム出版の『帰ってきたウルトラマン VOL.1 復讐の宇宙戦線』([[COMIC'S★ウルトラ大全集]])などでは、「第18話で殉職した旧友・梶隊長の遺志を継ぐために自ら宇宙ステーション勤務を志願した」という設定が採用されている。</ref>、加藤隊長のかつて上官・伊吹隊長が[[ニューヨーク]]本部から転任してくるというドラマで交代の事情が説明され、その交代劇がシリーズの1つのイベントとなっていた。<br />
<br />
新隊長・伊吹竜役としては、[[東宝特撮]]映画の常連で知られ、『ウルトラマン』や『セブン』への出演歴もある[[土屋嘉男]]などが候補に挙がったが<ref name = "白書85" />、最終的には[[大映]]映画を中心に活躍していたベテランの[[根上淳]]に決定された。大映の二枚目スターとして一般の視聴者にも知名度の高い根上の起用は、子供番組として一般のテレビドラマよりは一段低い扱われ方だった特撮テレビドラマの中での1つのイベントであり、ウルトラシリーズの存在を保護者層にもアピールするものだった。これは、橋本プロデューサーからの「塚本より格下の俳優は起用しないこと」との指示を受けてのことである。<br />
<br />
==== スーツアクター ====<br />
当初予定された人物がボディビル体型だったが、スマートな団とのイメージが違いすぎるため、『セブン』第14・15話でのみセブンを演じた経緯から[[きくち英一|菊池英一]]が演じることとなる。<br />
*菊池は拳法や空手などの格闘技を習得しているため、痩身の[[古谷敏]]が演じた初代ウルトラマンに比べるとガッチリしたシルエットでやや日本人体型とも言えるが、178cmと当時としては長身で(古谷は180cm)、背筋が伸びた拳法の構えやアクションが特徴的。初代ウルトラマンが宇宙人を意識した動きだったのに対し、本作のウルトラマンは怒りや焦りなど感情を伝えるような人間味のあるアクションが特徴と言える。過去のシリーズでは怪獣もの専門の[[殺陣師]]はおらず、シナリオ上でも「怪獣(宇宙人)との戦い 〜 以下よろしく」としか書かれていないことが多かったため、特撮スタッフや本編監督が手探りで殺陣を指示していたが、本作では菊池と多くの怪獣を演じた[[遠矢孝信]](菊池の大学の後輩)が打ち合わせてほぼ全面的に殺陣を担当。<br />
*菊池が1995年に著した『ウルトラマンダンディー 〜帰ってきたウルトラマンを演った男〜』は、本作の製作活動の記録の一つとなっている。<br />
*遠矢を含め、怪獣のスーツアクターを務めたのは菊池と遠矢が当時所属していたアクションチーム「ジャパン・ファイティング・アクターズ(JFA)」のメンバーである。ザザーンはスケジュールが被らなかったため、菊池が演じている。その他の配役は『ウルトラマンダンディー 帰ってきたウルトラマンを演った男』が詳しい。なお、遠矢はこれに先駆けて」『[[スペクトルマン|宇宙猿人ゴリ]]』でゴリ博士を演じている。時には両者のスケジュールがかち合ってしまうこともあり、遠矢が戻るまで当時助監督だった[[東條昭平]]が代わりに怪獣(サドラなど)の中に入ったこともあった。<br />
*『A』でもアクションを依頼されたが、ウルトラマンのアクションはハードで体力的に限界<ref>「しょっぱいものが食べたくなり野菜サラダが真っ白になるくらい塩をかけて食べたのに、それでも医者から『塩分が足りない。』と言われた。」と語っている。きくち英一・著『ウルトラマンダンディー 〜帰ってきたウルトラマンを演った男〜』([[風塵社]]・1995年)</ref>ということで辞退している。なお、『A』第1話の客演のみウルトラマンを演じている。<br />
<br />
== 帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック) ==<br />
ゾフィーの命を受け、地球にやって来た宇宙警備隊隊員{{Sfn|僕たち2|2003|p=3}}。<br />
*地球での活動時間:3分<br />
* 身長:40メートル(ただし一時的に人間サイズで活動、もしくは同程度にミクロ化することも可能)<br />
* 体重:3万5千トン<br />
* 年齢:1万7千歳<br />
* 飛行速度:マッハ5<br />
* 走行速度:時速600キロ<br />
* 水中速度:180ノット<br />
* ジャンプ力:400メートル<br />
* 腕力:10万トンタンカーをいとも簡単に持ち上げる<br />
* 聴力:200キロ先の針の落ちる音も聴こえる<br />
* 頭:鉄の2千倍の硬さ<br />
* 職業:ウルトラ道場の先生、ウルトラの星へ帰還後は宇宙警備隊地球課長。<br />
* 趣味:登山<br />
* 家族構成<br />
** 父:ウルトラ科学技術局長官<br />
** 母:宇宙情報センターに勤めている<br />
** 妻:ウルトラの母の妹(小学館学習雑誌の特集での記事より)<br />
*スタイル<br />
**本作の劇中では手袋・ブーツは銀色であるが、『ウルトラマンタロウ』第52話客演時のみ手袋やブーツが赤色になっており、これは仮面ライダー2号(新)の赤手袋を意識したものである<ref>『講談社Official File Magazineウルトラマン』{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。また、『タロウ』第33・34話や第52話では、胸の模様が『帰ってきたウルトラマン』の第1話撮影時のNGに近い形状になっていた。NGスーツについては下記の「デザイン」を参考。<br />
*郷秀樹との関係<br />
**郷が鍛えるとウルトラマンも鍛えられたり(第4話)、郷の心身の負傷(第22話、第37話)など、心身の状態が変身後もウルトラマンに引き継がれる場面が見られた。逆に郷がウルトラマンと同じ怪我をしたり、ウルトラマンから郷への影響も認められる。中盤からウルトラマンと郷の意識は一体化している<ref group = "注">ほかの宇宙人が郷をウルトラマンと呼んだり、第50話での郷と小泉チドリの会話をウルトラマンが知っているなど。</ref>。<br />
<br />
=== 名称 ===<br />
企画当初の名残で、本作の主役ウルトラマンは劇中では一貫して「ウルトラマン」としか呼ばれていない。そのため、後年の客演時や書籍などでは、初代ウルトラマン<ref name = "syodai" group = "注"/>と区別するために、様々な名称を設定されていた。<br />
<br />
『[[ウルトラマンA]]』第14話のナレーション、および劇中での北斗星司と[[ヤプール]]は{{読み仮名|'''ウルトラマンII世'''|ウルトラマンにせい}}と呼び、『[[ウルトラマンタロウ]]』や『[[ウルトラマンレオ]]』のナレーションでは'''新ウルトラマン'''を略した{{読み仮名|'''新マン'''|しんマン}}と呼ばれている。他にも作品名のまま「'''帰ってきたウルトラマン'''」<ref name ="白書66">{{Harvnb|白書|1982|pp=66 - 67}}</ref> 、または略して'''帰マン'''・'''帰りマン'''(きマン、かえマン、かえりマン)と呼ばれることもあった。<br />
<br />
しかし1984年、映画『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』の公開に先立ち、ウルトラファミリー紹介時に各々に固有名詞の必要が生じた。その際、円谷プロ社長・[[円谷皐]](当時)によって'''ウルトラマンジャック'''という正式名称が設定された。以降の書籍・関連グッズなどではほぼ「ウルトラマンジャック」の名称で統一され、「ウルトラマンII世」や「新マン」は別名という扱いになっている<ref>{{Cite web|url=https://hicbc.com/tv/mebius/m78/index.htm|title=M78星雲「光の国」|publisher=ウルトラマンメビウス公式サイト|accessdate=2016-07-16}}</ref>。[[中国]]で放送された際には『杰克・奥特曼』(杰克はジャックと読む)のタイトルとなる。<br />
<br />
その後、1984年の『[[ウルトラマン物語]]』や2006年の『[[ウルトラマンメビウス]]』でも「ジャック」と呼ばれている<ref group="注">[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版『メビウス』]]のクレジットでは「帰ってきたウルトラマン」と表記。</ref>。なお、地球人は「ジャック」の名を知らないため、「ウルトラマン」としか呼んでいない。映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』では、こうした呼称の変遷をセルフパロディ化したギャグ<ref group="注">ウルトラマンメビウス / ヒビノ・ミライが異世界の郷に対して「ジャック兄さん」と呼ぶも通じず、「新マン兄さん」「帰りマン兄さん」と呼びなおす、というもの。</ref>がある。<br />
<br />
「ウルトラマンジャック」という名前は『ウルトラマンタロウ』の企画段階における名前でもあった<ref>『懐かしのヒーロー ウルトラマン99の謎』([[二見書房]]・1993年)p.32.</ref>。他にも[[かたおか徹治]]の漫画『[[ウルトラ兄弟物語]]』の「ウルトラ一族の大反乱編」(第1巻収録)に登場した[[ウルトラの父]]の兄の名前も「ウルトラマンジャック」であるが、直接の関連性はない。<br />
<br />
=== 変身方法 ===<br />
歴代ウルトラヒーローの中でも例外的に変身アイテムを用いない<ref name="怪獣大全集">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|pp=32-33|loc=「帰ってきたウルトラマン」}}</ref>。郷が生命の危機に陥ったときに自然に変身することが多い。郷の頭上に十字状の光が降ってくると、それに呼応するように郷が右手または両手を斜め上に挙げ、変身するというパターンが基本であった。意識的に変身する場合は右手を高く掲げることが多い。中盤以降は郷の意思による変身も多く見られるようになる。<br />
<br />
最終回では郷とウルトラマンが分離することなく地球を去り、以降のウルトラシリーズ客演の際には完全に郷の意思で変身している。<br />
<br />
* 企画案では特定の変身ポーズをとるものや変身アイテムを用いる案も存在していた<ref name = "白書82" />。<br />
* 郷が変身ポーズをとって変身してから巨大化するというパターンも撮影されたがNGとなっている<ref name = "白書82" /><ref group = "注">第19話にて、郷の姿が等身大のウルトラマンに変わった後に巨大化のバンク映像が流れるという演出がある。</ref>。<br />
<br />
=== 技・能力 ===<br />
; スペシウム光線<br />
: 初代ウルトラマンと同じく、両腕を十字に組み右手から発射する破壊光線。<br />
: 全編を通して使用され、序盤では決まり手として多くの怪獣を葬った。[[ベムスター]]に破られて以降、ウルトラブレスレットに決まり手の地位を譲っているが、第38話では[[ナックル星人]]の宇宙艦隊を壊滅させ、最終話では[[ゼットン]]を葬るなど、ここ一番の見せ場では威力を発揮しており、後年の客演時にもしばしば使用されている。現在の公式設定では、初代ウルトラマンと同程度の威力とされている。また、放映当時では白色の光線だったが、近年{{いつ|date=2017年8月}}では青白い光線となっている。本作では[[スペシウム]]への言及はなく、ナックル星人による解析でアルミニウム原子3千個に対してクローム原子100個の割合との発言がある。<br />
: 発射音は、初代のものとは異なり、ウルトラセブンのワイドショットやエメリウム光線Bで使用された効果音を加工使用している。<br />
; ウルトラスラッシュ<ref name="超技25">{{Harvnb|超技全書|1990|p=25}}</ref>(八つ裂き光輪<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技25" />)<br />
: スペシウム光線のエネルギーを丸鋸状のリングに変化させて投げつけ、敵を切断する光のカッター。これも初代ウルトラマンと同じ技で、[[サドラ]]との戦いで初使用して倒したが、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#古代怪獣 キングザウルス三世|キングザウルス三世]]との戦いでバリアーにはじかれて以来、使用されなくなった<ref group = "注">[[内山まもる]]によるコミカライズ版ではたびたび決め技として使用され、後年の『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』では宇宙大魔王ジャッカルへの合体攻撃の際に放つなど、ウルトラブレスレット以上の「切り札」として描かれている。</ref>。初代ウルトラマンが使用するものは薄い青色なのに対し、こちらは薄い緑色をしている。<br />
; フォッグビーム<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技25" /><br />
: 霧状の光線。キングザウルス三世との戦いで使われたが、バリアーによって防がれる。<br />
: 一部の文献では冷凍効果のある光線と記載されている<ref name ="白書66" /><ref name="怪獣大全集" />。『続・ウルトラマン』の設定ではスペシウム光線のバリエーションとして「凍結スペシウム」が存在しており、『ウルトラマン白書』ではフォッグビームまたはウルトラフロストがこれに該当すると紹介している<ref name = "白書82" />。『ウルトラ怪獣大全集』では「冷凍スペシウム光線」と解説している<ref name="怪獣大全集" />。<br />
; シネラマショット<ref name="超技25" /><br />
: 両腕をL字型に構え右腕から発射する必殺光線。威力はウルトラセブンのワイドショットを上回り<ref name ="白書66" /><ref name="超技25" />、スペシウム光線の数倍強力という設定<ref>ウルトラ戦士宇宙警備隊ひみつ百科(講談社まんが百科)p.54</ref>。キングザウルス三世との戦いで使われたがバリアーによって防がれてしまい、以後本編では全く使用されなかった。<br />
: しかし『[[ウルトラマンタロウ]]』では[[テンペラー星人]]の円盤を他の兄弟の光線と共に破壊し、『[[ウルトラマンレオ]]』第38話でにせアストラを庇うレオに対しウルトラマン、エースと共に使用し一度はダウンさせ<ref group="注">この際は光線の色は赤</ref>、[[タイ王国|タイ]]の映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』では[[タイラント]]に使用したり、怪獣王ゴモラに他の兄弟と共に使用し戦意を喪失させる<ref group="注">この際は腕の構えが逆になっている。</ref>。アニメ『ザ・ウルトラマン ジャッカル 対 ウルトラマン』では宇宙大魔王ジャッカルへの合体攻撃に際に放つなど客演の際にはたびたび使用している。<br />
; ウルトラショット<ref name="超技24">{{Harvnb|超技全書|1990|p=24}}</ref><br />
: 右手に左手を添えた構えで、右手先から発射する光線。主に牽制技として使われる針状の光弾を連射するタイプと、ノコギリンにとどめを刺した帯状の光線を発射するタイプがある<ref name="超技24" />。『[[ウルトラマンギンガS]]』にて[[ウルトラマンギンガ#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]が使用した際は後者のタイプとなっている。<br />
; ストップ光線<ref name="超技25" /><br />
: 10話で使用した、両手の間から放射して怪獣の動きを止める活動停止光線。別名は凍結スペシウム<ref name="超技25" />。<br />
; ウルトラロケット弾<ref name="超技25" /><br />
: 飛行しながら指先から連射する光弾。第28話ではバリケーンを怯ませた。<br />
; ハンドビーム<ref name="超技25" /><br />
: 右手先から発射する火球。第40話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#冷凍怪人 ブラック星人|ブラック星人]]を倒した。<br />
; ウルトラフラッシュ<ref name="超技37">{{Harvnb|超技全書|1990|p=37}}</ref><br />
: 手先を合わせて放つ破壊閃光。第41話でビルガモに使用。<br />
; ウルトラ念力<ref name="超技37" /><br />
: 巨大怪獣を空中に浮かばせる念力。第19話でサータンに使用。<br />
; 透視光線<ref name="超技25" /><br />
: 両目から放つ光線。姿を消した怪獣を探し、実体化させる。第19話でサータンに使用。<br />
; ウルトラ眼光<ref name="超技25" /><br />
: 両目から放つ破壊光線。両肘を曲げた状態で発射し、第45話では[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#電磁波怪人 メシエ星雲人|メシエ星雲人]]にとどめを刺した。<br />
; ウルトラフロスト<ref name="超技37" /><br />
: 両手の手先を合わせて冷凍液を放射する。第35話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#光怪獣 プリズ魔|プリズ魔]]との最初の戦いで使われた。<br />
; ボディスパーク<ref name="超技37" /><br />
: 全身のエネルギーをスパークさせて怪獣にショックを与える。第5話でツインテールの首締めから逃れた。<br />
; ウルトラパワー<ref name="超技34">{{Harvnb|超技全書|1990|p=34}}</ref><br />
: 全身の力を使って、物体を遠くまで投げ飛ばす能力。ウルトラブレスレットで縮小させたヤメタランスを砲丸投げのように放り投げ宇宙へ帰した。<br />
; ウルトラ腕力<ref name="超技35" /><br />
: パワーを生かした早技。第24話でキングストロンの背中に乗るや2本の角をつかみ、そのまま前転することで一気に角を反転させ、弱体化に成功した。<br />
; 流星キック<br />
: 別名「ウルトラキック」。上空へ空高く飛び上がり急降下しながら敵に蹴りを入れる。第4話でキングザウルス三世のバリヤーを飛び越えて、バリヤーを発生させる角を破壊した。<br />
; ウルトラスピンキック<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技29">{{Harvnb|超技全書|1990|p=29|loc=「蹴り技」}}</ref><br />
: 上空へ空高く飛び上がり後方回転しながら敵に蹴りを入れる。繋ぎ技として多用した他、第11話では[[モグネズン]]へは決まり手にもなった。設定では105[[加速度|G]]の威力があるとされる<ref name="怪獣大全集" />。<br />
: 第37話の脚本段階ではナックル星人に蘇生された再生グドンをこの技で倒す予定だった。劇中でスピンキックのことが語られているのはこの名残となっている{{Sfn|大全|2002}}。<br />
; ウルトラキック<ref name="超技29" /><br />
: 腹部めがけて放つキック<ref name="超技29" />。郷は第27話でキックボクサーの東三郎にこの技を伝授した。<br />
; 急降下キック<ref name="超技29" /><br />
: 空中から急降下する勢いを生かした技。第33話では登場した際にムルチの頭部に蹴り込み、ダメージを与えた。<br />
; フライングキック<ref name="超技29" /><br />
: 敵の真正面から両足でキックする技。第39話ではバルダック星人にダメージを与えた。<br />
; ひざ蹴り<ref name="超技33">{{Harvnb|超技全書|1990|p=33}}</ref>(飛び膝蹴り{{Sfn|キャラクター大全|2015|p=10}})<br />
: ジャンプしたのち、ひざを敵の頭部に叩きつける技。<br />
; ウルトラチョップ<ref name="超技33" /><br />
: ジャンプして敵の頭上からチョップを浴びせる技で、ゴルゴバス戦をはじめ、多くの戦闘で使用した。単独で致命傷を与えることはないが、何度も繰り出して相手を弱らせたり、他の技と組み合わせたりすることで、絶大な威力を発揮した。<br />
; ウルトラリフター<ref name="超技31">{{Harvnb|超技全書|1990|p=31}}</ref><br />
: 突進してくる敵の下に、姿勢を低くして素早く潜り込んだのち、両手で敵を高々と持ち上げ、地面に投げつける技。キングザウルス三世やゴルゴバスにダメージを与えた。<br />
; ウルトラボディ落とし<ref name="超技34" />(ウルトラボディー落とし{{Sfn|キャラクター大全|2015|p=10}})<br />
: 第24話でキングストロンに対して使用した投げ技。胴体の角を掴んで後ろへ投げ飛ばす<ref name="超技34" />。<br />
; ブレーンバスター<ref name="超技33" /><br />
: 正面から敵の体を抱え上げ、仰向けに倒れながら、敵を背中から地面に叩きつける技。<br />
; 空中回転落とし<ref name="超技35">{{Harvnb|超技全書|1990|p=35}}</ref><br />
: 空中で相手を捕らえ、高速回転しながら地面にたたき落とす。第17話でスペシウム光線の通じないテロチルスを倒した。<br />
; 空中回転逆落とし<ref name="超技31" /><br />
: 敵を正面から抱きかかえたままで空中に飛び上がり、大回転とともに地上へ放り出す。遠心力を利用した大技で、第12話ではシュガロンに大ダメージを与えた。<br />
; ウルトラ回転足投げ<ref name="超技30">{{Harvnb|超技全書|1990|p=30|loc=「投げ技」}}</ref><br />
: 両足で敵の首を挟み込んで締め上げたのち、全身を回転させて敵を投げ飛ばす技。プルーマ戦やドラキュラス戦では逆立ちして体を反転させるタイプ、ササヒラー戦では肩に乗り、一回転して投げるタイプを披露した<ref name="超技30" />。<br />
; ウルトラかすみ斬り<ref name="超技37" /><br />
: 初代ウルトラマンと同じく、敵目掛けて走り、すれ違いざまにチョップを決める。第12話でシュガロンを倒した。<br />
; ウルトラ頭突き<ref name="超技35" /><br />
: 上空へ空高く飛び上がり後方回転しながら敵に頭突きを入れる。<br />
; ウルトラ急降下戦法<ref name="超技34" /><br />
: 敵を羽交い絞めにして飛行し、最高速度で反転して急降下、敵を地面に叩きつける。<br />
; 体当たり<ref name="超技33" /><br />
: 突進してくる敵に対し、体を斜めにして全速力で駆け寄り、肩から全身をぶつける技。<br />
; フライングアタック<ref name="超技33" /><br />
: マッハ5のスピードで敵に向かって飛行し、全体重をかけながら体当たりする技。<br />
; ウルトラバリヤー<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技32">{{Harvnb|超技全書|1990|p=32}}</ref><br />
: その場で高速回転することで全身から念力を発する技。第14話、第37話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#竜巻怪獣 シーゴラス|シーゴラス]]が強大な念力で起こした大津波を止め、逆に押し返した。使用すると全エネルギーを著しく消耗してしまう。<br />
:ナレーションでは「ウルトラバーリヤ」と呼称されており、また一部の関連書籍{{Sfn|大辞典|2001|p=50}}では、「ウルトラバーリア」との名称で解説されている。<br />
; ウルトラバリヤー<ref name="超技36">{{Harvnb|超技全書|1990|p=36}}</ref><br />
: 上記のウルトラバリヤーとは別の技。光の壁で攻撃を防ぐ。第31話でゼラン星人にコントロールされたウルトラブレスレットによるシャワー状の光線を防ぐも、続けて繰り出されたリング状の光のカッターに破られた。『ウルトラマンギンガS』にてウルトラマンギンガストリウムが使用するはこちらのタイプ。<br />
; ウルトラVバリヤー<ref name="超技36" /><br />
: 両腕を交差させて、敵の攻撃を防ぐ。キングザウルス三世の光線やゴルバゴスの火球を防いだり、ゼットンやデスレムの火球を跳ね返すなど効果は大きい。<br />
; バリヤー光線<ref name="超技36" /><br />
: 防御エネルギーを光線にして放ち、人間を守る<ref name="超技36" />。第30話で墜落したマットアローを守った。<br />
; ウルトラスピン<ref name="超技37" /><br />
: 高速スピンして突風を発生させる技。第14話でシーゴラスが発生させた雷雲を吹き飛ばした。また、第32話では[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#変幻怪獣 キングマイマイ|キングマイマイ]]戦でも、糸を振り払うために使用している{{refnest|group="注"|『ウルトラ戦士超技全書』では、ウルトラブレスレットによる技として紹介している<ref name="超技27" />。}}。<br />
; ウルトラドリル<ref name="超技37" /><br />
: 体をドリルのように高速回転させて地中に潜る。第8話、50話で使用。<br />
; スパーク攻撃<ref name="超技34" /><br />
: 敵とすれ違いざまに全身から光を放射し、敵にダメージを与える。第19話でサータンとの空中戦で使用。<br />
; ウルトラ十文字斬り<ref name="超技37" /><br />
: 第46話の[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#ブーメラン怪獣 レッドキラー|レッドキラー]]戦で、奪ったブーメランを使用して十字に二度切りつけ相手を両断した。<br />
; ウルトラプロペラ<ref name="超技36" /><br />
: {{要出典範囲|ウルトラスピンの強化技|date=2016年9月}}。敵の頭上で体をプロペラのように横に高速回転させて発生させた巨大竜巻で敵を吸い上げ、宇宙へ吹き飛ばして爆発させる。第28話でバリケーンを倒した。<br />
; スライスハンド<ref name="超技32" /><br />
: 敵を頭上に放り上げ、続いて自分もジャンプしてすれ違いざまに手刀で首を切り落とす。第38話でスペシウム光線もブレスレットブーメランも通じないブラックキングの首を切断した。シナリオではナックル星でこの技をマンやセブンに伝授されるシーンがあり、実際に撮影されていたが尺の都合でカットされた<ref>竹書房『ウルトラマン画報〈上巻〉光の戦士三十五年の歩み』p.93</ref>。<br />
; ウルトラスウィング<ref name="超技30" /><br />
: 敵の尻尾や足をつかんで、何度も振り回し放り投げる技。<br />
; ウルトラリフティング<ref name="超技35" /><br />
: 怪力で怪獣を持ち上げ、そのまま宇宙空間まで運ぶ技。体内に爆弾を打ち込まれたゴーストロンや、磁力をエネルギーとするマグネドンを地球外に運搬する際などに用いた。<br />
; ウルトラ投げ<ref name="超技30" /><br />
: ウルトラマン(初代)とセブンから伝授された{{Sfn|僕たち|2003|p=46}}。相手を担いだままジャンプし、高空から投げ飛ばして地面へ叩きつける。第38話でナックル星人に使用。<br />
; ウルトラハリケーン<ref name="超技36" /><br />
: 最終回で使用。標的を担ぎ上げ、「ウルトラハリケーン」と叫び高速回転させながら空中へ投げる。光線技を吸収してしまうゼットンを倒すために編み出した<ref>週刊『ウルトラマン オフィシャルデータファイル』より記載{{Full|date=2015年9月}}。</ref>。脚本にはなく現場処理で描かれた<ref>[[レーザーディスク|LD]]ソフト『帰ってきたウルトラマン』Vol.13同封ライナーノーツ。発売元:[[ハピネット|創美企画]]。</ref>。<br />
<br />
==== 他作品への出演時に見せる能力 ====<br />
{{Main2|超ウルトラ8兄弟での合体技|大決戦!超ウルトラ8兄弟}}<br />
; ダブル光線<ref name="超技98">{{Harvnb|超技全書|1990|p=98}}</ref><br />
: 『[[ウルトラマンタロウ]]』第34話では、テンペラー星人に向けてウルトラセブンのエメリウム光線と同時にスペシウム光線を発射して攻撃したものの、ダメージは与えられなかった。<br />
: 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』では、宇宙空間でUキラーザウルスにスペシウム光線とAの放ったメタリウム光線を合流させて命中させ、地球へ落下させた。<br />
; 必殺光線一斉発射<ref name="超技97">{{Harvnb|超技全書|1990|p=97}}</ref>({{要出典範囲|グランドスパーク|date=2016年9月}})<br />
: ウルトラ兄弟が必殺光線を同時に放つ技。<br />
: 『ウルトラマンタロウ』第34話では、テンペラー星人の宇宙船にゾフィー、ウルトラマン、セブン、Aらの光線と共にシネラマショットを放ち<ref name="超技97" />、大爆発させた。<br />
: 映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』では、ゾフィー、セブン、A、タロウらの光線と共にシネラマショットを放ち<ref name="超技97" />、ゴモラを攻撃した。<br />
: 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』では、マン、ジャック、エースと合同で月面のUキラーザウルスに対して用い、一点に集中することで威力を増している<ref name="M兄弟超全集">{{Harvnb|メビウス&兄弟超全集|2006|p=30|loc=「これがウルトラ兄弟の合同技だ!!」}}</ref>。<br />
: 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』では、デルストの大群を倒した{{Sfn|ゼロTHE MOVIE超全集|2011|pp=46-47}}。<br />
; 6兄弟リフター<ref name="超技98" /><br />
: 『ウルトラマンタロウ』第34話において、ウルトラ6兄弟がテンペラー星人を空中に放り投げる際に使用する技<ref name="超技98" />。6兄弟で相手を持ち上げ、回転しながら空中に放り投げる。<br />
; クロスアタック<ref name="超技98" /><br />
: 『[[ウルトラマンレオ]]』第34話において、ウルトラマンレオと同時にアシュランへ攻撃を仕掛ける技<ref name="超技98" />。<br />
; ダブルキック<ref name="超技98" /><br />
: 『ウルトラマンレオ』第34話において、レオと同時にキックを放つ技<ref name="超技98" />。<br />
; 3戦士トリプル光線<ref name="超技98" /><br />
: 『ウルトラマンレオ』第38話において、ウルトラキーを盗んだにせアストラ(ババルウ星人)をかばうレオに対し、ウルトラマンやAと共に放った光線。全員が両腕をL字型に組み、右腕から発射している。<br />
; ファイナル・クロスシールド<ref name="M兄弟超全集" /><br />
: 劇場版『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』において、マン、セブン、Aと共に、ヤプールの怨念を神戸港へ封印した技。ヤプールの四方を囲んだ4兄弟が、それぞれの両手から金色の光線を放ち、次にその光線をヤプールの頭上に集めた後、徐々に光線を下げていき、ヤプールを海に封印した。<br />
; エネルギー照射<ref name="M兄弟超全集" /><br />
: 劇場版『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』において、ガッツ星人によって十字架に閉じ込められたウルトラマンメビウスを救出する際に使用した合体光線。マン、セブン、ジャック、Aが赤色の光線を放ち、十字架を破壊してメビウスを解放した。<br />
; 合体光線{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=35}}<br />
: 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』において、光の星のプラズマスパークを守るためにAや[[ウルトラマン80#キャラクターとしてのウルトラマン80|80]]と共に[[ウルトラマンベリアル]]と戦った際、2人に呼びかけて用いた。横一列に並んで自らのスペシウム光線、Aのメタリウム光線、80のサクシウム光線を放ち融合させたものだが、ベリアルのギガバトルナイザーに跳ね返されてしまった。<br />
; ウルトラダブル<br />
: 放映時の雑誌設定にある能力で、劇中未使用<ref group = "注">内山まもるによるコミカライズ作品(1971年放映当時)、および「メビウス外伝」で使用。</ref>。エネルギーを一気に消費し、通常の2倍の身長80メートルに巨大化する能力。<br />
<br />
=== ウルトラブレスレット ===<br />
第18話で、宇宙怪獣[[ベムスター]]に敗れたウルトラマンに[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]が与えた万能武器。普段は腕輪としてウルトラマンの左手首に装着されているが、ウルトラマンの脳波に反応して様々なアイテムに変形する<ref name="超技26">{{Harvnb|超技全書|1990|p=26|loc=「ウルトラブレスレット」}}</ref>。スティック状<ref name=ウルトラ大辞典>ウルトラマン大辞典(中経出版)p.47</ref>のナイフ'''ウルトラスパーク'''をはじめ、ブーメランや槍などの様々な形態に変化させて使用する(個々の説明は後述)。使う際は左肘を曲げてブレスレットを示し、右手でこれを掴んではずす動作が続き、変形させたり、直接投げつけたりする。一度に複数の用途には使えず、第20話ではウルトラマンがそのジレンマに苦しむ様子も描かれた。時には武器としてだけでなく、湖を丸ごと蒸発させたり、惑星を丸ごと爆破したり、バラバラにされた自分の体を復元させたりするなどの能力も見せている。どの機能であれ、役目を果たすとウルトラマンの意思に呼応するかのように手元に戻る。第31話では[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙怪人 ゼラン星人|ゼラン星人]]にコントロールされてウルトラマンに襲いかかったが、ゼラン星人が倒されその制御が解けると再びウルトラマンの左手に収まった。<br />
<br />
第24話の[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#マンション怪獣 キングストロン|キングストロン]]戦でウルトラブレスレットを外した直後に攻撃を受け地面に落としてしまう描写がある(後に拾い上げキングストロンに投げつける)。内山まもるの漫画版では、ベムスターにウルトラブレスレットを弾かれ地面に落とした際に必死に探す様子が見られた。<br />
<br />
ジャックが持つ最大最強の武器<ref>ウルトラ戦士全必殺技大百科(ケイブンシャの大百科別冊)p.82</ref>であり、『ウルトラマンA』第1話、13話、26話で他の兄弟が光線のポーズを取るのに対してウルトラブレスレットを外すポーズを取ったり、第14話でウルトラ4兄弟が[[エースキラー (ウルトラ怪獣)|エースキラー]]に各々の必殺技を奪われた際にも、ジャックが奪われたのはブレスレットだった。これらのシーンはブレスレットが彼の代表的な技であることを示している。その後の第2期ウルトラシリーズ客演時には『ウルトラマンA』第26話で地球に降り立ったシーンではブレスレットを装着しておらず、<ref group="注">ただし、ヒッポリト星人の罠に陥ったウルトラマンとゾフィーを助けようとするシーンでは、細めの造形物のウルトラブレスレットを装着している。『ウルトラマン物語』にも流用。</ref>『ウルトラマンレオ』34話でタロウブレスレットを装着していたり、装着の状況が一定していないが、これは本作の撮影終了時にウルトラマンを演じた菊池に撮影用の小道具が記念に贈られ<ref group = "注">保存していたブレスレットは、2002年に菊池がテレビ番組『[[開運!なんでも鑑定団]]』に登場した際に20万円の評価を受けている。</ref>、以降の撮影には使われなくなったためで、ウルトラブレスレットを武器にするという設定自体は変わっていない。『ウルトラマンメビウス』の[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]でも使用され、それ以降の劇場版で毎回使っている。また、[[PlayStation Portable]]専用ソフト『[[ウルトラマン Fighting Evolution 0]]』のストーリーモードのジャック編のプロローグにて「警備隊1のブレスレットの使い手」と解説されている。『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』では他の光の国の宇宙警備隊隊員も標準装備していることが描写された。<br />
<br />
本作は当初視聴率が伸び悩み、様々な強化策が打ち出された。ウルトラブレスレットはその強化策の一つである<ref name = "白書85" />。<br />
<br />
; ウルトラスパーク<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技26" /><br />
: スティック状の<ref name="ウルトラ大辞典" />武器。ウルトラセブンからウルトラマンにウルトラブレスレットが授与された際は、この形態だった。白熱化して飛び、敵を切り裂く。ウルトラセブンのアイスラッガーと互角の威力とされる<ref>『帰ってきたウルトラマン大百科』(ケイブンシャの大百科433)「能力」の「ウルトラスパーク」解説文{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。最も多用された武器で、{{要出典範囲|ただ単に技名として「ウルトラブレスレット」と呼んだ場合この形状を指すことが多い|date=2016年9月}}。手に持って、ナイフとしても使える。[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#ロボット怪獣 ビルガモ|ビルガモ]]戦では、3つに分裂させた'''ウルトラスパーク3段斬り'''<ref name="超技26" />を使用した。また、ブレスレットがゼラン星人にコントロールされた時も、数発のウルトラスパークに分裂したことがある。映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』でも使用し、一本が超獣数体分の力を持っている[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#究極巨大超獣 Uキラーザウルス・ネオ|Uキラーザウルス・ネオ]]の触手を切り裂いた。また、『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』では手に持って使用。ギガキマイラのキングシルバゴンの頭を斬り付けた。<br />
; ウルトラランス<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技27">{{Harvnb|超技全書|1990|p=27}}</ref><br />
: ウルトラスパークの尖った柄を伸ばした[[槍]]。第29話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#やどかり怪獣 ヤドカリン|ヤドカリン]]に投擲し、串刺しにした。また、『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』に登場した宇宙警備隊隊員もこれを武器にしており、ウルトラマンジャック本人も[[ウルトラマンベリアル]]に対して使用した{{refnest|group="注"|元々はオリジナルビデオ『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』のために用意されていたが、同作品でのジャックの出番が減ったため『ウルトラ銀河伝説』へ流用された{{Sfn|ウルトラ銀河伝説VisualFile|2010|pp=95-100|loc=「CrossTalk:造型」}}。}}。<br />
; ウルトラクロス<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技27" /><br />
: 柄の先端に[[十字架]]がついた槍。[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#吸血宇宙星人 ドラキュラス|ドラキュラス]]や[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#触角宇宙人 バット星人|バット星人]]に投擲し、突き倒した。使用回数はウルトラランスよりも多い。撮影用の小道具は後に[[レッドマン]]のレッドアローとして流用された<ref>{{Cite book|和書|date = 1990-03-24|title = [[全怪獣怪人]]|publisher = [[勁文社]]|volume = 上巻|page = 166|isbn = 4-7669-0962-3}}</ref>。<br />
; ウルトラディフェンダー<ref name="怪獣大全集" /><ref name="超技28">{{Harvnb|超技全書|1990|p=28}}</ref><br />
: [[楯]]状に変形させたもの。第40話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#雪女怪獣 スノーゴン|スノーゴン]]の冷凍光線を反転させた。<br />
; ブレスレットボム<ref name="超技28" /><br />
: ブレスレットを敵に飲み込ませて、体内で爆発させる。[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#変幻怪獣 キングマイマイ|キングマイマイ]]と[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#鼠怪獣 ロボネズ|ロボネズ]]を倒した。<br />
; ウルトラ火輪<ref name="超技27" /><br />
: 高熱火球に変形させたもの。炎の輪を作り出して敵に降り注ぎ、焼き尽くす。第39話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#雪男星人 バルダック星人|バルダック星人]]を倒した。<br />
; 変光ミラー<ref name="超技27" /><br />
: 丸い[[鏡]]に変形させたもの。第42話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#蜃気楼怪獣 パラゴン|パラゴン]]が発生させる蜃気楼を消し去った。<br />
; ブレスレットニードル<ref name="超技26" /><br />
: ニードル([[針]])という名称だが、[[フェンシング]][[剣]]状に変形させたもの。第23話で使用し、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#暗黒怪獣 バキューモン|バキューモン]]を体内から切り裂いて倒した。<br />
; ブレスレットムチ<ref name="超技28" /><br />
: [[鞭]]状に変形させたもの。第46話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#ブーメラン怪獣 レッドキラー|レッドキラー]]のブーメランを絡め取った。<br />
; バリヤーボール<ref name="超技27" /><br />
: 球状バリヤーに変形させたもの。第25話で使用し、空中に放り出された南隊員と六助少年を助け出した。<br />
; ブレスレットブーメラン<ref name="超技27" /><br />
: [[ブーメラン]]状に変形させたもの。第37話で[[ブラックキング]]に使用したが、弾かれた。<br />
; ウルトラスーパー光線<ref name="超技26" /><br />
: ウルトラスパークから放つ光線。第19話で使用し、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#忍者怪獣 サータン|サータン]]を倒した。<br />
; 磁力封じ能力<ref name="超技26" /><br />
: 第20話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#磁力怪獣 マグネドン|マグネドン]]の磁力に捕らえられた際に使用した能力。ブレスレットから黄色い渦巻状の光線を放ち、敵の磁力を無力化した。<br />
; 反重力光線<ref name="超技26" /><br />
: 第20話でマグネドンを宇宙へ運ぶために使用した能力。ブレスレットから緑の渦巻状の光線を放ち、マグネドンを空中に浮かび上がらせてから、ウルトラリフティングで宇宙へ運んだ。<br />
; ダムせき止め能力<ref name="超技28" /><br />
: 第20話でマグネドンの体当たりで崩壊したダムに投げつけ、流出する水をせき止めた。その後、ブレスレットを回収すると再び水が流出した。<br />
; エネルギー再生能力<ref name="超技26" /><br />
: 第21話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#電波怪獣 ビーコン|ビーコン]]との戦いで倒れたウルトラマンに吸収した太陽光線を転換したエネルギーを与えて復活させた。<br />
; ウルトラ再生パワー<ref name="超技28" /><br />
: 第40話のスノーゴン戦でバラバラにされた体を再生する能力。<br />
; ブレスレットチョップ<ref name="超技27" /><br />
: ブレスレットの力で強化された左手チョップ。第27話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#八つ切り怪獣 グロンケン|グロンケン]]の腕を切り落としたほか、第30話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#水牛怪獣 オクスター|オクスター]]を怯ませた。<br />
; ウルトラショット<ref name="超技27" /><br />
: ブレスレットから放つ光線。2種類あり、1つはオクスターを痺れさせた電撃光線<ref name="超技27" />。もう1つはオクスターの死体を白骨化させた光線<ref name="超技27" />。<br />
; 水蒸発能力<ref name="超技27" /><br />
: 第30話のオクスター戦で使用。ブレスレットの力で熱を発生させ、沼の水を蒸発させた。戦闘終了後、蒸発した水は豪雨となって降ってきた。<br />
; スパーク電撃<ref name="超技27" /><br />
: ウルトラスパークを敵にぶつけ、強力電撃を放射する。第21話ではビーコンを倒した。また、第26話ではスペシウム光線の効かない[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#昆虫怪獣 ノコギリン|ノコギリン]]を昏倒させるほどのダメージを与えた。<br />
; ウルトラ発光<ref name="超技28" /><br />
: ブレスレットから放つ光で、敵のメカを狂わせる。第41話で使用し、ビルガモにダメージを与えた。<br />
; ブレスレット反射能力<ref name="超技36" /><br />
: 敵の光線をブレスレットに当てて反射する。第41話でビルガモの光線を反射した。<br />
; ウルトラ閃光<ref name="超技28" />({{要出典範囲|ブレスレットフラッシュ|date=2016年9月}})<br />
: ブレスレットから強烈な光を放つ。第36話で使用し、光に弱いドラキュラスを怯ませた。<br />
; 縮小能力<ref name="超技28" /><br />
: [[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#なまけ怪獣 ヤメタランス|ヤメタランス]]のなまけエネルギーを吸収して、元の小さな怪獣に戻した。<br />
; {{要出典範囲|惑星破壊能力|date=2016年9月}}<br />
: ウルトラスパークでバルダック星人の円盤群を破壊した後、エネルギーを放出して巨大な光弾になり、バルダック星を破壊した。<br />
; ゼラン星人にコントロールされた際の能力<br />
: 第31話でゼラン星人にコントロールされた際は、光の渦巻状に変形し、針状光線を発射する、光の鎖に変形しウルトラマンを締め付ける、八つ裂き光輪に似た光の回転カッターとなって飛び回る、などの能力を見せた<ref name="超技28" />。<br />
<br />
=== デザイン ===<br />
[[File:Ultraman Jack Soshigaya.jpg|280px|thumb|right|ウルトラマンジャックアーチ([[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]])]]<br />
美術スタッフの[[井口昭彦|高橋昭彦]]によるものとされるが、高橋本人は否定している{{Sfn|大全|2002|p=315}}{{refnest|group = "注"|現存するデザイン画は、かつて『別冊てれびくん (1)ウルトラマン』(小学館)や『ウルトラマン白書』で「池谷仙克の筆による」と紹介されたこともあり<ref name = "白書82" />、高橋は前述のインタビューで「池谷の画だと思う」と語っているも、池谷は否定している{{Sfn|大全|2002|p=315}}。}}。最初期のデザインは当時の円谷プロ営業課長だった末安正博が、初代ウルトラマン(以下、「初代」と略す)の商品化用三面図の模様にラインを描き加えたものだという{{Sfn|帰ってきた帰ってきた|1999|p=15}}。最初のスーツはこのデザインに基づいて制作され、撮影も進行していた{{refnest|group = "注"|最初のスーツは初代のCタイプと同様に肩や胸が底上げされており、これを用いてポーズを取った写真も公開されている<ref>『帰ってきたウルトラマン パーフェクトファイル』(講談社、2015年) p7</ref>。}}。しかし、本作の商品化権を取得した[[ブルマァク]]の要望によりキャラクターを初代と明確に差別化する必要に迫られてデザインが変更され、すでに撮影済みだった第1話の登場シーンも再撮影された<ref>きくち英一・著『ウルトラマンダンディー 〜帰ってきたウルトラマンを演った男〜』([[風塵社]]・1995年)p.30.</ref>。<br />
<br />
基本的に初代に準じた形状だが、身体の赤い模様を二重線で縁取っており、首から胸元(初代はタートルネック状に首周りまで赤い模様があるが、帰ってきたウルトラマン〈以下、「新マン」と略す〉はTシャツのように模様があるのは首の下までで、首周りの部分は銀色である)と腰から膝(模様の見た目でいえば初代はハーフパンツ風だが、新マンはショートパンツ風で赤い模様の面積が少ない)までの模様が異なるのが大きな特徴である。また、銀色の質感も、本放送当時の初代のそれとは若干異なるものであった。<br />
<br />
マスクは初代のCタイプから原型を取り<ref name="特秘3">{{Cite journal |和書 |date =2016-03-13<!--奥付表記--> |title=ウルトラマンマスクABC大研究 ここまでわかった!初代マンABC徹底検証 |publisher =[[洋泉社]] |journal =別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝 |volume =vol.3 |pages=pp.208-211 |isbn=978-4-8003-0865-8 }}</ref>{{refnest|group="注"|一部書籍では、ゾフィーのマスクが型取りされたと記述している{{Sfn|新大全集|1994|p=158}}。}}、開米プロダクションと[[ヒルマモデルクラフト]]が制作した。商品化登録用の撮影の際に目の取り付け角などが変更され、初代やそれに準じた最初のスーツよりわずかに吊り目となっている<ref name="ネコ_20-21">{{Cite book |和書 |date =2018-01-31 |title=エンターテインメントアーカイブ 帰ってきたウルトラマン |publisher =[[ネコ・パブリッシング]] |pages=pp.20-21 |isbn=978-4-7770-2129-1 }}</ref>。目の裏側に透明エポキシ樹脂によって凹凸を作っている{{Sfn|新大全集|1994|p=158}}。後頭部は番組開始当初では赤色で塗装されているが、番組後半では銀色で塗装されていることもあった。そのほか、スーツの個体差に由来する模様や形状の差異は多い。特に、『ウルトラマンタロウ』第52話へ客演した際には本作で銀一色だった手袋が赤一色に変更されたため、後頭部と併せてオリジナルとは異質な姿となっていた。<br />
<br />
手足の継ぎ目を隠していた初代と異なり、手袋とブーツのすそが明確に露出している。これは撮影時のスーツの着脱の容易さを考慮したもので、『ウルトラセブン』撮影時の経験を生かしたものである。ブーツと手袋のファスナーの部分は、デザイン画の時点から赤いラインが入っている。中期から、左腕に[[#ウルトラブレスレット|ウルトラブレスレット]]を装着する。<br />
<br />
1987年春から同年夏にかけ、[[明星食品]]の[[カップ麺]]『[[明星食品#チャルメラ|チャルメラ]]』のCMにサラリーマン姿のウルトラマンが登場した。設定上は初代であるが、赤い首回りにワイシャツ姿は似合わないため、首回りが銀色である新マンのスーツが使用されている。<br />
<br />
ウルトラブレスレットは、現在はきくち英一が保管している{{Sfn|新大全集|1994|p=158}}。<br />
<br />
=== 他作品での活躍 ===<br />
客演回数はウルトラセブンの次に多い<ref>『大人のウルトラマン大図鑑 第2期ウルトラマンシリーズ編』(2013年・[[マガジンハウス]])13頁。</ref>。郷秀樹の姿で登場した作品は◎、郷秀樹の姿で登場していないが団時朗が声を担当した作品は●を付記。<br />
<br />
; 『[[ウルトラマンA]]』<br />
: 第1話、第13・14話、第26・27話に登場。<br />
: 第10話は本作の後日談となっており、団時朗演じる「にせ郷秀樹」([[アンチラ星人]])が登場している。<br />
; 『[[ウルトラマンタロウ]]』<br />
: 第1話、第25話、第33・34話◎、第40話、第52話◎に登場し、第52話では単独客演。第29話と第40話では本作のライブラリ映像が使用されている。<br />
; 『[[ウルトラマンレオ]]』<br />
: 第34話◎、第38・39話に登場し、第34話では単独客演。第34話の予告や冒頭のナレーション(回想シーン)では「ウルトラ5番目の兄弟」と紹介されている(正しくは4番目)。<br />
; 映画『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』<br />
: 他のウルトラ戦士とともに天空魔と戦った。<br />
; 映画『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』<br />
: 他のウルトラ戦士とともに[[ウルトラマンキング]]の誕生日を祝福する。<br />
; 『[[ウルトラマンメビウス]]』<br />
: 第1話(イメージのみ)、第45話◎、第50話●、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]◎、OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』STAGE.1●に登場し、第45話では単独客演。<br />
: 劇場版では、初代ウルトラマン、セブン、Aとともに、Uキラーザウルスを死闘の末に封印する。以後、郷の姿になって[[神戸市]]内のサーキットで後進レーサーを目指す少年たちの指導を行い、坂田とともに追っていた夢を彼らに託している{{refnest|group="注"|当初は原典をイメージした中古自動車店が想定されていたが、何十年も同じでは夢がないとして変更された{{Sfn|メビウス&兄弟超全集|2006|pp=60-61|loc=「[[黒部進]]×[[森次晃嗣]]×団時朗×[[高峰圭二]] ウルトラ兄弟座談会」}}。}}。ジャケットの胸にMATのエンブレムを付けている。ヒビノ・ミライ(メビウス)に「心を狙った卑劣な罠に気を付けること」を諭した。なお、エンドロールでは「帰ってきたウルトラマン」とクレジットされている。<br />
: 第45話では、暗黒四天王第2の刺客・[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#策謀宇宙人 デスレム|デスレム]]の策略によって人間不信になりかけたミライに対し、かつて自分が目の当たりにしたことを踏まえ、人間の心の光と闇の両方を知らなければ人間は愛せないと説いた。メビウスとともにデスレムを倒した後、捕らわれていたGUYSクルーを救出した。デスレム出現時には、初めて本名である「'''ジャック'''」の名で呼ばれている。<br />
: 第50話では、[[エンペラ星人]]の力によって黒点に覆い尽くされた太陽に対し、件の3人やウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオと[[ウルトラマンレオ#アストラ|アストラ]]、[[ウルトラマン80]]と協力して各自の光線を放ち、黒点を消滅させる。<br />
: 『ゴーストリバース』では、ウルトラマンヒカリからのウルトラサインを見て、Aやタロウが[[怪獣墓場]]に向かうのを見届けた。<br />
; 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』◎<br />
: この世界における郷は、何事もなくアキと結婚して彼女との間にメグという娘を儲け、アキとともに自動車整備工場「坂田自動車修理工場」を経営している(坂田は若くして他界しており、遺影が飾られている)。しかし、クライマックスで人々の声援によって元の世界の自分と記憶が同化してジャックに変身する。<br />
: スーツは『メビウス&兄弟』で制作されたものと同一{{Sfn|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|p=61|loc=「ウルトラマンジャック」}}。<br />
; 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』●<br />
: Aや80とともに[[ウルトラマンベリアル]]に立ちむかうが、敗北してそのまま[[M78星雲|光の国]]の凍結に巻き込まれてしまう。その後、[[ウルトラマンゼロ]]がベリアルを倒してプラズマスパークのエネルギーコアを取り戻したことにより復活する。<br />
; 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』●<br />
: アナザースペースへ旅立つゼロに他のウルトラ戦士とともにエネルギーを与えた後、光の国を襲撃したダークロプス軍団を迎え撃つ。<br />
; 映画『[[ウルトラマンサーガ]]』◎<br />
: 初代マン、セブン、A、レオとともにゼロの身を案じたほか、本編からカットされたシーンでは[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場したバット星人|バット星人]]が作りだした怪獣兵器と闘った。また、謎の円盤の動きを察知していた描写も存在する。<br />
<br />
上記3作品では、『メビウス』での「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている」という設定が継承されている。<br />
<br />
; 『[[ウルトラマンギンガS]]』<br />
: 本人は登場していないが、[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]の用いるウルトラ6兄弟の力のうち2つに、ジャックの技(ウルトラショットとウルトラバーリア)とイメージが登場。ウルトラショットでサドラ(SD)を倒し、ファイブキング(SDU)戦では超コッヴの部位を破壊した。ウルトラバーリアは、ギンガに変身前でも使える唯一の技となっている。<br />
<br />
; 『[[ウルトラマンオーブ#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』●<br />
: レイバトスに召喚された亡霊怪獣軍団に苦戦するゼロを救援するため、セブンやゾフィーとともに駆けつける。自身はグドンとツインテールと戦って勝利したほか、オーブがセブンとゼロによる特訓を受けている間にはゾフィーとともにタイラントを足止めする。<br />
<br />
=== 本作品以降に登場する形態 ===<br />
* [[大決戦!超ウルトラ8兄弟#グリッターバージョン|グリッターバージョン]]<br />
* 他のウルトラ戦士との合体<br />
** [[ウルトラマン物語|スーパーウルトラマン]]<br />
** [[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#メビウスインフィニティー|メビウスインフィニティー]]<br />
=== 関連する能力を持つ戦士 ===<br />
; ウルトラマンギンガストリウム<br />
: ジャックの能力を使用可能。<br />
; ウルトラマンオーブ<br />
: 他のウルトラ戦士の力を借りて変身する。<br />
: {| class="wikitable"<br />
! オーブの形態 !! もう一つの力 !! 備考<br />
|-<br />
| ハリケーンスラッシュ || ウルトラマンゼロ || <br />
|}<br />
<br />
== 主な登場人物 ==<br />
=== MAT隊員 ===<br />
; {{読み仮名|郷 秀樹|ごう ひでき}}<br />
: 本作の主人公で、年齢23歳。坂田自動車修理工場に勤務しながら、カーレーサーを目指していた。坂田の設計・開発中のレーシングマシン「流星号」のレーサーとして、その完成を目前に控えていた。甘党でおはぎが好物。趣味はギター。[[台東区]][[浅草]]在住(第31話より)。<br />
: [[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#オイル怪獣 タッコング|タッコング]]襲来時に逃げ遅れた少年と仔犬を救おうとして命を落とすが、正義感と勇敢さに感化されたウルトラマンが一体化したことで復活し、人類の自由と幸福を脅かす敵と戦う決意を胸にMATに入隊した。ヘルメットの番号は「6」。<br />
: 少年時代から運動神経に恵まれたが、ウルトラマンと一体化したことで能力が増幅されている。第2話では、[[剣道]]や[[射撃]]といった先輩隊員たちの得意種目でも初心者ながら勝利するという成績を打ち出した。しかし、その超人的な能力に思い上がって自らピンチを招くこともあり、超能力を身に付けたことで怪獣出現の前兆を他人よりも鋭敏にキャッチできることが仇となり、事件の有無を巡って他の隊員との対立を起こすことも度々あった。だが、人間的に成長するにつれチームに融和し、他の隊員とも打ち解けるようになる。<br />
: 家族に関しては、13歳の時に父が登山中の遭難事故で死亡したことが第3話で語られた。母親に関しては、故郷に残して上京し、レースで優勝したら母親に楽をさせることを夢見ていたことが第1話で語られたが、第33話での伊吹との会話内にて郷が天涯孤独であることが明らかになったことから、母親も亡くなったことがうかがえる。<br />
: 坂田家とは家族同然の付き合いであり、健を兄の様に慕い、アキとは恋人同士、次郎のことも弟のように可愛がっている。MAT入隊後も休暇の際は坂田自動車修理工場で流星2号の設計・製作をともに進めていた。第34話で幼馴染みの水野一郎と再会するも、悲劇を防げなかった。<br />
: 第37・38話で坂田兄妹の死後、残された次郎を引き取って同居を始め、第41話で次郎の兄代わりになろうとした。<br />
: 第51話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#触角宇宙人 バット星人|バット星人]]と[[ゼットン#『帰ってきたウルトラマン』に登場するゼットン|ゼットン(二代目)]]を倒した後、次郎に「ウルトラ5つの誓い」を残し、ウルトラの星の危機を救うべく、ウルトラマンとしてウルトラの星に旅立っていった。<br />
: ウルトラマンと一体化したまま地球を去ったため、『[[ウルトラマンタロウ]]』第33・34話と第52話、『[[ウルトラマンレオ]]』第34話、『[[ウルトラマンメビウス]]』の[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]と第45話、映画『[[ウルトラマンサーガ]]』でも、ウルトラマンの人間体として姿を見せている。東光太郎 / ウルトラマンタロウやヒビノ・ミライ / ウルトラマンメビウスに自分の経験から得たアドバイスを送っている。<br />
: だが、MATの仲間たちには自分の無事と正体を告げていないため、ゼットン(二代目)戦で殉職扱いになっていることが次作『[[ウルトラマンA]]』第10話で語られる。<br />
; {{読み仮名|加藤 勝一郎|かとう かついちろう<ref>{{Cite book|和書 |title = ケイブンシャの大百科 26 ウルトラマン大百科 |publisher = [[勁文社]] |date = 1978-08-10 |pages=151 |isbn = 978-4766915648 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title = ケイブンシャの大百科 39 続 ウルトラマン大百科 |publisher = 勁文社 |date = 1979-06-30 |pages=84 |isbn = 978-4766915655 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title = コロタン文庫 41 ウルトラ怪獣500 |publisher = [[小学館]] |date = 1979-04-30 |pages=307 |isbn = 4-09-281041-5 }}</ref>}}{{refnest|group="注"|『ウルトラマン大辞典』では読みを「かとう しょういちろう」と記述している{{Sfn|大辞典|2001|p=89}}。}}<br />
: 年齢38歳。元は陸上自衛隊の一佐でMAT日本支部の初代隊長。ヘルメットの番号は「1」。<br />
: 郷の勇気ある行動と生命力(死亡と診断された後で蘇生したこと)に感銘を受け、MATへの入隊を薦めた。普段は温厚な性格だが、任務に対する責任感が強く、規律には厳しい。上層部の岸田長官からの強引な命令に対し、押して忍ぶ態度でよりよい解決策を進言し、第3話で部下同士の対立を解決するために単身で危険地帯に調査に赴くなど、外柔内剛の部下思いの上司。<br />
: 息子と兄の存在が設定されており、兄は鉄道会社の社長(息子=加藤の甥がいる)<ref group = "注">劇中に登場したのは甥のみ。</ref>。<br />
: 第22話でMATステーションに転任した(後年のマンガ{{Full|date=2014年12月6日 (土) 21:08 (UTC)}}などで、ベムスターの襲撃で殉職した宇宙ステーション責任者で親友の梶キャプテンの後を継ぐため、という裏設定が誕生)。<br />
: 加藤転任の経緯は上述の「[[#隊長の交代]]」の項を参照。<br />
; {{読み仮名|伊吹 竜|いぶき りゅう}}<br />
: 年齢45歳。MAT日本支部の2代目隊長。ヘルメットの番号は「1」。<br />
: 加藤のニューヨーク本部勤務時代の上官で、彼がMATステーションへ転任となった後、ニューヨーク本部から転任して来た。加藤と比べてやや激情家で、任務遂行時には厳しく声を荒らげることもあるが、人間としての根は優しい。実家に妻と一人娘の美奈子がいるが、MAT隊長の家族であるがゆえに宇宙人の陰謀に巻き込まれることが多い。劇中では何らかの理由で郷がウルトラマンと同一人物であることに気づいていた可能性があるような行動も見せている<ref group = "注">第33話においては、[[メイツ星人]]が殺害され、殺した住民の身勝手な言い分に市民を守ることを放棄しようとした郷に托鉢僧に扮し「街が大変なことになっているんだぞ」と一喝し、[[ムルチ#『帰ってきたウルトラマン』に登場したムルチ|ムルチ]]との戦いへと赴かせた。『ウルトラマン大全集II』(講談社・[[1987年]])215頁の座談会によれば、演出を担当した筧正典は、加藤隊長を演じた塚本信夫と議論して「やっぱり隊長は知っているんだ」という結論に達したが、画面の中では「隊長は郷がウルトラマンであるとは知らない」ことにして描くことにしたと述べている。</ref>。<br />
: パイロットとしても優れ、初登場である対ゴキネズラ戦でその腕前を見せ、右腕を怪我してウルトラブレスレットを使えないウルトラマンを援護したほか、『[[ウルトラマンメビウス]]』でも「名うての戦闘機乗りで華麗なアクロバット飛行でウルトラマンのピンチを何度も救った」と語られている。一方で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙怪人 ゼラン星人|ゼラン星人]]の怪光線を避け射殺したり、人間大の[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#触角宇宙人 バット星人|バット星人]]に肉弾戦を挑むなど、白兵戦にも秀でていた。<br />
; {{読み仮名|南 猛|みなみ たけし}}<br />
: 年齢25歳。長野県出身。MAT日本支部の副隊長格で、柔道五段で、マットガンの名手。ヘルメットの番号は「2」。<br />
: 心優しい性格の持ち主であり、チームワークを大切にし、MAT入隊当初の郷の面倒をよく見ていた。自分の独断で物事を判断せず、他の隊員の意見をバランスよく聞こうとしていた。少年時代には「じゃみっ子」と呼ばれたいじめられっ子だったらしく、いじめられている子供を見ると我慢できない。<br />
: 設定では、オリンピックの射撃競技の金メダリストでもある。<br />
; {{読み仮名|岸田 文夫|きしだ ふみお}}<br />
: 年齢25歳。兵器開発を得意とする。ヘルメットの番号は「3」。<br />
: 射撃の名手(作中では高層ビルの屋上にいる[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙参謀 ズール星人|ズール星人]]を地上から1発で仕留めるという離れ技を見せた)で、プライドが高く、少々短気なところもある。正義感と責任感が強いが、十分な調査もせずに[[ツインテール (ウルトラ怪獣)|ツインテール]]の卵を岩だと判断するなど、独断で重大な決定を下し失敗する例も見られる。当初はなにかと郷と意見や感情が対立し、郷が謹慎処分になるほど重大な結果になることも多かった。「主人公と仲間との深刻な対立」というそれ以前のシリーズにはあまり見られなかったシチュエーションを代表する人物である。しかし、第11話で郷に助けられたことを契機として次第に打ち解け、プライベートを話題にしたり冗談を言い合うような仲になっていった。<br />
: 軍人の家系の生まれで、両親と兄との4人家族。父は大日本帝国陸軍で毒ガス・イエローガスの研究をしていたが、そのことを知った兄は自殺している。<br />
: 第44話で超高感度レーダーの設計に携わり、その時期に事件で知り合った女性・広田あかねと愛し合い、結婚を考えた交際をするが、悲劇的な結末を迎える。<br />
: 地球防衛庁長官を務める叔父がいる(後述)。<br />
; {{読み仮名|上野 一平|うえの いっぺい}}<br />
: 年齢23歳。若く、直情型の熱血漢でMATのムードメーカー的存在。ヘルメットの番号は「4」。<br />
: 戦闘中のさまざまな局面において、感情をストレートに出している。MATに命を懸けるという一方で、喉が渇いたからとパトロールを打ち切って基地へ帰還するなど、南・岸田両隊員とは対照的に気分屋の一面を感じさせる場面もある。同い年の郷と仲が良く、当初は郷の意見を「ばかばかしい」と一蹴する態度も見られたが、チームで孤立した郷をかばうことも多かった。<br />
: 迷信や占いを信じる一面もある。<br />
: 天涯孤独の身で親兄弟はいないが、地底科学の権威である小泉博士に助けられた恩があり、彼を父のように慕っている。第50話では博士殺害の嫌疑をかけられるが、郷たちに潔白を証明される。博士の娘のチドリは幼馴染みであり、彼女のことは「ちーちゃん」と呼ぶ。<br />
; {{読み仮名|丘 ユリ子|おか ユリこ}}<br />
: 年齢20歳。MAT日本支部の紅一点で、ヘルメットの番号は「5」。<br />
: 主に通信を担当するが、作戦会議では独自の優れた視点で状況打開の突破口となるヒントやアイデアをしばしば提示する。第2話での紹介によると剣道四段の腕前で、実戦でも男性隊員には劣らない。特に第38話で、郷を除いた全隊員が洗脳された際にもたった1人で耐え、男性隊員と格闘して打ち伏せたうえ、郷と2人で隊員たちの洗脳を解いたことでもその実力はうかがえる。<br />
: 第47話では[[フェミゴン]]の憑依から解かれた際に見せた表情に普通の女性と変わらない一面も垣間見えた。髪型は初期は長い黒髪だったが、第5話以降は茶色の短髪に変更されている。<br />
: 第47話で母親が登場している。また、ニュースキャスターの父親が設定されているが、劇中には未登場。<br />
<br />
=== 坂田家 ===<br />
; {{読み仮名|坂田 健|さかた けん}}<br />
: 郷が働いていた坂田自動車修理工場の経営者にして、坂田兄弟の長兄。28歳。元は一流のレーサーだったが、5年前のレースでゴールを目前にスピンして脚を負傷し、脚が不自由になった為、レーサーを引退。以降は杖をつくようになり、職も技術者に転向した。郷にとっては最大の理解者で同時に後見人でもある。パイプを愛用している。<br />
: MATから一目置かれる有能な技術者であり、マットビハイクルの改良も行っている。オリジナルのレーシングマシン、流星号を完成させるが、郷が一度亡くなった際に手向けとして燃やした。その後、復活した郷と共に流星2号の製作を行うようになる。<br />
: 母親は戦争時代、疎開はせず、まだ3歳だった健を連れて、庭の防空壕に身を潜めていたことが、第6話で語られた。<br />
: 第37話で、ナックル星人に誘拐されかけたアキを救おうとして、轢き殺された。第38話では回想シーンに登場し、第41話では声のみでの登場{{refnest| group = "注"|声は[[阪脩]]の担当{{Sfn|円谷プロ画報|2013|p=213}}。}}。<br />
: 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』では、(演じた岸田森がすでに他界したため)遺影写真という形で客演している。<br />
; {{読み仮名|坂田 アキ|さかた アキ}}<br />
: 坂田健の妹で、郷とは周囲も公認の恋人。18歳。衣料品店に勤めている。第1話では胸にロザリオを下げており、郷が一度亡くなった際には、郷との別れを込めて、彼の遺体の上にロザリオを置いた。<br />
: [[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#竜巻怪獣 シーゴラス|シーゴラス]]を「女性のピンチを救ってくれるのは怪獣ながら頼もしい」と評するなど、勇敢な男性を好むような傾向がある。<br />
: 第5・6話では[[ツインテール (ウルトラ怪獣)|ツインテール]]の卵が巨大化した際の落盤に巻き込まれて意識不明の重傷を負い、第26話では[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙昆虫 ノコギリン|ノコギリン]]騒動に巻き込まれるなど、受難続きであった。<br />
: 第37話で[[ナックル星人]]の車に拉致された後、引きずられて重傷を負い、病院で郷に宇宙人の仕業と伝えて死亡。第38話では回想シーンに登場。<br />
: 『超ウルトラ8兄弟』における[[パラレルワールド]]では郷と結婚し、メグという一人娘を儲けているが、ここでも人助けをした直後に怪獣災害に巻き込まれている。<br />
; {{読み仮名|坂田 次郎|さかた じろう}}<br />
: 坂田兄弟の末っ子で、11歳。現代っ子の側面も持っている。郷を兄のように慕っており、それもあってMATを応援し、将来はMAT入隊を夢見ている。<br />
: 第19話、第29話、第30話では怪獣事件に巻き込まれている。<br />
: 第37・38話で兄と姉をナックル星人に殺された後、郷に引き取られる。第51話では郷がウルトラマンであることを知り、地球を去っていく郷を「ウルトラ5つの誓い」を叫びながら送り出した。その後、『ウルトラマンA』第10話にゲスト出演している。<br />
: 『[[ウルトラマンメビウス]]』では登場はしていないが、友人のセリザワ・カズヤに「ウルトラ5つの誓い」を伝えた人物と設定されている<ref>ウルトラマンメビウス超全集P60</ref>。また、小説『[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント|ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント]]』では、ハルサキ・カナタを教えた[[ウルトラマンメビウス#GUYS / CREW GUYS|GUYS]]専科の教授として名前のみ登場。航空力学の権威となっており、GUYSが保有する戦闘機やメテオールの実用化に貢献していたことが語られている。<br />
: 『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』以前に企画された『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』では当初、登場が予定されていたが<ref>映画『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』のDVDメモリアルボックス(バンダイビジュアル・2009年1月23日発売・ASIN:B001J2UJVS)の特典冊子より</ref>、『超ウルトラ8兄弟』におけるパラレルワールドでは存在が確認されていない。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
; {{読み仮名|岸田|きしだ}}長官<br />
: 岸田隊員の叔父で、MATの上部組織と言える地球防衛庁の長官。MATに解散を命じることも可能な強い権限を持つ。<br />
: 権力や世論を背景に怪獣を倒せないMATにプレッシャーをかける役回りで、その高圧的な命令にMATが背くことができないという状況は、子ども向け特撮番組の中で現実社会の構図を見せ、作品世界にリアリティーを与えていた。ただし、[[グドン#『帰ってきたウルトラマン』に登場したグドン|グドン]]・ツインテール戦ではMATの熱意を酌んで麻酔弾作戦に許可を出していること、シーゴラス・[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#津波怪獣 シーモンス|シーモンス]]戦では東京都民の安らぎに言及してMATを叱咤している点などもあり、悪役とは言い切れない懐の深さを持つ人物でもある。<br />
; {{読み仮名|佐竹|さたけ}}参謀<br />
: 第5話で初登場。ただし第6話の劇中では{{読み仮名|'''佐川'''|さがわ}}参謀と呼ばれ<ref group="注">第5・6話の脚本では「参謀A」。</ref>、その後も第20話の脚本では岸田長官(劇中での呼称なし)、さらに第50話の脚本では「副参謀」(劇中での呼称なし)と一貫性がなく、本編及び脚本で「佐竹参謀」の名前が確認できるのは第11話だけである。<br />
: 岸田長官を補佐し、MATと地球防衛庁とのパイプ役を務めている。怪獣を東京ごと抹殺するスパイナー作戦を提案したり、MATの解散をほのめかしたりと、現場と対立する役割は岸田長官と同じだが、対立するばかりではなく共同歩調を取っている場面も見られる。<br />
; {{読み仮名|近藤 勝|こんどう まさる}}班長<br />
: 第9話に登場。整備班の班長で、マットアローなどの機体の整備を行う。<br />
; {{読み仮名|梶|かじ}}<br />
: 第18話に登場。MATステーションのキャプテンで、加藤隊長の大学時代からの友人。部下と共にステーションごと、[[ベムスター]]に襲撃され、殉職した。地上には翌月に出産を控えた妻がいた。<br />
; {{読み仮名|村野 ルミ子|むらの ルミこ}}<br />
: 第38話から登場。郷と同じマンションに住んでおり、彼の隣の部屋に住む女子大生。亡くなったアキに代わり、2人の心の支えとなった。父親は外国航路の船長で世界中を航海しており、母親と2人暮らし。郷に好意を寄せていたようで、第51話で郷と[[結婚式]]を挙げる夢を見ている。<br />
: 『A』第10話に次郎とともにゲスト出演している。<br />
<br />
== MAT ==<br />
{{読み仮名|'''MAT'''|マット}}とは '''M'''onster '''A'''ttack '''T'''eam すなわち「怪獣攻撃部隊」であり、対怪獣戦や怪事件捜査を主任務とする。国際平和機構の地球防衛庁に属し、本部は[[ニューヨーク]]に置かれ、世界各国に支部がある。また、[[宇宙ステーション]]も保有している。コールサインは「マットJ」。<br />
<br />
一般市民が町で隊員服を見かけてMATの活動を察知したり、子供達が街中でマットビハイクルに群がったり、隊員と直接面識のない人物(第27話の[[沢村忠]])からもMAT隊員として声をかけられたりするなど、MATの活動内容はかなりオープンになっている。<br />
<br />
しかし、その一方で軍内部では組織的に弱い立場であるらしく、常にMATのことを快く思わない上層部や世論から解散の圧力をかけられることもたびたびあった。<br />
<br />
略称の「MAT」は英語表記としては意味をなさないが、その点について特に注釈はない。こうした略称の使用は以後のウルトラシリーズに登場する防衛チームに継承されている<ref group = "注">{{独自研究範囲|平成以降は『ウルトラマンティガ』のGUTS(闘志)、『ウルトラマンガイア』のG.U.A.R.D.(防衛)、『ウルトラマンメビウス』のGUYS(若者)などのように、略称自体にも単語としての意味を持たせる例が一般的となった。『ウルトラマンゼアス』のMYDO、『ウルトラマンナイス』のGOKAZOKU隊などのように日本語の語呂あわせを採用した例もある。|date=2015年9月}}</ref>。<br />
<br />
『A』第10話ではMATのファイルの存在が語られている。<br />
<br />
=== 日本支部の隊員 ===<br />
実動部隊と後方支援部隊(通信・整備)からなり、少数精鋭主義を取っているため、隊員数は少ない。また実動部隊のヘルメットには額部分に番号が書かれている(1番が隊長)。<br />
<br />
=== 日本支部基地 ===<br />
MAT日本支部は[[東京湾]]の海底に置かれている。内部には隊員達が勤務する司令室を中心に、隊員達のアパートや病院などの居住区、柔剣道場、ライドメカの格納庫や整備場が設けられ、アローやジャイロの発進ゲートは地上部に設置されており、エアシュートによって往来。<br />
<br />
MATの作戦室は前期と後期に区別されており、前期は第1〜36話までのモスグリーンの色で統一されたデザインで、後期は第37話から第51話のホワイトグレーの色で統一されたデザインに変更され、計器類・出入り口通路も同時に変更された。<br />
<br />
他に海岸沿いの地上発進口や地上オフィス([[中央区 (東京都)|中央区]]神田錦二丁目・架空の場所)、レーダー基地がある。<br />
<br />
最終回で、隊員達が出撃した隙を突かれ、バット星人に基地の原子炉を破壊され、ほとんどの施設の機能が麻痺してしまった。<br />
<br />
=== 装備 ===<br />
MATは数々の特殊装備を持ち、状況に応じて使っている。<br />
==== 隊員服 ====<br />
実動部隊の隊員服はオレンジ色が基調色で、胸に黒いV字型の模様が入るシンプルなデザイン。この部分は伊吹隊長のみ上部に細い線が入る<ref group = "注">このデザインの変更は伊吹隊長を演じた根上淳が「隊長と隊員の外見的違いを明確にするために」と発案したもの。</ref>。高い耐熱、耐寒、耐久性を持つ。当初、池谷によって描かれたデザインは不使用となったが、後に『[[ファイヤーマン]]』のSAFの隊員服に流用され、高橋昭彦のデザインが採用された{{Sfn|新大全集|1994|p=92}}。<br />
<br />
==== 銃器類・特殊装備 ====<br />
; MATヘルメット<br />
: 怪獣に噛まれても壊れないほど頑丈で、防護マスク(バイザー)が付いており、通信機が内蔵されている。<br />
:* 撮影で使用されたものは、後に『ファイヤーマン』のSAFヘルメットに改造された{{Sfn|新大全集|1994|p=92}}。<br />
; マットシュート<br />
: 全隊員が常時携行し、カートリッジの交換で通常弾も熱線も発射できる万能[[拳銃]]。巨大怪獣にとどめを刺すほどの威力はないが、怪獣への牽制やウルトラマンの援護等で威力を発揮した。拳銃としてはカートリッジレス弾を使っており、排莢は行わない。ゼラン星人、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙参謀 ズール星人|ズール星人]]を倒した。初期では熱線銃の使用が目立ったが、以降は通常弾の使用場面ばかりになっていく(後期では第41、44話で光線銃を使っている)。<br />
: 通常弾と熱線で撮影用プロップが異なっており、銃口部付近の形状が異なっている。資料によっては、「Aタイプ」「Bタイプ」と区別している{{Sfn|白書|1982|p=155}}{{Sfn|キャラクター大全|2015|p=16}}。Aタイプはパルサ製、Bタイプは金属製となっている{{Sfn|新大全集|1994|p=92}}。<br />
; マットガン<br />
: スリングベルトが付いた[[短機関銃|サブマシンガン]]ほどの大きさの対怪獣用連射式[[銃]]で、弾は曳光弾が用いられる。やはり怪獣相手の殺傷力は低い。一度に数百発の弾丸を発射するが、子供でも扱えるほど反動が少ない。<br />
: 造形物は[[M3サブマシンガン]]の撮影用プロップを銀色に塗装し、銃身を外して新たに短く太い砲身状の「銃身」をつけたもの。<br />
; レーザーガンSP-70<br />
: シーゴラスとシーモンスの角を破壊するために開発されたレーザーガン。シーゴラスの角を破壊した。その後、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#磁力怪獣 マグネドン|マグネドン]]、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#水牛怪獣 オクスター|オクスター]]、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#蜃気楼怪獣 パラゴン|パラゴン]]など他の怪獣の攻撃時にも使用されるようになった。[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙小怪獣_クプクプ|クプクプ]]を処分する際にも使われたが、それが[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#マンション怪獣_キングストロン|キングストロン]]出現の遠因となった。<br />
; スペースレーザーガン<br />
: 岸田隊員が開発した新型レーザーガン。ノコギリンの処分に使われたが、逆にエネルギーを吸収されて巨大化させてしまった。<br />
; マットバズーカ<br />
: 一般軍事用の[[バズーカ砲]]と同じ外見の地上攻撃用の主力武器。対ツインテール戦ではマット[[ジープ]]で至近距離まで接近して目を攻撃することで大きな成果を挙げ、第29話で専用弾丸のP弾が登場した。<br />
; スーパーカノン<br />
:[[原子爆弾|原爆]]と同じ威力があるが、放射能は出さないというレーザーガン。レッドキラーに使って一度は撃退したが、これは敵の罠で二度目は効かなかった。<br />
; MN爆弾<br />
: 第5、6話に登場し、マットアロー1号に搭載された強力爆弾で、通常弾を上回る威力で地球防衛庁内での信頼度も高いが、グドンの厚い鎧状の表皮には無効だった。巨大化したツインテールの卵の破壊にも適用が検討されたが、孵化したことで以降の使用は見送られた。<br />
; スパイナー<br />
: 第6話でセリフでのみ言及される超高性能爆薬で、一発で小型水爆並の威力がある。地球防衛庁の岸田長官がグドンとツインテールの殲滅のために東京都下での使用を決定して都民を緊急避難させたが、MATの進言で使用は一時保留となり、グドンとツインテールが結果的に撃滅されて使われなかった。『ウルトラセブン』第28話にも[[ウルトラ警備隊#銃器類・特殊装備|同名の爆薬]]が登場した。<br />
; モンスターソナー<br />
: ニューヨークMAT技術局が開発した怪獣探知機で、第9話に登場した。また第21話で、郷がほぼ同型の装置を背負ってアマチュア無線の電波発信元を探索する場面がある(モンスターソナーであるのか別種の探知機であるのかは不明)。<br />
; 赤外線装置付カメラ{{refnest|書籍によっては「赤外線ムービーカメラ」と記述している<ref name="画報上">{{Harvnb|画報 上巻|2002|pp=92-95}}</ref>。}}<br />
: 第19話で透明化したサータンを探知する為に使用した特殊装備。<br />
; アンチ・マグネチック装置<br />
: 第20話に登場した強力な磁力を跳ね返す装置で、マグネドンに対して使用した。<br />
; サターンZ<br />
: MATが開発したミサイル用液化火薬。1滴でタンカーを破壊し、タバコの箱ほどの量で富士山を吹き飛ばす。[[ニトログリセリン#爆発性|ニトログリセリン]]の6千倍の威力で放射能も出ないため、ダム建設に使われる予定だった。ナックル星人に奪われたが、悪用される前にMATが奪還した。<br />
; X弾<br />
: 岸田隊員が開発した航空機用ロケット弾で、怪獣1体を木端微塵にする威力がある。[[ゴーストロン]]に使われたが発射の際に郷隊員が誤って時限装置をセットしてしまい、一時攻撃が出来なくなった。<br />
; MS小型ミサイル<br />
: 第22話でニューヨークMAT隊がゴミ処理場に2発投下(セリフのみ)。東京湾15号地に現れた[[ゴキネズラ]]に数発放たれた。<br />
; 冷凍弾<br />
: 第35話で[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#光怪獣 プリズ魔|プリズ魔]]に対して使用された兵器。マットジャイロから目標の周囲に投下され、取り付けられている支持架により起立した状態で冷凍ガスを噴射する。かなり短時間で冷凍ガスを噴出したため、プリズ魔よりも先に地上にいた上野隊員があわや凍死しかけるという事態が発生している。<br />
; 自動拳銃<br />
: 第51話(最終回)の最終決戦時に武器庫が浸水して弾丸補充が出来なかったマットシュートの代用武器として伊吹隊長・丘隊員が使用。等身大の[[バット星人]]と渡り合う。形状は[[コルトガバメント]]に似る。<br />
; ナイフ<br />
: 第51話(最終回)の最終決戦時に伊吹隊長が使用。等身大の[[バット星人]]に投擲するも巨大化させる結果となった。<br />
<br />
==== 航空機 ====<br />
; マットアロー1号<br />
: 全長:15m 全幅:14m 重量:15t 最高速度:マッハ5 乗員:2名<ref group = "注">ただし、第28話では並列複座席の後方に通信観測席のある機体が登場しており、3名が搭乗している。</ref><br />
: 垂直離着陸([[垂直離着陸機|VTOL]])機能と高い攻撃性を備えた、MATの主力ジェット戦闘攻撃機。複座だが、単座での運用も可能。水流ポンプジェット複合型ターボジェットエンジン搭載。武装は主翼に搭載されている[[バルカン砲]]と[[ミサイル]]で、第13話から[[ロケット弾]]ポッドを装備し、機体下部から高熱火炎を放射する。その他、機首の[[ピトー管]]のような形状の部分から[[レーザー]]光線を発射する。短時間の水中航行も可能で、隊長機は機首が黄色く塗装されている。後半は後述のマットアロー2号が登場しなくなった関係もあり、アロー1号を単に「アロー」と呼ぶようになり、劇中では(アロー1号の)1番機・2番機の意味合いで「アロー1号・2号」と呼称。第28話でコックピット内部に新たな計器類が備えられた。<br />
: 『[[ウルトラマンメビウス]]』では改良型の「GUYSアローMA1型」が多数配備されていたが、エンペラ星人の襲撃で待機中だったほとんどの機体が破壊された。<br />
: {{要出典範囲|アロー1号のコックピットのセットは、本作以降の第2期ウルトラシリーズおよび『[[ジャンボーグA]]』のジェットコンドルなどの各航空機のセットに流用された。|date=2015年9月}}<br />
; マットアロー2号<br />
: 全長:14m 全幅:13.2m 重量:13t 最高速度:マッハ3.8 乗員:1名<br />
: 半円形の翼を持つ単座式ジェット戦闘攻撃機。主翼に垂直離着陸用の二重反転式のローターを内蔵しており、第1話では1号やジャイロとともに村外れに着陸した。太平洋横断も可能。武装は1号と同じだが、レーザー砲のみロケット弾ポッドの代わりに外付けする必要がある。1号よりも高い高度まで飛行し、成層圏でも活動可能であり、隊長機には機首と垂直尾翼に黄色い2本線が入る(第22話)。後半の劇中には登場しなくなった(最後に登場したのは第47話だが、これはライブフィルムであり新撮での登場は第27話が最後となった)。<br />
: 平成になって発売された児童向け書籍{{Full|date=2014年1月}}ではアロー1号の支援戦闘機的のような位置付けで「現実世界の[[F-16 (戦闘機)|F-16]]に近い戦闘機」と解説されていた。<br />
; マットジャイロ<br />
: 全長:13m 全幅:16.4m 重量:3t 最高速度:マッハ1 乗員:2名<br />
: 左右に大きなローターと後部に小ローターを持つ、[[ティルトローター]]式戦闘兼輸送機。どんな薬品や高熱にも耐えられる特殊鋼でできている。ホバリングや低速飛行が可能で長距離の任務には向かないが、攻撃時に有利である。内部の格納庫にジープを常時搭載しており、機外に物資や車両をぶら下げて輸送。複数機で出撃する際は「ジャイロA・ジャイロB」とアルファベット順に番機を呼称されていた(第34話)。武装は[[バルカン砲]]とロケット弾ポッド。また、[[ナパーム弾]](第29話ほか)をはじめ、噴霧塗料(第7話)・消火剤(第22話)散布や冷凍弾投下(第35話)といった特殊弾薬の展開にも活躍。さらにはレーザーを発射したこともある。緊急脱出は胴体下部から(第42話)。第30話でコックピット内部に新たな計器類が備えられた。第9話では黄色いラインが入った隊長機も登場した。<br />
; スペースアロー<br />
: 全長:15m 総重量:18t 乗員:1名<br />
: 宇宙ステーションとの往来に使用するシャトル機。アロー1号を改良して製作された{{Sfn|大辞典|2001|p=183}}。専用のスペースポートから発進し、エンジン推力は2万tを誇る<ref name="画報上" />。第29話でMAT無人観測ステーションNo.5点検に出動したのが劇中での唯一の登場で、第38話ではナックル星人の妨害電磁波で出撃できなかった。<br />
: 一部の児童向け書籍{{Full|date=2014年1月}}では武装されていないとの表記もあった。<br />
<br />
==== 車両・潜水艇 ====<br />
; マットビハイクル<br />
: 全長:4.1m 全幅:1.6m 重量:0.94t 最高時速:185km 乗員:2名以上<br />
: 主にパトロールに使う特捜車両。塗装は白地に赤のラインが入ったもので、後に坂田健が考案したスタビライザー(リアウイング)が付けられた。第32話のみ迷彩色に塗られて登場。天井には30連発式ロケットランチャーや緊急車両用のパトランプが付けられることもある。実車は[[マツダ]]・[[マツダ・コスモ|コスモスポーツ]]の後期型・L10Bをベースとしている。<br />
: 数点あったNGデザイン案の中には、後年の『[[トリプルファイター]]』に登場した「SATカー」に似たイメージの画稿も存在する<ref> {{Cite book|和書|date=2017-02-28 |title = ウルトラ怪獣アートワークス 1971-1980 |publisher = 出版ワークス |page=12|isbn = 978-4-309-92117-4 }} </ref>。<br />
; マットジープ<br />
: マットビハイクルが不整地での走行や野戦に向かないため、第6話から登場した[[ジープ]]。対怪獣攻撃では同時に2台を運用する場合が多く、マットバズーカやレーザーガンSP-70を装備することもある。実車は[[三菱・ジープ]]の1961〜68年式形をベースにしているが、「MAT-101」「MAT-102」という専用[[ナンバープレート]]が付けられている。<br />
; 特殊輸送車<br />
: 第37話のみ登場。サターンZ輸送に使用された。プレートナンバーは「MAT-4」。<br />
; 特殊熱線砲車<br />
: 第17話のみ登場した六輪装甲車。[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#始祖怪鳥 テロチルス|テロチルス]]が東京のビル街に作った巣を焼却した。マットジャイロがワイヤーで吊り下げて現場へ運んだ。<br />
; マットサブ<br />
: 全長:8m 全幅:6.8m 重量:2t 最高速度:60ノット(水上)・40ノット(水中) 乗員:2名<br />
: 海底基地に直接出入りする小型特殊[[潜水艇|潜航艇]]。1号と2号の2機が配備されており、武器は[[魚雷]]のZ弾とミサイル。第2話、第16話(ただし16話はライブフィルム)にのみ登場した。<br />
<br />
==== 関連施設 ====<br />
; MATステーション<br />
: 第18話に登場。宇宙を監視している有人宇宙ステーション。武器はレーザー砲で、加藤隊長の親友の梶キャプテンが指揮していたが、ステーションごとベムスターに捕食された。再建されたステーションの後任キャプテンには加藤隊長が指名され、MATから転任した。<br />
; MAT無人観測ステーション<br />
: 第29話に登場。1日1回の定時報告で船外の大気組成や気象状況などをMAT本部に送信する。複数が衛星軌道上を回っており、No.5がヤドカリンに乗っ取られて破壊された。<br />
; 宇宙ステーションV1<br />
: 第38話に登場。ウルトラマン亡き後、MATに全面降伏を迫るナックル星人が見せしめとして破壊した。<br />
; MATレーダー基地<br />
: 第44話に登場。岸田が開発した超長距離レーダーが設置される予定だったが、その直前にグラナダスに攻撃されてしまった。<br />
<br />
== 放映リスト ==<br />
* 各怪獣の詳細・肩書き<ref group = "注">[[メトロン星人]]の「幻覚宇宙人」などの別名。</ref>は「[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣]]」を参照。<br />
* 1971年7月30日は[[全日空機雫石衝突事故]]の報道特番のため、放送休止。<br />
* 1971年12月31日は『[[第13回日本レコード大賞]]』のため、放送休止。<br />
* 視聴率はビデオリサーチ調べ(関東地区){{Sfn|大全|2002}}。<br />
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%"<br />
!話数!!サブタイトル!! colspan="2"|登場怪獣・宇宙人・ゲストウルトラマン!!脚本!!監督!!特殊技術!!放送日!!視聴率<br />
|-<br />
|1||怪獣総進撃<br />
|style="left" rowspan="2"|タッコング<br />
|style="left"|ザザーン<br>アーストロン<br />
|rowspan="7"|上原正三<br />
|rowspan="2"|本多猪四郎<br />
|rowspan="12"|高野宏一<br />
|style="line-height:1.2"|'''1971年'''<br />4月2日||26.4%<br />
|-<br />
|2||タッコング大逆襲<br />
|style="left"|-<br />
|4月9日||25.1%<br />
|-<br />
|3||恐怖の怪獣魔境<br />
|style="left"|サドラ<br />
|style="left"|デットン<br />
|rowspan="2"|筧正典<br />
|4月16日||22.6%<br />
|-<br />
|4||必殺!流星キック<br />
|style="left" colspan="2"|キングザウルス三世<br />
|4月23日||19.8%<br />
|-<br />
|5||二大怪獣 東京を襲撃<br />
|style="left" rowspan="2"|グドン<br />
|style="left" rowspan="2"|ツインテール<br />
|rowspan="2"|富田義治<br />
|4月30日||21.1%<br />
|-<br />
|6||決戦!怪獣対マット<br />
|5月7日||19.4%<br />
|-<br />
|7||怪獣レインボー作戦<br />
|style="left" colspan="2"|ゴルバゴス<br />
|本多猪四郎<br />
|5月14日||17.8%<br />
|-<br />
|8||怪獣時限爆弾<br />
|style="left" colspan="2"|ゴーストロン<br />
|田口成光<br />
|筧正典<br />
|5月21日||16.4%<br />
|-<br />
|9||怪獣島SOS<br />
|style="left" colspan="2"|ダンガー<br />
|伊上勝<br />
|本多猪四郎<br />
|5月28日||19.2%<br />
|-<br />
|10||恐竜爆破指令<br />
|style="left" colspan="2"|ステゴン<br />
|上原正三<br />
|筧正典<br />
|6月4日||20.1%<br />
|-<br />
|11||毒ガス怪獣出現<br />
|style="left" colspan="2"|モグネズン<br />
|金城哲夫<br />
|rowspan="2"|鍛冶昇<br />
|6月11日||18.5%<br />
|-<br />
|12||怪獣シュガロンの復讐<br />
|style="left" colspan="2"|シュガロン<br />
|rowspan="3"|上原正三<br />
|6月18日||17.5%<br />
|-<br />
|13||津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!<br />
|style="left" rowspan="2"|シーモンス<br />
|style="left" rowspan="2"|シーゴラス<br />
|rowspan="2"|富田義治<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|6月25日||18.8%<br />
|-<br />
|14||二大怪獣の恐怖 東京大龍巻<br />
|7月2日||18.4%<br />
|-<br />
|15||怪獣少年の復讐<br />
|style="left" colspan="2"|エレドータス<br />
|田口成光<br />
|rowspan="3"|山際永三<br />
|rowspan="3"|高野宏一<br />
|7月9日||14.3%<br />
|-<br />
|16||大怪鳥テロチルスの謎<br />
|style="left" colspan="2" rowspan="2"|テロチルス<br />
|rowspan="2"|上原正三<br />
|7月16日||15.0%<br />
|-<br />
|17||怪鳥テロチルス 東京大空爆<br />
|7月23日||17.3%<br />
|-<br />
|18||ウルトラセブン参上!<ref group = "注">当初、7月30日に放送する予定だったが、[[全日空機雫石衝突事故]]の[[報道特別番組]]のため、放送が翌週に順延された。放送に際し、メインタイトル部に郷秀樹による放送順延に対するお詫びのナレーションが入った。この音声はDVD・LD・VHS版などでは収録されていないが、[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]より発売された「帰ってきたウルトラマン 1971」([[2006年]])に収録されている。</ref><br />
|style="left"|ベムスター<br />
|style="left"|[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]<br />
|市川森一<br />
|rowspan="2"|鍛冶昇<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|8月6日||16.0%<br />
|-<br />
|19||宇宙から来た透明大怪獣<br />
|style="left" colspan="2"|サータン<br />
|上原正三<br />
|8月13日||16.9%<br />
|-<br />
|20||怪獣は宇宙の流れ星<br />
|style="left" colspan="2"|マグネドン<br />
|石堂淑朗<br />
|rowspan="2"|筧正典<br />
|rowspan="2"|高野宏一<br />
|8月20日||18.8%<br />
|-<br />
|21||怪獣チャンネル<br />
|style="left" colspan="2"|ビーコン<br />
|rowspan="2"|市川森一<br />
|8月27日||17.3%<br />
|-<br />
|22||この怪獣は俺が{{読み仮名|殺|や}}る<br />
|style="left" colspan="2"|ゴキネズラ<br />
|rowspan="2"|山際永三<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|9月3日||18.8%<br />
|-<br />
|23||暗黒怪獣 星を吐け!<br />
|style="left"|ザニカ<br />
|style="left"|バキューモン<br />
|石堂淑朗<br />
|9月10日||23.4%<br />
|-<br />
|24||戦慄!マンション怪獣誕生<br />
|style="left"|キングストロン<br />
|style="left"|クプクプ<br />
|上原正三<br />
|rowspan="2"|富田義治<br />
|rowspan="2"|大木淳<br />
|9月17日||24.0%<br />
|-<br />
|25||ふるさと 地球を去る<br />
|style="left" colspan="2"|ザゴラス<br />
|市川森一<br />
|9月24日||21.4%<br />
|-<br />
|26||怪奇!殺人甲虫事件<br />
|style="left" colspan="2"|ノコギリン<br />
|上原正三<br />
|rowspan="2"|筧正典<br />
|rowspan="2"|高野宏一<br />
|10月1日||25.2%<br />
|-<br />
|27||この一発で地獄へ行け!<br />
|style="left" colspan="2"|グロンケン<br />
|市川森一<br />
|10月8日||26.1%<br />
|-<br />
|28||ウルトラ特攻大作戦<br />
|style="left" colspan="2"|バリケーン<br />
|実相寺昭雄<br />
|rowspan="2"|山際永三<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|10月15日||23.5%<br />
|-<br />
|29||次郎くん 怪獣に乗る<br />
|style="left" colspan="2"|ヤドカリン<br />
|田口成光<br />
|10月22日||23.2%<br />
|-<br />
|30||呪いの骨神 オクスター<br />
|style="left" colspan="2"|オクスター<br />
|石堂淑朗<br />
|rowspan="2"|真船禎<br />
|rowspan="2"|高野宏一<br />
|10月29日||23.9%<br />
|-<br />
|31||悪魔と天使の間に....<br />
|style="left"|プルーマ<br />
|style="left"|ゼラン星人<br />
|市川森一<br />
|11月5日||25.1%<br />
|-<br />
|32||落日の決闘<br />
|style="left" colspan="2"|キングマイマイ(幼虫・成虫)<br />
|千束北男<br />
|colspan="2"|大木淳<br />
|11月12日||23.4%<br />
|-<br />
|33||怪獣使いと少年<br />
|style="left"|ムルチ<br />
|style="left"|メイツ星人<br />
|上原正三<br />
|東條昭平<br />
|大木淳<br />
|11月19日||24.0%<br />
|-<br />
|34||許されざるいのち<br />
|style="left" colspan="2"|レオゴン<br />
|style="line-height:1.2"|石堂淑朗<br />[[小林晋一郎]]<br />(素案)<br />
|rowspan="2"|山際永三<br />
|rowspan="3"|佐川和夫<br />
|11月26日||24.6%<br />
|-<br />
|35||残酷!光怪獣プリズ魔<br />
|style="left" colspan="2"|プリズ魔<br />
|朱川審<br />
|12月3日||20.9%<br />
|-<br />
|36||夜を蹴ちらせ<br />
|style="left" colspan="2"|ドラキュラス<br />
|石堂淑朗<br />
|筧正典<br />
|12月10日||23.9%<br />
|-<br />
|37||ウルトラマン 夕陽に死す<br />
|style="left" rowspan="2"|ナックル星人<br>ブラックキング<ref>OPの最後の怪獣名クレジットは、37話は「用心棒怪獣 ブラックキング」、38話は「暗殺宇宙星人 ナックル」のみの表示であった。</ref><br />
|style="left"|ベムスター(再生)<br>シーゴラス(再生)<br />
|rowspan="2"|上原正三<br />
|rowspan="2"|富田義治<br />
|rowspan="2"|大木淳<br />
|12月17日||27.5%<br />
|-<br />
|38||ウルトラの星 光る時<br />
|style="left"|[[ウルトラマン#キャラクターとしてのウルトラマン|初代ウルトラマン]]<br>ウルトラセブン<br />
|12月24日||29.0%<br />
|-<br />
|39||冬の怪奇シリーズ<br>20世紀の雪男<br />
|style="left" colspan="2"|バルダック星人<br />
|田口成光<br />
|rowspan="2"|筧正典<br />
|rowspan="2"|真野田陽一<br />
|style="line-height:1.1"|'''1972年'''<br />1月7日||27.4%<br />
|-<br />
|40||冬の怪奇シリーズ<br>まぼろしの雪女<br />
|style="left"|スノーゴン<br />
|style="left"|ブラック星人<br />
|石堂淑朗<br />
|1月14日||28.2%<br />
|-<br />
|41||バルタン星人Jrの復讐<br />
|style="left"|ビルガモ<br />
|style="left"|バルタン星人Jr.<br />
|長坂秀佳<br />
|rowspan="2"|佐伯孚治<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|1月21日||28.2%<br />
|-<br />
|42||富士に立つ怪獣<br />
|style="left"|パラゴン<br />
|style="left"|ストラ星人<br />
|rowspan="2"|石堂淑朗<br />
|1月28日||28.1%<br />
|-<br />
|43||魔神 月に咆える<br />
|style="left"|コダイゴン<br />
|style="left"|グロテス星人<br />
|rowspan="2"|筧正典<br />
|rowspan="2"|真野田陽一<br />
|2月4日||26.6%<br />
|-<br />
|44||星空に愛をこめて<br />
|style="left"|グラナダス<br />
|style="left"|ケンタウルス星人<br />
|田口成光<br />
|2月11日||29.1%<br />
|-<br />
|45||郷秀樹を暗殺せよ!<br />
|style="left"|メシエ星雲人<br/>ロボネズ<br />
|style="left"|白鳥座61番星人エリカ<br />
|斎藤正夫<br />
|rowspan="2"|鍛冶昇<br />
|rowspan="2"|佐川和夫<br />
|2月18日||26.5%<br />
|-<br />
|46||この一撃に怒りをこめて<br />
|style="left"|レッドキラー<br />
|style="left"|ズール星人<br />
|田口成光<br />
|2月25日||27.9%<br />
|-<br />
|47||狙われた女<br />
|style="left" colspan="2"|フェミゴン<br />
|石堂淑朗<br />
|rowspan="2"|佐伯孚治<br />
|rowspan="5"|真野田陽一<br />
|3月3日||25.6%<br />
|-<br />
|48||地球頂きます!<br />
|style="left"|ヤメタランス<br />
|style="left"|ササヒラー<br />
|小山内美江子<br />
|3月10日||25.2%<br />
|-<br />
|49||宇宙戦士 その名はMAT<br />
|style="left"|ミステラー星人<br>(善・悪)<br />
|style="left"|アテリア星人<br>(名前のみ)<br />
|伊上勝<br />
|rowspan="2"|松林宗恵<br />
|3月17日||25.2%<br />
|-<br />
|50||地獄からの誘い<br />
|style="left" colspan="2"|キング・ボックル<br />
|斎藤正夫<br />
|3月24日||26.0%<br />
|-<br />
|51||ウルトラ5つの誓い<br />
|style="left"|ゼットン(2代目)<br>バット星人<br />
|style="left"|初代ウルトラマン<br>(声のみ)<br />
|上原正三<br />
|本多猪四郎<br />
|3月31日||29.5%<br />
|}<br />
<br />
== キャスト ==<br />
=== レギュラー・準レギュラー ===<br />
*郷秀樹:[[団時朗|団次郎]]<br />
*加藤勝一郎:[[塚本信夫]](第1 - 22話)<br />
*伊吹竜:[[根上淳]](第22 - 51話)<br />
*南猛:[[池田駿介]](第1 - 32・34 - 51話)<ref group = "注">最初のオファー時では主人公候補だった。</ref><ref group = "注">第33話はオープニングでクレジットされるが出演せず。</ref><br />
*岸田文夫:[[西田健]](第1 - 29・31・34 - 51話)<ref group = "注">第30・32・33話はオープニングでクレジットされるが出演せず。</ref><br />
*上野一平:[[三井恒]](第1 - 51話<ref group = "注">第33話は声のみ。</ref>)<br />
*丘ユリ子:[[桂木美加]](第1 - 32・34 - 51話)<ref group = "注">第33話はオープニングでクレジットされるが出演せず。</ref><br />
*坂田健:[[岸田森]](第1 - 8・14 - 17・19・23・26・28 - 30・34 - 37話<ref group = "注">第28話はノンクレジット。</ref>)<br />
*坂田アキ:[[榊原るみ]](第1 - 7・9・14 - 17・19・20・22・23・26・27・37話)<br />
*坂田次郎:[[川口英樹]](第1 - 10・14 - 17・19・20・22 - 24・26・28 - 30・33 - 41・44 - 46・48・49・51話<ref group = "注">第38話はノンクレジット。</ref>)<br />
*村野ルミ子:[[岩崎和子]](第38 - 41・44・49・51話)<br />
*岸田 地球防衛庁長官:[[藤田進]](第5・6・14話)<br />
*佐竹 参謀:[[佐原健二]](第5・6・11・20・50話)※第5・6話では佐川参謀<br />
*ナレーター:[[名古屋章]](第1 - 32・34 - 41・49 - 51話<ref group = "注">第33・42 - 48話はオープニングでクレジットされるが出演せず。</ref>)<br />
<br />
=== 主なゲスト ===<br />
参考文献:『円谷プロ画報 (1)』([[竹書房]]・2013年)p.212、213、『帰ってきたウルトラマン パーフェクトファイル』([[講談社]]、2015年)p20-119<br />
*浩(第1話):[[伍代参平|藤江喜幸]]<br />
*浩の母(第1話):[[毛利幸子]]<br />
*村の娘(第1話):[[浅野真弓|島田淳子]]<br />
*村の老人(第1話):[[夏木順平]]<br />
*医師(第1話):[[岡部正]]<br />
*看護師(第4話):[[川口節子 (1941年生)|川口節子]]<br />
*警備員(第4話):[[加藤茂雄]]<br />
*次郎の友人:[[高野浩幸]](第5・7・10・29・45話)※第5・29・45話はノンクレジット<br />
*現場監督(第5話):[[小松英三郎]]<br />
*病院事務員(第6話):[[大前亘]]<br />
*次郎の友人(第7話):西谷喜之<br />
*キャンプをしていた若者と娘(第7話):渋谷健三、桜井栄子<br />
*ダイナマイト工場主任(第8話):[[倉多爽平|倉田爽平]]<br />
*タカシ(第8話):[[矢崎知紀]]<br />
*タカシの親戚(第8話):中沢祥枝<br />
*近藤勝班長(第9話):[[石橋雅史]]<br />
*観測員(第9話):塚本哲(大沢)、[[山崎純資]](矢部)、長谷川峯子(田島)<br />
*吉本先生(第10話):[[北川陽一郎]]<br />
*小松(第10話):[[石山勝巳|石山克己]]<br />
*岸田清子(岸田隊員の母)(第11話):[[堀越節子]]<br />
*人夫(第11話):[[緒方燐作]]、[[坪野鎌之]]<br />
*牛山静香(第12話):[[久万里由香]]<br />
*牛山武(第12話):[[草間璋夫]]<br />
*警官(第12話):[[勝部義夫]]<br />
*オートバイの若者(第12話):渋谷健三、野月かつや<br />
*青山五郎(第13話):内田武樹<br />
*高村船長(第13・14話):[[小林昭二]]<ref name="第14話" group = "注">第14話はノンクレジット。</ref><br />
*高村陽子(第13・14話):[[西山恵子]]<ref name="第14話" group = "注"/><br />
*船山豪一郎(第13・14話):[[長谷川弘]]<ref name="第14話" group = "注"/><br />
*赤木工場長(第13・14話):[[西本裕行|西本裕之]]<br />
*自衛隊指揮官(第13・14話):[[向井淳一郎]]<br />
*川崎操舵士(第13話):[[きくち英一|菊池英一]]<br />
*海神丸船員(第13話):[[東條昭平]] ※[[カメオ出演]]<br />
*木島(第13話):[[幸田宗丸]] ※第14話はクレジットのみ<br />
*小田切史郎(第15話):高野浩幸<br />
*史郎の父(第15話):[[中川謙二]]<br />
*史郎の祖父(第15話):[[今村源兵]]<br />
*加藤進の母親(第15話):[[松下砂稚子]]<br />
*船頭(第16話):[[高杉哲平]]<br />
*松本三郎(第16・17話):[[石橋正次]]<br />
*小野由起子(第16・17話):[[服部妙子]]<br />
*横川浩(第16・17話):丸茂光紀<br />
*山田刑事(第16・17話):[[南川直]]<br />
*松本三郎の母(第17話):[[沼波輝枝]]<br />
*梶キャプテン(第18話):[[南廣|南広]]<br />
*MATステーション隊員(第18話):[[片岡五郎]]、[[大門正明|羅雅煌]]、沢登護、[[佐古正人]]<br />
*梶の妻(第18話):立花房子<br />
*コーヒーショップ店員(第18話):[[山本正明]]<br />
*医師(第19話):片山明彦<br />
*次郎の同級生(第19話):石原光真、伊藤秀美<br />
*MAT宇宙研究部技官(第20話):[[菅沼赫]]<br />
*地球防衛庁参謀(第20話):[[伊原徳]] ※ノンクレジット<br />
*坂井信夫(第21話):小松英三郎<br />
*中村努の母親(第21話):岸井あや子<br />
*旅客機の機長(第21話):[[越後憲]]<br />
*ジェット機のパイロット(第21話):[[小沢直平]]<br />
*ピエロのサンドウィッチマン(第22話):[[三谷昇]]<br />
*ゴミ処理場職員(第22話):[[うえずみのる]]<br />
*南條純子(第23話):[[横山リエ]]<br />
*純子の父(第23話):[[陶隆司|陶隆]]<br />
*天文台所員(第23話):[[天本英世]]<br />
*農夫(第23話):[[坂本長利]]、[[増岡弘]]<br />
*高田明夫(第24話):川瀬裕之<br />
*高田とし子(第24話):[[福田公子]]<br />
*マンション管理人・黒井幸造(第24話):[[大村千吉]]<br />
*進(第25話):藤江喜幸<br />
*警察署長(第25話):[[松尾文人]]<br />
*建築技師(第25話):[[辻三太郎|辻しげる]]<br />
*MAT地質調査班長(第25話):幸田宗丸<br />
*六助(第25話):山本竜二<br />
*刑事(第26話):大島章太郎<br />
*東三郎(第27話):[[山波宏|山波ひろし]]<br />
*東キヨ(第27話):[[不忍鏡子|進藤幸]]<br />
*ラーメン屋(第27話):[[小高まさる]]<br />
*沢村忠(第27話):[[沢村忠]] ※本人役で特別出演<br />
*調査官(第28話):[[天草四郎 (俳優)|天草四郎]]<br />
*民家の主人(第28話):[[池田忠夫]]<br />
*漁師(第28話):[[岩城力也]]、[[吉原正皓]]<br />
*気象台係長(第28話):土屋靖夫<br />
*よし子(第29話):石井千代子<br />
*よし子の両親(第29話):[[坂本新兵]]、中川玲子<br />
*前田(第30話):[[大泉滉]]<br />
*三谷(第30話):熊野隆司<br />
*松山老人(第30話):[[巖金四郎|巌金四郎]]<br />
*伊吹竜 MAT隊長の娘・伊吹美奈子(第31・43話):大木智子<br />
*風間輝男 / ゼラン星人(第31話):[[永吉健太郎]]<br />
*看護婦(第31話):[[小園蓉子]]<br />
*MAT保安部隊員(第31話):[[薩摩剣八郎|中山剣悟]]、遠矢孝信<br />
*野原太郎(第32話):松原和仁<br />
*野原作太(第32話):[[谷村昌彦]]<br />
*町田駐在(第32話):[[浜村純]]<br />
*中年婦人(第32話)[[京田尚子|京田ひさ子]]<br />
*佐久間良(第33話):二瓶秀哉<br />
*金山十郎(メイツ星人)(第33話):[[植村謙二郎]]<br />
*街の男たち(第33話):[[梅津栄]]、[[小笠原弘]]<br />
*警官(第33話):山崎純資<br />
*水野一郎(第34話):[[清水幹生]]<br />
*医師(第35話):[[飯沼慧]]<br />
*看護婦(第35話):[[玉井碧]]<br />
*外国人船員(第35話):エフ・ボサード<br />
*鈴村四郎(第36話):[[高田稔]]<br />
*鈴村みどり(第36話):[[戸部夕子]]<br />
*井口美砂子(第36話):吉岡ユリ<br />
*神田刑事(第36話):[[野村浩三|野村明司]]<br />
*医師(第37話):[[奥野匡]]<br />
*宇宙電波研究所長 / ナックル星人(第37・38話):[[成瀬昌彦]] ※第38話はノンクレジット<br />
*ナックル星人の部下(第37・38話):速水鴻、沢美鶴<br />
*MAT本部作戦室係官(第37・38話):吉田潔、豊田紀雄 ※第37話はノンクレジット<br />
*ハヤタ / ウルトラマン(第38話):[[黒部進]]<br />
*モロボシ・ダン / ウルトラセブン(第38話):[[森次晃嗣|森次浩司]]<br />
*片岡洋子(第39話):[[梶三和子]]<br />
*津村秀男(第39話):[[和田周]]<br />
*天文台係官(第39話):[[岸野一彦]]<br />
*ルミ子の母(第39・40話):[[織賀邦江]] ※第39話はノンクレジット<br />
*中山老人 / ブラック星人(声)(第40話):[[寄山弘]]<br />
*中山美佐子(第40話):荒井純子<br />
*青年(第40話):倉石和旺<br />
*山小屋の管理人(第40話):[[北山年夫|北山歳夫]]<br />
*山内ススム(第41話):[[斎藤信也]]<br />
*日笠(第41話):土方弘<br />
*鳴沢村の駐在(第42話):[[柳谷寛]]<br />
*ドライバー(第42話):岡野耕作、[[向精七|向正人]]<br />
*トラック運転手(第42話):土屋靖雄<br />
*測候所の係員(第42話):小出実<br />
*伊吹竜 MAT隊長の妻・伊吹葉子(第43話):[[本山可久子]]<br />
*葉子の両親(第43話):[[和沢昌治]]、[[田中筆子]]<br />
*道路管理人 / グロテス星人(声)(第43話):[[加地健太郎]]<br />
*広田あかね / ケンタウルス星人(第44話):[[井波ゆき子|茜夕子]]<br />
*白鳥エリカ(第45話):川崎純子<br />
*浜村医師(第45話):[[高原駿雄]]<br />
*紙芝居屋の老人 / ズール星人(第46話):[[多々良純]]<br />
*徹(第46話):芦沢常法<br />
*看護婦(第46話):[[花形恵子]]<br />
*丘隊員の母(第47話):[[葦原邦子]]<br />
*勝(第48話):田村明彦<br />
*勝の母(第48話):[[五月晴子]]<br />
*泥棒(第48話):[[不破万作 (俳優)|不破万作]]<br />
*星野 / ミステラー星人・善(声)(第49話):[[村上不二夫]]<br />
*星野輝美(第49話):古屋まゆみ<br />
*ミステラー星人・悪(人間態・声)(第49話):森本景武<br />
*小泉博士(第50話):[[邦創典]]<br />
*小泉チドリ(第50話):[[八木孝子]]<br />
*日本地質研究所所員(第50話):[[鮎川浩]]<br />
*MATレーダー通信隊員(第51話):菊池英一<br />
*着流しの男(第51話):遠矢孝信<br />
<br />
=== 声の出演 ===<br />
参考文献:『円谷プロ画報 (1)』p.212、213<br />
<br />
※全てノンクレジット<br />
*ウルトラマン:[[谷津勲]](第1・18・30・31・37話)、[[村越伊知郎]](第50話)<br />
*ウルトラセブン(第18話):村越伊知郎<br />
*ゼラン星人(第31話):[[梶哲也]]<br />
*ドラキュラス(第36話):梶哲也<br />
*ナックル星人(第38話):[[沢りつお]]<br />
*バルダック星人(第39話):谷津勲<br />
*バルタン星人Jr.(第41話):[[阪脩]]<br />
*ストラ星人(第42話):阪脩<br />
*メシエ星雲人(第45話):谷津勲<br />
*ズール星人上司(第46話):谷津勲<br />
*ヤメタランス(第48話):[[市川治]]<br />
*ササヒラー(第48話):谷津勲<br />
*バット星人(第51話):阪脩<br />
*初代ウルトラマン(第51話):谷津勲<br />
<br />
=== スーツアクター ===<br />
※ウルトラマン以外ノンクレジット<br />
*ウルトラマン:[[きくち英一|菊池英一]]<br />
*ウルトラセブン(第18・38話):望月武郎<br />
*初代ウルトラマン(第38話):斉藤忠治<br />
*怪獣・宇宙人<ref>きくち英一・著『ウルトラマン・ダンディー』([[風塵社]]・1995年)より</ref><br />
**[[遠矢孝信]](メイン)<br />
**菊池英一(ザザーン)<br />
**関国麿(デットン)<br />
**森平<ref name = "不明" group = "注">名前不明。</ref>(ツインテール、シーモンス<ref group = "注">単独シーンは遠矢が担当。</ref>)<br />
**有川兼光(ブラックキング、パラゴン〈前部〉)<br />
**斉藤忠治(ミステラー星人〈善〉、バット星人)<br />
**高山<ref name = "不明" group = "注"/>(メシエ星雲人)<br />
※ムルチ{{refnest|group = "注"|OPで遠矢の名がクレジットされているが、本人によれば「この時期『[[スペクトルマン]]』の長期九州ロケに同行していたので、その間の怪獣(ムルチほか2本くらい)はJFAの若手メンバーが演っていた」とのこと<ref>[[ソニー・マガジンズ]]刊『ピー・プロ70'sヒーロー列伝 (1) スペクトルマン』p.185より</ref>。}}、ブラック星人、ストラ星人、グロテス星人、ケンタウルス星人、ズール星人は不明。<br />
<br />
== スタッフ ==<br />
*プロデューサー:[[円谷一]]、斎藤進、橋本洋二([[TBSテレビ|TBS]])<br />
*プロデューサー補:[[熊谷健]]<br />
*企画:[[満田かずほ]]、[[田口成光]] ※ノンクレジット<br />
*脚本:[[上原正三]]、田口成光、[[伊上勝]]、[[金城哲夫]]、[[市川森一]]、[[石堂淑朗]]、[[実相寺昭雄]]、[[飯島敏宏|千束北男]]、[[岸田森|朱川審]]、[[長坂秀佳]]、斉藤正夫、[[小山内美江子]]<br />
*監督(本編):[[本多猪四郎]]、[[筧正典]]、[[冨田義治]]、鍛治昇、[[山際永三]]、真船禎、[[大木淳吉|大木淳]]、[[東條昭平]]、[[佐伯孚治]]、[[松林宗恵]]<br />
*監督(特殊技術):[[高野宏一]]、[[佐川和夫]]、大木淳、[[真野田陽一]]<br />
*音楽:[[蒔田尚昊|冬木透]]<br />
*主題歌:[[すぎやまこういち]]<br />
*撮影(本編):[[鈴木清 (映画監督)|鈴木清]]、佐川和夫、永井仙吉<br />
*撮影(特撮):鈴木清、佐川和夫、佐藤貞夫、[[唐沢登喜麿]]<br />
*照明(本編):森本正邦、大山次郎、小林哲也、小池一三<br />
*照明(特撮):小池一三、大口良雄、[[原文良]]、森本正邦<br />
*美術(本編):[[育野重一]]、栗山吉正、安田邦宣<br />
*美術(特撮):[[池谷仙克]]、[[井口昭彦|高橋昭彦]]、[[鈴木儀雄]]、[[大澤哲三|大沢哲三]]、[[青木利郎]]<br />
*光学撮影:中野稔<br />
*光学作画:[[飯塚定雄]]<br />
*操演:塚本貞重、小川昭二、白熊栄次、小笠原亀<br />
*編集:柳川義博、[[小林熙昌]]<br />
*助監督(本編):東條昭平、宮坂清彦、岡村精<br />
*助監督(特撮):吉村善之、田渕吉男、布施修、常葉武<br />
*効果:[[東宝効果集団]]、小森護雄<br />
**第1・2話オープニングには小森の名前がクレジットされているが、実際に小森が手掛けたのは1・2話のパイロット版であり、オンエア版は全て東宝効果集団が担当している。<br />
*録音:[[光映新社|キヌタ・ラボラトリー]]、セントラル録音<br />
*現像:[[東京現像所]]<br />
*制作:TBS、[[円谷プロダクション]]<br />
<br />
== 主題歌・劇中音楽 ==<br />
本作より主題歌とBGMを異なる作曲家が担当するという分業体制に入った。主題歌と挿入歌の作曲はすぎやまこういちが担当。「帰ってきたウルトラマン」と「MATチームの歌」をカップリングした団次郎の歌唱によるオリジナルバージョンは[[原盤権]]を持つ[[日本コロムビア]](EP盤)と[[朝日ソノラマ]](初版のソノシート)がリリース<ref group = "注">制作に関わった日本音楽出版(現:[[日音]])も原盤権の一部を所持している。</ref>。競作となる他のメーカーはカヴァー・ヴァージョンを収録した。<br />
<br />
カヴァー・ヴァージョンには、[[子門真人]]・[[ヤング・フレッシュ]]の共演とヤング・フレッシュ単独の2種(以上[[日本ビクター]]→[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]])、[[ボニージャックス|ボニー・ジャックス]]([[キングレコード]])、[[藤井健 (歌手)|藤井健]]・[[ザ・ブレッスン・フォー]]([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]])、[[若子内悦郎]]([[EMIミュージック・ジャパン|東芝音楽工業→東芝EMI]])、外山浩爾([[ゼール音楽事務所]]制作・[[朝日ソノラマ]]=再版のソノシートおよびソノラマレコード・[[東宝レコード]]他)、山形忠顕([[テイチクエンタテインメント|テイチク]])、[[三鷹淳]](日本コロムビア)<ref group = "注">本放送当時、コロムビアではシングルは団次郎の、他作品主題歌との混載盤は三鷹淳の歌唱で発売した。ウルトラマンシリーズの本放送終了後(1975年頃)以降に発売された物では混載盤でも団次郎の歌唱で収録された例がある(1975年発売のコンパクト盤『テレビまんが主題歌ヒットシリーズ 9』CH-509 など)。</ref>によるものがある。なお、カヴァー・ヴァージョンにはカラオケ部分のみオリジナル音源を使用したもの(三鷹版、若子内版、山形版など)がある。<br />
<br />
『ウルトラマンレオ』第34話の劇中では、外山浩爾のカヴァー・バージョンが使われていた。<br />
<br />
=== オープニングテーマ ===<br />
; 「帰ってきたウルトラマン」<br />
:* 作詞:[[円谷一|東京一]] / 作曲:[[すぎやまこういち]] / 歌:[[団時朗|団次郎]]、みすず児童合唱団<br />
: シリーズで初めて主役俳優が主題歌を歌った<ref group = "注">本作出演より以前に、歌謡曲歌手としてシングル4枚([[日本クラウン]]から2枚、日本コロムビアから2枚)を発表した実績があった。</ref>。<br />
: 主題歌として最終選考まで残るも次点で不採用となった「戦え!ウルトラマン」(歌:団次郎)もあり、テレビサイズ、フルサイズともにステレオ録音だった。作曲のすぎやまは、凝った構成の「戦え!〜」が好みであったが、子供番組ゆえ「分かりやすいメロディーの方がよい」と考え「帰ってきたウルトラマン」が主題歌に採用されたと述懐。[[ファミリー劇場]]の『[[ウルトラ情報局]]』にすぎやまが出演した際、放送分のオープニング映像に「戦え!ウルトラマン」を使用し、実現しなかった幻のオープニングとして放送された。また『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』の[[2013年]][[9月25日]]放送分における[[ベムスター]]戦VTRのBGMとして使用された。<br />
: BGM担当の[[蒔田尚昊|冬木透]]は「戦え!ウルトラマン」と同じ歌詞で主題歌候補曲を作曲したが、録音には至らなかった。ただし、メロディはBGMとして使用されている。このメロディによる歌は[[1992年]]に「帰ってきたぞウルトラマン!」の曲名で[[水木一郎]]の歌唱によりリリースされた。<br />
<br />
=== 関連楽曲 ===<br />
「MATチームの歌」、「怪獣音頭」、コロムビアのオリジナル企画曲「怪獣ロック」など。いずれも作中では使用されていないが、放映当時の各種イベント会場で流された。「怪獣音頭」は『[[ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟]]』のラストで使用された他、歌詞を変更したものが『[[私が愛したウルトラセブン]]』で使用されたこともある。また、「MATチームの歌」には、朝日ソノラマ(EP盤)から発売された[[西田敏行]]/[[少年少女合唱団みずうみ]]によるカヴァー・ヴァージョンが存在する。<br />
<br />
=== BGM ===<br />
BGMは『[[ウルトラセブン]]』に続き冬木透が作曲した。<br />
* 曲群の構成を『セブン』と比べると、宇宙や異次元空間の描写曲が減り、入れ替わるように人物、特に子供の情景・心理描写曲の割合が増えている。<br />
* MAT出撃・攻撃シーンに多用された男声コーラス入りの曲(M-3)は俗に「[[ワンダバ]]」と呼ばれ、視聴者に主題歌と同等以上の強い印象を残した。そのため後の作品でも「ワンダバ」の流れをくむ曲が使われる例が多い。同じく冬木作曲の『ウルトラセブン』の挿入歌『ULTRA SEVEN』に「ワンダバ」の萌芽が見られる<ref group = "注">『ULTRA SEVEN』を作詞した東京一こと[[円谷一]]に「同じような曲を」と頼まれた冬木が「ワン、ツー、スリー、フォー」から「ワン」を取って発展させたのが「ワンダバ」になった。</ref>。第46話では[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#宇宙参謀 ズール星人|ズール星人]]演じる紙芝居のテーマ曲で現実音楽としても登場する<ref group = "注">このM-3は、2010年現在、[[アサヒ飲料]]の缶コーヒー「[[WONDA|BLACK WONDA]]」のテレビCMにも使用されている。本CMに登場する[[唐沢寿明]]は、『[[ウルトラマンティガ]]』エンディング『Brave Love,TIGA』でワンフレーズを担当している。</ref>。<br />
* 前述の冬木版主題歌は、メロディのみがウルトラマンの優勢な戦いを描く勇壮な曲(M-13)を初め、主要BGM各曲のモチーフとして使用された。<br />
* 主にエキストラ音楽として、冬木の本作以前の担当作品(『[[レモンのような女]]』『おかあさん』『生きる』など)の曲が流用された。<br />
* 本作では『セブン』のBGMからの流用も顕著だが、全てのBGM選曲を冬木自らが行い、『セブン』の作品世界をそのまま持ち込まないよう配慮された。<br />
* 主題歌と劇中BGMが別々の作曲家によるものであるためか、劇中で主題歌およびそのメロディが使用される場面は少ないが、劇中の重要なシーンで使用される。<br />
<br />
=== その他の楽曲 ===<br />
*第7話では夜間キャンプの若者達が[[ザ・モップス]]の「朝まで待てない」(ビクター盤)に合わせて踊っているシーンがある。また第16話の冒頭では同様のシチュエーションで[[ザ・ゴールデン・カップス]]の「[[銀色のグラス]]」が使用されている。<br />
* 第34話では[[PYG]]の「[[花・太陽・雨]]」が使用された。この曲は1999年に[[バップ]]から発売された『帰ってきたウルトラマン ミュージックファイル』に収録されている。なお、市川森一はPYGメンバーの[[萩原健一]]と親交があり、市川が萩原に許可を頼んだことにより「花・太陽・雨」の使用が実現した。<br />
* 第43話の伊吹隊長が家族旅行へ出かけるシーンで、伊吹がカーラジオから流れてきた「[[南国土佐を後にして]]」を聞いて思わずリズムを取るシーンがある。この曲は伊吹役・根上淳の妻である[[ペギー葉山]]の歌唱であり、葉山は後に『ウルトラマンタロウ』で[[ウルトラの母]]の声と人間体(緑のおばさん)を演じることとなる。<br />
* 第48話で[[ザ・ドリフターズ]]の「誰かさんと誰かさん」が、続く第49話では「ドリフのおこさ節」が使用された。<br />
<br />
== 他媒体展開 ==<br />
*当時、玩具メーカーなどとのタイアップは緊密ではなく、タイアップ先企業の意向が作品設定に深く関与する傾向は本作では見られない。<br />
*逆に当時の円谷プロの版権管理の体制が甘く、無版権ものの商品が多数流通する状況を生んだ。<br />
*すでに実績のあるウルトラシリーズに対する業界の注目は熱く、商品化権の入札で激しい競り合いが見られた。第1期ウルトラシリーズで雑誌掲載権を持っていた[[講談社]]は[[小学館]]に競り負けている。<br />
<br />
=== 映像ソフト化 ===<br />
*VHSは[[バンダイビジュアル]]から発売。全12巻で各巻4話(1、2、12のみ5話)収録。<br />
*DVD([[デジタルウルトラシリーズ]])は2002年12月18日 - 2003年5月23日に発売。全13巻で各巻4話(13のみ3話)収録。1 - 3巻、4以降は2巻ずつ同時発売。各巻にダイジェスト映像が収録され、第13巻では店頭デモ映像、全話予告編(デジタルリマスター版)が特典映像として収録されている。<br />
*Blu-ray Discが[[2015年]][[11月26日]]に[[バンダイビジュアル]]から発売。こちらはHD2.0リマスター版を収録。<br />
<br />
=== 他テレビシリーズ ===<br />
; 『[[ウルトラマンA]]』<br />
: 本作から第1・13・14・26・27話にウルトラマンジャック(変身後のみ)と第10話に郷秀樹(アンチラ星人が化けた偽者)と坂田次郎と村野ルミ子が登場。<br />
; 『[[ウルトラマンタロウ]]』<br />
: 第1・24・25・33・34・40・52話にウルトラマンジャックが登場。33・34・52話では郷秀樹の姿でも登場。<br />
; 『[[ウルトラマンレオ]]』<br />
:第34話にウルトラマンジャックと郷秀樹が登場。第38・39話では変身後の姿だけで登場。<br />
; 『[[ウルトラマンメビウス]]』<br />
: 本作から郷秀樹 / ウルトラマンジャックが登場。また、本作に登場した多くの怪獣が再登場している。なお、郷=ウルトラマン(ジャック)は登場しないが、第32話は本作の第33話からつながる内容となっている。<br />
<br />
=== 雑誌 ===<br />
小学館が雑誌掲載の権利を持っており、小学館の各雑誌に漫画化作品が掲載されている。学習雑誌では巻頭カラー特集で、ウルトラマン、怪獣、MATに関する図解、画報が掲載された他、怪獣パノラマ、MATシュート(輪ゴム式)、MAT隊員手帳などの付録が付けられていた。また、読者向けにオリジナル[[バッジ]]の有料頒布も行われている。<br />
;漫画<br />
:*よいこ 1971年6月号 - 1972年3月号 [[馬場秀夫]]、1972年4月号 [[久松文雄]]<br />
:*幼稚園 1971年5月号 - 1972年3月号 [[中城けんたろう]]、1972年4月号 久松文雄<br />
:*[[小学一年生]] 1971年4月号 - 1972年3月号 中城けんたろう、1972年4月号 [[森義一]]<br />
:*[[小学二年生]] 1971年5月号 - 1972年4月号 [[内山まもる]]<br />
:**上記の掲載後には2004年に[[コンビニコミック]]として発売されただけで長らく絶版となっていたが、2011年9月21日には完全復刻版が[[復刊ドットコム]]より発売された<ref>[http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68319685 『帰ってきたウルトラマン [完全復刻版](内山まもる)』 販売ページ] - 復刊ドットコム</ref>。ISBN 9784835447612<br />
::{| class="wikitable" font-size:small" border="1"<br />
!掲載号!!サブタイトル!!登場怪獣<br />
|-<br />
|1971年5月号<br />
|必殺!流星キック<br />
|古代怪獣キングザウルス三世<br />
|-<br />
|1971年6月号<br />
|アーストロン大逆襲<br />
|凶暴怪獣アーストロン<br />
|-<br />
|1971年7月号<br />
|怪獣峠を越えろ<br />
|古代怪獣ツインテール、音波怪獣シュガロン<br />
|-<br />
|1971年8月号<br />
|二大怪獣の恐怖 東京大竜巻<br />
|津波怪獣シーモンス、竜巻怪獣シーゴラス<br />
|-<br />
|1971年9月号<br />
|復讐のベムスター<br />
|宇宙大怪獣ベムスター<br />
|-<br />
|1971年10月号<br />
|戦慄!マンション怪獣誕生<br />
|マンション怪獣キングストロン<br />
|-<br />
|1971年11月号<br />
|この一発で地獄へ行け!<br />
|のこぎり怪獣グロンケン<br />
|-<br />
|1971年12月号<br />
|呪いの骨神オクスター<br />
|水牛怪獣オクスター<br />
|-<br />
|1972年1月号<br />
|ウルトラマン夕陽に死す<br />
|変幻怪獣キングマイマイ、竜巻怪獣シーゴラス、<br />用心棒怪獣ブラックキング、暗殺宇宙人ナックル星人<br />
|-<br />
|1972年2月号<br />
|ウルトラの星光る時<br />
|用心棒怪獣ブラックキング、暗殺宇宙人ナックル星人<br />
|-<br />
|1972年3月号<br />
|バルタン星人Jrの復讐<br />
|ロボット怪獣ビルガモ、宇宙忍者バルタン星人Jr<br />
|-<br />
|1972年4月号<br />
|魔神学舎に咆える<br />
|魔神怪獣コダイゴン、発砲怪人グロテス星人<br />
|}<br />
:*小学三年生 1971年5月号、11月号 - 1972年3月号 [[高須れいじ|高須礼二]]、1971年6月号 - 10月号 馬場秀夫、1972年4月号 [[林ひさお]]<br />
:*小学四年生 1971年10月号 - 1972年3月号 [[平沢茂太郎]](絵物語)、1972年4月号 [[ダイナマイト鉄|斉藤ゆずる]]<br />
:*小学五年生 1971年4月号 - 6月号 [[坂口尚]]、1971年7月号 - 1972年4月号 [[森藤よしひろ]]<br />
:*小学六年生 1971年7月号 - 1972年4月号 森藤よしひろ<br />
:*[[別冊少年サンデー]] 1971年5月号 - 1971年12月号 水穂輝<br />
:*小学館BOOK 1971年4月号 - 1971年12月号 西田幸司、1972年1月号 - 1972年3月号 林ひさお<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
『[[東宝チャンピオンまつり]]』にてテレビ版をベースにした作品が3シーズンにわたって公開された。<br />
;『帰ってきたウルトラマン』<br />
:1971年7月21日公開。第5話・第6話の劇場版。同時上映は『[[ゴジラ対ヘドラ]]』、『[[昆虫物語 みなしごハッチ#劇場版|昆虫物語 みなしごハッチ]]』、『[[いなかっぺ大将#映画版|いなかっぺ大将]]』、『[[わらしべ長者]]』。<br />
:シリーズ45年を記念した「ウルトラシリーズ45周年記念 メモリアルムービーコレクション 1966-1984 DVD-BOX」に収録されている。<br />
;『帰ってきたウルトラマン 竜巻怪獣の恐怖』<br />
:1971年12月12日公開。第13・14話の劇場版。同時上映は『[[三大怪獣 地球最大の決戦#再上映|ゴジラ・モスラ・キングギドラ 地球最大の決戦(『三大怪獣 地球最大の決戦』の改題短縮版)]]』、『[[いなかっぺ大将#映画版|いなかっぺ大将]]』、『[[昆虫物語 みなしごハッチ#劇場版|昆虫物語 みなしごハッチ]]』、『[[マッチ売りの少女#アニメ、漫画、ゲーム|マッチ売りの少女]]』。<br />
;『帰ってきたウルトラマン 次郎くん怪獣にのる』<br />
:1972年3月12日公開。第29話の劇場版。同時上映は『[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン]]』、『[[天才バカボン (アニメ)#劇場版|天才バカボン]]』、『[[昆虫物語 みなしごハッチ#劇場版|昆虫物語 みなしごハッチ]]』、『[[ミラーマン#劇場版|ミラーマン]]』、『[[樫の木モック#劇場版|かしの木モック]]』。<br />
<br />
=== 書籍 ===<br />
;絵本<br />
:オリジナルのイラストや宣材を元にしたものが主流で、写真をコラージュして作られた商品は当時少なかった。また、[[朝日ソノラマ]]の商品に顕著な[[ソノシート]]付き(主題歌やオリジナルのドラマを収録)のものや、イラストを立体的に見せる「仕掛け絵本」(商品名:飛び出す絵本)も人気を得た。<br />
;怪獣図鑑<br />
:宣材や番組の画面写真を元にウルトラマンや怪獣のプロフィールを図鑑形式にまとめたもの。[[小学館]]のものが代表的。初代ウルトラマン、ウルトラセブンと比べると、本作では怪獣の設定図面を商品化している例は極めて少ない。<br />
;[[ブロマイド]]<br />
:1枚5円、あるいは2枚組10円で、袋とじされたものから好きなものを選んで買うくじ引きの要素も盛り込まれた仕組みだったが、購入するまで中身が分からない点を悪用され、無版権の粗悪品も多数流通していた。<br />
<br />
=== 玩具 ===<br />
;[[ソフトビニール]]製人形(ソフビ・[[フィギュア]])<br />
:旧[[マルサン商店]]の経営権・資産を引き継いだ[[ブルマァク]]を中心に発売された。現行作品だったこともあり、終盤の怪獣(ササヒラー、キング・ボックルなど)も含めほとんどの登場怪獣が商品化され、その商品点数はスタンダードサイズの怪獣だけで41点にものぼった{{Sfn|帰ってきた帰ってきた|1999|pp=168 - 171}}。<br />
;[[プラモデル]]<br />
:ブルマァク、[[東京マルイ|マルイ]]からマットアロー1号、2号、マットジャイロ、ウルトラマンが発売された。ただし、ウルトラマンは、ブルマァクの物は立ち姿勢でゼンマイ動力で歩く物、マルイは飛行姿勢でモーターライズ・足元にプロペラの付いた「空飛ぶウルトラマン」と、全く異なるものであった。なお、マルイのマットアロー、ジャイロは1985年と1994年に再発売されているが、ウルトラマンのみは一度も再発売が無い。また、マルイの製品は銀色成型で(ブルマァクの物はブルーグレー)デカールを貼るだけで劇中のイメージを再現できる特徴があった。なお、マルイのアロー1号は全体のイメージをかなり正確に把握しており(インテーク付近の形状のみ異なる)既に30年が経過しているモデルではあるが、2000年頃に改造されて模型誌(ホビージャパン誌)のジオラマ写真に使われたことがある。<br />
:以上は大型の物だが、この他に50円サイズのミニプラモも発売されており、マットアロー1号、2号、マットジャイロがブルマァクから、また島型のベースにウルトラマンや怪獣がセットになったものが4種類[[日東科学教材|日東科学]]から発売され、主に小売店や[[駄菓子屋]]で流通していた。ブルマァクの50円サイズのマットジャイロは、金型が引き取られて1985年、日東科学(マスターブランド)で発売されたマットビハイクルのおまけキットとして添付されたことがある。<br />
;[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]<br />
:ダイヤペット(米沢玩具・現:[[アガツマ]])と[[トミカ]]([[トミー (企業)|トミー]]・現:[[タカラトミー]])からすでに発売されていたコスモスポーツをベースにマットビハイクルが製品化された。なお日本の映像作品に登場する劇中車が製品化されたのは、このマットビハイクルが最初と言われている。<br />
;[[セルロイド]]製お面<br />
:以前から流通していた初代ウルトラマン・Aタイプを模したものが継続販売されることが多かったが、本作に合わせて新たに商品化されたものもあった。<br />
;[[トランプ]]・いろは[[カルタ]]<br />
:トランプに怪獣のイラストを配したもの、ウルトラマン、怪獣、MATを題材としたいろはカルタも発売された。<br />
;パンチキック<br />
:[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](現:タカラトミー)のビニール製打撃玩具のロングセラー商品で、本作関連ではウルトラマン、アーストロン、シーゴラスなどの図柄が発売。<br />
;ウルトラマンヘルメット<br />
:ウルトラマンの顔上半分(目の部分まで)を子供サイズのヘルメット状にしたプラスチック製の玩具。<br />
;MAT隊員ヘルメット、マットシュート<br />
:いわゆる「隊員なりきりセット」の走り。いずれも子供サイズのプラスチック製。マットシュートはホルスター兼用のベルト付。子供用の隊員服はこの当時では商品化されなかった。<br />
;その他、ウルトラマン人形付き○○<br />
:[[ブリキ]]製の模型自動車でウルトラマンの人形が運転席に座るものなど、多岐にわたる。<br />
<br />
=== 食品(菓子) ===<br />
;[[日清シスコ|シスコ]]「ウルトラマンガム」「シスコーン」シリーズなど<br />
:パッケージおよびガムの包み紙にウルトラマンやマットアローおよび怪獣のイラストが用いられた。また「当たり」の景品として、14話のダイジェスト(特撮シーンのみで構成)を収録した立体ビューワー「パンペット」も製作された。<br />
;[[ロッテ]]「ウルトラマンフーセンガム」<br />
:5枚入り、当時20円。包み紙の1枚には転写式シールが入っていた。<br />
<br />
=== 児童向け文房具・衣料品・日用品 ===<br />
:筆箱、鞄、ズック靴、ハンカチ、水筒、弁当箱、茶碗、箸、スプーンなどの食器などに、ウルトラマンと怪獣、あるいはマットアローなどを配したイラストに番組ロゴを加えたデザインがあしらわれて商品化された。<br />
<br />
=== 帯番組 ===<br />
;帰ってきたウルトラマン体操<br />
:[[ファミリー劇場]]で2011年 - 2012年に放送。<br />
<br />
== 備考 ==<br />
;「タッコング大逆襲」初号プリント<br />
:第2話の初号プリントでは、主題歌、一部の効果音、アイキャッチ、変身シーンも異なっていた。第1話の初号プリントは、現在では円谷プロのスタッフが紛失したため、幻になっている。尚、紛失する以前に製作されたパック・イン・ビデオのVHSソフト「THEウルトラ伝説 興奮ベストメモリアル」に第1話と第2話の初号フィルムから抜粋した本編と顕著に異なる場面(第1話は変身シーンとラストシーン、第2話は変身シーン)が収録されている。<br />
;[[ダイコンフィルム]]作品『[[帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令]]』(増殖怪獣バグジュエル登場)<br />
:[[1983年]]3月に[[DAICON FILM]]が制作した8mm映画作品。同年に開催された[[日本SF大会]]「DAICON4」のプロモーション活動の一環として制作された。アマチュア時代の[[岡田斗司夫]]が脚本を、[[庵野秀明]]が監督を、[[赤井孝美]]が特技監督を担当し、また、[[武田康廣]]がプロデューサーを担当した。ウルトラマンは庵野が素顔で演じた。主題歌は『戦え!ウルトラマン』<ref group="注">日本コロムビアの2枚組LP「TVオリジナルBGMコレクション 冬木透の世界」収録の、当時は1番しか発見されていなかった音源を使用。</ref>。DAICON FILM版のタイトルの由来は、庵野秀明をはじめとする制作・出演者陣が、DAICON FILM発足以前に、短編の『ウルトラマン』を自主製作で2本製作したことがあり、今回はそのウルトラマンが『かえってきたウルトラマン』なので、このタイトルにしたという。自主上映会などでの公開の後、ビデオが販売されたが、[[円谷プロダクション]]と[[TBSテレビ|TBS]]の無許諾作品であったため、ビデオは廃盤となる。版権への配慮から、『帰ってきたウノレトラマソ』、あるいは『DAICON FILM特撮作品』とされた場合もある。後に、DAICON FILMが制作会社[[ガイナックス]]に発展して関係者の多くも映像業界で働いていることとなったことで、円谷プロダクションの特別許諾を得て、[[2001年]]にGAINAXから期間限定でDVD化されたが、[[2004年]]に販売を終了している。<br />
;[[切通理作]]『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(1993年 [[宝島社]])<br />
:第33話のサブタイトルを冠したこの評論集は、切通の最初の単行本となった。上原正三、市川森一らにインタビューをしている。<br />
;団時朗と榊原るみの共演<br />
:団と榊原は本作以降も何度か共演しているが、近しい関係でキャスティングされることが少なくない。<br />
:本作から10年後の東映の『[[ロボット8ちゃん]]』([[1981年]]-[[1982年]])では団がロボット工学者・青井博士、榊原が8ちゃんの居候する春野家の母・春野かすみとして共演した。<br />
:また、[[円谷エンターテインメント|円谷映像]]の『[[エコエコアザラク]]』(TVシリーズ版)では、主人公・黒井ミサの両親役を演じている。<br />
;主人公のネーミング<br />
:しばしば「郷秀樹という名はアイドル歌手・[[郷ひろみ]]と[[西城秀樹]]の名を組み合わせたもの」と言われることがあるが、本作の放映開始は1971年であり、郷ひろみも西城秀樹もデビューは翌年の1972年であるため、完全な誤解である。<br />
:命名者である上原正三によると、'''郷'''には「地球に密着した郷(ふるさと)」、'''秀樹'''には「秀でた樹が育つ」という意味合いが込められているとのこと{{Sfn|帰ってきた帰ってきた|1999|p=18}}。<br />
; ウルトラ5つの誓い2011<br />
: 2011年に起こった[[東日本大震災]]では、[http://m-78.jp/ultraman_donation/ ウルトラマン基金]が設立され、ウルトラマンからのメッセージとして節電や応援を込めた「ウルトラ5つの誓い2011」が掲げられた。なお、この年のファミリー劇場での再放送(詳細は後述)では、津波を題材とした第13・14話の放映を欠番扱いにして自粛した。<br />
:なお、「ウルトラ5つの誓い2011」は以下の通りである。<br />
:*'''一、節電をしよう。'''<br />
:*'''一、必要以上のむやみな買い物はやめよう。'''<br />
:*'''一、不確かな情報に惑わされないようにしよう。'''<br />
:*'''一、優しさを忘れずに、励まし合って、生きていこう。'''<br />
:*'''一、希望をもって、未来に向かって進もう。'''<br />
<br />
*ドラマ『[[警部補 矢部謙三]]』で、団時朗演ずる警視総監の本名が'''郷秀帰'''といい、「郷秀樹」と「帰ってきたウルトラマン」の両方にちなんだネーミングになっている。本編でも矢部謙三に「ウルトラマン」と呼ばれたことがある<ref group = "注">団時朗はインタビューで、[[福田卓郎]]により名付けられた名前で、「郷秀帰=別世界の郷秀樹」という設定の許可も円谷プロダクションから出ているという。</ref>。<br />
*ドラマ『[[茜さんのお弁当]]』第5話「裏切りと別れ」(TBS系列の[[1981年]][[11月18日]]放送分)の冒頭で、第30話のウルトラマン対オクスターのシーンがテレビ画面に流用されている。<br />
<br />
== 未発表シナリオ ==<br />
;「呪われた怪獣伝説“キングザウルスIII世”」(脚本・伊上勝)<br />
:博物館の骨格標本が落雷で蘇る。それは古代アトランティス人が生み出した、キングザウルスIII世だった。この名称は第4話に登場した[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#古代怪獣 キングザウルス三世|キングザウルス三世]]に流用されている。<br />
;「月のメルヘン」(脚本・実相寺昭雄)<ref name = "白書85" /><br />
:MATが打ち上げる月ロケットに搭載される月面車は、坂田に設計と製作が依頼されたものだった。打ち上げが近づく中、坂田やMATのもとに、東日新聞科学担当・竹叢夕子を名乗る女が現れる。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注"|2}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite book|和書|date = 1982-12-31|title = 不滅のヒーローウルトラマン白書|series=ファンタスティック・コレクション・スペシャル|publisher=[[朝日ソノラマ]]|edition=初版|id=雑誌コード:67897-80|ref={{SfnRef|白書|1982}}}}<br />
* {{Cite book|和書|others = 監修:円谷プロダクション|date = 1994-10-01|title =テレビマガジン特別編集 新・ウルトラマン大全集|publisher = 講談社|isbn = 4-06-178418-8|ref = {{SfnRef|新大全集|1994}}}}<br />
* [[てれびくん]]デラックス愛蔵版シリーズ([[小学館]])<br />
** {{cite book |和書 | date = 1984-09-10 | title = ウルトラ怪獣大全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版 | isbn = 4-09-101411-9 | ref={{SfnRef|ウルトラ怪獣大全集|1984}} }}<br />
** {{cite book |和書 | date = 1990-09-10 | title = ウルトラ戦士超技全書 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版 | isbn = 4-09-101423-2 | ref={{SfnRef|超技全書|1990}} }}<br />
** {{Cite book |和書 |date=2006-10-10 |title=[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]][[超全集]] |series = てれびくんデラックス 愛蔵版 |publisher=小学館 |isbn=978-4-09-105110-3 |ref={{SfnRef|メビウス&兄弟超全集|2006}} }}<br />
** {{Cite book|和書 | title = [[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]超全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2008-10-04 | isbn = 978-4091051202 | ref = {{SfnRef|超ウルトラ8兄弟超全集|2008}} }}<br />
** {{Cite book|和書 | title = [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]] 超全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2009-12-23 | isbn = 978-4-09-105129-5 | ref = {{SfnRef|ウルトラ銀河伝説超全集|2009}}}}<br />
** {{Cite book|和書|others = 構成 間宮尚彦・乗浜彩乃|title = [[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date = 2011-01-31|publisher = 小学館|isbn = 9784091051325|ref={{SfnRef|ゼロTHE MOVIE超全集|2011}} }}<br />
* {{Cite book|和書|date=1999-03|title=帰ってきた帰ってきたウルトラマン|series=タツミムック 検証・第2次ウルトラブーム|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4886413642|ref={{SfnRef|帰ってきた帰ってきた|1999}}}}<br />
* {{cite book |和書 | date = 2001-12-21 |others=監修 円谷プロダクション | title = ウルトラマン大辞典 | publisher = [[中経出版]] | isbn = 4-8061-1556-8 | ref={{SfnRef|大辞典|2001}} }}<br />
* {{Cite book|和書|author=白石雅彦|coauthors=萩野友大|date=2002-12|title=帰ってきたウルトラマン大全|publisher=[[双葉社]] |isbn=978-4575294941|ref={{SfnRef|大全|2002}}}}<br />
* {{Cite book|和書|others = 監修:円谷プロダクション|date = 2003-01-03|title =僕たちの好きなウルトラマン|publisher = 宝島社|isbn = 4-7966-3028-7|ref = {{SfnRef|僕たち|2003}}}}<br />
* {{Cite book|和書 |editor=竹書房/ブレインナビ編 | title = ウルトラマン画報 光の戦士三十五年の歩み | publisher = [[竹書房]] | volume = 上巻 | date = 2002-10-04 | isbn = 978-4-8124-0888-9 | ref = {{SfnRef|画報 上巻|2002}} }}<br />
* {{Cite book|和書|others = 監修:円谷プロダクション|date = 2003-04-25|title =僕たちの好きなウルトラマン2 ウルトラセブンVS侵略宇宙人編|publisher = 宝島社|isbn = 4-7966-3115-1|ref = {{SfnRef|僕たち2|2003}}}}<br />
* {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 小野浩一郎・岩畠寿明(エープロダクション)|date=2009-03-27|title=大決戦!超ウルトラ8兄弟|publisher=[[講談社]]|series=[[テレビマガジン]]特別編集|isbn=978-4-06-178434-5|ref={{SfnRef|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009}} }}<br />
* {{Cite book|和書|date=2010-01-21|title=大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE Visual File|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-854453-5|ref={{SfnRef|ウルトラ銀河伝説VisualFile|2010}} }}<br />
* {{Cite book|和書|editor=講談社 編|date=2015-10-15|title=帰ってきたウルトラマン パーフェクトファイル |series=キャラクター大全 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-2195621|ref={{SfnRef|キャラクター大全|2015}}}}<br />
; 雑誌<br />
:* {{Cite journal |和書 |date =2015-10-01 |publisher =[[徳間書店]] |journal =[[ハイパーホビー|HYPER HOBBY]] PRESENTS キャラクターランド |volume =vol.3 |isbn=978-4-19-730136-2 |ref ={{SfnRef|キャラクターランドvol.3|2015}} }}<br />
:* [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]([[ホビージャパン]])<br />
:** {{Cite journal |和書 |date=2015-10-01 |journal=宇宙船 |volume=VOLUME 150 |issue=(AUTUMN 2015.秋) |publisher=ホビージャパン |isbn= |ref={{SfnRef|宇宙船150|2015}} }}<br />
:** {{Cite journal |和書 |date=2016-04-01 |title=70's円谷怪獣リスペクト検証 栄光の怪獣王国、狂乱のデザイン史 [第1回] [[池谷仙克]]が生んだ端正な異形たち |journal=宇宙船|volume=vol.152 |issue=(SPRING 2016.春)|publisher=ホビージャパン |pages=pp.80-83|isbn=978-4-7986-1218-8 |ref={{SfnRef|宇宙船152|2016}}}}<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[ウルトラシリーズ]]<br />
*[[ウルトラシリーズの作品一覧]]<br />
*[[ウルトラマン一覧]]<br />
*[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.fami-geki.com/kaeriman/index.html 帰ってきたウルトラマン | ファミリー劇場]<br />
*[http://www.fami-geki.com/detail/index.php?fami_id=01319 帰ってきたウルトラマン デジタルリマスター版【セレクト】]<br />
*[http://www.fami-geki.com/kaeriman/index02.html 帰ってきたウルトラマン体操]<br />
<br />
<br />
{{前後番組|<br />
放送局=[[TBSテレビ|TBS]]系|<br />
放送枠=金曜19時台前半<br />本作以降第2期ウルトラシリーズ<br />(- 1975年3月)|<br />
前番組=[[キックの鬼]]|<br />
次番組=[[ウルトラマンA]]}}<br />
<br />
{{ウルトラシリーズ}}<br />
{{本多猪四郎監督作品}}<br />
{{DEFAULTSORT:かえつてきたうるとらまん}}<br />
<br />
[[Category:ウルトラシリーズの特撮テレビドラマ]]<br />
[[Category:1971年のテレビドラマ]]<br />
[[Category:1970年代の特撮作品]]<br />
[[Category:TBS金曜7時枠の連続ドラマ]]<br />
[[Category:TBSの特撮番組]]<br />
[[Category:市川森一脚本のテレビドラマ]]<br />
[[Category:東京を舞台としたテレビドラマ]]<br />
[[Category:高度経済成長期の日本を舞台とした作品]]<br />
[[Category:すぎやまこういちが制作した楽曲]]<br />
[[Category:デジタルウルトラシリーズ]]<br />
[[Category:漫画作品 か|えつてきたうるとらまん]]<br />
[[Category:幼稚園 (雑誌)]]<br />
[[Category:小学館の学年誌の漫画作品]]<br />
[[Category:別冊少年サンデー]]</div>
119.230.24.142
ライギョ
2018-08-07T12:31:17Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{Redirect|雷魚|カミナリウオ|ハタハタ}}<br />
{{生物分類表<br />
|名称 = タイワンドジョウ科 <br />
|省略 = 条鰭綱<br />
|画像=[[File:Snakehead - Channa argus 2.jpg|250px]]<br />
|画像キャプション=カムルチー ''Channa argus''<br />
|目=[[スズキ目]] {{sname||Perciformes}}<br />
|亜目 = '''タイワンドジョウ亜目''' {{sname||Channoidei}}<br />
|科 = '''タイワンドジョウ科''' [[w:Channidae|Channidae]]<br />
|下位分類=2属・31種([[#分類と分布|本文参照]])<br />
|英名=[[:en:Snakehead (fish)|Snakehead]]<br />
|和名='''ライギョ'''(雷魚)<br />
}}<br />
<br />
'''ライギョ''' (雷魚、{{lang|en|[[:en:Snakehead (fish)|Snakehead]]}}) は、[[スズキ目]]タイワンドジョウ科 ''{{sname||Channidae}}'' に分類される[[淡水魚]]の総称。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
'''ライギョ'''は、[[中華人民共和国|中国]]から[[朝鮮半島]]、[[アムール川]]流域までの[[ロシア]][[沿海地方]]に分布する'''[[カムルチー]]''' ''[[w:Channa argus|Channa argus]]'' を指す[[日本]]での呼称だが、広義には'''タイワンドジョウ科''' [[w:Channidae|Channidae]] に分類される魚の総称としても用いられている。<br />
<br />
和名に「[[ドジョウ]]」の名があるが、[[コイ目]]・ドジョウ科に分類されるドジョウとは全く異なる。細長い体と[[ヘビ]]に似た頭部から、[[英語]]では"Snakehead"(スネークヘッド)と総称され、[[釣り]]や[[観賞魚]]の愛好家はこちらで呼ぶことも多い。日本には自然分布していなかったが、カムルチー、タイワンドジョウ、コウタイの3種が移入されたと言われている。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
体は前後に細長い円筒形をしている。背鰭と尻鰭は他のスズキ目のような棘条が発達していない。また、背鰭と尻鰭の基底も長く、背鰭は胴体のほとんど、尻鰭も胴体の後半部分におよぶ。腹鰭は小さい。口は大きく、下顎が上顎よりも前に突き出ており、鋭い[[歯]]が並ぶ。生体の口腔内へ手を入れると噛みつかれて出血することがあるので、漁獲時などの取り扱いには十分な注意が必要である。<br />
<br />
=== 空気呼吸 ===<br />
空気[[呼吸]]ができるのも特徴である。外見ではわからないが、[[えら|鰓]]に近接した頭部の腔所に「上鰓器官」(じょうさいきかん、suprabranchial organ)と呼ばれる[[血管]]の発達した[[粘膜]]のひだをもつ。なお、同じスズキ目でもタイワンドジョウ亜目に近縁の[[キノボリウオ亜目]](アナバス類)も、同様の上鰓器官を持つ。<br />
<br />
水面に口を出して吸い込んだ空気を上鰓器官に送り込み、[[酸素]]を直接摂取する。その後は器官内を一旦水で満たして古い空気を追い出し、水を排出してから新しい空気を吸い込む。<br />
<br />
空気呼吸ができるため、[[溶存酸素量]]が少ない水環境でも生存できる。ただし、体内の呼吸で発生する[[二酸化炭素]]は主に鰓から水中に排出するため、上鰓器官だけでは生存できない。一方、鰓だけでも生存に必要な酸素を得られないため、[[網]]に掛かるなどして空気呼吸が阻害されると溺死する。<br />
<br />
=== 生態 ===<br />
[[画像:Channa marulius.jpg|thumb|240px|コブラスネークヘッド ''Channa marulius'' 親魚が稚魚を保護する]]<br />
水流が無いか緩やかで、[[ハス]]などの[[水生植物]]が生い茂った水域に好んで生息する。[[湖]]・[[沼]]・[[池]]・河[[川]]の中下流域などに多い。<br />
<br />
朝や夕方の薄暗い時間帯、または水が濁っている時に活発に活動する。<br />
<br />
食性は基本的に[[魚食性]]だが、[[甲殻類]]、[[昆虫類]]、[[カエル]]、[[カメ]]など水生動物のほか、ときには[[水鳥]]の[[雛]]、水辺周辺に生息する小動物([[ネズミ]]や[[ヘビ]]など)といった、さまざまな獲物を捕食する。水底にじっと潜み、水中や水面を通りかかる獲物に飛びかかる。多くの文献ではその姿形から獰猛というイメージもつけられているが、警戒心が強く臆病な面もある。<br />
<br />
繁殖時には親が卵や稚魚を保護する。種によっては産卵の際に水草などを集めて[[巣]]を作るもの、卵や稚魚を[[口]]内で保護するものなどもいる([[マウスブルーダー]])。[[水草]]で巣を作る種類は水草が生えていないと繁殖できないため、[[治水工事]]などで開発が進んで減少している地域もある。<br />
<br />
==利用==<br />
=== 食用 ===<br />
肉は淡白な白身で、分布域各地で揚げ物や鍋など食用にされ、[[養殖]]も行われている。ただし[[有棘顎口虫]]という[[寄生虫]]の中間宿主なので、[[刺身]]等で生食すると[[顎口虫症]]になる危険性があるため必ず加熱する。<br />
<br />
=== 釣り ===<br />
大型で引きが強いので各地に[[ルアー]]フィッシングの熱心なマニアが多く、専用の特に太くて強いルアー竿が各メーカーから販売されている。餌はソフトプラスチックの疑似餌やワームのほか、生きた[[小魚]]、[[カエル]]、[[ザリガニ]]、ドバミミズのように大きな[[ミミズ]]を1匹、またはシマミミズを数匹チョンがけしたもの、[[クツワムシ]]や[[コオロギ]]などの[[昆虫]]や[[ネズミ]]など使った[[活き餌]]釣りや、[[イワシ]]や[[サバ]]などを使ってのデッドベイトに、専用のオイルなどを染込ませて釣る方法も人気。日本では[[カエル]]を針につけて[[釣り]]をする[[ポカン釣り]]という釣りの方法もある。<br />
<br />
=== 飼育 ===<br />
熱帯産のスネークヘッドには種類や生息地ごとに多彩な体色が知られることから、[[観賞魚]]としての人気が高い。<br />
<br />
==日本産3種==<br />
日本にはカムルチー、タイワンドジョウ、コウタイの3種が分布する。これらはもともと[[東アジア]]に分布し、日本には人為的に導入された[[外来種]]とされているが近年北海道を中心にカムルチーのアムール亜種が生息していたとも言われており、江戸時代の文献でも生息していたという記述も近年発見された。ライギョは特にカムルチーとタイワンドジョウを指す呼称として用いられ、他にライヒー、タイワンなどとも呼ばれる。導入当時には「チョウセンナマズ」とも呼ばれた。21世紀初頭の時点では、タイワンドジョウとコウタイは移入された区域からそれほど広範には広がっていない。<br />
<br />
;[[カムルチー]] ''[[w:Channa argus|Channa argus]]'' (Cantor,1842) Northern snakehead<br />
:最大で1m程度まで成長する。[[中華人民共和国|中国]]から[[朝鮮半島]]、[[アムール川]]流域までの[[ロシア]][[沿海地方]]に分布する。日本には[[1923年]]-[[1924年]]頃に、朝鮮半島から[[奈良県]]に持ち込まれ、以後全国に持ち出された。「カムルチー」は[[朝鮮語]]での呼称({{lang|ko|가물치}})である。ノーザンスネークヘッドとも呼ばれる。<br />
;[[タイワンドジョウ]] ''[[w:Channa maculata|C. maculata]]'' (Lacépède,1801) Blotched snakehead<br />
:全長20-60cm程度になる。カムルチーに比べて小型で、体側の斑点も細かい。中国南部、[[ベトナム]]、[[フィリピン]]などが原産地で、日本には[[1906年]]に台湾から[[大阪府]]に移入された。現在の日本での生息地は[[沖縄県]]、[[香川県]]、[[兵庫県]]、[[和歌山県]]に留まっている。<br />
;[[コウタイ]] ''[[w:Channa asiatica|C. asiatica]]'' ([[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]],1758) Small snakehead<br />
:全長30cm程度の小型種で、腹鰭がないこと、尾柄に黄褐色の縁取りのある黒色眼状斑がひとつあることで他種と区別できる。<br />
:原産地は[[台湾]]、[[海南島]]、[[長江]]流域以南の[[中華人民共和国|中国]]である。[[日本]]へは[[台湾|台湾島]]から沖縄県[[石垣島]]、さらに[[大阪府]]に移入された。[[湖沼]]にも生息するが、河川の流れのある区域を好み、原産地では山間部の流れに多い。<br />
:繁殖期は4-6月で、[[水草]]の上に薄黄色の粘着性の[[卵]]を1000個以上も産み付ける。親魚はカムルチーやタイワンドジョウのような巣を作らないが、卵や稚魚を保護するのは共通している。<br />
<br />
==分類と分布==<br />
[[画像:Channidae_distribution.png|thumb|240px|タイワンドジョウ科の分布。黄色がタイワンドジョウ属、橙色が ''Parachanna'' 属の分布を示す]]<br />
[[画像:Channa aurantimaculata 2364.jpg|thumb|240px|バイオレットスネークヘッド ''C. aurantimaculata'']]<br />
タイワンドジョウ亜目にはタイワンドジョウ科だけが含まれるが、タイワンドジョウ科の分類上の位置づけについては何種類かの解釈がある。ここで用いているスズキ目・タイワンドジョウ亜目とする分類以外に、タイワンドジョウ亜目を近縁のキノボリウオ亜目に含めてしまい、スズキ目・キノボリウオ亜目・タイワンドジョウ科とする分類、またスズキ目から分離させ単独でタイワンドジョウ目とする分類もある。<br />
<br />
タイワンドジョウ科には2属が含まれ、タイワンドジョウ属 ''Channa'' は日本に定着した3種を含めて[[沿海地方]]から[[インド]]まで計28種が知られる。もう一つの ''Parachanna'' 属は熱帯[[アフリカ]]産の3種を含む。<br />
===タイワンドジョウ属 ''Channa''===<br />
[[File:Channa micropeltes 2012 G1.jpg|thumb|Giant snakehead]]<br />
*''C. amphibeus'' (McClelland, 1845) - チャンナ・アンフィベウス <br />
*''C. argus'' (Cantor, 1842) - [[カムルチー]]<br />
*''C. asiatica'' ([[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]], 1758) - [[コウタイ]]、七星魚、キャリコスネークヘッド<br />
*''C. aurantimaculata'' (Musikasinthorn, 2000) - バイオレット・スネークヘッド<br />
*''C. bankanensis'' (Bleeker, 1852) - バンカ・スネークヘッド<br />
*''C. barca'' (Hamilton, 1822) - チャンナ・バルカ<br />
*''C. bleheri'' (Vierke, 1991) - [[レインボースネークヘッド]]<br />
*''C. burmanica'' (Chaudhuri, 1916) - ビルマ・スネークヘッド<br />
*''C. cyanospilos'' (Bleeker, 1853)<br />
*''C. gachua'' (Hamilton, 1822) - [[ドワーフスネークヘッド]]<br />
*''C. harcourtbutleri'' (Annandale, 1918) - ハーコート・スネークヘッド<br />
*''C. lucius'' ([[ジョルジュ・キュヴィエ|Cuvier]], 1831) - アーモンド・スネークヘッド<br />
*''C. maculata'' (Lacépède, 1801) - '''タイワンドジョウ'''<br />
*''C. marulioides'' (Bleeker, 1851) - ロイヤルスネークヘッド<br />
*''C. marulius'' (Hamilton, 1822) - コブラ・スネークヘッド<br />
*''C. melanoptera'' (Bleeker, 1855) - トーマン<br />
*''C. melasoma'' (Bleeker, 1851) - ブラックスネークヘッド<br />
*''[[w:Channa micropeltes|C. micropeltes]]'' (Cuvier, 1831) - [[レッドスネークヘッド]] (Giant snakehead)<br />
*''C. nox'' Zhang, Musikasinthorn et Watanabe, 2002<br />
*''C. orientalis'' Bloch et Schneider, 1801 - グリーンスネークヘッド<br />
*''C. ornatipinnis'' Britz, 2007 - チャンナ・オルナティピンニス<br />
*''C. panaw'' Musikasinthorn, 1998 - イラワジスネークヘッド<br />
*''C. pleurophthalmus'' (Bleeker, 1851) - [[オセレイトスネークヘッド]]、フラワートーマン<br />
*''C. pulchra'' Britz, 2007 - チャンナ・プルクラ、バーミーズタイガースネークヘッド<br />
*''C. punctata'' (Bloch, 1793) - インディアン・スネークヘッド<br />
*''C. stewartii'' (Playfair, 1867) - [[スチュワートスネークヘッド]]<br />
*''C. striata'' (Bloch, 1793) - [[プラーチョン]]<br />
<br />
===''Parachanna'' 属===<br />
*''P. africana'' (Steindachner, 1879) - アフリカンシェブロンスネークヘッド<br />
*''P. insignis'' (Sauvage, 1884) - ブロッチドスネークヘッド<br />
*''P. obscura'' (Günther, 1861) - アフリカンスネークヘッド<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ノーザンパイク]]<br />
*[[アミア・カルヴァ]]<br />
<br />
==参考文献==<br />
{{Commonscat|Channidae|タイワンドジョウ科}}<br />
{{Wikispecies|Channidae|タイワンドジョウ科}}<br />
*[http://www.fishbase.org/Summary/FamilySummary.cfm?ID=431 Channidae] - Froese, R. and D. Pauly. Editors. 2008.[[FishBase]]. World Wide Web electronic publication. www.fishbase.org, version(09/2008).<br />
*川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編『山渓カラー名鑑 改訂版 日本の淡水魚』(タイワンドジョウ科執筆者 : 前畑政善・瀬能宏)ISBN 4-635-09021-3<br />
*永岡書店編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 ISBN 4-522-21372-7<br />
*フィッシュマガジン2007年7月号 「スネークヘッド 迫・美・楽・育」 30p〜33p([[緑書房]])<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:らいきよ}}<br />
[[Category:タイワンドジョウ科|*]]<br />
[[Category:淡水魚]]<br />
[[Category:日本の外来種]]<br />
[[Category:釣りの対象魚]]</div>
119.230.24.142
カムルチー
2018-08-07T06:09:58Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{生物分類表<br />
| 色 = 動物界<br />
| 名称 = カムルチー<br />
| 画像 = [[File:Snakehead - Channa argus 2.jpg|250px]]<br />
| 界 = [[動物]]界 Animalia<br />
| 門 = [[脊索動物]]門 Chordata<br />
| 亜門 = [[脊椎動物]]亜門 Vertebrata<br />
| 綱 = [[条鰭綱]] Actinopterygii<br />
| 目 = [[スズキ目]] Perciformes<br />
| 亜目 = タイワンドジョウ亜目 Channoidei<br />
| 科 = [[ライギョ|タイワンドジョウ科]] [[w:Channidae|Channidae]]<br />
| 属 = タイワンドジョウ属 ''Channa''<br />
| 種 = カムルチー ''C. argus''<br />
| 学名 = ''[[w:Channa argus|Channa argus]]''<br/>(Cantor, [[1842年|1842]])<br />
| 英名 = [[w:Northern snakehead|Northern snakehead]]<br/>Spotted snakehead<br />
| 和名 = '''ライギョ'''(雷魚)<br />
}}<br />
{{Wikispecies|Channa argus}}<br />
'''カムルチー'''(学名 ''Channa argus'')は、スズキ目・タイワンドジョウ科に分類される魚の一種。[[東アジア]]に分布する肉食性の大型淡水魚である。「カルムチー」は誤り。<br />
<br />
[[日本]]や[[中央アジア]]などにも移入され、分布を広げている[[外来種]]である。日本では同属の[[タイワンドジョウ]]や[[コウタイ]]と共に、'''[[ライギョ]]'''(雷魚)、ライヒー、タイワンなどとも呼ばれる。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
成魚は全長30-80センチメートルほどで、大型個体は1メートルに達する。前後に細長い円筒形をしている身体の体色は黄褐色-緑褐色で、体側には円形の黒っぽい斑紋が2列に並ぶ。口は大きく、下顎が上顎よりも前に突き出ており、鋭い[[歯]]が並ぶ。同属の類似種[[タイワンドジョウ]]は体側の斑紋が3列に並ぶことがあり、斑紋も細かく不定形なので、区別できる。<br />
<br />
他のタイワンドジョウ科の魚と同様に鰓の上部に上鰓器官を持ち、口から空気を直接吸いこんで[[酸素]]を取りこむことができる。摂氏10度前後の気温であれば、3-4日程度なら水から出ていても生きているという。<br />
<br />
=== 分布 ===<br />
[[アムール川]]以南の[[ロシア]][[沿海地方]]から、[[朝鮮半島]]・[[中華人民共和国|中国]]まで分布する。[[亜種]]に中国・朝鮮半島南西部が原産地の中国亜種 ''C. a. argus'' と、沿海地方が原産地のアムール亜種 ''C. a. warpachowskii'' がいる。<br />
<br />
日本にいるのは中国亜種で、[[1923年]]-[[1924年]]頃に、朝鮮半島から[[奈良県]]に持ち込まれて以降、全国に持ち出された。導入当時には「チョウセンナマズ」とも呼ばれており、標準和名「カムルチー」も本来は[[朝鮮語]]での呼称({{lang|ko|가물치}})である。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などにも移入されている。アムール亜種も[[ウズベキスタン]]、[[カザフスタン]]にある[[アラル海]]沿岸の川などに移入され、定着している。それぞれの移入先では、生態系に大きな影響を与えているといわれる。<br />
<br />
=== 生態 ===<br />
池、湖沼、川の流れがゆるい中下流域など、[[水草]]が多い止水域に生息する。空気呼吸ができるため、[[溶存酸素量]]が少ない劣悪な水環境でも生存できる。<br />
<br />
食性は肉食性で、[[昆虫類]]、[[甲殻類]]、小魚、[[カエル]]など水生動物ほかときには[[水鳥]]の[[雛]]や[[ネズミ]]などの小動物など幅広く捕食する。水温が18℃を超えると捕食を行うようになり、20℃以上で活発に活動する。一方、水温が15℃以下では捕食をしなくなり、[[冬眠]]状態に入る。<br />
<br />
繁殖期は[[夏]]で、オスメスが水面に水草などを集めて[[ドーナツ]]形の[[巣]]を作る。巣は直径1mに達することもあり、巣の中心部に産卵が行われる。産卵後もオスメスは巣の下に留まり、卵と稚魚を保護する。孵化した仔魚は[[卵黄]]を消費するまで巣内に留まるが、やがて泳ぎだして親魚の保護のもとで[[群れ]]を作る。稚魚は成長につれて群れを離れ、単独で生活するようになる。生後2年、全長30センチメートルほどで性成熟する。<br />
<br />
日本では一時期増えて在来魚や水鳥に大きな影響を与えていたが、近年は[[ブラックバス]]との競合や生息環境の悪化により、九州以外の地域では個体数が減っている。<br />
<br />
== 人間との関係 ==<br />
分布域各地で食用にされ、中国や朝鮮半島では広く[[養殖]]が行われている。ただし、[[有棘顎口虫]]という[[寄生虫]]の中間宿主なので、[[刺身]]などで生食すると[[顎口虫症]]の危険がある。また、歯も鋭いので、生体の取り扱いには十分な注意が必要である。<br />
<br />
食材としては淡白な白身魚で、小骨も少なく、日本人にも食べやすい。中国では[[スープ]]の他にも土鍋煮込み、炒め物などにされる。カムルチーは[[中国語]]で「黒魚」(ヘイユー、<span lang="zh">hēiyú</span>)と呼ばれることが多いが、[[広東語]]では「生魚」(サーンユー、saang1yu2)と呼ばれており、標準的な中国語で[[刺身]]を意味する「生魚片」(ションユーピエン、<span lang="zh">shēngyúpiàn</span>)と混同しやすい。<br />
<br />
食用以外に[[釣り]]の対象魚ともなっている。[[ルアー]]釣り以外にも、日本では[[カエル]]を針につけてカムルチーや[[ブラックバス]]、[[ナマズ]]などを狙う「ポカン釣り」という技法がある。また、斑紋のある[[ニシキヘビ]]のような体色から、[[観賞魚]]として飼育する人もいる。<br />
<br />
== 外来種問題 ==<br />
日本でのカムルチーの定着は北海道から九州までの広い範囲にわたり、人為的な放流によるものと推測されている<ref name="Bghand">{{cite book | 和書 | author = 村上興正・鷲谷いづみ(監修) [[日本生態学会]](編著) | title = 外来種ハンドブック | publisher = [[地人書館]] | date = 2002-09-30 | isbn = 4-8052-0706-X }}</ref>。<br />
<br />
大型肉食魚なので、淡水域の[[動物相]](魚類、カエル類、無脊椎動物)に影響を与えるとされ、日本をはじめとした移入先各地では駆除も進められている<ref name="Bkng">{{cite book | 和書 | author = 多紀保彦(監修) 財団法人[[自然環境研究センター]](編著) | title = 決定版 日本の外来生物 | publisher = [[平凡社]] | date = 2008-04-21 | isbn = 978-4-582-54241-7 }}</ref>。<br />
<br />
日本では[[外来生物法]]によって[[要注意外来生物]]に指定されているほか、北海道、群馬県、愛知県、滋賀県、山口県、長崎県では漁業調整規則にもとづき、移植禁止の措置がとられている<ref name="Idb">[http://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/50420.html カムルチー] [[国立環境研究所]] 侵入生物DB</ref>。アメリカでは輸入と州間の移動が法律で禁止されており、イギリスでは保有と放流は許可がなければ原則として不可能となっている<ref name="Bkng"/>。<br />
<br />
ただし、河川や湖沼の改修工事などによって水草の多い止水域が減少した地域では、巣材を確保できずに繁殖不全に陥り、個体数を減らしている所もある。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編(カムルチー執筆者 : 前畑政善)『山溪カラー名鑑 改訂版 日本の淡水魚』 ISBN 4-635-09021-3<br />
* 永岡書店編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 ISBN 4-522-21372-7<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons|Channa argus}}<br />
* [http://portal.nifty.com/kiji/121119158403_1.htm 沼の妖怪「カムルチー」をつかみ捕れ!] - [[デイリーポータルZ]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かむるちい}}<br />
[[Category:スズキ目]]<br />
[[Category:淡水魚]]<br />
[[Category:タイワンドジョウ科]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[Category:中国の食文化]]<br />
[[Category:日本の外来種]]</div>
119.230.24.142
ナマズ
2018-08-05T06:00:31Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{Redirect|鯰|美作市鯰|江見町 (岡山県)}}<br />
{{Otheruses|狭義のナマズ|広義のナマズ<ref name=nipponica>{{cite|和書|author=[[河野友美]]|chapter=ナマズ|title=[[日本大百科全書]]|publisher=[[小学館]]|year=1987}}</ref>|ナマズ科|より広義のナマズ<ref name=nipponica/><ref>{{cite|和書|chapter=ナマズ|author=[[中村守純]]|title=[[世界大百科事典]]|year=2009|version=2009年改定新版|publisher=[[平凡社]]}}</ref>|ナマズ目}}<br />
{{生物分類表<br />
|名称 = ナマズ<br />
|画像= [[file:Silurus.jpg|300px]]<br />
|画像キャプション = ナマズ<br />
|省略=条鰭綱<br />
|亜綱 = [[新鰭亜綱]] {{sname||Neopterygii}}<br />
|上目 = [[骨鰾上目]] {{sname||Ostariophysi}}<br />
|目 = [[ナマズ目]] {{sname||Siluriformes}}<br />
|科 = [[ナマズ科]] {{sname||Siluridae}}<br />
|属 = [[ナマズ属]] {{snamei||Silurus}}<br />
|種 = '''ナマズ''' {{snamei|S. asotus}}<br />
|学名 = ''Silurus asotus'' {{AUY|Linnaeus|1758}}<br />
|和名 = ナマズ<br/>マナマズ<br/>ニホンナマズ<br />
|英名 = [[w:Japanese common catfish|Japanese common catfish]]<br />[[w:Amur catfish|Amur catfish]]<br />
}}<br />
'''ナマズ'''(鯰・鮎、[[学名]] {{snamei||Silurus asotus}})は、[[ナマズ目]][[ナマズ科]]に属する[[硬骨魚綱|硬骨魚類]]の1種。<br />
<br />
[[日本]]・[[中国大陸|中国]]・[[朝鮮半島]]・[[台湾]]など、[[東アジア]]の河川や湖沼に生息する肉食性の[[淡水魚]]である。<br />
<br />
別名として'''マナマズ'''、[[琵琶湖]]周辺地域での地方名として'''ヘコキ'''とも呼ばれる<ref name=Tansuigyo_Namazu>『日本の淡水魚 改訂版』 pp.412-415</ref>。[[2005年]]に[[特定外来生物]]に指定された[[アメリカナマズ]](チャネルキャットフィッシュ)と区別して、'''ニホンナマズ'''と呼ばれることもある。以降本種を「マナマズ」と表記する。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
マナマズ({{snamei|S. asotus}})は日本に分布する3種のナマズ属種の1種である。他の2種([[ビワコオオナマズ]]、[[イワトコナマズ]])が[[琵琶湖]]と関連水系のみに生息する[[固有種|日本固有種]]であるのに対し、マナマズの分布は東アジア広域にわたり、日本においても現代では[[沖縄諸島|沖縄]]などの[[離島]]を除く全国各地の[[淡水]]・[[汽水]]域に幅広く分布している。<br />
<br />
日本在来の[[淡水魚]]は[[雑食]]のものが多いため、[[在来魚]]としては数少ない大型の[[肉食魚]]である。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、扁平な頭部と長い口ヒゲ、貪欲な[[食性]]を特徴とする。<br />
<br />
日本におけるナマズは、[[古代]]から食用魚として漁獲されたほか、さまざまな文化に取り入れられた歴史をもつ。神経質でデリケートな性格から暴れたり飛び跳ねることも多く、日本では中世以降[[地震]]と関連付けられ、[[浮世絵]]をはじめとする絵画の題材にされるなどして、人間との関わりを深めてきた。<br />
<br />
なお日本では通常、ナマズに「鯰」の字を当てるが、中国では(日本語でアユを意味する)「鮎」を当てる(「鯰」はナマズに当てるために日本で作られた[[国字]]である。[[#瓢鮎図|瓢鮎図]]の節を参照)<ref>『アジアと漢字文化』放送大学教育振興会、[[2009年]] p.252,256</ref>。<br />
<br />
== 分布 ==<br />
マナマズは中国大陸東部・朝鮮半島などの大陸部に加え、台湾や日本など島嶼域を含めた東アジア全域に幅広く分布している。[[ユーラシア大陸]]での分布は、[[アムール川]]・[[シベリア]]東部から[[ベトナム]]北部まで<ref name=Yousyoku5-6>『ナマズの養殖技術』 pp.5-6</ref>。流れの緩やかな[[川|河川]]・[[湖沼]]から[[田|水田]]・[[用水路]]などに生息し、岩礁域よりも[[水草]]の繁茂する泥底域に多くみられる。<br />
<br />
現代の日本ではマナマズは沖縄諸島などの離島を除く全国に分布しているが、本来の生息域は[[西日本]]に限定されていたとみられている。[[縄文時代]]の[[貝塚]]など全国各地の遺跡から、ナマズ目魚類の[[骨格]]が出土しているものの、古い時代のものは[[滋賀県]]より西の地域に限られている<ref name=Miyamoto2008>『鯰<ナマズ>』 pp.34-46 「縄文時代以降のナマズの分布変化」(執筆者:宮本真二)</ref>。一方で、『[[本朝食鑑]]』など複数の文献記録や、[[愛知県]]と[[東京都]]における[[江戸時代]]の遺跡から遺存体が見つかっていることなどから、マナマズは人為的な移植によって江戸時代中期には関東地方に、後期には東北地方に順次分布を広げていったと推察されており<ref>松沢陽士・瀬能宏、『日本の外来魚ガイド』、[[文一総合出版]]、2008年、p20</ref><ref>『[[本朝食鑑]]』1697年(元禄10)[{{NDLDC|2569419/18}} 画像]「ナマズは淀川、琵琶湖と諏訪湖にのみ生息している」</ref><ref>『[[日東魚譜]]』 1741年(元文6)[{{NDLDC|2558314/39}} 画像]「もとは関西に分布し関東にナマズはいなかったが、1728年 (享保13、14は誤記)の大洪水以降、よく見かけるようになった」</ref><ref><br />
『[[両羽博物図譜]]』 [http://library.city.sakata.lg.jp/MATUMORI/image_data/g18/010.jpg 画像]「元来最上川下流部には生息していなかったが天保末(1844年)の頃より増えだした」<br />
</ref>、[[大正]]期に[[北海道]]にも移入された。<br />
<br />
マナマズは[[水質汚濁]]には比較的強いが、河川や用水路の護岸化により繁殖場所を失い、日本での生息数は年々減少しているものとみられている<ref name=Yousyoku6-7>『ナマズの養殖技術』 pp.6-7</ref>。<br />
<br />
== 形態 ==<br />
マナマズの外観は大きく扁平な頭部と幅広い口、および長い口ヒゲによって特徴付けられ、これらはナマズ目の魚類全般に共通する特徴である。体は全体的に左右に平たく側扁するが、頭部は上下につぶれたように縦扁している。[[鱗]]がなく、体表はぬるぬるとした[[粘液]]で覆われている。[[目]]は小さく背側寄りについており、腹側からは見えない(イワトコナマズの目は側面寄りで、腹側から見える)。体色や斑紋は変異に富み、個体によってさまざまである。全長60cm~70cm程にまで成長し、一般に雌の方がやや大きい。<br />
<br />
口ヒゲは上顎と下顎に1対ずつ、計4本ある。[[仔魚]]の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもつが、成長につれ消失する。下顎は上顎よりもわずかに長く突き出す。[[背鰭]]は小さいが(4-6軟条)、臀鰭の基底は非常に長く(71-85軟条)、尾鰭と連続する。外見だけで雌雄を鑑別することは難しいが、雄の尾鰭は中央部がやや凹んでいる<ref name=Yousyoku5-6/>。<br />
<br />
全身に味覚があることで知られ[[味蕾]]と呼ばれる器官が約20万程ありこれは全生物の中でも最多である。<br />
<br />
== 生態 ==<br />
基本的に[[夜行性]]で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、[[池沼]]・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいる。[[感覚器]]として発達した口ヒゲを利用して餌を探し、[[ドジョウ]]や[[タナゴ亜科|タナゴ]]などの小魚、[[エビ]]などの[[甲殻類]]、[[昆虫]]、[[カエル]]などの小動物を捕食する。日本の淡水域の[[生態系]]では、[[食物連鎖]]の上位に位置するとみられる。一般的な活動水温は10-30℃の範囲とされ<ref name=Ejima2008>『世界のナマズ 増補改訂版』 p.172</ref>、冬期は泥の中や岩の間に隠れ、ほとんど動かない。<br />
<br />
日本での繁殖期は5-6月が中心である。この時期になると群れをなして水田や湖岸など浅い水域に集まり、雄が雌の体に巻きつくという独特の繁殖行動の後、水草や水底に産卵する。卵の大きさは約3mmで黄緑色をしており、およそ2-3日で孵化する。仔魚は孵化の翌日には[[ミジンコ]]などの餌をとるようになり、個体密度が高い場合は仲間の仔魚にも攻撃を加えるなど[[共食い]]が起こる<ref name=Yousyoku7-9>『ナマズの養殖技術』 pp.7-9</ref>。雄は2年、雌は3年程度で[[性成熟]]に達する。<br />
<br />
== 利用 ==<br />
=== 漁獲 ===<br />
東アジア地域では古くから、マナマズを食用魚として利用してきた。世界のナマズ目魚類の総漁獲量は1990年代以降急激に増加しており、その大半はアジア地域でのナマズ類[[養殖業]]の普及によるものである。マナマズもまた主要な養殖魚種の一つであり、[[国際連合食糧農業機関]](FAO)の統計<ref name=FAO>{{cite web |title= Fisheries and Aquaculture Department |publisher =FAO| url=http://www.fao.org/fishery/en |accessdate=2008年11月14日 }}</ref>によれば、2006年のアジアでの総漁獲量(養殖分)145万トンのうち、30万トン余りを本種が占めている。<br />
<br />
=== 食文化 ===<br />
{{seealso|ナマズ料理}}<br />
ナマズは中国料理でもよく使用される。大型ナマズの浮袋を干したもの([[乾物|乾貨]])も中国料理でよく用いられる食材である<ref>神山典士『新・世界三大料理 和食はなぜ世界料理たりうるのか』PHP文庫、2014年</ref>。<br />
<br />
ベトナムでもナマズは煮つけなどに用いられるポピュラーな食材となっている<ref>『るるぶ ベトナム・アンコールワット』2013年、25頁</ref>。<br />
<br />
マナマズは白身魚で、日本では[[天ぷら]]・[[たたき]]・[[蒲焼き]]・[[刺身]]などにして利用される<ref name=Yousyoku40-43>『ナマズの養殖技術』 pp.40-43</ref>。但し、[[顎口虫]]などが寄生しているため生食をした場合、[[顎口虫症]]への感染の恐れがある<ref>[http://nrifs.fra.affrc.go.jp/news/news19/yosinaga.htm 寄生虫とのつきあいかた -魚介類の寄生虫と食品衛生- 中央水研ニュースNo.19(平成10年1月発行)] 中央水産研究所</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.fsc.go.jp/sonota/hazard/H22_31.pdf 顎口虫の概要] 食品安全委員会}}</ref>。かつては農村部などを中心に、主に自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたが、近年では琵琶湖周辺地域([[滋賀県]]・[[京都府]])や、[[濃尾平野]]、[[埼玉県]]南東部など特定の地域での漁獲が中心となっている。寺嶋(2014)によれば、岐阜県で1988年 102t 、琵琶湖で1994年に 1.4t の漁獲高があった<ref name="jisdh.25.211">[http://dx.doi.org/10.2740/jisdh.25.211 寺嶋昌代、萩生田憲昭:世界のナマズ食文化とその歴史] 日本食生活学会誌 Vol.25 (2014) No.3 p.211-220</ref>。<br />
<br />
ナマズ食の歴史は古く平安時代末期の文献(今昔物語)に調理をしていた記述が残るほか<ref name="jisdh.25.211"/>江戸時代に商業取引が行われた記録が残る<ref name="jisdh.25.211"/>、しかし、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えない。群馬県邑楽郡板倉町板倉にある[[雷電神社 (板倉町)|雷電神社]]や、鳥取県鳥取市吉岡温泉町(旧国因幡国)にある[[吉岡温泉]]など特定の地域で[[郷土料理]]として、[[ナマズ料理]]が有名。[[霞ヶ浦]]に面した[[行方郡 (茨城県)|行方郡]](現・[[茨城県]][[行方市]])周辺では、[[アメリカナマズ]](チャネルキャットフィッシュ)の[[ハンバーガー]]が[[行方バーガー]]として、[[ご当地グルメ]]として有名。<br />
<br />
日本産のナマズ科魚類3種の中では岩礁域に暮らす[[イワトコナマズ]]が、泥臭さが少なく最も美味で、マナマズはこれに次いで味が良いとされる。[[ビワコオオナマズ]]は大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはない<ref name="jisdh.25.211"/><ref name=Tansuigyo_Biwako>『日本の淡水魚 改訂版』 pp.416-419</ref>。<br />
<br />
ナマズの食味や利用に関しては江戸時代以降の資料がいくつかあり、[[本草学|本草学者]]である[[人見必大]]が著した『[[本朝食鑑]]』(1697年)によれば、ナマズは味は良いものの、[[膾]]や[[蒲鉾]]として利用されるに過ぎないとされる<ref name=Kitahara2008>『鯰<ナマズ>』 pp.47-102 「本草学のナマズから鯰絵の鯰へ」(執筆者:北原糸子)</ref>。一方で、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]らによる『[[日本動物誌]]』(1850年)には、ナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられるとの記述がみえる<ref name=Kawanabe2008>『鯰<ナマズ>』 pp.121-134 「シーボルトの足跡とナマズ」(執筆者:川那部浩哉)</ref>。<br />
<br />
[[埼玉県]][[吉川市]]は「なまずの里よしかわ」として、特産のナマズ料理をアピールしている。<br />
<br />
=== 食用ナマズ養殖 ===<br />
;国内<br />
[[埼玉県]]では[[1970年代]]から水産試験場(農林総合研究センター水産研究所)が種苗生産と養殖の技術開発を行っている<ref name="saitama_namazu">[https://www.pref.saitama.lg.jp/b0915/kenkyuseika/namazu-seisan.html ナマズの種苗生産技術] 埼玉県農林総合研究センター水産研究所</ref>ほか、茨城県でも養殖技術の開発が行われている<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/naisuishi/bullechin/documents/bull3601.pdf |format=PDF |title=熊丸敦郎:ナマズの養殖技術に関する研究-Ⅰ ナマズの飼育特性について |publisher=茨城県内水面水産試験場調査研究報告 第36号(2000) |accessdate=2015-05-08}}</ref>。当初、ふ化後40 - 50日の稚魚期の共食いによる消耗が問題となったが、[[2000年代]]には共食いを抑制する給餌方法、飼育密度、飼育条件を見いだし、安定した種苗生産が行える様になった<ref name="saitama_namazu"/><ref>[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010602433 ナマズの種苗生産試験] 埼玉県水産試験場研究報告 57号, p.40-42(1999-03)</ref>。育成された稚魚は養殖業者によって育成される他、[[霞ヶ浦]]や[[印旛沼]]など自然の水系に放流され<ref>[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010751569 千葉県印旛沼におけるナマズ人工種苗の放流効果] 千葉県水産総合研究センター研究報告 (3), 21-28, 2008-03</ref>漁獲後、市場出荷されている。<br />
:いわゆる「ウナギ味のナマズ」とは、[[近畿大学]]がマナマズの養殖方法を工夫することによって、食味をウナギの味に近付けたナマズである。食味の調整として「餌のコントロール」と「水質のコントロール」の2点が重要であることを特定し、それらのコントロール方法を開発した<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1505/25/news049.html|title=見た目も味もそっくり「ウナギ味のナマズ」 近大が開発に成功 最初は「涙が出るほどまずかった」が… |publisher=ITmediaニュース(株式会社アイティメディア)|accessdate=2015-07-17}}</ref>。ウナギは天然種が絶滅の危機にありながら、養殖技術も確立されていないため、近い将来一般の人は食べる事すら出来なくなることが懸念されているが、この研究が商業化に発展すれば、代用としての養殖ナマズ食が普及する可能性もある。今後は直営の料理店「近畿大学水産研究所」や提携した料理店などで「ナマズの蒲焼き」のような形で不定期に客へ提供し、商業化を目指す。<br />
<br />
;海外<br />
生産量1位である[[中国]]、2位[[ベトナム]]など[[メコン川]]周辺地域、[[バングラデシュ]]、[[アフリカ]]、[[アメリカ]]などで大量に養殖されている。消費地としては1位が[[ヨーロッパ]]、2位がアメリカで[[ヒスパニック]]人口増と[[ファーストフード]]などで食用にされた。<br />
:ナマズ戦争 2002年、ベトナム産の安価なナマズ(チャー、バサ)が米国に輸入されたことについて[[アラバマ州]]などのナマズ養殖業者協会が[[ダンピング]]であると指摘、[[2003年]]8月に認定され、[[アメリカ商務省]]によってセーフガードとして[[関税]]が適用された<ref>http://vovworld.vn/ja-JP/%E8%A7%A3%E8%AA%AC/%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E5%90%91%E3%81%91%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E5%8F%8D%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A8%8E%E7%8E%87/142618.vov</ref>。その後も8回にわたりほぼ毎年定期的に見直して税率を上げ、ベトナム水産物輸出加工協会は同国側の生産者に悪影響を与えていると指摘している<ref>http://vietnam.vnanet.vn/japanese/%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%A5%AD%E6%B3%95%E3%80%81%E8%B6%8A%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%99%E3%81%AE%E8%BC%B8%E5%87%BA%E3%81%AB%E5%9B%B0%E9%9B%A3%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%99/56518.html</ref>。一連の動きを俗にナマズ戦争、米越ナマズ戦争と言われる<ref>https://www.botanical.jp/library_view.php?library_num=269</ref>。<br />
<br />
=== ナマズ釣り ===<br />
{{出典の明記|date=2013年5月1日 (水) 02:23 (UTC)|section=1}}<br />
ナマズを[[釣り]]の対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられる<ref name="r1g">『小学館入門百科シリーズ81 川づり入門』(小学館・1978)。</ref>。ぽかん釣りでは小型の[[カエル]]を[[釣り餌]]として、片足から吊り下げる形で[[釣り針]]に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘う<ref>[http://hdl.handle.net/10232/21678 不破茂:郷土鹿児島が生んだ昭和の釣りの碩学松崎明治を語る] 鹿児島大学附属図書館水産学部分館所蔵「松崎文庫展」講演会要旨, 平成26年7月18日</ref>。他に[[ドジョウ]]、[[ハヤ]]、[[ワキン|金魚]]などの[[小魚]]を使っての[[泳がせ釣り]]、[[エビ]]などの[[甲殻類]]、[[昆虫]]などの[[生き餌]]を使った釣り方が知られる。[[ハツ]]や[[ササミ]]といった肉類などでも釣れる。<br />
<br />
[[ルアー]]釣りの場合は、夕方や朝まずめの時刻はスプーンやワーム、あるいはミノーを利用するとよい。夜間にはノイジー等の音を出す[[トップウォーター]]系のプラグがよい<ref>[http://www.lure-life.com/news/namazu/minamoya04.html ジッターバグとナマズ[鯰釣vol.4]] ルアーライフマガジン</ref>。さらにケミホタルと呼ばれる[[ケミカルライト]]により光る発光体をルアーに貼り付ければ夜間でも視認しやすい。また、近年はナマズ専用のルアーも登場している。<br />
<br />
餌を丸呑みにする性質があるので、針が喉の奥に刺さる場合が多く、針を抜くのが非常に困難である。したがって、針のカエシを潰した(バーブレス)うえで、[[ペンチ]]などを利用すると針を抜きやすい。昼にも釣ることができる。<br />
<br />
=== ナマズの飼育 ===<br />
{{出典の明記|date=2013年5月1日 (水) 02:23 (UTC)|section=1}}<br />
以下はマナマズ(一般的な日本ナマズ)の飼育法について述べる。なお[[外来種]]の取り扱いについては[[特定外来生物法]]などで規定されており、過去に[[アメリカナマズ]]が[[琵琶湖]]などに生息して[[生態系]]への悪影響を及ぼしたことから注意が必要である<ref>https://www.wwf.or.jp/activities/wildlife/cat1016/cat1100/</ref><ref name="Bkng">{{cite book | 和書 | author = 多紀保彦(監修) 財団法人[[自然環境研究センター]](編著) | title = 決定版 日本の外来生物 | publisher = [[平凡社]] | date = 2008-04-21 | isbn = 978-4-582-54241-7 }}</ref>。<br />
<br />
;飼育器具<br />
[[Image: Nyorori1.jpg|thumb|right|隠れ場所に潜むナマズ]]<br />
* [[水槽]]:[[ガラス]]と[[アクリル樹脂]]があるが、マナマズでも40cm程度まで成長すると突進力も強くなるため、耐衝撃性のあるアクリル水槽がより適している。稚魚なら45cm水槽での飼育を開始し、35cmを超えたあたりで90cm~120cm水槽へと移すといったように、順次大きさを切り替える。直射日光を避け、静かで安定した場所に設置する。<br />
* [[ろ過]]器:与える食料にもよるが、肉食性で糞の量も多いため、ろ過容量が大きい上部式ろ過器が適している。<br />
* 飼育水:塩素を含んだ通常の水道水を使用すると、[[鰓]]に炎症が起こる可能性がある。飼育水のカルキ抜きは必須で、水道水を使用する場合はハイポを入れるか、1-2日くみ置いてから使用する。雨水の使用は避ける。<br />
* 隠れ家:ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる。夜行性のため、ライトを使う場合は照射量に注意する。高温に弱くヒーターは基本的に不要で、底砂(砂利)の使用も適宜でよい。<br />
<br />
{{clear}}<br />
<br />
;環境 <br />
[[Image: Nyorota1.JPG |thumb|right|水草から顔を出している稚魚]]<br />
混泳すると[[共食い]]の危険があり、基本的に単体飼育が望ましい。[[餌]]は慣れると、水面に餌を落としただけで反射的に食いつくようになる。[[生餌]]を使用する場合は[[感染症]]を防ぐため、一週間ほど別水槽で薬浴させてから投入するとよい。与える餌の量にもよるが、1週間に1度、1/3程度の水換えを行う。日光や騒音を好まないので静かで暗い場所に水槽を設置するのが適している。水草や浮草があると良い。<br />
<br />
{{clear}}<br />
<br />
;病気<br />
擦り傷や[[白点病]]、[[尾腐病]]などに罹患した場合、早めの塩水浴を行う、0.5%程度の[[食塩水]]で殺菌効果が見込める。専用の魚病薬を用いる場合は、薬品の影響を考慮して規定量の1/4-1/3程度の使用に留めた方が良い場合もある。感染症を予防するためには水の約0.1%ほど塩分を入れると良いが入れすぎると食欲が減るので注意を要する。また魚病薬に弱い性質を持つ。<br />
<br />
{{clear}}<br />
<br />
;餌 <br />
市販の底生肉食魚用人工餌や、[[金魚]]等の粒状の人工餌、[[ハツ]]や[[ササミ]]といった肉類を適量与える。新しい環境に慣れるまで数日は餌を食べないことが多い。野生魚に関しては人工餌や動かない肉類には反応せず、生餌の方が食いつきが良いが、感染症を防ぐために生餌は推奨されない。<br />
<br />
== ナマズの文化 ==<br />
[[Image:Yoshikawa Station south entrance 20080906.JPG|thumb|right|[[埼玉県]][[吉川市]]・[[吉川駅]]前にあるナマズのモニュメント]]<br />
日本では、その独特な外観と生態から古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきた。伝統的な[[郷土玩具]]にも、「鯰押さえ」などナマズを題材にしたものが見られる。<br />
<br />
{{clear}}<br />
=== 地震とナマズ ===<br />
{{main|大鯰}}<br />
[[File:Emergency Road Sign in Suginami.JPG|thumb|right|[[杉並区]]にある[[緊急交通路]]標識]]<br />
日本では、[[地震]]の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られている。また、地面の下は巨大なナマズ([[大鯰]])がおり、これが暴れることによって大地震が発生するという[[迷信]]・民俗も古くからある。<br />
<br />
ナマズが地震の源であるとする説は江戸時代中期には民衆の間に広まっていたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていない。ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『[[日本書紀]]』にまで遡ることができるといわれる<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p122"> おさかな雑学研究会 『頭がよくなる おさかな雑学大事典』 p.122 幻冬舎文庫 2002年</ref>。[[安土桃山時代]]の1592年、[[豊臣秀吉]]が[[伏見城]]築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示が見え<ref name=Kitahara2008/>、この時点で既にナマズと地震の関連性が形成されていたことが伺える。江戸時代の『[[安政見聞録]]』には[[安政大地震]]前にナマズが騒いでいたことの記述がある<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p122"/>。江戸後期には地震など社会不穏を背景として、鯰絵や[[妖怪]]などを描いた浮世絵が流通している。<br />
<br />
一般には地震とナマズの関係は俗信とされてきた。ただ、魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており電場の変化にも敏感であることから地震予知能力があることも考えうるとされ今後の研究に委ねられている<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p122_123"> おさかな雑学研究会 『頭がよくなる おさかな雑学大事典』 p.122-123 幻冬舎文庫 2002年</ref>。一方で、大地震の際に普段ほとんど動かないナマズが頻繁に動き出すことがあるという<ref>2013年5月27日放送分の[[TBSテレビ|TBS]]系列『[[ひるおび!]]』で地震とナマズの因果関係が特集され、この旨が取り上げられた。</ref>。<br />
<br />
=== 日本の伝統絵画に描かれたナマズ ===<br />
[[Image: Kuniyoshi Utagawa, Catfish 5.jpg|thumb|100px|right|ナマズ([[歌川国芳]])]]<br />
<br />
{{clear}}<br />
==== 瓢鮎図 ====<br />
{{main|瓢鮎図}}<br />
[[Image: Hyônen zu by Josetsu.jpg|thumb|250px|right|[[瓢鮎図]]([[退蔵院]]所蔵)]]<br />
<br />
日本におけるナマズを題材とした絵画のうち、代表的な1枚が[[室町時代]]の画僧、[[如拙]]による「[[瓢鮎図]]」(ひょうねんず、「鮎」は中国式の表記)である。ぬめった皮膚のナマズを滑らかな[[ヒョウタン]]でいかに押さえるか、という[[禅問答]]のテーマを描いた[[水墨画]]であり、現在では[[国宝]]に指定されている。本図に描かれた瓢箪とナマズの組み合わせは、後世のナマズ画にも多大な影響を与えている(後述)。<br />
<br />
{{clear}}<br />
<br />
==== 大津絵 ====<br />
{{main|大津絵}}<br />
瓢箪とナマズ、というユニークな画題は後年の民画や浮世絵にも取り入れられた。滋賀県[[大津宿]]の民俗絵画である[[大津絵]]では、ヒョウタンを持った猿がナマズを押さえつけようとする姿を滑稽に描いた作品が数多く作られている。ほとんどが作者不詳であるこれらの作品は「瓢箪鯰」と総称され、「大津絵十種」(大津絵の代表的画題)の一つとして親しまれた。<br />
<br />
==== 鯰絵 ====<br />
{{main|鯰絵}}<br />
瓢鮎図から大津絵という系譜を経たナマズが、最も多種多彩な構図で描かれたのが幕末の[[江戸]]で流行した[[鯰絵]]である。鯰絵とはナマズを題材にした無届の[[錦絵]](多色刷りの浮世絵の一種)で、[[1855年]]に関東を襲った[[安政の大地震]]の直後から、江戸市中に広く流布した。地震の原因と考えられた大鯰を懲らしめる図や、復興景気に沸く職人たちの姿など、地震直後の不安定な世相をさまざまな視点から滑稽に描き出した鯰絵は庶民の間で人気を呼び、少なくとも250点以上の作品が出版された。<br />
<br />
=== 鯰山車 ===<br />
[[岐阜県]][[大垣市]]の[[大垣八幡神社]]の[[例祭]]、[[大垣祭]]では鯰軕(なまずやま)と呼ばれる[[山車]]が参加する。金の瓢箪をもった老人がナマズを押さえつけようとする[[からくり]]が乗せられており、同市の[[白鬚神社 (大垣市墨俣町)|白鬚神社]]例祭においても、同様の山車がみられる。両祭の鯰山車は、岐阜県の[[重要有形民俗文化財]]に指定されている。<br />
<br />
=== ナマズの伝承 ===<br />
[[File:Chobokure Youkai.jpg|thumb|ナマズの[[妖怪]]。[[願人坊主]]の装束をつけた鯰が、地震にまつわる[[ちょぼくれ]]節をうたっている。鯰の脇には[[閻魔]]の子と[[地蔵]]の子がおり、地蔵の子は竹と[[錫杖]]で[[竹馬]]遊びをしている。]]<br />
ナマズにまつわる伝承が日本各地で知られている。琵琶湖の[[竹生島]]にある[[都久夫須麻神社]](竹生島神社)には、ナマズが龍に変身して(あるいは龍から大鯰となって)島と神社を守護するという縁起(言い伝え)が古くからある<ref name=Kitahara2008/>。島の守り神であるナマズを安易に捕ることは許されないという当時の考えにより、同じく竹生島にある[[宝厳寺]]([[神仏習合]]の思想に基づき、[[明治時代]]以前は竹生島神社と一体であった)から湖岸の村役に対し毎年「鯰免状」が与えられ、ナマズを食用とすることを許可されていた。免状の発行そのものは例祭的な意味合いが強く、[[漁業権]]との実際的な関わりは薄かったとみられている。<br />
<br />
[[中国地方]]では、ナマズギツネという老いたナマズが、夜に小川で魚が昇ってくるような音をたて、人が音に近づくたびに上流へ上流へと逃げて行くという<ref>[[村上健司]] 『妖怪事典』 [[毎日新聞社]]、2000年、248頁。</ref>。また[[群馬県]][[前橋市]]の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「おとぼう、おとぼう」と言いながら釣り人を追いかけるという説話がある<ref> [[多田克己]] 『幻想世界の住人たち IV 日本編』 [[新紀元社]]、1990年、149頁。</ref>。<br />
<br />
[[九州]]でも、ナマズが神格化されている地方がある。[[熊本県]][[阿蘇市]]に総本社をおく[[阿蘇神社]]の氏子はナマズを神の使いとして信仰し、捕獲・食用はタブーとされている<ref>『鯰 - 魚と文化の多様性』 pp.34-38</ref>。また、[[佐賀県]]では[[淀姫神社]]の使いとされ、ナマズを食べると病気になるとして食用にしない風習がある<ref>[[水木しげる]] 『妖鬼化 5 東北・九州編』 [[Softgarage]]、2004年、129頁。</ref>。<br />
<br />
=== 愛称・マスコットとしてのナマズ ===<br />
近代以降、ナマズの名前や姿を、愛称・[[マスコット]]として用いることも増えている。[[小学館]]発行の雑誌(現在では[[ビッグコミック]]とその派生雑誌、[[週刊少年サンデー]]といった漫画雑誌。かつては「FMレコパル」「テレパル」等も)ではナマズを象った[[シンボル]]マークが用いられ、表紙などに描かれている。また、1937-88年に[[名古屋鉄道]](名鉄)で運用されていた[[名鉄850系電車|850系電車]]は、その姿形から「ナマズ」と呼ばれ親しまれた。「[[Namazu]]」は日本で広く用いられている、[[コンピュータ]]用の[[全文検索]]システムである。前項にもある通り地震との繋がりがあるために地震・災害関係のマスコット([[緊急地震速報]]利用者協議会のゆれるん・上記看板にある[[緊急交通路]]のキャラクター)としてナマズが取り上げられることも多い。<br />
<br />
埼玉県[[吉川市]]は、ナマズをモデルとした「なまりん」を市のイメージキャラクターとしている<ref>[https://www.city.yoshikawa.saitama.jp/index.cfm/26,22344,165,829,html イメージキャラクター名称は「なまりん」に決定!市民まつりで発表(平成22年11月21日)]吉川市ホームページ(2017年12月25日閲覧)</ref>。<br />
<br />
== 著名な研究者 ==<br />
* [[秋篠宮文仁親王]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{参照方法|date=2015年5月|section=1}}<br />
* [[川那部浩哉]]監修 『鯰<ナマズ> イメージとその素顔』 [[八坂書房]] 2008年 ISBN 978-4-89694-904-9<br />
* 川那部浩哉・[[水野信彦]]・[[細谷和海]] 編・監修 『日本の淡水魚 改訂版』 [[山と溪谷社]] 1989年 ISBN 4-635-09021-3<br />
* [[滋賀県立琵琶湖博物館]]編 『鯰 - 魚と文化の多様性』 [[サンライズ出版]] 2003年 ISBN 978-4-88325-136-0<br />
* [[田崎志郎]]・[[金澤光]] 『ナマズの養殖技術』 [[緑書房]] 2001年 ISBN 4-89531-105-8<br />
* [[江島勝康]] 『世界のナマズ 増補改訂版』 [[マリン企画]] 2008年 ISBN 978-4-89512-515-4<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[3-ヒドロキシイソ吉草酸]]<br />
<br />
{{Commonscat|Silurus asotus}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.fishbase.org/Summary/speciesSummary.php?ID=6566 FishBase‐ナマズ] {{En icon}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:なます}}<br />
[[Category:ナマズ目]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[Category:釣りの対象魚]]<br />
[[Category:淡水魚]]</div>
119.230.24.142
ブラックバス
2018-07-18T09:30:25Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{導入部が短い|date=2016年10月4日 (火) 14:05 (UTC)}}<br />
{{生物分類表<br />
|名称=オオクチバス属<br />
|画像=[[File:LargemouthBass.jpg|250px]]<br />
|画像キャプション=オオクチバス ''Micropterus salmoides'' <br />
|省略=条鰭綱<br />
|目=[[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}}<br />
|亜目=[[スズキ亜目]] {{Sname||Percoidei}}<br />
|科=[[サンフィッシュ科]] {{Sname||Centrarchidae}}<br />
|属='''オオクチバス属''' ''Micropterus''<br />
|学名 = {{Snamei||Micropterus}}<br />[[ベルナール・ジェルマン・ド・ラセペード|Lacépède]], [[1802年|1802]]<br />
|英名=[[w:Black bass|Black bass]]<br />
|下位分類名=<center>種<ref name=fb>{{FishBase genus|genus=Micropterus}}</ref></center><br />
|下位分類=<br />
* {{Snamei||Micropterus cataractae}}<br /><small>Williams & Burgess, 1999</small> - [[ショールバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus coosae}}<br /><small>Hubbs & Bailey, 1940</small> - [[レッドアイバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus dolomieu}}<br /><small>Lacépède, 1802</small> - [[コクチバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus floridanus}}<br /><small>(Lesueur, 1822)</small> - [[フロリダバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus notius}}<br /><small>Bailey & Hubbs, 1949</small> - [[スワニーバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus punctulatus}}<br /><small>(Rafinesque, 1819)</small> - [[スポッテッドバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus salmoides}}<br /><small>(Lacépède, 1802)</small> - [[オオクチバス]]<br />
* {{Snamei||Micropterus treculii}}<br /><small>(Vaillant & Bocourt, 1874)</small> - [[グアダルーペバス]]<br />
}}<br />
'''ブラックバス'''({{En|Black bass}})とは、スズキ目・サンフィッシュ科の[[淡水魚]]のうち、'''オオクチバス属'''{{Snamei|Micropterus}}に属する8種(11亜種)の魚の総称である。<br />
<br />
==名称==<br />
ブラックバス(Black bass)とは''Micropterus''属の一種または全種を指して用いられる俗称であり、「ブラックバス」という名前の特定の魚類の種やグループは存在しない。属名''Micropterus''は和名においておもに「オオクチバス属」と訳されるが、「コクチバス属」とする場合もある<ref name="Link-basu">[[バス (魚)]]の項参照。</ref>。またMicropterusは「小さな尾」の意であるが、これは初めて捕獲された本属魚類の個体の尾鰭が負傷欠損によって小さかったために、誤ってその特徴が名付けられてしまったものであるといわれる<ref>赤星鉄馬『ブラックバッス』(イーハトーヴ・1996)による。</ref>。<br />
<br />
本来ブラックバスという呼称は、コクチバス(スモールマウスバス)の稚魚期の体色が黒いことから原産地北米において慣習的に呼ばれるようになった名称である。しかし日本においては、移入からの歴史が長く、分布範囲、個体数、認知度において群を抜くオオクチバス(ラージマウスバス)を特に指して用いられる場合が多い。<br />
<br />
本種はしばしば接頭辞を省いて単に'''[[バス (魚)|バス]]'''とも略される<ref name="Link-basu" />。オオクチバスは商業漁獲対象魚として普及させるため「クロマス」という和名で呼ばれたこともある<ref name="r1g">赤星鉄馬『ブラックバッス』(イーハトーヴ出版・1996)による。</ref>が、サケ科のマス類と混同されやすいため、その呼称は21世紀現在では使用されていない。川鱸(カワスズキ)の異名もあったが、[[スズキ (魚)|鱸]]自体が淡水への順応性が高く、[[鮎]]が生息するような淡水にものぼることもあるので、地域によってカワスズキは、スズキそのもののことを指す言葉として使われる。[[生態ピラミッド]]ではスズキの方が上位になるため、スズキが生態する川には他の河川に比べるとブラックバスは少ない。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
===形態===<br />
''Micropterus''すなわちブラックバスは、2014年現在8種を擁する遊泳捕食性大型淡水魚のグループである。成魚の体長は最も小型の種でおよそ40cm、最大型種[[フロリダバス]]は80cm以上に達する。<br />
<br />
体型は側偏した紡錘形、背鰭が第1、第2に分かれて発達し第1背鰭よりも第2背鰭は大きい。他の魚類や水生小型動物を捕食するのに適した大きな口と顎を持つ。唇の内側には鋸歯状の細かく鋭い歯が並ぶ。浮き袋は独立した臓器ではなく、腹腔の脊椎側内壁に一体化して備わっている。<br />
<br />
眼はやや頭頂部寄りに位置し、前方から上方にかけての視覚に優れる。これに側線で知覚される水の振動情報を併せる用いることで、ブラックバスは捕食対象を定位する。下方〜後方の視野は持っていない。<br />
<br />
===生態===<br />
全種とも自然分布域は北米大陸。内3種が日本国内で移入定着している。北米では[[五大湖]]周辺から[[ミシシッピ川]]流域、[[メキシコ]]国境付近までの中部および東部、[[フロリダ半島]]などに広く分布し、10‰程度の[[汽水域]]でも生息可能である。<ref>M. R. Meador and , W. E. Kelso, [https://doi.org/10.1139/f90-262 Physiological Responses of Largemouth Bass, Micropterus salmoides, Exposed to Salinity.] Canadian Journal of Fisheries and Aquatic Sciences, 1990, 47(12): 2358-2363, {{doi|10.1139/f90-262}}</ref><ref>テレビ番組「怪物魚を追え!」(River Monsters)のシーズン9で、ニューブリテン島にいるブラックバスが汽水域に出没することが確認された。</ref><br />
<br />
河川や湖沼に生息し、獰猛な肉食性で他の魚類や水生節足動物、水面に落下した昆虫、[[カエル]]等を捕食する。<br />
<br />
捕食に視覚を多用するため、活動時間は日中である。ただし、朝と夕方に特に活発となる。夜間は水底で静止したままとなる。<br />
<br />
温帯魚であるため冬期の低水温で斃死することは無く、深場で冬眠状態となるが比較的水温の高い日には冬でも捕食活動をすることがある。春〜夏にかけて、砂礫質の水底にすり鉢状の巣を作り産卵する。卵と稚魚はオスが保護し外敵から防衛する。<br />
<br />
==人間との関わり==<br />
<br />
;釣魚<br />
: 原産地では食用淡水魚として流通しており、赤星鉄馬によりオオクチバス、コクチバスが日本に移入された大きな目的の一つも食用である。しかし、最も高く認知されているブラックバスの利用は[[釣り|ゲームフィッシング]]の対象魚であり、日本<ref name=jbnbc>[http://www.jbnbc.jp/ JBNBC 公式ページ] JBNBC 公式ページ</ref>および[[アメリカ合衆国|アメリカ]]<ref>[http://www.flwoutdoors.com/ FLW - Bass Tournament Fishing News] Fishing League Worldwide</ref><ref>[http://www.bassmaster.com/ B.A.S.S. Bassmaster Home]</ref>ではプロトーナメント大会が開催されるほど人気が高い。ブラックバス釣りの愛好家は、「バサー (basser)」や「バス・フィッシャー (bass fisher)」、「バス・アングラー (bass angler)」などと呼ばれる<ref name=jbnbc/>。<br />
;特定外来生物<br />
: 8種のブラックバスのうち、日本では[[オオクチバス]]・[[コクチバス]]・[[フロリダバス]]の3種が[[外来種]]として記録されている。この3種は[[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律|特定外来生物]]に指定されている。<br />
:<br />
: なお、オオクチバスが[[世界の侵略的外来種ワースト100]]に、オオクチバス・コクチバスが[[日本の侵略的外来種ワースト100]]に選定されている。<br />
<br />
== 日本での分布と歴史 ==<br />
=== 略年表 ===<br />
*[[1925年]]、実業家[[赤星鉄馬]]がアメリカの[[カリフォルニア州]] (Santa Roza) からオオクチバスを持ち帰り、[[箱根]]の[[芦ノ湖]]に放流したのが最初とされる(約90匹)。これは食用、釣り対象魚として[[養殖]]の容易な魚であることから、政府の許可の下に行われた試みだった。ただし、オオクチバスはカリフォルニア州に自然分布しないことから、別な場所で採集された個体がカリフォルニア州を経由して移入されたものと考えられる。<br />
*[[1930年代]]、長崎県白雲池(1931年)、山梨県[[山中湖]](1932年)、東京にある私邸の池(1933年)、群馬県[[鹿沢ダム|田代湖]](1935年)、兵庫県峯山貯水池(1936年)などへ試験的に放流<br />
*[[1936年]]、この時期までオオクチバスの分布は5県。<br />
*[[1945年]]から、進駐軍(在日米軍)による部分拡散([[相模ダム|相模湖]]・[[城山ダム|津久井湖]]など)。<br />
*[[1965年]]、芦ノ湖の漁業権を管理する[[神奈川県]]、ブラックバス(オオクチバス、コクチバスその他のオオクチバス属の魚をいう)およびその卵も含め、移植を禁止(神奈川県内水面漁業調整規則第30条の2)。<br />
*[[1970年]]代、魚食性が強いため、生態系(在来生物層)への影響およびこれによる漁業被害が問題視されるようになり、漁業調整規則で無許可放流が禁止されるようになったが、その後も人為的な放流により生息域を拡大。<br />
*[[1971年]]、千葉県東金市の[[雄蛇ヶ池]]に移植。<br />
*[[1972年]]、釣り具輸入業者のツネミ・新東亜グループによって米国[[ペンシルベニア州]]、[[ミネソタ州]]からバス(ラージマウスバス)稚魚が神奈川県芦ノ湖に移植。一部は関西方面に運ばれ、兵庫県[[東条湖]]、愛媛県[[石手川ダム]]などに移植。<br />
*[[1974年]]、この時期までオオクチバスの分布は23都府県。琵琶湖でオオクチバス確認。愛媛県石手川ダムから[[面河ダム]]に移植。<br />
*[[1975年]]、兵庫県[[生野ダム#生野銀山湖|生野銀山湖]]に移植。茨城県でオオクチバス初確認([[藤井川ダム]]湖)。[[霞ヶ浦]]、[[牛久沼]]でオオクチバス確認。<br />
*[[1976年]]、栃木県[[渡良瀬遊水池]]で、オオクチバス確認。奈良県[[池原ダム]]・和歌山県[[七色ダム]]でオオクチバスが釣れ始める。<br />
*[[1977年]]、千葉県[[印旛沼]]に移植<br />
*[[1979年]]、この時期までオオクチバスの分布は40府県(ブルーギルは9府県)。<br />
*[[1983年]]、北海道、青森、岩手を除く日本全国にオオクチバスが分布。分布は1988年までに計45都府県に達する。<br />
*[[1985年]]、賞金制のバスプロ・トーナメントが山梨県[[河口湖]]を中心に始まる。<br />
*[[1988年]]、4月17日、奈良県池原ダムにJLAA関西支部と下北山村役場がオオクチバス(ノーザンラージマウス)の亜種で、より巨大化するフロリダバスを放流。<br />
*[[1989年]]、[[山梨県]][[河口湖]][[漁協]]、[[オオクチバス]]を[[漁業権]]魚種に指定。<br />
*[[1991年]]、[[野尻湖]](長野県)で、コクチバスを国内初確認。以後、分布を拡大。<br />
*[[1992年]]、水産庁、内水面漁業調整規則「移植の制限」部分改正、ブラックバスやブルーギルの生息域拡大防止を図る。<ref>[https://web.archive.org/web/20030827070118/http://www.jfa.maff.go.jp/release/15.06.12.3.15.html 都道府県内水面漁業調整規則例(平12・6・15 12水管1426水産庁長官通知)(抜粋)] - 水産庁、2002年6月。「外来魚問題に関する懇談会」の中間報告 参考資料5 (2003年8月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><br />
*[[木崎湖]]・[[青木湖]](長野県)、[[桧原湖]]・[[小野川湖]]・[[秋元湖]](福島県)などでもコクチバス確認。<br />
*[[1995年]]、日光[[中禅寺湖]]でコクチバス確認。漁協、駆除に乗り出す。<br />
*[[1996年]]、この時期までコクチバスの分布は5府県10か所。池原ダム(奈良県)でフロリダバス系統群による巨大バスブーム。<br />
*[[1998年]]、コクチバスの分布、14府県46か所に拡大。<br />
*[[1999年]]、新潟県が釣った外来魚(オオクチバス、コクチバス、ブルーギルなど)のリリース(再放流)禁止に踏み切る。違反者は1年以内の懲役もしくは50万円以下の罰金。コクチバスのみの再放流禁止はあったが(山梨県)、オオクチバス、ブルーギルにまで適用したのは全国初。<br />
*[[2000年]]、北海道などごく一部を除き、全国ほとんどの都府県の漁業調整規則で「外来魚の密放流禁止」が進む。<br />
*[[2001年]]、北海道[[森町 (北海道)|森町]]で生息を確認<ref>[http://www.fishexp.hro.or.jp/hatch/kenpo/59/kenkyuhoukokudai59gou_2.htm 炭素窒素同位体判別法により推定した北海道への移入種オオクチバスの食性変位] 北海道立水産孵化場研究報告 第59号</ref>。<br />
*[[2002年]]6月、水産庁が「ブラックバス等外来魚問題に関する関係者の取り組みについて(「外来魚問題に関する懇談会」の中間報告)」をまとめる。<ref>[https://web.archive.org/web/20030728083819/http://www.jfa.maff.go.jp/release/15.06.12.3.1.html ブラックバス等外来魚問題に関する関係者の取り組みについて(「外来魚問題に関する懇談会」の中間報告)] - 水産庁、2002年6月。(2003年7月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><br />
*[[2003年]]4月、滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例にて再放流が条例により禁止(対象区域は琵琶湖ほか滋賀県下全域)<br />
*[[2004年]]、池原ダムのみに確認されていたフロリダバスを[[琵琶湖]]で初確認(サンプル採取は2000年以降のため、2000年には琵琶湖に存在していたことになる)<ref>[http://ichthyology.kanpira.com/annual_meeting_2004/ 近年の琵琶湖におけるフロリダバスの大規模な侵入] - 2004年 横川・中井・藤田</ref><br />
*[[2005年]]6月、[[オオクチバス]]([[フロリダバス]]を含む)、[[コクチバス]]が[[環境省]]によって[[特定外来生物]]による生態系等に係る被害の防止に関する法律によって指定される。<br />
<br />
現在、オオクチバスはすべての都道府県で生息が確認されている。日本で合法的に放流されている自然湖は、[[オオクチバス]]の[[漁業権]]が認められている[[神奈川県]]の[[芦ノ湖]]、[[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]の4湖のみ。これらに関しては、放流は許可されているものの、生体魚の持ち出し禁止、流出河川にバスが逃げ出さないよう網を設置する等の措置がとられている。また、オオクチバスが認められている管理釣り場があるが、これらに関しても流出箇所にバスが逃げ出さないよう網等を設置することが義務付けられている。新潟県、秋田県(暫定措置)、琵琶湖のように、在来種の保護などのために再放流を禁止した県、湖、川などもある。琵琶湖の各漁港には「ギルやブラックバスなどは、非常においしい魚です。持ち帰って食べましょう。」という看板がある。<br />
<br />
=== 分布拡大の要因 ===<br />
オオクチバスの亜種である[[フロリダバス]]に関しては、[[奈良県]]の[[池原ダム|池原貯水池]]にしか移植されていなかったものが、近年琵琶湖等で発見されるなど、人為的な放流が行われていることが示唆される<ref name="fin_bass03-01">{{PDFlink|[http://www.env.go.jp/nature/intro/4document/sentei/fin_bass03/ext01.pdf 日本におけるオオクチバスの拡散要因 日本魚類学会] - 環境省 第3回特定外来生物等分類群専門家グループ会合(魚類)オオクチバス小グループ会合提出資料 2005年1月7日}}</ref>。<br />
<br />
コクチバスは、アユやゲンゴロウブナ等の種苗の産地では繁殖していないため、種苗への混入は想定できない。そのため、水系単位でみた場合、その分布は放流によるものと容易に判断できる<ref name="fin_bass03-01"/>。<br />
<br />
分布拡大の主要因として「他の琵琶湖の固有種(ハスやワタカなど)が全国に分布しているということ」を根拠に「琵琶湖産アユ種苗やヘラブナへの混入により生息域を拡大したのが大きい」とする主張がある。しかし、外来生物法における特定外来生物の選定時に開かれたオオクチバス小グループ会合において日本魚類学会自然保護委員会外来魚問題検討部会が提出した資料によれば、以下の理由によりその頻度はそれほど高くないと考えられている。<br />
* 日本に拡散しているオオクチバスは遺伝的に7タイプに分けられ、東北地方を中心に琵琶湖産オオクチバスと異なるタイプの遺伝子を持つバスがいること。<br />
* 琵琶湖におけるオオクチバスの爆発的増加は1980年代になってからだが、1970年代にはすでにほぼ全国に広まっており、時系列的に考えればアユ種苗への混入を想定しなくても全国に拡散していたこと。<br />
<br />
また、「一個人程度の放流が上手く行くかどうかという疑問の余地がある」とし、これを理由に「最たる原因は種苗は他魚の移入に混じっていた」とする主張や、「琵琶湖固有種だった[[ハス (魚)|ハス]]が種苗により全国に広まった例などもあることから、すくなくともオオクチバスに限っては認めざるをえない要因である」との主張がある。しかし、混入に関しては上述の日本魚類学会の資料にあるとおり主要因とは考えづらいことや、バスの個人による放流に関しては種苗の産地で繁殖していないコクチバスが最初の発見から10年余りで少なくとも19都道県47水域で存在が確認されていること、過去に個人が放流して繁殖が確認されたことが記載されている雑誌・書籍<ref>吉田幸二著『バスフィッシング』アテネ書房(1984)など</ref>があることから、上の主張には根拠が無い、とする反論がある。<br />
<br />
上記瀬能委員資料によれば、沖縄県を除く全都道府県でブラックバスの移植放流が漁業協定規則等で禁止された後でも、明らかに放流により分布が拡大したと推測される根拠があるとされており、特定外来生物に指定すべきという主張の根拠のひとつとなっている。<br />
<br />
=== 日本産ブラックバスの遺伝的知見 ===<br />
日本国内の19府県47地点から得られた(オオクチバス、コクチバス、フロリダバス)247個体の[[ミトコンドリア]] mtDNA [[ハプロタイプ]]を分析した。結果は、オオクチバスでは10のハプロタイプが知られているが、7タイプを確認した。山中湖には7タイプが生息しているが、ブラックバスに対し漁業権を設定しているため、資源量を維持する目的で全国各地から移植されている事が、ハプロタイプからも裏付けられた。琵琶湖ではフロリダバスとオオクチバスのハプロタイプが確認された。<br />
<br />
アメリカ国内のハプロタイプ分布は十分に解明されておらず、日本に移入された個体の系統の由来地域の解明も不十分である。アメリカおよび日本国内のハプロタイプ分布が十分に解明されると、日本への移入が既知の1925,1972年以外に行われていたのかの解明が行えると期待される。<br />
<br />
== バスフィッシング ==<br />
'''バスフィッシング'''([[w:Bass fishing|Bass fishing]])は、川や池に棲息する[[バス (魚)|バス]](ブラックバス)を対象とした[[釣り]]のこと。<br />
<br />
ブラックバスは、体長の割に引きが強い{{要出典|date=2014年11月}}ことや、季節によって一定のパターンをもって行動する{{要出典|date=2014年11月}}ことから、釣りの対象魚として人気がある{{要出典|date=2014年11月}}。日本で50cm以上の物は「ランカーサイズ」としてバサーを魅了する{{要出典|date=2014年11月}}。<br />
<br />
[[疑似餌]]の[[ルアー]]を使っての[[ルアーフィッシング]](lure fishing)が一般的。他に[[ワキン|金魚]]、[[ハヤ]]、[[ブルーギル]]、[[アユ]]などの小魚を使っての[[泳がせ釣り]]や、[[エビ]]や[[ミミズ]]などの生き餌を使った[[ウキ釣り]] (float fishing)、[[毛鉤]]の一種である [[フライ (釣り)|フライ]]を使った[[フライフィッシング]](fly fishing)が知られる。<br />
<br />
生き餌を使っての釣りの方が匂いや餌の活きが良いので釣果が期待できるが、難点はミミズ等を餌にした場合にバス以外の魚種が釣れやすいことである。<br />
<br />
現地で調達した生きた小魚の他にも、[[カエル]]、エビ、[[ザリガニ]]、[[ドバミミズ]]のように大きな[[ミミズ]]を1匹、または[[シマミミズ]]を数匹チョンがけしたもの。変わった例では、[[クツワムシ]]や[[コオロギ]]などの昆虫や[[ネズミ]]など。冬季は[[イワシ]]や[[サバ]]などを使ってのデッドベイトに、専用のオイルなどを染込ませて釣る方法も人気{{要出典|date=2014年11月}}。中でもエビはブラックバスの特効薬ともいわれよく釣れるという。<br />
<br />
ルアーを使った釣りには一定のルールの下に行われるトーナメントと呼ばれる競技会があり、[[プロフェッショナル]]のバス釣りが存在する。競技会では基本的に、各参加者が一定時間内に釣り上げたブラックバスの中から、一定の匹数の合計重量を競い、勝敗を決めるのが主流{{要出典|date=2014年11月}}。プロ選手は「バスプロ([[バスフィッシング・プロフェッショナル]])」と呼ばれる。代表的なプロ選手としては[[今江克隆]]、[[並木敏成]]、[[田辺哲男]]、[[清水盛三]]、[[菊元俊文]]等。<br />
<br />
国内にJB、WBS、TBC等のプロトーナメントの開催団体がある。また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のプロ団体BASSツアーやFLWツアー等では[[大森貴洋]]、[[深江真一]]、[[清水盛三]]などの日本人選手が活動している。<br />
<br />
[[反町隆史]]、[[小池徹平]]、[[速水もこみち]]、[[吉瀬美智子]]、[[岡野昭仁]]、[[今江敏晃]]、[[矢野燿大]]、[[関本賢太郎]]など、バスフィッシングが好きな芸能人・スポーツ選手も多い。<br />
<br />
== ブラックバス問題 ==<br />
ブラックバスは魚食性が強く、日本列島に移入されたことで在来種が減ったとする主張があり、またこの問題を実証的に論じた学術論文も存在している。<br />
<br />
環境省は、生態系に関わる被害および農林水産業に関わる被害があるとして、[[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律]]に基づき、ブラックバスを[[特定外来生物]]に指定し、防除を行っている。<ref>[http://www.env.go.jp/nature/intro/1outline/list/ 基本情報:特定外来生物等一覧] - 環境省 外来生物法</ref><br />
<br />
=== ブラックバス問題に関連する議論 ===<br />
ブラックバス問題に関連する議論として、過去にWikipediaに投稿されたものを中心にまとめる。<br />
<br />
*「[[環境省]]が委託し纏めた『財団法人自然環境研究センター:ブラックバス・[[ブルーギル]]が在来生物群集及び生態系に与える影響と対策』という書籍内で、現在科学的なデータは無いとしている。」という意見がある。<br />
**(上記意見に対する反論・指摘等)環境省は『ご指摘の報告書では、「生物群集と非生物的環境を合わせたものとして定義した生態系への影響については「知見はほとんどなかった」』とし、『本法において生態系への影響は生物群集への影響を意味しています。』としており、生物群集への影響はあるとしている<ref name="envh170302b-r02">[http://www.env.go.jp/info/iken/result/h170302b/r02.html 特定外来生物の指定対象等に係るパブリックコメントの意見の理由と対応の考え方]</ref>。パブリックコメントでは、ブラックバス擁護派の一部に、この記述を「生態系への影響はない」と解釈する誤解があった。<br />
**『財団法人自然環境研究センター:ブラックバス・[[ブルーギル]]が在来生物群集及び生態系に与える影響と対策』に上記記述が掲載された経緯については[http://www.env.go.jp/nature/intro/4document/sentei/fin_bass03/indexb.html 第3回 特定外来生物等分類群グループ会合(魚類)オオクチバス小グループ会合 議事録]に垣間見ることができる。生物・非生物を含む環境としての「生態系」への影響を示す知見が「無かった」ことについては小グループに参加している委員の間では一致している。これは、『ブラックバス・ブルーギルが在来生物群集及び生態系に与える影響と対策』に「無かった」と記されているのに瀬能委員が「有った」という主張を続けたため、水口委員が『ブラックバス・ブルーギルが在来生物群集及び生態系に与える影響と対策』を否定するのか?と強く追求したために、議場で水口委員の論敵になっている瀬能委員と多紀座長が「生態系」への「影響」に関しては「無かった」と認めたものである。しかし、その後瀬能委員は「生態系」という言葉にかわって「生物群集」「実際の在来生物」という言葉を使い、「これに対しての議論は意味がないと思います。実際の在来生物に影響を与えているということで十分」と、それ以上の議論を一方的に拒絶、座長裁定で当件についての議論そのものも打ち切られた。ブラックバスによるその「生物群集への被害」があるのかないのかについてはどちらにしても論拠が挙げられておらず、その場では結論が出ていない。上に記述されている「生物群集への影響はあるとしている」は瀬能委員の私見である。<br />
**「生態系」、「生物群集」という学術用語に対する認識の違いから生まれた齟齬と思われる。上記の『ブラックバス・ブルーギルが在来生物群集及び生態系に与える影響と対策』(平成15年度の環境省による調査報告書を成書としたもの)においても、小水域において深刻なバスの食害が確認された例が多数例示されている。<br />
<br />
*ブラックバスが生態系へ影響を及ぼしていることに対し、バス釣り愛好家からは「魚食性は[[鯉]]、[[ブルーギル]]など他の魚種のほうが強い場合もあり、バスだけが原因ではない<!--ブルーギルはブラックバス同様の外来種であり、鯉も放流されて広まったものは琵琶湖などに生息する在来種の野ゴイと遺伝子レベルで異なるため、外来種である可能性がある。-->」「人間による生活廃水や、水辺のコンクリート化による護岸工事および、それに伴う水棲植物の駆逐がより直接的な原因である」「在来種減少の原因は何処が一番影響があるのかをはっきりさせる事が重要で、個別の対応はその後である」「バスを殺さなくても、バスが食べている魚を[[養殖]]して 食べられている魚を増やせばバスを殺す必要がなくなる」「日本に定着してから既に80年を経過し在来種に近い存在である<!--生態系に組み込まれるには数千年程度の時間経過をもって有り得るという見解がある。[[外来種#史前帰化生物]]も参照。-->」などの反論がある。<br />
**(反論・指摘等)オオクチバスは専門家会合の検討において、生態系に被害を及ぼすものとして評価されている。オオクチバス以外の要因が存在するか否かにより、その結論が変わるものではないと考えられる<ref name="envh170302b-r02"/>。<br />
**(反論・指摘等)少なくとも在来種の減少の原因の一つとしてブラックバスの問題があることを完全に否定しうるような学術論文は提出されていない。<br />
**(反論・指摘等)在来種減少には、ブラックバス以外にも要因があるのは事実だが、ブラックバスによる在来魚を含む生物層への影響があることも明白な事実であり、ブラックバス対策は必要である。<br />
<!--(ただし「ブラックバスによる影響がないことの証明」はいわゆる「[[悪魔の証明]]」であって、「影響がないことの証明」(消極的事実の証明)についての立証は事実上不可能である。)--><br />
<br />
=== 輸入等の禁止 ===<br />
環境省はこのような事態を重くみて2005年6月より施行された「外来生物法([[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律]])」により、ブラックバスのうちオオクチバスおよびコクチバスの輸入、飼養、運搬、移殖を、原則として禁止することとした。<br />
<br />
=== 駆除 ===<br />
主な方法としては成魚を捕獲する方法と卵の孵化を阻害する方法がある。<br />
* 成魚の捕獲:釣る、投網、刺し網、定置網、銛や水中銃、電気ショック、減水させ捕獲<br />
* 孵化の阻害:産卵床の埋没、産卵床の除去、不妊化オスの放流<br />
<br />
駆除に係わる問題点として、<br />
* 網、電気ショックによる捕獲は他魚種の混獲の問題がある。<br />
* 潜水捕獲や産卵床の埋没は潜水作業者に係わる費用が高額になる。<br />
* 自然の河川では事実上不可能。<br />
<br />
具体的には、<br />
* 小規模な溜池では水抜きによって捕獲した魚類からブラックバスとそれ以外の魚を分け、バスを除去した後、在来魚を戻すという方法がある<ref>[http://dx.doi.org/10.3825/ece.15.171 「原著論文」ダム湖の水位低下を利用した定置網による外来魚捕獲とその効果] 応用生態工学 Vol.15 (2012) No.2 p.171-185</ref>。<br />
* 不妊化オスの放流は、[[滋賀県水産試験場]]で研究されており、体格が大きく強いオスを精子が体外に出ないようにする手術で不妊化させ、そのオスに積極的に卵の受精を妨害させようというものである。この方法は体長30cmを超える大型の個体を捕獲して不妊化させることで、相当数の受精を妨害できると見ている。これにより旺盛なバスの繁殖率を低下させ、また一括駆除などと違い環境への悪影響も無いと考えられている。<br />
* 水位調節が比較的自由に行える農業用のため池やダムでは、産卵後から孵化までの期間に減水させ産卵床を露出することで稚魚の孵化を阻止することも可能である<ref>[http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=ece1998&cdvol=6&noissue=1&startpage=15 さくら湖(三春ダム)の水位低下がオオクチバスの繁殖に与える影響] 応用生態工学 Vol.6 , No.1(2003)pp.15-24</ref>。<br />
* [[本栖湖]]では、コクチバスに対し1997年から潜水士(ダイバー)による潜水調査を元に産卵床の埋没や刺し網、水中銃を利用した捕獲を2004年まで行い、2012年まで発見例がないために根絶した<ref name="78_12-00005">[http://dx.doi.org/10.2331/suisan.78.711 山梨県水産技術センター:本栖湖に密放流されたコクチバス ''Micropterus dolomieu'' の根絶] 日本水産学会誌 Vol.78 (2012) No.4 p.711-718</ref>とされている。オオクチバスに関しては2014年度も生息が確認されている。<br />
<br />
=== 漁業権と外来種問題 ===<br />
[[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]でのブラックバスの[[漁業権]]は1989年 - 1994年に認められ、2005年施行の[[外来生物法]]でブラックバスの放流が禁じられた後も「特例」として許可されてきた。2014年1月の免許更新期を前に、地元漁協や自治体が継続を求め、[[日本魚類学会]]や[[NPO]]や[[自然保護団体]]などが反対していた。山梨県が地元漁協の免許の特例更新を認める方針を固めた。<br />
<br />
== 日本国外 ==<br />
*ブラックバスはアメリカ合衆国東海岸地域が在来地域であり、西部その他の地域へは移入種として導入されている。アメリカ国内においても、ブラックバスの導入後、在来種の減少や絶滅を招いた、との報告がある。<ref>[http://nas.er.usgs.gov/queries/FactSheet.asp?speciesID=401 NAS - Species FactSheet] - アメリカ地質調査所(United States Geological Survey, 略称USGS)</ref><br />
*優秀なスポーツフィッシングの対象魚であること、味が良いことから、世界各地に移入されている。ブラックバスが導入された湖沼の中には、捕食によって在来魚の個体群が減少したり絶滅したりするなどの影響が出ている例がある。そのため、IUCN([[国際自然保護連合]])によって[[世界の侵略的外来種ワースト100|世界の外来侵入種ワースト100]]に選定されている。<ref>[http://www.iucn.jp/protection/species/worst100.html 外来種,IUCN日本委員会] - IUCN日本委員会</ref><ref>[http://www.issg.org/database/species/ecology.asp?si=94&fr=1&sts=sss issg Database: Ecology of Micropterus salmoides] - global invasive species database</ref><br />
*環境省では「世界中で猛威をふるっている侵略種である」としている。<ref name="envgojp">[http://www.env.go.jp/nature/intro/1outline/list/L-sa-07.html 特定対来生物の解説:オオクチバス(外来生物法)] - 環境省</ref><br />
*イギリスや韓国では生体の持込が禁止されている。<ref name="envgojp"/><br />
<br />
== 利用 ==<br />
{{独自研究|section=1|date=2013年10月}} <br />
=== 遊漁対象魚===<br />
ブラックバスの害魚論が問題になっている一方、河口湖や山中湖などブラックバスを漁業指定対象魚とし、入漁料徴収の対象としている湖もある。これらの湖をはじめ、全国にはブラックバスフィッシングの愛好家を対象とするビジネスを展開する多数の事業者(貸しボート業、売店、飲食施設、宿泊施設等)があり、地域経済の中心にこの魚を置いているところも少なくない{{要出典|date=2014年11月}}。また、ブラックバスは釣魚としては優秀で、ブラックバス愛好家は[[日本釣振興会]]によれば300万人に上るといわれており、愛好家の多い釣りである。<br />
<br />
釣具の種類・釣法も年々開発され、新作のルアーも新開発される。<br />
<br />
ブラックバス擁護派を含め、同種にはなんらかの規制を行うことは必要不可欠との認識が、専門家および釣り関係者の中では支配的である。生態系の保護・維持と経済魚としてのブラックバスの活用を上手くすみ分けることがひとつの大きな課題となっている。<br />
<br />
奈良県[[下北山村]]の[[池原ダム|池原貯水池]]はブラックバスを積極的に観光資源として活用し、また放流も行い、全国のバサーにとっては「ブラックバスの聖地」と注目されている。特にこのダム湖は日本では珍しい[[フロリダバス]](正確にはオオクチバスとの交雑個体群)がおり、60 - 70センチのサイズが釣れることでも知られる。<br />
<br />
=== 食用魚===<br />
[[File:Ashino-ko don 説明用.jpg|thumb|220px|ブラックバスの[[天ぷら]](矢印)を使った芦ノ湖丼]]<br />
[[file:biwako_tendon.jpg|thumb|220px|琵琶湖博物館の中にあるレストランで販売されている"バス天丼"]]<br />
生食での[[顎口虫症]]などの危険性があり<ref>{{cite web|url=http://www.pref.aichi.jp/eiseiken/5f/gnathostomiasis.html|title=日本顎口虫(がっこうちゅう)症|publisher=愛知県衛生研究所|accessdate=2017-04-18}}</ref>加熱調理が推奨される。滋賀県農政水産部水産課が発行している「遊漁の手帖」には、「美味で、フライ、ムニエルなどにして食べる」<ref>{{cite web|url=http://www.pref.shiga.lg.jp/g/suisan/files/yuugyonotetyou.pdf|accessdate=2017-04-18|title=滋賀県農政水産部水産課「遊漁の手帖]}}</ref>と記されている。<br />
<br />
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、水産資源として[[フライ (料理)|フライ]]や[[バター]]焼き・[[ムニエル]]等に調理され、一般に食されている魚であるが、日本では、生臭くて料理に向かない魚というイメージが強い{{要出典|date=2014年11月}}。しかし、料理愛好家などからは、調理方法として[[揚げ物]]([[フライ (料理)|フライ]])、[[焼く (調理)|焼き物]]([[ムニエル]]、[[ポワレ]]、[[ソテー]])、[[煮物]]([[アクアパッツア]])、[[味噌田楽]](魚田)等の料理法が推奨されている{{要出典|date=2014年11月}}。また、駆除のために捕獲されたブラックバスを調理して[[給食]]の副食として提供している自治体や、[[蒲鉾]]・[[魚肉ソーセージ]]の材料や[[鮒寿司]]の鮒の代用とすることで、釣られたブラックバスを食材として消費して、駆除に役立てようとしている業者も存在する。<br />
<br />
ブラックバスの駆除に熱心な琵琶湖近辺では、特産の鮒寿司と同様な[[なれずし]]を作り、'''ビワスズキ'''という名称で試験的に販売しているところもあり、琵琶湖周辺やブラックバスフィッシングの有名地である芦ノ湖周辺などでは、フライなどのブラックバス料理を売り物にしているレストランなども存在する。<br />
<br />
悪臭の元は皮(生息環境や大きさによる、35cmを越えたあたりから臭くなると思ってよい)および浮き袋の付け根にある稜線状(三角形)の脂であるとされており(大きさによっては肛門まわりや腹の身も臭い)、皮を剥がし、包丁や鱗とりで脂を取り去り調理すれば白身で淡泊な味の美味な魚であり、また、[[コイ]]や[[ウナギ]]などの淡水魚と同様に、きれいな水に入れて[[泥抜き]]を行うことで身の臭みは軽減すると言われている{{要出典|date=2014年11月}}([[芦ノ湖]]などのオオクチバスは臭みが少なく美味であるとも言われている)。しかし、特定外来生物に指定されており生体での持ち出しが禁止されているため、実際には捕獲後すぐに〆る必要があり、「臭い魚」という扱いを受けることが多い。簡便な方法として切り身を一定時間、牛乳に浸して臭み抜きの下処理を施してから加熱調理(揚げ物など)を行い食する。<br />
<br />
[[藍藻]]は[[ゲオスミン]]や[[2-メチルイソボルネオール]]を作り、これが[[魚]]の[[皮膚]]や血合に濃縮される。このゲオスミンが、ブラックバスや[[ナマズ]]など淡水に棲む淡水魚が持つ泥臭いにおいのもとでもある。ゲオスミンは[[酸性]]条件で分解するので、[[酢]]など酸性の[[調味料]]を[[調理]]に使えば泥臭さを抑えることができる。<br />
<br />
=== 飼料/肥料===<br />
駆除や混獲の結果得られたブラックバスは[[魚粉]]に加工され、[[肉骨粉]]の代わりに畜産([[養鶏]]・[[養豚]]など)[[飼料]]や魚類の[[養殖]]飼料や[[有機質肥料|有機肥料]]として利用される。外来魚駆除の取り組みとして、[[地産地消]]品として有効利用されている。<br />
<br />
また、[[宮城県]]の[[マリンピア松島水族館]]では県内で駆除されたブラックバスを無償で譲り受け、飼育している大型[[淡水魚]]の餌として活用していた<ref>{{cite news|title=駆除したブラックバス 大型淡水魚のごはんに 松島水族館|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/02/20110227t15021.htm|newspaper=河北新報|date=2011-02-26|accessdate=2011-03-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110228195709/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/02/20110227t15021.htm|archivedate=2011年2月28日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。一方、神戸市立須磨海浜水族園では駆除されたミシシッピーアカミミガメを殺処分せずに保管しているが、膨大な餌をまかなうため一般からのブラックバス(殺処分済み個体)の持ち込みを受け付け、その対価として入園料をサービスするシステムを導入している<ref>神戸市広報 須磨海浜水族園「ブラックバスを釣ってきて、入園料がタダ!!」[http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2010/09/20100928142001.html]</ref>。<br />
<br />
最近では滋賀県あたりでペットフードとして加工される事もある、先述のとおりビタミンEや猫に必須なタウリンなど<br />
栄養素を多く含んでいる。<br />
<br />
== ブラックバスの主な天敵 ==<br />
{| align="center" style="background:white; border:1px solid dimgray;color:black" border="0" cellspacing="0" cellpadding="10" height="230" valign="bottom"<br />
|+ style="background:white; color:black" | '''[[天敵]]'''<br />
|- align="center"<br />
| [[File:Anguilla japonica.jpg|200px|none]]<br />
| [[File:Suzuki.jpg|200px|none]]<br />
| [[File:Silurus glanis 02.jpg|200px|none]]<br />
|- align="center" valign="top"<br />
| '''[[ウナギ]]''' Eel<br />
| '''[[スズキ (魚)|スズキ]]''' Bass<br />
| '''[[ナマズ]]''' Catfish<br />
|- align="center"<br />
| [[File:Red-throated Loon RWD2.jpg|200px|none]]<br />
| [[File:Lachmoewe2cele4.jpg|200px|none]]<br />
| [[File:Gull-billed Tern.jpg|200px|none]]<br />
| [[File:OspreyNASA.jpg|200px|none]]<br />
|- align="center" valign="top"<br />
| '''[[アビ属|アビ]]''' Diver<br />
| '''[[カモメ科|カモメ]]''' Gull<br />
| '''[[アジサシ亜科|アジサシ]]''' Tern<br />
| '''[[ミサゴ]]''' Osprey<br />
|}<br />
<br />
この他にもブラックバスの[[幼魚]]は、[[ライギョ]]、[[ドンコ]]、[[カワアナゴ]]、[[ギギ]]、[[ハス]]、[[ウグイ]]、[[ニゴイ]]、[[ナマズ]]などの魚類や[[カワウ]]、[[カワアイサ]]などの鳥類から襲われる。<br />
幼魚のうちは、[[水生昆虫]]の[[タガメ]]や[[タイコウチ]]、また、ブラックバスの成魚から襲われる事もある。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 日本魚類学会自然保護委員会『川と湖沼の侵略者ブラックバス―その生物学と生態系への影響』 恒星社厚生閣 ISBN 4769909675<br />
* 川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編『山渓カラー名鑑 改訂版 日本の淡水魚』ISBN 4-635-09021-3<br />
* 森文俊・内山りゅう『淡水魚』山と渓谷社 ISBN 4635060594<br />
* 高村健二 {{PDFlink|[http://www.wdc-jp.biz/pdf_store/isj/publication/pdf/52/5202_02.pdf 日本産ブラックバスにおけるミトコンドリア DNA ハプロタイプの分布]}} 魚類学雑誌 52巻2号<br />
* 滋賀県庁水産課 遊漁の手帖 外来魚を釣って食べよう {{PDFLink|[http://www.pref.shiga.jp/g/suisan/yugyonotecho/p66to68.pdf]}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Wikispecies|Micropterus}}<br />
{{Commonscat|Micropterus}}<br />
* [[ブルーギル]]<br />
* [[ライギョ]]<br />
* [[魚の一覧]]<br />
* [[糸井重里のバス釣りNo.1]]<br />
* [[スーパーブラックバス]]<br />
* [[顎口虫症]]<br />
* [[内水面漁場管理委員会]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.env.go.jp/nature/intro/1outline/list/L-sa-07.html 特定外来生物の解説:オオクチバス &#91;外来生物法&#93;] - 環境省<br />
* [https://web.archive.org/web/20130131233410/http://www.maff.go.jp/tohoku/stinfo/zirei/13no/07/13ak0709_01.html 〜ブラックバスから地域資源を守る〜] - 東北農政局/秋田県・男鹿市(2013年1月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ふらつくはす}}<br />
[[Category:サンフィッシュ科]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[Category:日本の外来種]]<br />
<!--[[Category:特定外来生物]](フロリダバスは指定されていないのでコメントアウト)--><br />
[[Category:釣りの対象魚]]<br />
[[category:淡水魚]]</div>
119.230.24.142
徳川吉宗
2018-07-16T18:12:46Z
<p>119.230.24.142: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2017年7月}}<br />
{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 徳川吉宗<br />
| 画像 = Tokugawa Yoshimune.jpg<br />
| 画像サイズ = 260px<br />
| 画像説明 = 徳川吉宗像([[徳川記念財団]]蔵)<br />
| 時代 = [[江戸時代]]中期<br />
| 生誕 = [[貞享]]元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]([[1684年]][[11月27日]])<br />
| 死没 = [[寛延]]4年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1751年]][[7月12日]])<br />
| 改名 = 松平頼久、頼方、徳川吉宗<br />
| 別名 = 幼名:源六<br />[[仮名 (通称)|通称]]:新之助<br />渾名:米将軍、八十八将軍<br />
| 諡号 =<br />
| 戒名 = 有徳院殿贈正一位大相国(法号)<br />
| 墓所 = [[寛永寺|東叡山寛永寺円頓院]]<br />
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[近衛府|右近衛権少将]]兼[[主税寮|主税頭]]、<br />[[従三位]][[近衛府|左近衛権中将]]<br />[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、[[征夷大将軍]]、<br />[[正二位]][[内大臣]]兼[[近衛府|右近衛大将]]、[[右大臣]]<br />贈[[正一位]][[太政大臣]]<br />
| 幕府 = [[江戸幕府]] 8代[[征夷大将軍]]<br />[[享保]]元年([[1716年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]] - [[延享]]2年([[1745年]])[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]<br />
| 藩 = [[越前国]][[葛野藩]]主、[[紀伊国]][[紀州藩]]主<br />
| 氏族 = [[徳川氏]]([[紀州徳川家]]→[[徳川将軍家]])、[[松平氏|松平贈姓]]<br />
| 父母 = 父:[[徳川光貞]]、母:[[浄円院]]<br />
| 兄弟 = [[徳川綱教|綱教]]、次郎吉、[[徳川頼職|頼職]]、'''吉宗'''、<br />栄姫([[上杉綱憲]]正室)、<br />光姫([[一条冬経]]室)、育姫([[佐竹義苗]]正室)、綱姫<br />
| 妻 = 正室:'''[[理子女王|真宮理子女王]]'''<br />側室:[[深徳院]]、[[深心院]]、<br />[[本徳院]]、[[覚樹院]]、<br />おさめ、お咲、[[#系譜|他]]<br />
| 子 = '''[[徳川家重|家重]]'''、[[徳川宗武|宗武]]、[[徳川源三|源三]]、[[徳川宗尹|宗尹]]、[[正雲院|芳姫]]<br />養女:''[[浄岸院|竹姫]]''、''[[雲松院|利根姫]]''<br />猶子:''[[尊胤入道親王]]''}}<br />
<br />
'''徳川 吉宗'''(とくがわ よしむね)は、[[江戸幕府]]第8代[[征夷大将軍|将軍]]。将軍就任以前は[[越前国]][[葛野藩]]主、[[紀州藩]]第5代藩主を務めた。<br />
<br />
[[徳川御三家]]の[[紀州藩]]第2代藩主・[[徳川光貞]]の四男として生まれる。初代将軍・[[徳川家康]]は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・[[徳川家継]]の死により[[徳川秀忠|秀忠]]の血をひく[[徳川将軍家]]の男系男子が途絶えると、6代将軍[[徳川家宣|家宣]]の正室・[[近衛熙子|天英院]]の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の[[正徳の治]]を改める[[幕政改革]]を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、[[新田開発]]など公共政策、[[公事方御定書]]の制定、市民の意見を取り入れるための[[目安箱]]の設置などの'''[[享保の改革]]'''を実行した。[[徳川家重]]に将軍の座を譲った後も[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから'''米将軍'''(八十八将軍)と呼ばれた。<br />
<br />
この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから[[中興の祖]]と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、[[百姓一揆]]の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
※ 日付は、[[旧暦]]表示。<br />
<br />
=== 出生 ===<br />
[[貞享]]元年([[1684年]])10月21日、[[徳川御三家]]の[[紀州藩]]2代藩主・[[徳川光貞]]の四男として生まれる(次兄は早世しているため三男と数えられることもある)。母は[[紀州徳川家]]の召し使いで[[巨勢利清|巨勢六左衛門(利清)]]の娘・[[浄円院]](於由利の方)。[[和歌山城]]の[[大奥]]の湯殿番であった於由利の方は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある{{refnest|group="注釈"|[[ABO式血液型|血液型]]は、[[徳川家綱]]と同じO型だったとされている<ref>得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁</ref>。}}。幼年は[[家老]]の元で育てられ、兄の次郎吉が病死した後は名を'''新之助'''と改めて江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は、手に負えないほどの暴れん坊だった。<br />
<br />
=== 越前葛野藩主 ===<br />
[[ファイル:Tokugawa-Yoshimune statue Wakayama.jpg|thumb|240px|騎乗像(和歌山市)]]<br />
[[元禄]]10年([[1697年]])、14歳で第5代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]に[[御目見]]し、[[越前国]][[丹生郡]]3万石を賜り、[[葛野藩]]主となる。またこれを機に名を(松平)'''頼久'''(よりひさ)から'''頼方'''(よりまさ)と改めた。<br />
<br />
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えていたが、老中・[[大久保忠朝]]の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩は実際には家臣を和歌山から送って統治するだけで、頼方は[[和歌山城]]下に留まっていたと言われている。<br />
<br />
=== 紀州藩主 ===<br />
[[宝永]]2年([[1705年]])に長兄・[[徳川綱教|綱教]](紀州藩第3代藩主)が死去し、三兄・[[徳川頼職|頼職]]が跡を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州徳川家を相続し、第5代藩主に就任する。藩主に就任する際、将軍・綱吉から[[偏諱]]を授かり、(徳川)'''吉宗'''と改名する。<br />
<br />
宝永3年([[1706年]])に二品親王[[伏見宮貞致親王]]の娘・[[理子女王|真宮理子女王]]を簾中(正室)に迎えているが、宝永7年([[1710年]])に死別した。<br />
<br />
宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は、[[藩政改革]]に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、[[藩札]]の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害(1707年[[宝永地震]])の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に[[目安箱|訴訟箱]]を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。<br />
<br />
紀州藩主時代には、女中との間に長男・長福丸(のちの[[徳川家重]])、二男・小次郎(のちの[[田安宗武]])が生まれている。<br />
<br />
紀州藩主としての治世は10年6か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国3回、紀州在国の通算は2年4か月であった<ref>[[小山誉城]]「紀州徳川家の参勤交代」(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年)</ref>。<br />
<br />
=== 8代将軍就任 ===<br />
[[享保]]元年([[1716年]])に第7代将軍・[[徳川家継]]が8歳で早世し、[[徳川将軍家]]の血筋([[徳川家康]]の三男・[[徳川秀忠]]の男系男子)が絶えた後を受け、[[徳川御三家|御三家]]の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任した、と一般的には説明されている。<br />
<br />
実際には、[[館林藩]]主で家継の叔父に当たる[[松平清武]]という、秀忠の男系子孫が存在していた<ref group="注釈">秀忠の男系子孫には他に[[保科正之]]に始まる[[会津松平家]]があり、[[松平容衆]]まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。</ref>。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、本人もひとたび他家に養子に出た身であり、すでに高齢で男子がいなかった事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている。<br />
<br />
御三家の中では[[尾張徳川家|尾張家]]の当主、4代藩主[[徳川吉通]]とその子の5代藩主[[徳川五郎太|五郎太]]は、相次いで死去した<ref group="注釈">このことや紀州藩主の相次ぐ死を、吉宗による陰謀・暗殺とする説もあるが、憶測にすぎない。</ref>。そのため吉通の異母弟[[徳川継友|継友]]が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己<ref group="注釈">[[徳川家宣]]の正室・[[近衛熙子|天英院]]の姪であり、2代将軍[[徳川秀忠]]の娘[[徳川和子|和子]]の玄孫でもある。また姉の[[近衛尚子|尚子]]は後に[[中御門天皇]]の女御として[[桜町天皇]]を産んでいる。</ref>と婚約し、しかも[[間部詮房]]や[[新井白石]]らによって引き立てられており{{refnest|group="注釈"|[[御連枝]]として独立もしていないのに異例の左近衛権少将に昇進している<ref>『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実記』より。</ref>。}}、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、[[近衛熙子|天英院]]や家継の生母・[[月光院]]など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。<br />
<br />
吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、5代将軍・徳川綱吉の[[館林藩]]・[[館林徳川家|館林家]]、6代将軍・徳川家宣の[[甲府藩]]・[[甲府徳川家|甲府家]]は、当主が将軍の継嗣として[[江戸城]]に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は[[幕臣]]となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の[[徳川宗直]]に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから[[加納久通]]・[[有馬氏倫]]ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで[[江戸城]]に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま連れて来ているという<ref>[[福留真紀]] 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)</ref>。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた[[譜代大名]]や[[旗本]]から好感を持って迎えられた。<br />
<br />
'''徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)'''(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)<br />
<br />
權大納言源朝臣吉宗<br />
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣<br />
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者<br />
享保元年七月十八日<br />
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉<br />
<br />
(訓読文) <br />
権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)<br />
左少弁藤原朝臣頼胤([[葉室頼胤]]、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清([[坊城俊清]]、従二位)宣(の)る<br />
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)<br />
享保元年(1716年)7月18日<br />
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘([[壬生章弘]]、従四位下)奉(うけたまは)る、<br />
<br />
※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。<br />
<br />
=== 享保の改革 ===<br />
{{main|享保の改革}}<br />
将軍に就任すると、第6代将軍・[[徳川家宣]]の代からの[[側用人]]であった[[間部詮房]]や[[新井白石]]を罷免したが、新たに[[御側御用取次]]という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。<br />
<br />
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、[[水野忠之]]を[[老中]]に任命して財政再建を始める。[[定免法]]や[[上米の制|上米令]]による幕府財政収入の安定化、[[新田開発]]の推進、[[足高の制]]の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる[[大岡忠相]]の登用、また訴訟のスピードアップのため[[公事方御定書]]を制定しての司法制度改革、江戸[[町火消し]]を設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである[[享保の改革]]を行った。また、大奥の整備、[[目安箱]]の設置による庶民の意見を政治へ反映、[[小石川養生所]]を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの[[蘭学]]興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。一方で、年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、[[一揆|百姓一揆]]の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。<br />
<br />
この当時、[[近松門左衛門]]の[[人形浄瑠璃]]の影響で流行した[[心中]]を抑制するために、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所でさらしものにさせる、といったことも行っている。<br />
<br />
=== 大御所 ===<br />
[[延享]]2年([[1745年]])9月25日、将軍職を長男・[[徳川家重|家重]]に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・[[徳川宗武|宗武]]や四男・[[徳川宗尹|宗尹]]を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。<br />
<br />
宗武、宗尹は養子には出さず、部屋住みのような形で江戸城内に留めたまま別家に取り立て、[[田安徳川家|田安家]]、[[一橋徳川家|一橋家]](両卿)が創設された(吉宗の死後に[[清水徳川家|清水家]]が創設されて[[御三卿]]となった)。<br />
<br />
しかし、翌延享3年([[1746年]])に[[中風]]を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った<ref name="yoshimune1">小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』</ref><ref name="yoshimune2">[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月9日]]放送)でも紹介された。</ref>。御側御用取次であった[[小笠原政登]]によると[[朝鮮通信使]]が来日した時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」という[[スロープ]]・横木付きの[[バリアフリー]]の階段を作って、通信使の芸当の一つである[[サーカス|曲馬]]を楽しんだという<ref name="yoshimune1"/>。また小笠原と共に吉宗も[[リハビリ]]に励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した<ref name="yoshimune1"/>。<br />
<br />
将軍引退から6年が経った[[寛延]]4年([[1751年]])6月20日に死去した。[[享年]]68(満66歳没)。死因は再発性[[脳卒中]]と言われている<ref name="yoshimune2"/>。<br />
<br />
'''徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨)''' 「兼胤公記」<br />
<br />
故右大臣正二位源朝臣<br />
正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣<br />
奉 勅件人宜令贈任太政大臣者<br />
寛延四年後六月十日<br />
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉<br />
<br />
(訓読文)<br />
故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)<br />
正二位行權大納言藤原朝臣栄親([[中山栄親]])宣(の)る<br />
勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)<br />
寛延4年(1751年)後(閏)6月10日<br />
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充([[押小路師充]]、従五位上)奉(うけたまは)る<br />
<br />
[[寛永寺]]([[東京都]][[台東区]][[上野桜木]]一丁目)に葬られている。<br />
<br />
=== 趣味・嗜好 ===<br />
*養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、[[関口柔心]]の流れをくむ「[[新心流]]」の[[拳法]]([[柔術]])で体を作り、 [[鷹狩]]で運動不足を解消していた<ref name="miyamoto">[[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)</ref>。<br />
*[[松平明矩]]が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『[[延喜式]]』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた<ref name="miyamoto" />。<br />
* [[狩野常信]]の師事を受けており、常信の孫・[[狩野古信]]に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「[[にじみ鷹]]」の技法を編み出している。<br />
* 室町時代から伝統的に武家に好まれた[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた[[南宋]]時代の[[画僧]]・[[牧谿]]筆の[[瀟湘八景]]図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・[[沈南蘋]]が来日し、その画風は後の近世絵画に大きな影響を与えた。<br />
* 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り[[洋書]]の輸入を解禁とした。これにより、[[長崎]]を中心に[[蘭学]]ブームが起こった。<br />
* また享保13年([[1728年]])6月には、自ら注文して[[ベトナム]]から[[ゾウ|象]]を輸入し、長崎から[[江戸]]まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった。<br />
<br />
=== 政策・信条 ===<br />
==== 方針 ====<br />
* 吉宗は将軍就任後、[[新井白石]]らの手による「[[正徳の治]]」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。<br />
* 一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・[[徳川綱吉|綱吉]]を尊敬し、綱吉が定めた「[[生類憐れみの令]]」を即日廃止した第6代将軍・[[徳川家宣|家宣]]を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた[[犬追物]]、[[鷹狩]]の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。<br />
* 江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として[[飛鳥山公園|飛鳥山]]や[[隅田川]]堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。<br />
<br />
==== 倹約 ====<br />
* 肌着は[[木綿]]と決めて、それ以外のものは着用せず、[[鷹狩]]の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた<ref>宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)</ref>。<br />
* 吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として[[吹上御殿]]を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。<br />
<br />
==== 経済 ====<br />
* 江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、[[上米の制]]、[[定免法]]、[[新田|新田開発]]などの米政策を実行したことによって吉宗は「'''米将軍'''」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」とも呼ばれた。<br />
** 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。<br />
* [[商品作物]]や[[酪農]]などの新しい農業を推奨した。それまで[[清|清国]]からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えて[[サトウキビ]]の栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが[[和三盆]]である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物として[[サツマイモ]]の栽培を全国に奨励した。<br />
* 御三家筆頭[[尾張徳川家|尾張家]]の[[徳川宗春]]は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した<ref group="注釈">御三家筆頭の尾張藩と、ナンバー2の紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の[[徳川継友|継友]])と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される<ref name="jikki">『[[徳川実紀]]』</ref>。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。}}。尾張藩家老[[竹腰正武]]らは宗春の失脚を企て、同じく[[成瀬正泰]]は尾張家の存続を第一と考えたため<ref>NHK『[[その時歴史が動いた]]』2008年9月17日放送</ref>、宗春は隠居謹慎の上、[[閉門]]を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった<ref group="注釈">[[1764年]]に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。</ref>{{refnest|group="注釈"|吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている<ref>『尾公口授』江戸時代写本</ref>。}}。また、[[高尾太夫]]を落籍し、華美な遊興で知られた[[榊原政岑]]も処罰するなど<ref group="注釈">前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。</ref>、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。<br />
** 近年のテレビドラマや小説などのフィクションでは、吉宗の緊縮経済政策と宗春の自由経済政策が対比されることが多い。<br />
** しかし、後述の改鋳と共に幕府は金融緩和政策を行ったが、尾張藩は藩内の風紀が乱れたとして倹約政策を打ち出すなど、どちらの政策も単純な視点で捉えることはできないはずであるが、双方の政策は極単純な比較・構図で捉えられがちである。<br />
* [[元文]]元年(1736年)に行われた[[元文小判|元文の改鋳]]は、日本経済に好影響をもたらした数少ない[[改鋳]]であるとして、積極的に評価されている<ref>[http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/19990209012834/http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm |date=1999年2月9日 }}</ref>。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。<br />
* 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの[[寛政の改革]]、[[天保の改革]]などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。<br />
<br />
==== 保安 ====<br />
* 紀州藩の基幹産業の一つである[[捕鯨]]との関わりも深く、[[熊野灘|熊野]]の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を[[1702年]](元禄15年)と[[1710年]](宝永7年)に紀州熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から[[和歌山城]]まで[[狼煙]]を使った海上保安の連絡網を設けていた。<br />
* 将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、[[江戸湾]]へ流出した河川荷役、[[塵芥]]の回収に、[[鯨舟]](古式捕鯨の[[和船]])を使い、「[[捕鯨文化#救命掃海艇|鯨船鞘廻御用]]」という役職を設けて海上保安に努めた。<br />
* 将軍として初めて「[[御庭番]]」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた<ref group="注釈">誇大に語られる御庭番だが、実態としては[[大目付]]や[[目付]]を補う、小回りの利く将軍直属の[[監察官]]や[[秘書官]]に近い。</ref>。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* 紀州藩主時代には、隣接地であるため係争の発生しやすい[[伊勢国|伊勢]]の[[山田奉行]]を[[大岡忠相]]が務めており、両者を関係付ける逸話が存在する。<br />
*[[2012年]](平成24年)、[[徳川記念財団]]が所蔵している歴代将軍の[[肖像画]]の[[紙形]](下絵)が公開された<ref>[http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む]:朝日新聞2012年8月8日</ref><ref>[http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/b62fe5049e2da6ae0d5eef78030a7817 鶴は千年、亀は萬年。] 2012年8月8日付</ref>。その中には絹本着色本の吉宗像も含まれていた。<br />
*一説によると6尺(180cm)の身長であったともいうがこれは定かではなく誇張とされる。尚、当時日本の平均身長は155cm。<br />
<br />
== 年表 ==<br />
{{Main2|享保の改革に関する年表は[[享保の改革]]を}}<br />
{| class=wikitable width="100%"<br />
|-<br />
!年月日(月日は[[旧暦]])<br />
!事柄<!--内容は簡潔に記してください--><br />
!style="width:4em;"|出典<br />
|-<br />
|nowrap|[[貞享]]元年([[1684年]])10月21日<br />
|紀州徳川家藩主徳川光貞の四男として生まれる。<br />
|<br />
|-<br />
|[[元禄]]9年([[1696年]])12月11日<br />
|従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任官。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。<br />
|<br />
|-<br />
|元禄10年([[1697年]])4月11日<br />
|五代将軍綱吉が紀州藩邸を訪れ、その際に越前葛野藩3万石藩主となる(後に1万石加増)。<br />
|<br />
|-<br />
|[[宝永]]2年([[1705年]])10月6日<br />
|紀州徳川家5代藩主就任<br />
|<br />
|-<br />
|同年12月1日<br />
|従三位左近衛権中将に昇叙転任。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。<br />
|<br />
|-<br />
|宝永3年([[1706年]])11月26日<br />
|参議に補任し、左近衛権中将如元。<br />
|<br />
|-<br />
|宝永4年([[1707年]])12月18日<br />
|権中納言に転任。<br />
|<br />
|-<br />
|[[正徳 (日本)|正徳]]6年([[1716年]])4月30日<br />
|将軍後見役就任<br />
|<br />
|-<br />
|[[享保]]元年([[1716年]])7月13日<br />
|正二位に昇叙し、権大納言に転任<br />
|<br />
|-<br />
|享保元年(1716年)7月18日<br />
|[[征夷大将軍]]・[[源氏長者]]宣下。内大臣兼右近衛大将に転任。<br />
|<br />
|-<br />
|[[寛保]]元年([[1742年]])8月7日<br />
|右大臣に転任。<br />
|<br />
|-<br />
|[[延享]]2年([[1745年]])9月25日<br />
|征夷大将軍辞職<br />
|<br />
|-<br />
|[[寛延]]4年([[1751年]])6月20日<br />
|薨去<br />
|<br />
|-<br />
|同年閏6月10日<br />
|贈[[正一位]][[太政大臣]]<br />
|<br />
|}<br />
<br />
== 系譜 ==<br />
* 父:[[徳川光貞]](紀州徳川家2代)<br />
* 母(側室):お由利の方([[浄円院]]) 紀州藩士・巨勢利清の娘と伝えられる他、百姓の娘であるという説など多数。<br />
* 兄弟<br />
** [[徳川綱教]]:紀州徳川家3代<br />
** [[徳川頼職]]:紀州徳川家4代<br />
** 光姫:[[一条兼輝]]室<br />
** 栄姫:[[上杉綱憲]]室<br />
** 育姫:[[佐竹義苗]]室<br />
<br />
* 正室:[[理子女王|真宮理子]]([[伏見宮]]貞致親王)<br />
* 側室:須磨([[深徳院]])<br />
** 長男・[[徳川家重]](9代将軍)<br />
* 側室:古牟([[本徳院]])<br />
** 二男・[[徳川宗武]](田安宗武、田安徳川家初代)<br />
* 側室:梅([[深心院]])<br />
** 三男・[[徳川源三|源三]]<br />
** 四男・[[徳川宗尹]](一橋宗尹、一橋徳川家初代)<br />
* 側室:久免([[覚樹院]])<br />
** 長女・[[正雲院|芳姫]](正雲院)<br />
* 側室:おさめ<br />
* 側室:お咲<br />
* 養子<br />
** [[浄岸院|竹姫]](浄岸院):[[島津継豊]]室(権大納言[[清閑寺熈定]]娘)<br />
** [[雲松院|利根姫]](雲松院):[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]室(紀州徳川家[[徳川宗直]]娘)<br />
** [[尊胤入道親王]]([[霊元天皇]]第18皇子)<br />
* 孫<br />
** [[徳川家治]](10代将軍)<br />
** [[徳川重好|清水重好]](家治の実弟、清水徳川家初代)<br />
** [[徳川治察|田安治察]](田安徳川家2代)<br />
** [[松平定信]](治察の実弟、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主、[[老中]]となり[[寛政の改革]]を行ったことで著名)<br />
** [[黒田治之]](一橋宗尹父、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]主、[[黒田継高]]の養子となり七代目福岡藩主)<br />
** [[徳川治済|一橋治済]](一橋徳川家2代、11代将軍[[徳川家斉]]の実父)<br />
<br />
== 偏諱を受けた人物 ==<br />
'''吉宗時代'''(将軍在職時/「宗」の字)<br />
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* [[二条宗熙|二条'''宗'''熙]]<br />
* [[二条宗基|二条'''宗'''基]]<br />
* [[徳川宗武|徳川'''宗'''武]](次男、田安家祖)<br />
* [[徳川宗尹|徳川'''宗'''尹]](四男、一橋家祖)<br />
* [[徳川宗春|徳川'''宗'''春]]<br />
* [[徳川宗勝|徳川'''宗'''勝]]<br />
* [[徳川宗睦|徳川'''宗'''睦]]<br />
* [[徳川宗直|徳川'''宗'''直]](養子、紀伊藩継嗣)<br />
* [[徳川宗将|徳川'''宗'''将]]<br />
* [[徳川宗堯|徳川'''宗'''堯]]<br />
* [[徳川宗翰|徳川'''宗'''翰]]<br />
* [[松平宗昌|松平'''宗'''昌]]<br />
* [[松平宗矩|松平'''宗'''矩]]<br />
* [[松平宗衍|松平'''宗'''衍]]<br />
* [[上杉宗憲|上杉'''宗'''憲]]<br />
* [[上杉宗房|上杉'''宗'''房]]<br />
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達'''宗'''村]]<br />
* [[前田宗辰|前田'''宗'''辰]]<br />
* [[池田宗政|池田'''宗'''政]]<br />
* [[池田宗泰|池田'''宗'''泰]]<br />
* [[浅野宗恒|浅野'''宗'''恒]]<br />
* [[毛利宗広|毛利'''宗'''広]]<br />
* [[毛利宗元|毛利'''宗'''元]]<br />
* [[蜂須賀宗員|蜂須賀'''宗'''員]]<br />
* [[蜂須賀宗英|蜂須賀'''宗'''英]]<br />
* [[蜂須賀宗純|蜂須賀'''宗'''純]]<br />
* [[蜂須賀宗鎮|蜂須賀'''宗'''鎮]]<br />
* [[鍋島宗茂|鍋島'''宗'''茂]]<br />
* [[鍋島宗教|鍋島'''宗'''教]]<br />
* [[細川宗孝|細川'''宗'''孝]]<br />
* [[島津宗信|島津'''宗'''信]]<br />
</div>{{clear|left}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Notelist}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons|Category:Tokugawa Yoshimune|徳川吉宗 }} <br />
* [[天一坊事件]]<br />
* [[幕政改革]]<br />
* [[捕鯨]]<br />
* [[捕鯨文化]]<br />
* [[徳川宗春]]<br />
* [[蘭学]]<br />
* [[巨勢氏]](吉宗の母である浄円院の実家と言われている。)<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--><br />
; 小説<br />
* [[大わらんじの男]](1994-95年、日本経済新聞社 著者:[[津本陽]])<br />
; 映画<br />
* [[大奥 (2010年の映画)|大奥〈男女逆転〉]](2010年、演:[[柴咲コウ]])<br />
; テレビドラマ<br />
* [[男は度胸]](1970年~1971年、演:[[浜畑賢吉]])<br />
* [[暴れん坊将軍]](1978年~2003年・2004年・2008年、演:[[松平健]])<br />
* [[徳川風雲録 御三家の野望]](1986年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]] 演:[[北大路欣也]])<br />
* [[八代将軍吉宗]](1995年[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[西田敏行]]。幼年~少年時代は[[青柳翔]]→[[尾上松也 (2代目)|尾上松也]]→[[阪本浩之]])<br />
* [[徳川風雲録 八代将軍吉宗]](2008年、テレビ東京新春ワイド時代劇 演:[[中村雅俊]])<br />
; パチスロ<br />
* [[吉宗]](2006年~:[[大都技研]])<br />
; アニメ<br />
* [[吉宗 (パチスロ)|吉宗]](2008年・2013年、声:[[檜山修之]])<br />
; 落語<br />
* [[紀州 (落語)|紀州]]<br />
; 漫画<br />
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]])<br />
; 舞台<br />
*[[星逢一夜]] (2015年、演 ︰[[英真なおき]])<br />
{{江戸幕府将軍}}<br />
{{徳川氏歴代当主||第8代}}<br />
{{紀州徳川家|||第5代}}<br />
{{葛野藩主||初代:1697年 - 1705年}}<br />
{{紀州藩主|紀州徳川家|第5代|1705年 - 1716年}}<br />
{{征夷大将軍|1716年 - 1745年}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{Portal bar|日本|和歌山県|歴史|江戸|人物伝}}<br />
{{DEFAULTSORT:とくかわ よしむね}}<br />
[[Category:徳川吉宗|*]]<br />
[[Category:紀州連枝松平氏|よしむね]]<br />
[[Category:紀州徳川氏|よしむね]]<br />
[[Category:徳川氏|よしむね]]<br />
[[Category:江戸幕府の征夷大将軍|よしむね]]<br />
[[Category:親藩]]<br />
[[Category:紀州藩主|よしむね]]<br />
[[Category:越前国の藩主]]<br />
[[Category:日本の財政家]]<br />
[[Category:1684年生]]<br />
[[Category:1751年没]]</div>
119.230.24.142
平賀源内
2018-07-11T13:46:42Z
<p>119.230.24.142: /* 人物と業績 */</p>
<hr />
<div>[[File:A Portrait of Kyūkei Hiraga cropped.jpg|thumb|250px|「平賀鳩渓肖像」<br />
----<br />
{{small|木村黙老著『戯作者考補遺』(写本)より[http://www.mita.lib.keio.ac.jp/collection/rarebook/hiragagennai.html]。黙老は[[高松藩]]の家老で、源内の死から六十五年を経た[[弘化]]2年 (1845年) に源内と親交があった祖父や源内をよく知る古老の話などをもとにしてこの肖像を描いた。[[慶應義塾図書館]]所蔵。}}]]<br />
'''平賀 源内'''(ひらが げんない、[[享保]]13年([[1728年]]) - [[安永]]8年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1780年]][[1月24日]]))は、[[江戸時代]]中頃の人物。[[本草学者]]、[[地質学者]]、[[蘭学者]]、[[医者]]、[[殖産興業|殖産事業家]]、[[戯作者]]、[[作者 (曖昧さ回避)|浄瑠璃作者]]、[[俳人]]、[[画家|蘭画家]]、[[発明家]]として知られる。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
'''源内'''は通称で、'''元内'''とも書いた。[[諱]]は'''国倫'''(くにとも)<ref name="oda2001p191">{{Harvnb|小田|2001|p=191}}</ref>、[[字]]は'''子彝'''(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、[[号 (称号)|画号]]の'''鳩渓'''(きゅうけい)、[[俳号]]の'''李山'''(りざん)をはじめ、[[戯作者]]としては'''風来山人'''(ふうらいさん じん)<ref name="oda2001p191" />、浄瑠璃作者としては'''福内鬼外'''(ふくうち きがい)<ref name="oda2001p191" />の[[筆名]]を用い、殖産事業家としては'''天竺浪人'''(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には'''貧家銭内'''(ひんか ぜにない)<ref>{{Citation | 和書 | ref = none | title = 結果が出る発想法 アイデアはいかにして生まれるのか | author = 逢沢明 | publisher = PHP研究所 | year = 2008 | isbn = 9784569697710 | page=29}}</ref>などといった別名でも知られていた。<br />
[[File:Elekiter replica.jpg|thumb|240px|right|平賀源内作のエレキテル(複製)。[[国立科学博物館]]の展示。]]<br />
[[讃岐国]][[寒川郡 (香川県)|寒川郡]]志度浦<ref name="oda2001p188" />(現在の[[香川県]][[さぬき市]][[志度]])の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門<ref name="oda2001p188">{{Harvnb|小田|2001|p=188}}</ref>(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐[[高松藩]]の[[足軽]]身分の家で、元々は[[信濃国]][[佐久郡]]の豪族([[信濃源氏]][[大井氏]]流平賀氏)だったが、『[[甲陽軍鑑]]』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に[[平賀玄信]]の代に[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信虎]]による侵攻を受け、佐久郡[[海ノ口城]]において滅ぼされた。後に平賀氏は[[陸奥国|奥州]]の[[白石市|白石]]に移り[[伊達氏]]に仕え白石姓に改め、さらに[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]に従い四国へ下り、讃岐で帰農した[[伝承]]がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。<br />
<br />
幼少の頃には[[掛け軸]]に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で[[本草学]]を学び、[[儒教|儒学]]を学ぶ。また、[[俳諧]]グループに属して俳諧なども行う。寛延元年([[1748年]])に父の死により後役として藩の蔵番となる<ref name="oda2001p190">{{Harvnb|小田|2001|p=190}}</ref>。[[宝暦]]2年([[1752年]])頃に1年間[[長崎市|長崎]]へ遊学し、本草学と[[オランダ語]]、[[医学]]、[[油絵]]などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に[[婿養子]]を迎えさせて家督を放棄する。 <br />
<br />
[[大坂]]、[[京都]]で学び、さらに宝暦6年([[1756年]])には[[江戸]]に出て本草学者[[田村元雄]](藍水)に弟子入りして本草学を学び、[[漢学]]を習得するために[[林家 (儒学者)|林家]]にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年([[1761年]])には[[伊豆国|伊豆]]で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府[[老中]]の[[田沼意次]]にも知られるようになる。宝暦9年([[1759年]])には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する<ref name="oda2001p190" />。このとき「仕官お構い」([[奉公構]])となり<ref>さぬき市文化財保護協会志度支部 - [http://ew.sanuki.ne.jp/snkbunka/sido/gennai.html 平賀源内記念館と平賀源内旧邸] 2013年2月9日閲覧</ref>、以後、[[幕臣]]への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年([[1762年]])には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の[[湯島]]にて開催する。江戸においては知名度も上がり、[[杉田玄白]]や[[中川淳庵]]らと交友する。<br />
<br />
宝暦13年([[1763年]])には『[[物類品隲]]』(ぶつるいひんしつ)を刊行<ref name="oda2001p191" />。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、[[談義本]]の類を執筆する。[[明和]]年間には産業起業的な活動も行った。明和3年([[1766年]])から[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]の[[秋元凉朝]]の依頼で[[奥秩父山塊|奥秩父]]の川越藩秩父大滝(現在の[[秩父市]]大滝)の[[中津川 (埼玉県)|中津川]]で鉱山開発を行い、[[石綿]]などを発見した(現在の[[秩父鉱山|ニッチツ秩父鉱山]])。[[秩父地方|秩父]]における炭焼、[[荒川 (関東)|荒川]]通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の[[中津峡 (埼玉県)|中津峡]]付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「[[源内居]]」として残っている。[[安永]]2年([[1773年]])には[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]の[[佐竹義敦]]に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士[[小田野直武]]に蘭画の技法を伝える。<br />
<br />
安永5年([[1776年]])には長崎で手に入れた[[エレキテル]](静電気発生機)を修理して復元する。<br />
<br />
安永8年([[1779年]])夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に[[破傷風]]により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の[[平秩東作]]ともされている。[[享年]]52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷[[高松藩]](旧主である[[高松松平家]])の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。<br />
<br />
== 墓所 ==<br />
[[File:Hirara Gennai grave in Shido.JPG|thumb|200px|平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。]]<br />
[[戒名]]は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都[[台東区]]橋場)にあった[[総泉寺]]に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に[[松平頼寿]]により築地塀が整備され、[[1943年]](昭和18年)に国の[[史跡]]に指定された。<br />
<br />
{{quotation|平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)<br />
:「''嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常'' 」<br />
::(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)<br />
::(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか}}<br />
<br />
また故郷のさぬき市志度の[[志度寺#塔頭寺院|自性院]](平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。<br />
<br />
一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる[[両墓制]])といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。<br />
<br />
== 人物と業績 ==<br />
* 天才、または異才の人と称される。[[鎖国]]を行っていた当時の日本で、蘭学者として[[油絵]]や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても[[戯作]]の開祖とされ、[[人形浄瑠璃]]などに多くの作品を残した。また[[源内焼]]などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。<br />
* [[男色]]家であったため、生涯にわたって妻帯せず、[[歌舞伎]]役者らを贔屓にして愛したという。わけても、[[瀬川菊之丞 (2代目)|二代目瀬川菊之丞]](瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。<br />
* 『[[解体新書]]』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『[[蘭学事始]]』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。<br />
* 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置[[エレキテル]]の紹介、[[火浣布]]<ref name="oda2001p191" />の開発がある。一説には[[竹とんぼ]]の発明者ともいわれ、これを史上初の[[プロペラ]]とする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該当項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。<br />
* エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという<ref>{{Citation | 和書 | ref = none | title = 戦いの哲学勝利の条件 | author = 二宮隆雄 | publisher = PHP研究所 | year = 2008 | isbn = 9784569669915 | page = 294}}</ref>。<br />
* [[土用の丑の日]]に[[ウナギ]]を食べる風習は、源内が発祥との説がある<ref name="oda2001p191" />。ただし[[大伴家持]]が発祥ともいわれている。また[[明和]]6年([[1769年]])には[[コマーシャルソング|CMソング]]とされる[[歯磨剤|歯磨き粉]]『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、[[安永]]4年([[1775年]])には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本における[[コピーライター]]のはしりとも評される。<br />
* [[浄瑠璃]]作者としては福内鬼外の筆名で執筆<ref name="oda2001p191" />。[[時代物]]を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、[[世話物]]の要素が加わっていると評価される。江戸に[[狂歌]]が流行するきっかけとなった[[大田南畝]]の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で<ref name="oda2001p191" />、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの[[春本]]まで残している。[[衆道]]関連の著作として、水虎山人名義により [[1764年]]([[明和]]元年)に『菊の園』、[[安永]]4年([[1775年]])に『男色細見』の[[陰間茶屋]]案内書を著わした。<br />
* [[鈴木春信]]と共に絵暦交換会を催し、[[浮世絵]]の隆盛に一役買った他、[[博覧会]]の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。<br />
* 文章の「[[起承転結]]」を説明する際によく使われる、「''京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す'' 」の作者との説がある。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
=== 本草学及び工芸 ===<br />
[[File:Butsurui Hinshitsu.jpg|thumb|300px|right|『物類品隲』 宝暦13年(1763年)刊。[[国立科学博物館]]の展示。]]<br />
* 『物類品隲』 - 全六巻。宝暦13年7月刊行。<br />
* 『番椒譜』 - 稿本。年代不明。<br />
<br />
=== 戯作 ===<br />
* 『根南志具佐』 - 宝暦13年10月刊行。<br />
* 『根無草後編』 - 明和6年(1769年)正月刊行。<br />
* 『風流志道軒伝』 - 宝暦13年11月刊行。[[講釈師]]の[[深井志道軒]]を[[主人公]]としたもの。<br />
* 『風来六部集』<br />
* 『風来六部集後編』<br />
<br />
=== 義太夫浄瑠璃 ===<br />
* 『[[神霊矢口渡]]』 - 明和7年正月、江戸外記座初演。<br />
* 『源氏大草紙』 - 明和7年8月、江戸肥前座初演。<br />
* 『弓勢智勇湊』 - 明和8年正月、江戸肥前座初演。吉田仲治補助。<br />
* 『嫩榕葉相生源氏』 - 安永2年(1773年)4月、江戸肥前座初演。<br />
* 『前太平記古跡鑑』 - 安永3年正月、江戸結城座初演。<br />
* 『忠臣伊呂波実記』 - 安永4年7月、江戸肥前座初演。<br />
* 『荒御霊新田新徳』 - 安永8年2月、江戸結城座初演。[[森島中良|森羅万象]]、浪花の二一天作を補助とす。<br />
* 『霊験宮戸川』 - 安永9年3月、江戸肥前座初演。源内没後の上演。<br />
* 『実生源氏金王桜』 - 未完作。[[寛政]]11年(1799年)正月、江戸肥前座で上演。<br />
<br />
=== 絵画 ===<br />
* 「黒奴を伴う赤服蘭人図」<br />
* 「西洋婦人図」([[神戸市立博物館]])<br />
<br />
== 史料・研究 ==<br />
; 史料<br />
* 『源内実記』<br />
* 平賀源内先生顕彰会編 『平賀源内全集』上・下(名著刊行会、1970年)<br />
* 『風来山人集』(『日本古典文学大系』55 岩波書店、1961年)<br />
; 研究<br />
* 『讃岐偉人平賀源内翁』<br />
* [[森銑三]] 『平賀源内研究』<br />
* [[城福勇]] 『平賀源内』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1971年)<br />
* 城福勇 『平賀源内の研究』(創元社、1976年)<br />
<br />
== 関連施設・行事等 ==<br />
[[画像:Hiraga Gennai seishi01s2040.jpg|thumb|200px|平賀源内[[生祠]]([[鞆町]])]]<br />
* [http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20080301000102 平賀源内記念館]、平賀源内先生遺品館 - 香川県さぬき市志度<br />
*: 発明品や著作物、杉田玄白と源内の書簡などが展示されている。また、平賀源内記念館が2009年3月22日にオープンし、平賀源内祭りの会場。場所はJR志度駅から徒歩5分。<br />
* 平賀源内墓 - [[東京都]]台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地<br />
*: 1943年、国の[[史跡]]に指定<br />
*: 敷地内には、従僕であった福助の墓もある。<br />
* 平賀源内先生の墓 - 香川県さぬき市志度 微雲窟 自性院<br />
*: 同院は平賀家の菩提寺であり、墓は義弟である平賀権太夫の建立とされる。<br />
*: 毎年12月には、法要がとり行われる。<br />
* 平賀源内[[生祠]] - [[広島県]][[福山市]][[鞆の浦]] [[広島県指定文化財一覧|広島県指定史跡]]<br />
* 源内賞<br />
*: 平賀源内の偉業をたたえて発明工夫を振興する基金を、エレキテル尾崎財団が1994年に寄贈。この基金を基に、香川県さぬき市(旧志度町)とエレキテル尾崎財団とが、四国内の科学研究者を授賞対象とする源内賞、奨励賞を設定し、毎年3月に表彰。<br />
* [[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]](2003年11月29日 - 2004年1月18日)、[[東北歴史博物館]](2004年2月14日 - 3月21日)、[[岡崎市美術博物館]](2004年4月3日 - 5月9日)、[[福岡市博物館]](2004年5月27日 - 7月4日)、[[香川県歴史博物館]](2004年7月17日 - 8月29日)に「平賀源内展」が開催された。エレキテル等の復元品も展示された。<br />
<br />
== 平賀源内をモデルとした創作 ==<br />
=== テレビ ===<br />
* 『[[天下御免]]』([[1971年]]、[[日本放送協会|NHK]]、源内役:[[山口崇]])<br />
*: 現代を[[江戸時代]]に置き換え、平賀源内を案内役として話を進め、風刺的な要素を含んでいた。杉田玄白役は[[坂本九]]。<br />
* 『[[キカイダー01]]』第36話「四次元の怪 恐怖のタイム旅行」([[1973年]]、[[テレビ朝日|NET]]、[[石ノ森章太郎]]原作、源内役:[[野々浩介]])<br />
*: 悪の組織シャドウが平賀源内の誘拐を画策してタイムトンネルで江戸時代に移り、01とビジンダーがこれを追って食い止める話がある。舞台は源内がエレキテルを復元した[[1776年]]頃である。<br />
* 『[[鳴門秘帖]]』([[1977年]]、[[日本放送協会|NHK]]、源内役:山口崇)<br />
*: 吉川英治の原作のテレビドラマ化。劇中、ローソクを熱源に、和紙とコンニャクで作ったミニチュアの気球を源内が飛ばしているシーンがある。<br />
* 『[[桃太郎侍]]』([[1981年]]、[[日本テレビ]] 源内役:[[犬塚弘]])<br />
*: 第226話「エレキを食った鬼二匹」にゲストとして登場した。<br />
* 『[[服部半蔵 影の軍団#影の軍団II|影の軍団II]]』([[1981年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]] 源内役:[[山村聰]])<br />
*: [[徳川家重]]の時代の末期、[[1760年]]頃が舞台。源内は主人公の伊賀忍者グループに科学面で協力する役どころだった。また、上記の『キカイダー01』と『影の軍団II』の両方で[[志穂美悦子]]が出演しており、作品で源内と関わっている。<br />
* [[必殺シリーズ]]([[ABCテレビ|ABC]])では時代的に合わないが、現代的な気球やグライダーを出す場合に安易に平賀源内を登場させる傾向がある。<br />
** 『[[年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ|仕事人アヘン戦争へ行く]]』([[1983年]])では源内が獄中にいた([[アヘン戦争]]当時、日本で投獄されていた蘭学者では[[高野長英]]がいる。なお劇中で平賀は113歳という設定であった)。<br />
** 『[[必殺仕切人]]』([[1984年]])第5話「もしも鳥人間大会で優勝したら」で源内が江戸時代の飛行コンテストで審査員をしている。<br />
*: [[中条きよし]]扮する[[三味線屋の勇次]]は両方に登場しており、設定上は『アヘン戦争』が先で『仕切人』の方が後の話である。<br />
* 『[[翔んでる!平賀源内]]』([[1989年]]、[[TBSテレビ|TBS]]、源内役:[[西田敏行]])<br />
*: 同作の源内は、豊富な知識を駆使して江戸で起こった事件の謎を解決する探偵のような役回りの主人公である。<br />
* 『[[びいどろで候〜長崎屋夢日記]]』([[1990年]]、NHK、源内役:山口崇)<br />
*: 上述の『天下御免』の後日談。<br />
* 『[[殿さま風来坊隠れ旅]]』([[1994年]]、[[テレビ朝日]]、源内役:[[火野正平]])<br />
* 『[[大江戸捜査網#新春ワイド時代劇『大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!』|大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!]]』([[2015年]]、[[テレビ東京]]、源内役:[[小林稔侍]])<br />
*: 上述した生存説に基づいた解釈で描かれ、[[松平定信]]によって失脚没落崩壊した田沼家の「隠された姫」である早苗のお目付け役として登場する。<br />
* 『[[風雲児たち#テレビドラマ|風雲児たち〜蘭学革命篇〜]]』([[2018年]]、[[日本放送協会|NHK総合]]、源内役:[[山本耕史]])<br />
*: 後述の[[漫画]]作品『[[風雲児たち]]』([[みなもと太郎]])を原作に置くテレビドラマ作品。脚本は[[三谷幸喜]]。<br />
他にドラマ愛の詩シリーズおよびTVアニメ版の『[[ズッコケ三人組]]』における『ズッコケ時間漂流記』(源内役:[[藤岡弘、|藤岡弘]](ドラマ版)、[[松山鷹志]](アニメ版))や、アニメ『[[落語天女おゆい]]』(源内役:[[てらそままさき]])、同じくアニメ版『[[あんみつ姫]]』などの映像化作品がある。『それいけ!アンパンマン』では'''からくりぐんない'''という発明家のキャラクターが登場する。<br />
<br />
=== 小説 ===<br />
* [[桜田常久]]『平賀源内』(芥川賞受賞作。源内が杉田玄白の尽力でひそかに獄から脱出できたあとの後日談という構想である。)<br />
* [[村上元三]]『平賀源内』<br />
* [[吉川英治]]『[[鳴門秘帖]]』(源内が登場する)<br />
* [[那須正幹]]『ズッコケ時間漂流記』<br />
* [[久生十蘭]]『平賀源内捕物帳』<br />
* [[山本昌代]]『源内先生船出祝』<br />
* [[南條範夫]]『無頼武士道』<br />
* [[広瀬正]]『異聞風来山人』<br />
* [[清水義範]]『源内万華鏡』<br />
* [[大沼弘幸]]・[[わたなべぢゅんいち]]『大江戸乱学事始』<br />
* [[筒井康隆]]『空飛ぶ表具屋』(世界初の有人飛行を行ったとされる浮田幸吉を後援する役割で、興味本位で軽挙妄動する現代のマスコミ文化人を重ね合わせて描かれている。)<br />
* [[井沢元彦]]『銀魔伝 源内死闘の巻』<br />
* [[夢枕獏]]『大江戸恐龍伝』<br />
<br />
=== 漫画 ===<br />
* [[石ノ森章太郎]]『[[平賀源内 解国新書]]』<br />
*: 源内が田沼意次の一代記の著者として描かれている。<br />
* [[上村一夫]]『春の嵐』<br />
* [[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』田沼時代編<br />
*: 蘭学者たちのオピニオン・リーダーの一人として描かれており、自らに対して時代があまりにもついてこない男の苦悩と悲しみが、余すところなく表現されている。<br />
* [[水木しげる]]『[[東西奇ッ怪紳士録]]』<br />
*: ステレオタイプ的歴史観に基づいた形で奇人として取り上げられている。<br />
* [[碧也ぴんく]]『鬼外カルテシリーズ』<br />
*: 虚空を彷徨い、現代を生きる鬼外というキャラクターとして描かれている。「シリーズ其ノ14(最終章)」では鬼外(平賀源内)を主人公とした物語が展開する。<br />
* [[星野之宣]]『鎖の国』<br />
*: 科学者と戯作者の兄弟という形で源内二人説を描いている。<br />
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』<br />
*: 第八巻から登場。男装の女性として描かれている。<br />
* [[長谷垣なるみ]]『利根川りりかの実験室』(原作:[[青柳碧人]])<br />
*: 「NOTE 8. 命短し、夢見よ乙女」で登場。<br />
* [[仲間りょう]]『[[磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜]]』<br />
* 黒沢明世/[[横内謙介]]『奇想天外☆歌舞音曲劇 げんない』<br />
<br />
=== ゲーム ===<br />
* [[カプコン]]『[[えどたん]]』<br />
* [[彩京]]『[[戦国エース]]』 - 彼をモチーフにした「平乃源内」というキャラクターが登場する。<br />
* [[ビクター インタラクティブ ソフトウエア]]『[[大江戸ルネッサンス]]』 - 彼の発明により江戸を発展させる幕府運営ゲーム。<br />
<br />
=== 演劇 ===<br />
* [[井上ひさし]]作『[[表裏源内蛙合戦]]』<br />
*: [[1970年]]に[[熊倉一雄]]演出、[[山田康雄]]主演で[[テアトル・エコー]]新装杮落しとして初演された。膨大な資料を駆使し言葉遊びを極めた音楽劇で、センセーショナルな評判を集め、[[戯曲]]がすぐに[[新潮社]]から出版されるという異例の展開となった。[[1992年]]にも[[安原義人]]主演で恵比寿に移転した同劇場の杮落としとして再演されている。[[2008年]]には作者が戯曲に改訂を施し、[[蜷川幸雄]]演出、[[上川隆也]]主演で[[Bunkamura]][[シアターコクーン]]他で上演された。<br />
* 横内謙介作『奇想天外☆歌舞音曲劇「げんない」』<br />
*: 2013年4月13日から2014年3月16日まで、[[坊っちゃん劇場]]にて上演。<br />
<br />
=== ドラマCD ===<br />
* 『源内妖変図譜』(源内役:[[関智一]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 中村幸彦校注 『風来山人集』〈『日本古典文学大系』55〉 岩波書店、1961年<br />
* 平賀源内先生顕彰会編 『平賀源内全集』(全二巻) 名著刊行会、1970年<br />
* {{Citation |和書| last = 小田 | first = 晋 | year = 2001 | title = 歴史の心理学 日本神話から現代まで | publisher = 日本教文社 | isbn = 4-531-06357-0}}<br />
<!--* 埼玉新聞 「源内秩父を行く」(2009年)--><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Hiraga Gennai}}<br />
* [[土用の丑の日]]<br />
* [[源内焼]] - 地元の焼き物・志度焼に、源内の指導を得て発展した焼き物の一群。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/ 平賀源内記念館]<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ひらか けんない}}<br />
[[Category:平賀源内|*]]<br />
[[Category:信濃平賀氏|けんない]]<br />
[[Category:本草学者]]<br />
[[Category:蘭学者]]<br />
[[Category:日本の発明家]]<br />
[[Category:18世紀の学者]]<br />
[[Category:江戸時代の画家]]<br />
[[Category:江戸時代の俳人]]<br />
[[Category:日本美術史]]<br />
[[Category:戯作者]]<br />
[[Category:浄瑠璃]]<br />
[[Category:江戸時代の医師]]<br />
[[Category:江戸時代の技術者]]<br />
[[Category:博覧会史に関する人物]]<br />
[[Category:高松藩の人物]]<br />
[[Category:ゲイの人物]]<br />
[[Category:獄死した人物]]<br />
[[Category:1728年生]]<br />
[[Category:1780年没]]</div>
119.230.24.142
アレクセイ・クロパトキン
2018-05-24T06:33:30Z
<p>119.230.24.142: /* 逸話 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 軍人<br />
| 氏名 = アレクセイ・クロパトキン<br />
| 各国語表記 = {{lang|ru|Алексей Куропаткин}}<br />
| 生年月日 = [[1848年]][[3月29日]]<br />
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1848|3|29|1925|1|16}}<br />
| 画像 = Gen Kuropatkin.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像説明 = <br />
| 渾名 = <br />
| 生誕地 = {{RUS1858}} [[プスコフ県]]<br />
| 死没地 = {{SSR1923}} プスコフ<br />
| 所属組織 = [[ロシア帝国陸軍]]<br />
| 軍歴 = <br />
| 最終階級 = <br />
| 除隊後 = [[教師]]<br />
| 廟 = <br />
| 署名 = <br />
}}<br />
<br />
'''アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン'''({{lang|ru|Алексей Николаевич Куропаткин}}, Aleksei Nikolaevich Kuropatkin, [[1848年]][[3月29日]] - [[1925年]][[1月16日]])は、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の[[軍人]]。[[陸軍大臣]]、[[日露戦争]]時のロシア満州軍総司令官を歴任した。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[プスコフ県]]の退役大尉の家庭に生まれる。第1幼年団(幼年学校)に送られ、[[1864年]]、パヴロフスク軍学校に入校した。卒業後、陸軍中尉に任官し、[[トルキスタン|トルケスタン]]大隊に配属された。[[1867年]]から[[1868年]]に、[[ブハラ]]遠征、[[サマルカンド]]攻略等に参加した。<br />
<br />
[[1871年]]、参謀本部アカデミーに入校し、首席で卒業した。卒業後、[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[アルジェリア]]に派遣され、[[フランス軍]]の[[サハラ]]遠征に参加した。帰国後、これらの体験を基にした『アルジェリア』を執筆。[[1875年]]、再びトルケスタンに戻り、[[コーカンド]]遠征に参加した。[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]に於いて第16歩兵師団参謀長として功績を上げた後、[[1879年]]からトルケスタン狙撃兵旅団長。同部隊を率いて1881年のトルケスタンの反乱を鎮圧した。[[1883年]]以後の参謀本部付きを経て、[[1890年]]に中将に昇進しザカスピ軍管区司令官。<br />
<br />
[[1898年]]に陸軍大臣に任命されて以来宮廷武官の道を進み、事務能力に優れた政治的手腕の高い軍人として評価される。陸軍大臣時の[[1903年]]、皇帝[[ニコライ2世]]の勅命により極東視察のため来日、[[日本]]の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。しかし実戦指揮能力や決断力・判断力に乏しく[[日本軍]]に連戦連敗し、[[奉天会戦]]に敗北した責任を取らされロシア満州軍総司令官を罷免され第1軍司令官に降格される。<br />
<br />
日露戦争後は軍中央から退き、[[第一次世界大戦]]ではロシア北部方面軍・第5軍を指揮し[[ドイツ軍]]と戦うが大敗する。[[1916年]]7月、[[トルキスタン総督府|トルケスタン総督]]に転出し、折しも発生した[[1916年蜂起]]を武力鎮圧。その後[[ロシア革命|2月革命]]の際に逮捕投獄されるが危険人物と見なされずにすぐに釈放され、晩年は[[故郷]]で[[教師]]として静かな余生を送る。<br />
<br />
== 日露戦争時の戦術 ==<br />
日本軍の能力を高く評価していたクロパトキンは、日本軍との全面直接対決を極力避けた上で[[シベリア鉄道]]の輸送力を活用し、兵力と物資の蓄積を図りつつ、日本軍を北方に吊り上げて補給路が伸びきり疲労が激しくなった所を一挙に殲滅するという作戦を計画した。しかし会戦においては敗北を繰り返し結果的に後退したのみだった。そして後退を繰り返した結果、各兵士の士気低下を招き終始指揮系統が混乱した。またクロパトキン自身も時勢に流されたその場しのぎの作戦指揮を展開したため、日露戦争においてロシア軍が敗北する結果に繋がった。<br />
<br />
敵を引き付けて叩くという戦法はロシア軍の定石戦法ではあるが、クロパトキンが大量の物資を輸送出来る鉄道という手段に注目し活用したことは、後の[[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]や[[ソ連対日参戦]]でも利用されており、日露戦争当時としては比較的斬新な戦法であったとも推察できる。<br />
<br />
== 逸話 ==<br />
*魚[[釣り]]が趣味で、傍らには釣り竿を置き、戦場でも時間があれば釣りをしていた。来日の際も[[日本軍]]の将校と共に海釣りに出かけ、見事な[[ボラ]]を釣上げたという。<br />
*[[1876年]]から77年にかけて[[カシュガル]]地方を訪れたロシアの外交団の一人でもあった。この体験を元に『カシュガリア』と言う報告書を纏め、[[1879年]]に出版された。この出版物は、後に著名な中央アジア探検家として知られる[[スウェーデン]]の探検家[[スヴェン・ヘディン]]に影響を与えた。ヘディンは、[[1890年]]にクロパトキンと出会い、感銘を受けたという。<br />
*小説『[[ロリータ]]』で知られる作家[[ウラジーミル・ナボコフ]]の自伝(『記憶よ、語れ』)のなかでは、名門貴族で有力な政治家であったナボコフの父親を訪ねてきたクロパトキンと、幼いナボコフの邂逅が描かれている。[[1904年]]の「はじめの頃のある日の午後」、当時5歳だったナボコフを喜ばせようとして、クロパトキンは寝椅子の上でマッチ棒を使った遊びを披露していた。そのとき、副官が室内に案内されて入ってきて、クロパトキンに何かを告げた。すると彼は「ロシア人らしい狼狽と不平の声をあげてすぐ立ちあがり」、その反動でマッチの棒が寝椅子からバラバラに飛び上がった。「その日、将軍はロシア極東軍総司令官の大命を受けたのだった」と書かれている。また同書によれば、[[1919年]]にナボコフ一家が[[ボルシェヴィキ]]に占領された[[サンクトペテルブルク]]から南ロシアに脱出しようとしていたところ、その道中の橋の上で、羊革のコートを着て農民に変装していたクロパトキンに呼び止められた。そしてナボコフの父親にマッチの火を貸してくれと頼んだという。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
* 『満州悲劇の序曲』<br />
** 大竹博吉訳『ロシア革命の裏面史譚選輯. 特輯』 P.287~ 1929年<br />
** 大竹博吉訳『満洲と日露戦争 : 外交秘録』 P.229~ 1933年<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*{{commonscat-inline|Aleksey Kuropatkin}}<br />
<br />
{{先代次代|[[ロシア帝国軍事省|ロシア帝国軍事大臣]]|[[1898年]] - [[1904年]]|{{仮リンク|ピョートル・ヴァンノフスキー|ru|Ванновский, Пётр Семёнович|en|Pyotr Vannovskiy}}|{{仮リンク|ヴィクトル・サハロフ|ru|Сахаров, Виктор Викторович|en|Viktor Sakharov}}}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:くろはときん あれくせい}}<br />
[[Category:ロシア帝国国家評議会議員]]<br />
[[Category:ロシア帝国の将軍]]<br />
[[Category:トルキスタン軍管区司令官]]<br />
[[Category:日露戦争の人物]]<br />
[[Category:訪日外国使節]]<br />
[[Category:聖ゲオルギー勲章受章者]]<br />
[[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]<br />
[[Category:聖ウラジーミル勲章受章者]]<br />
[[Category:聖スタニスラフ勲章受章者]]<br />
[[Category:聖アンナ勲章受章者]]<br />
[[Category:白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)]]<br />
[[Category:プスコフ県出身の人物]]<br />
[[Category:1848年生]]<br />
[[Category:1925年没]]<br />
<br />
{{people-stub}}</div>
119.230.24.142
イワナ
2018-05-02T07:06:35Z
<p>119.230.24.142: /* 生態 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|魚|女性名の「イワナ」|イヴァナ}}<br />
{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]}}<br />
{{生物分類表<br />
|色 = 動物界<br />
| 名称 = イワナ類<br />
| 画像 = [[File:Salvelinus_leucomaenis_japonicus-3.jpg|250px]]<br />
| 画像キャプション = ヤマトイワナ<br />上は厳冬期の体色が黒ずんだ個体<br />
| 界 = [[動物|動物界]] {{sname||Animalia}}<br />
| 門 = [[脊索動物|脊索動物門]] {{sname||Chordata}}<br />
| 亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] {{sname||Vertebrata}}<br />
| 上綱 = [[魚類|魚上綱]] {{sname||Pisciformes}}<br />
| 綱 = [[硬骨魚綱]] {{sname||Osteichthyes}}<br />
| 目 = [[サケ目]] {{sname||Salmoniformes}}<br />
| 科 = [[サケ類|サケ科]] {{sname||Salmonidae}}<br />
| 属 = '''[[イワナ属]] ''[[w:Salvelinus|Salvelinus]]'''''<br />
| 学名 = ''Salvelinus'' <small>[[:en:John Richardson (naturalist)|Richardson]], 1836</small><br />
| 英名 = {{sname||Char}}<br />{{sname||Charr}}<br />
|下位分類名 = 下位分類<br />
|下位分類 = {{center|本文参照}}<br />
}}<br />
'''イワナ'''('''岩魚'''、嘉魚、𩸶、{{補助漢字フォント|&#39815;}}<ref>[[Unicode]]ではU+9B87に収録。日本語文字セットでは[[補助漢字|JIS X 0212]]に収録されている([[JIS X 0213]]へは収録されなかった)。</ref>)は、[[サケ目]] [[サケ類|サケ科]] イワナ属の[[魚類|魚]]。分類上は、イワナ属のうちの1種にイワナという和名がつけられているが、近縁種の[[オショロコマ]]も含めて広義のイワナとして扱われることが多い。本稿ではイワナ、オショロコマを含むイワナ属の魚を総称して、イワナ類と呼ぶ。<br />
<br />
また地方によって、イモナ、イモウオ、エノハ(九州)、キリクチ(和歌山)、ゴギ(山陰)、タンブリ(山陰)などとも呼ばれている。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
=== 生態 ===<br />
貪欲な肉食性で、動物性プランクトン、水棲昆虫、他の魚、河畔樹木から落下する虫、[[カエル]]、[[サンショウウオ]]、[[蛇]]などを食べる。産卵期は10月-1月頃で産卵床は本流に流入する支流が多い。2年魚以降で18cm-22cmを超えるとオス・メス共に性的に成熟し、数年にわたって繁殖行動を行なう。 受精卵は水温10℃で50日程度で孵化する。寿命は6年程度とされるが、人為的な飼育環境下では30年近く生きる場合もある<ref>稲子の夏 仙台藩山守の村 宮城・七ケ宿(5)/自然の宝庫 ナメコ栽培に新風 1995.08.15 河北新報記事情報 写有 (全1,194字)</ref>。厳冬期の個体は体色が黒ずんでいて、この黒ずみは釣り人の間で「さび」と呼ばれるが、水温が上昇し活発に摂餌する頃になると「さび」は消えていく。<br />
<br />
日本のイワナ類のほとんどが一生を淡水で過ごす魚で、河川の最上流の冷水域などに生息する場合が多い。多くの種類が食用とされ、[[釣り|渓流釣り]]の対象魚としても人気がある。イワナ属には、世界で30数種が知られているが、その多くが[[スポーツフィッシング]]の対象魚として人気がある。<br />
<br />
現在の日本のイワナ類は、生息する地域、河川によって、形態が少しずつ異なる地域変異があり、大きくいくつかの亜種に分けられている。イワナの亜種には、[[アメマス]](エゾイワナ)、ニッコウイワナ、ヤマトイワナ(およびその地方変異であるキリクチ)、ゴギがあり、オショロコマの日本産亜種には、オショロコマと[[ミヤベイワナ]]がある。なお、これらの亜種、地域変異の個体群は、かつてはすべてが別種であるとして扱われたこともあるほど、その形態的な特徴には著しい相違がある。日本産のイワナ類がこのように大きな変異を持っている理由として、イワナ類の生息至適水温と過去の地球の気候の変化が挙げられる(後述)。<br />
<br />
また、[[ヤマメ]]とイワナは、いずれも上流域に生息するが、イワナの方がやや冷水を好む。それぞれが単独で生息する川では、どちらの魚も上流域を占有するが、両者が生息する川では、混在することなく、最上流域をイワナが、そして上流域のある地点を境に、それより下流をヤマメが占有するという事が生物学の[[棲み分け]]の一例としてしばしば紹介される。しかし砂防堰堤等により生息場所や産卵場所が限れたり、イワナ域とヤマメ域関係なく両者を混在し放流するなどが原因とみられるイワナとヤマメの[[交雑]]個体がみられる。(''後述の'''カワサバ'''を参照'')<br />
<br />
=== 混血・交雑イワナ ===<br />
イワナ系、オショロコマ系以外にも、日本に人為的に[[カワマス]]、[[レイクトラウト]]などが移入され、一部地域で[[外来種]]として定着している。また、イワナ類の種間、あるいは[[ヤマメ]]などとは、自然状態で[[交雑]]が行われており、雑種が生息している地域もある。特に外来種のカワマスとは容易に交雑し、雑種一代目は成長はよいが繁殖力が落ちるため、純粋なイワナが滅びる可能性が懸念される。[[ヤマメ]]と同様一般に各地で見られるイワナは、その多くが遊漁(釣り)目的に養魚繁殖魚を放流したものであり、これがその地域に本来生息していた個体と混血し、純粋な地域型個体が残っている河川はかなり少ないと考えられている。<br />
<br />
== 日本産イワナ類の特徴 ==<br />
世界的に見ると、イワナ類も他のサケ類と同様、成長過程で海に下り、成熟して川を遡上する降海型の生活史をもつ。しかし、イワナ類は、冷水環境を好む魚であり、日本産のイワナは、世界のイワナ類の中で最も緯度の低い、温暖な地方に生息する南限の種である。したがって、日本のイワナ類は、暖かい海には下らずに、冷水の流れる[[河川]]の[[源流]]付近に一生とどまる河川残留型(陸封型)の生活史をもつ場合が多い。日本のイワナ類で降海型の個体群は北陸地方以北で見られ、[[北海道]]産のイワナ(アメマス亜種)などが知られている。高緯度地域ほど降海個体が生じやすいが東京湾でも希に降海型と考えられる個体が捕獲されることがある<ref>[http://www.agri-kanagawa.jp/naisui/mame/mame_iwa.html 東京湾で捕れたイワナ] 神奈川県水産技術センター内水面試験場</ref>。<br />
<br />
過去の[[氷河期]]の寒冷気候の下では、日本のイワナ類も、海と河川を往復する降海型であったことが推測され、氷河期の終焉に伴う気候の温暖化で、河川の上流域に陸封されたとされる。その後の長い年月の間に、各地方、各河川のイワナが、遺伝的な交流のない状態で独自に変化していったと考えられている。<br />
<br />
こうして形成された隔離された個体群は、20世紀後半以降、開発による生息環境の減少、生息域を同じくする他の魚類や他亜種との競合、[[外来種]]の放流による競争、[[マニア]]による[[乱獲]]などにより、その生存が脅かされている。特に、産地が限定される中部日本以西では深刻である。<br />
<br />
== イワナ属の種・亜種 ==<br />
=== イワナ ===<br />
学名 ''[[w:Salvelinus leucomaenis|Salvelinus leucomaenis]]''、英名 Whitespotted char<br />
<br />
体色は褐色から灰色。英名ホワイトスポット・チャーの名の通り、体には背部から側面にかけて、多数の白い斑点が散らばる。夏でも水温が摂氏15度以下の冷水を好む。個体の特徴は地方によって様々まざまに異なるが、亜種レベルではアメマス、ニッコウイワナ、ヤマトイワナ、ゴギの4亜種とするのが一般的となっている。<br />
;[[アメマス]](エゾイワナ)<br />
:[[ファイル:Amemasu 1.JPG|200px|thumb|right|アメマス]]<br />
:学名 ''Salvelinus leucomaenis leucomaenis''<br />
:日本では千葉県以北の太平洋側、山形県以北の日本海側に生息するイワナの亜種。朝鮮半島東岸、樺太、千島列島、カムチャツカ半島までの河川とオホーツク海、ベーリング海に分布する。イワナでは唯一、降海型と河川残留型(陸封型)がおり、河川残留型はエゾイワナとも呼称される。アメマスは最大の全長 70-80 cm、7 kg まで。河川残留型では 35 cm 程度が一般的。体側の白点が最も目立つ亜種。<br />
:降海型のアメマスは、2年目に海に下り、2年以上海で過ごし、成熟すると産卵のために川を遡上する。<br />
{{main|アメマス}}<br />
;{{Anchor|ニッコウイワナ}}<br />
:[[File:Nikkou char ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius.jpg|200px|thumb|right|ニッコウイワナ]]<br />
:学名 ''Salvelinus leucomaenis pluvius''<br />
:イワナの日本固有亜種で、東北地方、関東地方の山岳部から、滋賀県、鳥取県にかけて分布。全長 30-80 cm 程度まで。体側の白斑ははっきりしているが、側面から腹部にかけて、より大きな橙色-薄桃色の斑紋が散在する。<br />
:{{情報不足}}<br />
;{{Anchor|ヤマトイワナ}}<br />
:[[image:Salvelinus_leucomaenis_japonicus-1.jpg|200px|thumb|right|ヤマトイワナ]]<br />
:学名 ''[[w:Kirikuchi char|Salvelinus leucomaenis japonicus]]''、英名 Kirikuchi char<br />
:イワナの日本固有亜種で、本州中部地方の太平洋側、山岳地帯の河川に生息。体長 25 cm。他のイワナ亜種のような白い斑点が目立たず、側面により小型で紅色の小斑が散らばる。<br />
;{{Anchor|ゴギ}}<br />
:学名 ''Salvelinus leucomaenis imbrius''<br />
:{{絶滅危惧II類}}<br />
:イワナの日本固有亜種で、中国地方の島根県、岡山県、広島県、山口県などの山岳地帯の源流域に生息。背部から体側の白斑が、頭部にも続いているのが目立つ<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.shimane.lg.jp/suigi/publish/jigyouhou/1997/index.data/199703-46.pdf 渓流魚希少魚保護増殖試験ゴギ生息状況調査]}} 島根県</ref>。体長は 20 cm 程度。日本での分布の西限(キリクチ個体群を除けば南限でもある)の亜種で、ゴギの分布の西南限は、日本海側では島根県の横田川(現:[[高津川]])、瀬戸内海側では山口県の岩国川(現:[[錦川]])であるとされる。環境省の[[汽水・淡水魚類レッドリスト]]においては絶滅危惧II類に分類される。捕獲に関しては禁漁区が設定されたもとで保護されているが、禁漁区以外では他のイワナやヤマメに対して自治体と漁協が設けている漁期、体長制限などが適用される。<br />
:広島県など中国地方では、'''ゴキ'''とも呼称される。<br />
;地域個体群<br />
:'''キリクチ'''と呼称されている個体群が、紀伊半島の[[十津川]]水系(奈良県)にのみ分布しているが、ヤマトイワナの地域変異型として考える場合が一般的になっている。この個体群が、イワナ類の南限とされている。現在は2水系に2つの遺伝的に異なる集団が残るが、かつては十津川水系の上流部や日高川水系にも生息していた。遊漁者による捕獲や[[アマゴ]]との生息域の競合、遊漁目的に放流されたニッコウイワナ''Salvelinus leucomaenis pluvius''との交雑、土砂流入による河床の平坦化により生息数は急激に減少している。1992年から2004年まで行われた三重大学大学院生物資源学研究科、奈良大学らのチームによる調査によれば、「キリクチはアマゴとの種間関係において劣勢にある可能性が示唆され、サケ科魚類が遺伝的多様性を維持し存続するための最低個体数は2500尾程度とされているが、2004年の生息数は1000尾程度と推定される」<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004781861/ 世界最南限のイワナ個体群"キリクチ"の個体数変動と生息現状]保全生態学研究 11(1) pp.13-20 20060625</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.wdc-jp.biz/pdf_store/isj/publication/pdf/51/511/51104.pdf 世界最南限のイワナ個体群"キリクチ"の産卵場所特性および釣獲圧が個体群に与える影響]}}</ref>としている。<br />IUCN レッドリストでは、キリクチを、英名 {{sname||Kirikuchi char}}、学名 ''Salvelinus japonicus'' として、他のイワナとは別種として取り扱っており、単独で絶滅危惧種に指定している。また、環境省の絶滅のおそれのある地域個体群と1962年には[[奈良県]]の[[天然記念物]]に指定されている。2003年以降キリクチ個体群の保護及び増殖を目的とし、禁漁区の設定、密猟者の摘発、河川での淵(深み)の造成、競合するアマゴの除去などの施策が順次実施され、生息数の増加が報告されている<ref name="jji1950_55_49">[http://dx.doi.org/10.11369/jji1950.55.49 シリーズ・Series日本の希少魚類の現状と課題]魚類学雑誌 Vol.55 (2008) No.1 p.49-55</ref>。<br />
<br />
=== その他のイワナ属 ===<br />
;[[オショロコマ]]<br />
:学名 ''Salvelinus malma''、英名 ドリーバーデン(Dolly varden)<br />
:イワナの白い斑点に対し、黄色、橙色、あるいは赤色の斑点が体側に散在する。イワナよりもさらに寒冷気候に適応した種類。オショロコマ(同名亜種)、ミヤベイワナ、サザンドリーバーデンの3亜種が知られ、日本では北海道だけにオショロコマとミヤベイワナが生息する。<br />
:'''[[オショロコマ]]'''<br />
:学名 ''Salvelinus malma malma''<br />
:オショロコマの同名亜種。北極海と太平洋北部に広く分布。太平洋岸では、朝鮮半島、北海道からベーリング海、アラスカからアメリカワシントン州にかけて分布。<br />
:{{絶滅危惧II類|image=none}}<br />
{{main|オショロコマ}}<br />
:'''[[ミヤベイワナ]]'''<br />
:学名 ''Salvelinus malma mitabei''<br />
:北海道の[[然別湖]]とそこに流れ込む水系に生息する、オショロコマの日本固有亜種。<br />
:{{絶滅危惧II類|image=none}}<br />
{{main|ミヤベイワナ}}<br />
:'''[[サザンドリーバーデン]]'''<br />
:学名 ''Salvelinus malma krascheninnikova''<br />
;[[カワマス]](ブルックトラウト)<br />
:学名 ''[[w:Salvelinus fontinalis|Salvelinus fontinalis]]'' Mitchill、英名 [[w:Brook trout|Brook trout]]<br />
:[[北アメリカ大陸]]に分布。背面と背ビレが暗緑色-緑がかった暗褐色で、小斑がつながった不規則な模様があり、側面に薄青色で囲まれた赤い斑点が散在する。日本では[[上高地]]の[[梓川]]に放流された個体がイワナと交雑しイワナの純粋種が減少している<ref>[http://www.bio.mie-u.ac.jp/~kawa-k/alien-species.pdf#page=4 近縁外来種との交雑による在来種絶滅のメカニズム] 三重大学大学院生物資源学研究科 水圏資源生物学研究室</ref>。<br />
{{main|カワマス}}<br />
;[[レイクトラウト]]<br />
:学名 ''[[w:Salvelinus namaycush|Salvelinus namaycush]]''、英名 {{sname||Lake trout}}<br />
:基本的に冷水性の湖沼に住む完全な湖沼残留型(陸封型)のイワナであり、北アメリカ大陸、カナダ北部からアメリカ、[[ニューイングランド]]地方にかけて、五大湖の流域が原産地だが、北アメリカ大陸の他の地域にも広く移入された。日本では中禅寺湖に移植されている。<br />
{{main|レイクトラウト}}<br />
;[[ホッキョクイワナ]]<br />
:学名 ''[[w:Salvelinus alpinus|Salvelinus alpinus]]''、英名 {{sname||Arctic char}}<br />
:* ''[[w:Salvelinus alpinus|Salvelinus alpinus]]'' <small>([[w:Carl Linnaeus|Linnaeus]], 1758)</small> (Arctic char)<br />
:* ''S. a. alpinus'' <small>(Linnaeus, 1758)</small> (Arctic char)<br />
:* ''S. a. erythrinus'' <small>([[w:Johann Gottlieb Georgi|Georgi]], 1775)</small> (davatchan)<br />
:* ''S. a. taranetzi'' <small>(Kaganowsky, 1955)</small> ([[w:dwarf Arctic char|Dwarf Arctic char]])<br />
<br />
==== 交雑種 ====<br />
{{main|サケ類#異種交配}}<br />
; {{Anchor|ジャガートラウト}}<br />
: イワナとカワマスの[[交雑]]種。管理釣場などで放流されている。上高地の[[大正池 (松本市)|大正池]]、梓川にも生息する。<br />
; {{Anchor|カワサバ}}<br />
:[[File:イワナ×ヤマメ(カワサバ).jpg|200px|thumb|right|カワサバ(イワナ×ヤマメ)]]<br />
: イワナと[[ヤマメ]]の繁殖力の無い一代交雑種<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/mtsc/naisuishi/hybrid.htm 内水面水産試験場見学コーナー! - 話題 - わたしはだあれ?] 宮城県内水面水産試験場</ref>でイワメの俗称もある<ref>上原武則、[http://id.nii.ac.jp/1097/00000021/ 梓川・稲核ダム下流域で得たヤマメとイワナの雑種について] 長野女子短期大学研究紀要 Vol.5, 1998-01-30</ref>。ヤマメの特徴であるパーマークがあるが、背中の斑点がイワナの特徴である流れる傾向がみられ斑紋が海の魚の[[サバ]]のように見える事からカワサバと呼ばれるようになった。模様の出現状態は個体により異なる。繁殖能力は無いとする研究<ref name="miyagi_mtst"/>と有るとする研究<ref>[http://doi.org/10.11369/jji1950.23.225 加藤憲司:多摩川上流で採集されたサケ科魚類の自然雑種] 魚類学雑誌 Vol.23 (1976-1977) No.4 P225-232</ref>がある。「ヤマメやイワナより寿命が長い」<ref>[http://www.ntv.co.jp/dash/tetsuwan_new/past/2014/1221/01/ ザ!鉄腕!DASH!! 2014年12月22日放送分] - 宮城県内水面水産試験場</ref>「温度耐性試験の結果両親のイワナ・ヤマメよりも高温に強い」などの特徴を持つとする研究結果がある<ref name="miyagi_mtst">[http://www.pref.miyagi.jp/mtsc/naisuishi/siikugyozukan.htm 飼育魚図鑑] - 宮城県内水面水産試験場</ref>。自然河川では産卵床形成位置の違い<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001881624/ ヤマメ ''Salmo(Oncorhynchus)matson masou''(BREVOORT)とイワナ ''Salveliaus leucomaenis''(PALLAS)の比較生態学的研究 : I.由良川上谷における産卵床の形状と立地条件] 日本生態学会誌 31(3), 269-284, 1981-09-30</ref>や「生息適水温の違いと産卵時期の違い(イワナ 11-12月、ヤマメ - 9-10月)により産卵場所が分けられ交雑することは少ない」とされているが、ヤマメの生息域拡大や天候の影響や個体差で希に産卵時期が重なることがあり、交雑が生じている。また、河川増水により生息域が交差したり<ref>[http://doi.org/10.2331/suisan.32.677 種育学的にみた魚類の交雑] 日本水産学会誌 Vol.32 (1966) No.8 P677-688</ref>、イワナ域にヤマメ、ヤマメ域にイワナを放流することにより交雑することもある<ref> [http://www.pref.miyagi.jp/mtsc/naisuishi/hybrid.htm この魚は何でしょう?] - 宮城県内水面水産試験場</ref>。なお、[[札幌市豊平川さけ科学館]]では人工的にヤマメ(サクラマス)とエゾイワナ(アメマス)を交配した魚を展示している<ref>[http://www.sapporo-park.or.jp/blog_sake/index.php/2008/02/11/298/ 『カワサバ』の展示始めました] </ref><ref>[http://www.sapporo-park.or.jp/blog_sake/index.php/2009/03/22/814/ 札幌サケ情報ブログ]- 上から5枚目と6枚目の魚 </ref>。<br />
<br />
==== 突然変異 ====<br />
; 無斑・流れ紋<br />
:特徴的なパーマーク、白斑、朱点が無かったり不規則な個体が生じることがある。それらの個体は、'''無斑イワナ'''や模様が不規則な'''流れ紋イワナ'''と呼ばれる。遺伝的には通常の模様を持つ個体と相違点は無いとされている<ref>[http://dx.doi.org/10.11369/jji1950.25.58 最上川, 日向川水系 (山形県) の特殊斑紋のイワナ] 魚類学雑誌 Vol.25 (1978-1979) No.1 P58-64</ref>が、河川により出現率に偏りがあり<ref>[http://dx.doi.org/10.11369/jji1950.54.79 琵琶湖流入河川姉川水系支流に生息する特殊斑紋イワナ(ナガレモンイワナ)の出現率と流程分布] 魚類学雑誌 Vol.54 (2007) No.1 P79-85</ref><ref>[http://iwanaya.jp/blog/?cat=5&paged=2 イワナの話]</ref>。なお、ニジマス無斑個体は、ホウライマスとして愛知県水産試験場により1980年代に品種固定されている<ref>[http://dx.doi.org/10.11233/aquaculturesci1953.28.128 ホウライマス (無斑ニジマス) の養殖について] 水産増殖 Vol.28 (1980-1981) No.3 P128-133</ref>。<br />
<br />
== 料理 ==<br />
旬は5-6月から夏にかけて。塩焼きや唐揚げで食べることが多く、淡白な味の白身は[[ヤマメ]]と並び賞される。また焼いた岩魚に熱く燗をつけた日本酒を注いだものは[[骨酒]]と呼ばれ、野趣あふれる美味である。<br />
<br />
=== 寄生虫 ===<br />
養殖個体や河川残留個体(陸封個体)では寄生虫は検出されない事も多いが<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvma1951/52/2/52_2_115/_article/-char/ja/ 天然および養殖淡水魚からの横川吸虫Metagonimus yokogawaiメタセルカリアの検出] 日本獣医師会雑誌 Vol.52 (1999) No.2 P115-119</ref>、水域によっては異形吸虫科([[横川吸虫]]に近縁の寄生虫)<ref>{{PDFlink|[http://repo.lib.yamagata-u.ac.jp/handle/123456789/2354 斎藤奨:山形で出会った寄生虫あれこれ] 山形大学紀要. 医学 : 山形医学 Vol.22 no.1 p.79-94}}</ref>や線虫<ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I3060682-00 渓流魚(ヤマメ・イワナ)の寄生線虫] 田経済法科大学・秋田短期大学論叢 33(2), p123-128, 1984-03</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.3739/rikusui.20.167 山形県大鳥池周辺渓流のイワナの食性] 陸水学雑誌 Vol.20 (1959) No.4 P167-173</ref>が検出される事がある。従って、生食をすると寄生虫症を発症することがある。<br />
<br />
== 資源保護 ==<br />
水域によって異なるが、ヤマメなどと共に産卵期間の10月から翌年2月から4月頃までを中心に、資源保護を主目的とした禁漁期間が設定されている。また、漁法(捕獲方法)と共に、捕獲可能な体長の制限がなされている場合も有る<ref>[http://www.pref.nagano.jp/xnousei/suishi/kisoku/kisoku.htm 長野県漁業調整規則]</ref><ref>[http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1615/kj00005725.html 富山県内の内水面におけるイワナ・ヤマメ等の採捕禁止期間] 富山県庁</ref>。<br />
<br />
== 地方公共団体の魚==<br />
下記自治体ではイワナを自治体の魚として指定している。<br />
*秋田県 [[東成瀬村]]<br />
*長野県[[楢川村]][[青木村]]<br />
<br />
== 参考画像 ==<br />
<gallery><br />
image:Plecoptera.jpg|主要な餌となっている[[カワゲラ]]の幼虫<br />
image:Ecdyonurus_tobiironis_Kurotanigawakagerou_larva.jpg|クロタニガワカゲロウの幼虫<br />
image:Achroia grisella caterpillars kleine wasmot rupsen (1).jpg|釣り餌としてブドウ虫の代わりに使われている[[メイガ科]]の[[コハチノスツヅリガ]]([[w:Lesser Wax Moth|Lesser Wax Moth]])の幼虫[[ワックスワーム]] ([[w:Waxworm|Waxworm]])<br />
Image:Corn_borer.jpg|ブドウ虫の代わりに使われている[[メイガ科]]の[[アワノメイガ]]の幼虫<br />
image:Ikorka.jpg|イクラ。<br />塩蔵品を釣り餌に使用する<br />
</gallery><br />
<br />
== 出典 ==<br />
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110004079813/ ミヤベイワナ(Salvelinus malma miyabei)とオショロコマ(Salvelinus malma malma)の遺伝的分化] 東京農業大学農学集報 47(1), 39-44, 2002-06-20<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Salvelinus}}<br />
* [[魚の一覧]]<br />
* [[ヤマメ]]<br />
* [[アメマス]]<br />
* [[ミヤベイワナ]]<br />
* [[オショロコマ]]<br />
* [[放流]] - [[遺伝子汚染]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* Froese, R. and D. Pauly. Editors. 2004. [http://www.fishbase.org/ FishBase. World Wide Web electronic publication.], version(06/2004). - 各分類群の記載情報<br />
* [http://www.ifarc.metro.tokyo.jp/27,927,55,225.html ニッコウイワナ ]東京都島しょ農林水産総合センター<br />
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110004079785/ イワナ属魚類におけるタンパク質型の多型座位の検索]東京農業大学農学集報 Journal of agricultural science, Tokyo Nogyo Daigaku 46(2) pp,114-123 20010929<br />
<br />
{{鮭}}<br />
{{DEFAULTSORT:いわな}}<br />
[[Category:イワナ属]]<br />
[[category:淡水魚]]<br />
[[category:食用川魚]]<br />
[[category:釣りの対象魚]]<br />
[[Category:サケ科]]</div>
119.230.24.142
ウグイ
2018-04-04T05:26:20Z
<p>119.230.24.142: /* 生態 */</p>
<hr />
<div>{{生物分類表<br />
|名称 = ウグイ<br />
|画像 = [[File:Tribolodon hakonensis, -Higashiyama Zoo, -Nov. 2011 a.jpg|250px]]<br />
|省略 = 条鰭綱<br />
|上目 = [[骨鰾上目]] [[w:Ostariophysi|Ostariophysi]]<br />
|目=[[コイ目]] [[w:Cypriniformes|Cypriniformes]]<br />
|科=[[コイ科]] [[w:Cyprinidae|Cyprinidae]]<br />
|亜科=[[ウグイ亜科]] [[w:Leuciscinae|Leuciscinae]]<br />
|属=[[ウグイ属]] ''[[w:Tribolodon|Tribolodon]]''<br />
|種='''ウグイ''' ''T.hakonensis''<br />
|学名=''[[w:Tribolodon|Tribolodon hakonensis]]''<br />({{Taxonomist|Günther}}, [[1877年|1877]])<br />
|和名=ウグイ<br />
|英名=[[w:Dace|Japanese dace]]<br />[[w:Dace|Redfin dace]]<br />Big-scaled redfin<br />Redbelly dace<br />Redside dace<br />
}}<br />
[[File:Ugui 01.jpg|thumb|250px|<center>群泳するウグイ]]<br />
'''ウグイ'''(鯎、石斑魚、学名:''Tribolodon hakonensis'')は、[[コイ目]][[コイ科]][[ウグイ亜科]]に分類される淡水[[魚類|魚]]。<br />
<br />
== 地方名 ==<br />
多くの地方で[[オイカワ]]や[[カワムツ]]などと一括りに「[[ハヤ]]」と呼ばれる。また、関東地方をはじめ本種を指す呼び名としての「ハヤ」の普及は標準和名を凌ぐ地域もある。また、姿の似た魚においてもハヤの通称をもつ[[アブラハヤ]]''Rhynchocypris logowskii steindachneri''、[[タカハヤ]]''Rhynchocypris oxycephalus jouyi''がいる。<br />
<br />
この他、分布の広さから数多くの[[地方名]]があり、アイソ、アカハラ、クキ、タロ、ニガッパヤ、イダ<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p52 昭和33年12月25日発行</ref>、ヒヤレ<ref>[http://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/408/408_036.html 秋田県広報協会発行「ホットアイあきた(通巻408号)」1996年7月1日]</ref>、デイス、イス<ref>[http://www.tajima.or.jp/modules/nature/details.php?bid=487 コウノトリ市民研究所 北垣和也「たじまのしぜんブログ ウグイ」2013年9月14日]</ref>など各地の独特な名前が付けられている。<br />
日本語で「石斑魚」はウグイを意味するが、[[香港]]では「石斑魚」(広東語 セッパーンユー sek6baan1yu2)は[[ハタ (魚類)|ハタ]]の意となる。中国語でウグイは、三塊魚または珠星三塊魚と書かれる。<br />
<br />
== 形態 ==<br />
[[image:Tribolodon_hakonensis_jpn.jpg|right|thumb|250px|ルアーにより釣り上げられた鮮やかな婚姻色を持つ個体]]<br />
成魚の体長は最大50cmに達するが、多数を占めるのは30cm前後の個体。側面型は流水性コイ科淡水魚に共通する流線型を示す。<br />
<br />
体色は全体にこげ茶色を帯びた銀色で、体側に1本の黒い横帯が走る。腹部は繁殖期以外には銀白色である。各鰭、特に腹鰭、尻鰭、及び尾鰭後端部は黄色味を帯びる。<br />
<br />
春(3月上旬から5月中旬)になると雌雄ともに鮮やかな3本の朱色の条線を持つ独特の[[婚姻色]]へ変化する。婚姻色の朱色の条線より「アカウオ」<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p52 昭和33年12月25日発行</ref>や「サクラウグイ」と呼ばれることもある。<br />
<br />
== 生態 ==<br />
沖縄地方を除く日本全国に分布。淡水棲で、河川の上流域から下流域に幅広く生息する。群れを組んで泳ぎ回るので、橋の上などから魚影を確認することができる。<br />
<br />
食性は雑食。[[水生昆虫]]、[[ミミズ]]、水に落ちた[[昆虫]]、水底のコケ、小さな魚、魚の卵など何でも捕食する。<br />
<br />
繁殖期の春には、川の浅瀬で比較的流れの緩やかな直径2-5cmの礫質の場所を選び、春から初夏にかけて集団で産卵をおこなう。<br />
<br />
全国の河川でもっとも普通に見られた魚だが、{{要出典範囲|関東地方などの河川ではオイカワやカワムツが増えウグイの生息域がだんだん上流に追いやられ個体数が減少傾向にある|date=2014年1月}}。<br />
<br />
幅広い水域で見られる魚ではあるが、特筆すべきはpH 4以下の強酸性でも生きられる点であり<ref name="hirose.dace2003">{{PDFlink|[http://www.hirose.bio.titech.ac.jp/research/dace/dace2003.pdf 恐山ウグイの酸性適応機構]}} 東京工業大学 大学院生命理工学研究科</ref>、強酸性のため[[クニマス]]が絶滅した[[田沢湖]]や[[恐山]]の[[宇曽利湖]]<ref> 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p52 昭和33年12月25日発行</ref>や[[屈斜路湖]]、[[猪苗代湖]]等でも生息している。また、水質汚染が激しい水域でも割合生息が可能である。<br />
<br />
* 一生を[[川|河川]]で過ごす淡水型と一旦[[海]]に出る降海型がいる。降海型は北へ行くほどその比率が増す。<br />
* 産卵行動は、水温が11-13℃に上昇する時期に始まり、直径2mm程度で粘着性のある淡黄色の卵を、流速10㎝/s以下の緩流部で藻の付着していない小石に産み付ける。卵は、水温13℃程度で約1-3週間かかり孵化する。孵化から1年目に約5cm、2年目に10-15cm程度に成長し、2-4年目で繁殖活動を行う。<br />
* 雑食性である為、生息域内の別な魚種の卵や稚魚を捕食する。この性質を利用し[[ブルーギル]]の増殖抑制に有効である可能性が示されている<ref name="72.424">[http://doi.org/10.2331/suisan.72.424 片野修, 坂野博之, BORIS VELKOV:ウグイによるブルーギル卵の捕食効果についての実験的解析]日本水産学会誌 Vol. 72 (2006) No. 3 P 424-429, {{DOI|10.2331/suisan.72.424}}</ref><br />
<br />
=== 酸性適応機構 ===<br />
酸性下では、エラの[[塩類細胞]]の形が変わり、且つ数が増えている。通常、塩類細胞は一個ずつバラバラに上皮に存在しているが、宇曽利湖(恐山湖)のウグイでは多数の塩類細胞が濾胞を形成している。これにより体液のpH調整を行っている<ref name="hirose.dace2003"/><ref>[http://doi.org/10.3118/jjse.5.69 広瀬 茂久、平田 拓、江嵜 正浩:酸性湖とアルカリ湖にすむ魚の適応戦略] 極限環境微生物学会誌 Vol.5 (2006) No.2 P69-73, {{DOI|10.3118/jjse.5.69}}</ref>。<br />
<br />
具体的には、Na{{sup|+}}/H{{sup|+}}交換輸送体(NEH3)という827個アミノ酸基からなる分子の働きにより、Na{{sup|+}}を取り込み、交換にH{{sup|+}}を排出している。また、カーボニックアンヒドラーゼ (''carbonic anhydrase'', CA) 酵素の働きにより細胞内に生じた[[炭酸水素イオン]](HCO{{sub|3}}{{sup|−}})を中和に利用している。更に、[[窒素代謝]]により生じた[[アンモニア]]も中和に利用している。通常の代謝系では、アンモニアは[[尿素回路]]で[[尿素]]に変換され排出される。<br />
<br />
== 近縁種 ==<br />
;[[エゾウグイ]]<br />
: 学名 ''Tribolodon ezoe''<br />淡水型の[[北海道]]などの河川、湖沼に生息する。<br />
<br />
;[[ウケクチウグイ]]<br />
: 学名 ''Tribolodon nakamurai''<br />淡水型の[[絶滅危惧種]]で[[長野県]]、[[新潟県]]の[[信濃川]]水系の河川などに生息する。<br />
<br />
;[[マルタウグイ]]<br />
: 学名 ''Tribolodon brandti''<br />汽水域や内湾、沿岸域に生息し、産卵のために河川を遡上する[[回遊|遡河回遊]]魚、ウグイとマルタとは[[交雑]]しやすい。<br />
<br />
== 人間とのかかわり ==<br />
=== 料理 ===<br />
[[川魚]]独特の泥臭さや小骨の多さを克服し、古くから日本各地で[[コイ]]、[[フナ]]などと共に貴重な動物性の蛋白源として利用されて<ref>[http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/ryouri/02.html 郷土料理百選] 農村開発企画委員会</ref>、[[甘露煮]]、[[塩焼き]]、[[天ぷら]]、[[燻製]]、[[いずし]]などで食用にされる。しかし、[[横川吸虫]]などの寄生虫<ref>内田明彦、川上泰、加藤茂、村田義彦、[http://doi.org/10.12935/jvma1951.52.115 天然および養殖淡水魚からの横川吸虫''Metagonimus yokogawai''メタセルカリアの検出] 日本獣医師会雑誌 Vol.52 (1999) No.2 P115-119, {{DOI|10.12935/jvma1951.52.115}}</ref>の問題が有るため生食は推奨されない。<br />
<br />
東北地方の各地には、いずし(はやのいずし)にして食べる風習がある。しかし、いずしはウグイの腸管に生育する[[ボツリヌス菌]]により、致死率が高い食中毒を引き起こす事例が多く報告された<ref>大友良光、豊川安延、[http://doi.org/10.14840/jsfm1984.9.177 1991年青森県内で発生した2事例のE型ボツリヌス食中毒] 食品と微生物 Vol.9 (1992) No.3 P177-181, {{DOI|10.14840/jsfm1984.9.177}}</ref>。また、滋賀県の[[鮒寿司]]([[なれずし]]の一種)では、希少種である本来の[[ニゴロブナ]]の代わりに安価なウグイを用いることもある。長野県佐久地方では正月の雑煮に焼ウグイを使う伝統がある<ref>『立地と人々の生活』郷土版舎125頁</ref>。<br />
<br />
[[小矢部川]]のサクラウグイは[[郷土料理]]として親しまれている。<br />
<br />
=== 漁獲 ===<br />
[[File:Tukeba-1.jpg|thumb|200px|ウグイのつけば漁の為に人為的に整えた流れ。]]<br />
[[File:Tukeba-2.jpg|thumb|200px|つけばでのウグイ漁獲風景]]<br />
;専門の漁<br />
* [[つけ場漁]]:専門の漁は4月から6月の産卵期に行われ事が多く、[[福岡県]]<ref>[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/recordID/22931 北九州における海産ウグイの産卵習性とその漁法] 九州大學農學部學藝雜誌. 21 (2/3), pp. 215-225, 1964-12. 九州大學農學部</ref>や[[長野県]]の[[千曲川|信濃川]]流域の一部地域では、流れの中に人工の産卵場所を作って網で捕獲し<ref>[http://doi.org/10.2331/suisan.17.206 千曲川に於ける石塚漁業に就て] 日本水産学会誌 Vol.17 (1951-1952) No.7 P206-210_2, {{DOI|10.2331/suisan.17.206}}</ref>川に隣接した小屋で料理を提供する<ref>[http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/sys/20091103000000109.html 千曲川のつけば漁] 上田市役所</ref>。<br />
* せつき漁(瀬付漁):山形県[[最上川]]流域など。産卵のために浅瀬に集まった魚を投網で捕獲する。<br />
* アイソ漁:[[茨城県]]、[[群馬県]]などでは、アイソ漁と呼ばれる[[梁漁]]が行われている。<br />
<br />
;釣り<br />
[[釣り]]では、ほとんどの餌に食いついてくるため、水遊びの相手として古来よりなじみ深い魚である。[[泳がせ釣り]]用の[[活き餌]]として釣られることもある。[[餌]]は[[ミミズ]]やカワゲラ類などの水棲生物以外に魚肉ソーセージ、[[かまぼこ]]などの[[魚肉練り製品]]、[[イカ]]の[[塩辛]]、[[鳥]]の[[レバー (食材)|レバー]]、[[カステラ]]、[[羊羹]]、[[干しぶどう]]、[[油揚げ]]、[[米粒]]、[[毛針]]、[[練り餌]]などでも釣れる。<br />
河川では冬場の低水温期は水深のある流れの弱い場所に集まるため、集まったウグイを'''寒バヤ'''と呼び釣りが行われる。しかし、河口部では生息域がハゼ等の食用魚と重なるため、ハゼを専門としている釣り人からは餌取の外道として嫌われている。<br />
<br />
小型[[ルアー]]を使う[[ルアーフィッシング]]や[[フライフィッシング]]でも釣れる。引きは小さなサイズでも[[ヤマメ]]、[[イワナ]]と区別できないくらい強力である。渓流釣りの外道として有名だが、[[マス]]類の禁漁期のターゲットともされている。<br />
<br />
=== 名前の由来 ===<br />
[[鵜]]が食う魚、海鯉(ウミゴヒ)、浮魚(水面近くを遊泳していることから)などの解釈がある。<ref name="mochizuki">望月賢二「図説 魚と貝の事典」(柏書房)75項</ref>一部では海に下りたウグイをオオガイと呼び区別する。<br />
<br />
=== 文化 ===<br />
宮城県[[北上川]]上流の登米市津山町横山の大徳寺では[[不動尊]]の使いと扱われる。福島県には木屑を川に投じるとウグイに変貌したという伝説がある。<ref name="mochizuki"/><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Tribolodon hakonensis}}<br />
*[[魚の一覧]]<br />
*[[宇曽利湖]]:ウグイが生息する強酸性の湖。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.pref.saitama.lg.jp/b0915/kenkyuseika/ugui-sannrannjyou-zousei.html 工事用重機によるウグイの人工産卵床造成] [[埼玉県]]農林部農林総合研究センター水産研究所<br />
* [http://www.affrc.go.jp/ja/research/seika/data_suisan/h15/nrifs-u/nrifs-u004 ウグイは増水などによって表面が洗われたきれいな砂礫の川底で産卵する] 農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波事務所<br />
*長野県水産試験場<br />
** [http://www.pref.nagano.jp/xnousei/suishi/sakana/ugui.htm ウグイ]<br />
** [http://www.pref.nagano.jp/xnousei/suishi/sakana/ukekuti.htm ウケクチウグイ]<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:うくい}}<br />
[[Category:コイ科]]<br />
[[Category:ウグイ亜科]]<br />
[[Category:食用川魚]]<br />
[[Category:淡水魚]]<br />
[[Category:釣りの対象魚]]</div>
119.230.24.142
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