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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=106.163.127.12 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-14T08:46:23Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ローザ・ルクセンブルク 2018-09-29T14:01:09Z <p>106.163.127.12: </p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2015年12月18日 (金) 06:12 (UTC)}}<br /> {{Infobox 革命家<br /> |名前=ローザ・ルクセンブルク&lt;br&gt;&lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;Rosa Luxemburg&lt;/div&gt;<br /> |画像=[[Image:Rosa Luxemburg.jpg|200px]]<br /> |説明=<br /> |通称=<br /> |生年=[[1871年]][[3月5日]]<br /> |生地={{POL1815}}ルブリン県[[ザモシチ]]<br /> |没年=[[1919年]][[1月15日]]<br /> |没地={{DEU1919}}[[ベルリン]]<br /> |活動=[[ドイツ革命]]<br /> |組織=[[スパルタクス団]]<br /> |思想=[[共産主義]]<br /> |廟=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ローザ・ルクセンブルク&#039;&#039;&#039;({{lang-de|&#039;&#039;&#039;Rosa Luxemburg&#039;&#039;&#039;}}, [[ポーランド語]]:{{lang|pl|&#039;&#039;&#039;Róża Luksemburg&#039;&#039;&#039;}}, ルジャ・ルクセンブルク、[[1871年]][[3月5日]] - [[1919年]][[1月15日]])は、[[ポーランド]]に生まれ[[ドイツ]]で活動した[[マルクス主義]]の政治理論家、哲学者、革命家。[[ミハイル・トゥガン=バラノフスキー]]と[[ルドルフ・ヒルファーディング]]の不比例説に対して[[カール・カウツキー]]とともに消費制限説で対峙し、[[ミハウ・カレツキ]]に影響を与えた。<br /> <br /> 彼女は[[ポーランド王国社会民主党]]の理論家であり、のちに[[ドイツ社会民主党]]、[[ドイツ独立社会民主党]](ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『[[:de:Die Rote Fahne|Die Rote Fahne]](赤旗)』を発刊し、革命組織[[スパルタクス団]]を母体として[[ドイツ共産党]]を創設、[[1919年]]1月にはベルリンで[[ドイツ革命]]に続いて[[スパルタクス団蜂起|1月蜂起]]を指導するが、国防軍の残党や[[ドイツ義勇軍|フライコール]](義勇軍、[[:de:Freicorps|Freicorps]])との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くの[[マルクス主義|マルクス主義者]]や[[社会主義|社会主義者]]のあいだでは、同じく虐殺された盟友の[[カール・リープクネヒト]]とともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想は[[ルクセンブルク主義]]とも呼ばれる。<br /> <br /> ==生涯==<br /> ===ポーランド時代===<br /> ローザ・ルクセンブルクは、[[1870年]]もしくは[[1871年]][[3月5日]]、[[ロシア帝国]]の事実上の属国であった[[ポーランド立憲王国]]の都市、[[ルブリン]]近郊の[[ザモシチ]]で生まれた。ユダヤ人の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世と、その妻のリーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供であった。出生時の名前はロザリアである。<br /> 生年について2通りの説があるのは、[[チューリッヒ大学]]へ提出した履歴書には[[1871年]]生まれと記載されているのに対し、[[1887年]]に発行された[[アビトゥア資格]](ドイツの大学入学資格)証書には彼女が17歳である(すなわち[[1870年]]生まれである)と記されていることによる。<br /> 自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代には[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]や[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]に傾倒して多大な影響を受けた。<br /> <br /> [[1880年]]、一家はワルシャワへ転居、ローザはワルシャワ第2女子[[ギムナジウム]]へ通うこととなり、[[1887年]]には優秀な成績で[[アビトゥア資格]]試験に合格してギムナジウムを卒業した。前年の[[1886年]]以降、彼女はポーランドの左翼政党である「プロレタリアート」のメンバーとなっている。<br /> 「プロレタリアート」は1882年に設立されて、[[ゼネラル・ストライキ]]を組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑され、党自体はすでに解散に追い込まれていた。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため、[[1889年]]にはローザにも拘留の危機が迫り、スイスのチューリッヒに亡命。<br /> チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学・歴史学・政治学・経済学・数学を学んだ。<br /> 同じ時期には、[[アナトリー・ルナチャルスキー]]や[[レオ・ヨギヘス]]といった社会主義者たちも、この大学に在籍していた。「Staatswissenschaft([[政治体制]]の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。<br /> <br /> [[1890年]]、社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、[[ドイツ社会民主党]](以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。<br /> しかし社会主義者の議員たちは、口先では革命について語りながら、その実は、権力や富の拡大ばかりにうつつを抜かすようになっていた。<br /> <br /> [[File:RLuxemburgCpWz.jpg|thumb|left|350px|1895年。ローザ・ルクセンブルク]]<br /> <br /> それに対してローザは、革命的マルクス主義者としての信条を守り抜き、[[1893年]]には[[ポーランド社会党]]の[[国家主義]]的な方針に反対して、レオ・ヨギヘスや[[:en:Julian Marchlewski|Julian Marchlewski]](またの名をJulius Karski)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の大義」)紙を発刊。<br /> ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。<br /> ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである。」という[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]のテーゼに忠実であり、[[カール・カウツキー|カウツキー]]の「民族融合論」に賛同して、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]らの唱える社会主義の下での[[民族自決|民族自決権]]を否定したためである。<br /> このことにより、のちにレーニンとのあいだに対立が生じることとなる。<br /> <br /> 同[[1893年]]、ヨギヘスとともに、[[ポーランド王国社会民主党]](以下SDKP)を創設(のち[[1899年]]には[[リトアニア]]の社会民主主義者らの組織と連合して[[ポーランド・リトアニア王国社会民主党]]([[:en:Social Democracy of the Kingdom of Poland and Lithuania]]、以下SDKPiL)と名を変え、1918年に結成される[[ポーランド共産主義労働者党]]の前身組織の一つとなる)、ワルシャワで非合法に第1回党大会を開催する。成年期の大半はドイツで過ごしているものの、ローザはポーランドの社会民主主義者を代表する理論家であり続け、中心的なオルガナイザーであるヨギヘスとともに党を指導した。なおヨギヘスは、のちにローザらが結成する[[スパルタクス団]]の主要メンバーが次々と逮捕されて活動継続が困難になったときにも、機関紙『スパルタクス書簡』の編集や配布・メンバー間の連絡などを請け負った。<br /> <br /> [[1896年]]に[[第二インターナショナル]]のロンドン大会に出席するなど、社会主義者として活動すると同時に大学での研究にも精力的に取り組み、[[1897年]]には学位論文「ポーランドにおける経済の発展」により最優秀の評価を得て法学博士号を取得する。<br /> <br /> ===ドイツ移住===<br /> [[File:Zetkin luxemburg1910.jpg|thumb|right|250px|1910年。[[クララ・ツェトキン]]と歩くローザ (右) ]]<br /> [[1898年]]、ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、[[ベルリン]]へ転居。ドイツ社会民主労働党(後の[[ドイツ社会民主党]]。以下SPD)に入党し、同党左派での活動を開始。それ以前から[[修正主義]]を唱えていた主流派の[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]が[[1899年]]に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「[[社会改良主義|社会改良]]か革命か」と題したパンフレットで激しく反論する。この一件により、SPD随一の雄弁家・理論家として党内外の国際社会主義運動において広く知られるようになる。<br /> <br /> このころには戦争の気配がいよいよ濃厚となり、ローザはSPDの順応主義的な議会路線への批判を強めた。ローザは、資本と労働のあいだの決定的な差異を埋めるには、プロレタリアートが権力を獲得し生産方法に関わるすべてに革命的な変革が起こらない限り不可能であると主張して修正主義者たちの離党さえ望み(さすがにこれは叶わなかったが)、議会制民主主義を重視する多数派や党指導部の[[カール・カウツキー|カウツキー]]らとの対立に至る。ただし、カウツキーも(議会での議席数増大がその狙いである以上)党綱領からマルクス主義を捨て去ることまではしなかった。<br /> <br /> [[1900年]]以降、ローザは『ライプツィヒ人民新聞』やSDKPiLの機関紙『赤旗』をはじめとするヨーロッパ中のさまざまな新聞記事で目下の経済・社会問題に関する意見を表明し、[[1904年]]から[[1906年]]のあいだには政治活動の咎によって3度も投獄されるが、なおも彼女の活動は精力的に続く。特に[[1905年]]の[[ロシア第一革命]]に対しては、その歴史的意義と支持の意を強く表明、ゼネストの重要性を確信し、党の戦術として採択するよう主張するようになる。<br /> <br /> [[Image:Lenin-1895-mugshot.jpg|thumb|right|150px|ウラジーミル・レーニン]]<br /> [[1907年]]ロンドンで開催された[[ロシア社会民主労働党]]の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]と対面する。そのすぐ後に開催された[[第二インターナショナル]]のシュトゥットガルト大会で採択された戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めるもの)は、ローザとレーニンによって起草されたものである。[[1906年]]にベルリンで開設されたSPD党教育センターで、マルクス主義と経済学の講師を勤めるようになったのもこのころのことであり、ローザの主著の一つである『経済学入門』は、ここでの講義をまとめたものである。また、このときの受講者の一人には、のちのSPD議長にして、[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]初代大統領、[[ドイツ革命]]の際には臨時政府元首としてローザを弾圧することになる、[[フリードリヒ・エーベルト]]がいる。<br /> <br /> これ以前から戦争の危機が近づいているとの確信を深めていたローザは、ドイツの[[軍国主義]]と[[帝国主義]]に対する攻撃の手を強めてゆき、[[1910年]]には、戦争を食い止めるために党の採るべき革命的戦術として労働者に団結を促し、[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]を組織するよう、SPDの方向転換を要請する論文を執筆。<br /> しかしこれが党指導部に受け入れられず、機関紙『新時代』への掲載を拒否されたため、カウツキーらとの決裂は避けられないものとなった。<br /> <br /> [[1912年]]2月には、SPD代表として、パリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者[[ジャン・ジョレス]]とともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。[[1914年]]にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達し、戦争を避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザは[[フランクフルト]]ほか各地でデモを組織し、[[良心的兵役拒否]]や命令への不服従を訴えかける。<br /> この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ、懲役1年の有罪判決を受ける。拘留は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党において、[[ナショナリズム]]が[[階級意識]]([[:en:Class consciousness]])よりも濃厚になっていることを認めざるを得ず、落胆する。<br /> <br /> [[1913年]]には、[[古典派経済学]]の分析を通じて、[[資本蓄積]]が国際負債や[[帝国主義]]を生むとを論じた主著、『&lt;nowiki&gt;資本蓄積論&lt;/nowiki&gt;』([[:en:The Accumulation of Capital|Die Accumulation des Kapitals]])を出版する。<br /> <br /> [[1914年]][[7月28日]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]が[[セルビア]]に宣戦布告して[[第一次世界大戦]]が勃発。[[8月3日]]には[[ドイツ帝国]]が[[ロシア帝国]]に宣戦布告した。翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。SPDの議員も全員がこれを支持し、「[[城内平和]]」の名の下、戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。<br /> またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され、求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調。こうして[[第二インターナショナル]]の命脈は尽きた。<br /> これを聞いたローザは、自殺の考えが頭をよぎるほどの衝撃を受けた。<br /> [[1899年]]以来、彼女が戦い続けてきた修正主義が勝利を収め、戦争が始まったのである。<br /> <br /> === スパルタクス団結成 ===<br /> {{左翼共産主義のサイドバー}}<br /> [[Image:Karl Liebknecht.jpg|thumb|right|150px|カール・リープクネヒト]]<br /> ローザを筆頭とし[[カール・リープクネヒト]]、[[クララ・ツェトキン]]、[[フランツ・メーリング]]らを中心とした党内左派は[[1914年]][[8月5日]]に「グルッペ・インターナツィオナーレ」 (Gruppe Internationale) を結成する。翌[[1915年]]4月には機関紙『インターナツィオナーレ』を刊行し、論文『社会民主主義の危機』において破綻したインターナショナルの再建を訴え(ただし即座に発禁処分を受ける)、7月には党指導部宛に抗議書簡を投げかける。「グルッペ・インターナツィオナーレ」は[[1916年]][[1月1日]]にリープクネヒト宅で全国協議会を開き、当時拘禁されていたローザが獄中で起草した指針を採択し、『スパルタクス書簡』と題した非合法の冊子を発行することが決定され、メンバー共有のペンネームとして「[[スパルタクスの反乱|スパルタクス]]」([[共和政ローマ]]で奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の[[奴隷]][[剣闘士]]の名)が用いられた。これにより「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「[[スパルタクス団]]」として知られるようになる。ローザ自身は共和政ローマの創設者で初代執政官と伝えられる[[ルキウス・ユニウス・ブルートゥス]]にちなむペンネーム「ユニウス」を用いた。<br /> <br /> スパルタクス団はドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]および政府と妥協して戦争支持に回ったSPDの方針を拒否し、出獄したローザは再度ゼネストを要求して[[5月1日]]には[[メーデー]]のデモを煽動するなど闘争を展開した。その結果、[[7月10日]]には再逮捕されてリープクネヒトとともに禁固2年半を宣告される。はじめは[[ポズナン|ポーゼン]]、次いで[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]の刑務所へ収容された。この拘留期間にも彼女は「ユニウス」の名でいくつもの論文を執筆し、ヨギヘスほか仲間たちの手で地下出版された。これらの論文は、ドイツ労働者への武装蜂起の呼びかけや勃発直後の[[ロシア革命]]に関する見解(具体的にはレーニン批判)をその内容とする。<br /> <br /> ; ローザ・ルクセンブルクのロシア革命・レーニン批判<br /> : ロシア革命以前からローザはレーニンの前衛党論に反対していた([[1904年]]にレーニンの発表した『一歩前進二歩後退』への批判に始まる。議会主義への態度をめぐって対立していたカウツキーともこの点においては一致していた)。批判の第一は革命後の独裁(プロレタリアート独裁)のあり方・解釈についてである。[[プロレタリア独裁]]とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張したローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。批判の第二は、運動組織原則(レーニンの前衛党論)に対してであった。革命は自然発生的でなければならないと考えたのも、前衛党論批判の理由の一つであった。<br /> : 獄中にいた[[1917年]]、レーニンを指導者とする[[ボリシェヴィキ]]によって[[ソビエト]]政権が樹立された[[十月革命]]の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。<br /> : 具体的には、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散を批判し、「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・[[結社の自由|結社]]・集会・[[言論の自由]]を保障するべきであることを批判した。ローザの有名な言葉「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」はこうした文脈のもとに書かれたものである。これらの批判は死後、弟子によって出版されたが、ローザ本人の確認を経ていないことから、ローザの真意が記されているわけではないと旧ソ連は批判していた。<br /> <br /> === ドイツ革命 ===<br /> [[1917年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が参戦したころ、スパルタクス団はやはり戦争反対の立場からSPDを脱退したカウツキーらによって結成された[[独立社会民主党]](USPD)と合流する。[[1918年]][[11月4日]]に起きたキール軍港における水兵の反乱およびロシア革命時の[[ソビエト]]に倣った「労働者・兵士協議会(レーテ)」の結成が引き金となって[[ドイツ革命]]が勃発し、同9日に皇帝が廃位されると(同日ローザも釈放される)、USPDは勢力を拡大したSPDとともに共和政の新政府を樹立する(首班はエーベルト、革命後の[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]である)。<br /> <br /> [[ヴロツワフ|ブレスラウ]]の刑務所から釈放されたローザは、すでに釈放されていたリープクネヒトとともにスパルクス団を再編し、機関紙『[[:de:Die Rote Fahne|Die Rote Fahne]](赤旗)』を発刊した。同紙で書かれた最初の論文では、すべての[[政治犯]]に対する特赦と[[死刑廃止|死刑制度の廃止]]を要求した。<br /> <br /> 一方、USPDら急進派を快く思わないエーベルトは軍部と手を組むことを選んでいた。この協定により、革命で崩壊しかけた国軍の残党や国家主義者、右翼らによる[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍]](フライコール)が創設され、やがて革命派に対する武力鎮圧が始まる。あくまでも穏健な[[社会民主主義]]に拘泥した結果である。USPDは当然これに強く抗議して連立政府から撤退する。[[1918年]]末にスパルタクス団はUSPDから再度分離し、その他の社会主義者や共産主義者のグループ&lt;!--International Communists of Germany, IKDを含む--&gt;と連合。[[12月29日]]から翌[[1919年]][[1月1日]]にかけて開かれた創設大会をもって、ついにローザとリープクネヒトを指導者とする[[ドイツ共産党]](KPD)が誕生する。<br /> <br /> [[Image:Rosa Luxemburg ND4.JPG|250px|right|thumb|[[東ベルリン]]にあるローザ・ルクセンブルク像]]<br /> ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会との関係を保っていたが、選挙に勝つことはできなかった。この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。ローザが『Die Rote Fahne(赤旗)』の巻頭論文で反乱軍に対しリベラルな新聞の編集部を占拠するよう示唆したのと前後して、各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠されたため、エーベルトのSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧を本格化したのである。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体されてゆく。<br /> <br /> ローザとリープクネヒトは[[1月15日]]にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは[[銃床]]で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。その後、遺体は[[NSDAP]]([[ナチス]])政権により暴かれて所在不明となってしまった。[[2009年]]5月、[[ベルリン]]のシャリテ病院で身体的特徴がローザのものと一致する首の無い遺体が発見され、現在調査中[http://www.reuters.com/article/idUSLT1020262]だと報じられた(NSDAPによる墓暴きもこの時に判明した)。<br /> <br /> ==著書==<br /> *ローザ・ルクセンブルク撰集<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *[[松岡利道]]著『ローザ・ルクセンブルク:方法・資本主義・戦争』新評論社, 1988<br /> *[[伊藤成彦]]著『歴史に生きるローザ・ルクセンブルク 東京・ベルリン・モスクワ・パリ ― 国際会議の記録』2014、社会評論社 ISBN 978-4-7845-1523-3<br /> **上記の本は、2007年4月の彼女に関する東京国際会議の記録であり、また、2008年5月の東京学術シンポジウム、2009年ベルリン国際会議とモスクワ会議の記録である。各国語から日本語へ翻訳してある。<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> * 映画:『[[ローザ・ルクセンブルク (映画)|ローザ・ルクセンブルク]]』&#039;&#039;Rosa Luxemburg&#039;&#039; (1985年 西ドイツ)<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[ドイツ革命]]<br /> *[[スパルタクス団]]<br /> *[[社青同解放派]]<br /> *[[資本蓄積]]<br /> *[[帝国主義]]<br /> *[[民族自決]]<br /> *[[ルクセンブルク主義]]<br /> <br /> *[[ローザ・ルクセンブルグ (バンド)]] - 日本のロックバンド<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Rosa Luxemburg|ローザ・ルクセンブルク}}<br /> * [http://www.marxists.org/nihon/trotsky/1910-3/l-l.htm トロツキーによる弔辞]<br /> {{共産主義}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:るくせんふるく ろおさ}}<br /> &lt;!--[[Category:ヨーロッパの社会主義の人物]]--&gt;<br /> <br /> [[Category:19世紀ドイツの哲学者]]<br /> [[Category:20世紀ドイツの哲学者]]<br /> [[Category:19世紀の女性哲学者]]<br /> [[Category:20世紀の女性哲学者]]<br /> [[Category:ポーランドの女性哲学者]]<br /> [[Category:ドイツの女性哲学者]]<br /> [[Category:ポーランドの経済学者]]<br /> [[Category:女性経済学者]]<br /> [[Category:ポーランドの法学者]]<br /> [[Category:共産主義者]]<br /> [[Category:ドイツの革命家]]<br /> [[Category:ヨーロッパの社会主義]]<br /> [[Category:ドイツ社会主義の人物]]<br /> [[Category:東欧社会主義]]<br /> [[Category:ドイツ社会民主党の政治家]]<br /> [[Category:ドイツ共産党の政治家]]<br /> [[Category:第二インターナショナルの人物]]<br /> [[Category:ポーランドの死刑廃止論者]]<br /> [[Category:マルクス主義]]<br /> [[Category:社会民主主義]]<br /> [[Category:政治犯]]<br /> [[Category:刑死した人物]]<br /> [[Category:ユダヤ系ポーランド人]]<br /> [[Category:ポーランド・ユダヤ系ドイツ人]]<br /> [[Category:ユダヤ人の社会主義者]]<br /> [[Category:ロシア帝国のユダヤ人]]<br /> [[Category:チューリッヒ大学出身の人物]]<br /> [[Category:ザモシチ出身の人物]]<br /> [[Category:1871年生]]<br /> [[Category:1919年没]]</div> 106.163.127.12 グラン・マルニエ 2018-06-29T14:01:58Z <p>106.163.127.12: </p> <hr /> <div>{{酒概要<br /> | 名前=グラン・マルニエ<br /> | 画像=[[画像:Two bottles of Grand Marnier.jpg|200px]]<br /> | 分類1=リキュール<br /> | 分類2=果実系のリキュール<br /> | アルコール度数=40%<br /> | 発泡=なし<br /> | 主原料=[[オレンジ|ビターオレンジ]]<br /> | 副原料=<br /> | 原産国=フランス<br /> | 原産地=<br /> | 製造元=マルニエ・ラポストル社<br /> | 販売元=[[ドーバー洋酒貿易株式会社]](2016年7月より)({{JPN}})<br /> | 糖度=<br /> | 色=琥珀色~橙色(透明)<br /> | 蒸留=<br /> | 熟成=<br /> | 備考=<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;グラン・マルニエ&#039;&#039;&#039;&lt;!--(あるいは&#039;&#039;&#039;グラン・マニエ&#039;&#039;&#039;)--&gt;([[フランス語|仏]]:Grand Marnier)とは、[[1880年]]に[[アレクサンドル・マルニエ・ラポストル]] ([[:en:Alexandre Marnier-Lapostolle]]) により生み出された[[フランス]]のオレンジ・[[リキュール]]([[キュラソー#各色のキュラソー|オレンジ・キュラソー]])の一銘柄である。[[アルコール度数]]は40度、[[エキス分]]は27.1%。<br /> <br /> なお、[[カタカナ]]での表記は、&#039;&#039;&#039;グラン・マニエ&#039;&#039;&#039;と書かれることが多い。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[コニャック]]に[[オレンジ|ビターオレンジ]]の蒸留エキス分を加え、[[オーク]]樽で熟成させて作られる。アルコール度数は40度で、[[食後酒]]としてストレートで飲まれるほか、[[カクテル]]や[[デザート]]にも用いられる。特にフランスでは[[クレープシュゼット]]や[[クレープ・オー・グランマルニエ]]などの洋菓子に使用されることも多い[[酒]]である。<br /> <br /> 日本で最も手に入りやすいのは「コルドン・ルージュ」(&quot;Cordon Rouge&quot;、「レッドリボン」とも呼ばれる)だが、それ以外にヨーロッパ各国や主要国の国際空港で売られている「コルドン・ジョーヌ」(&quot;Cordon Jaune&quot;、「イエローリボン」とも)や100周年記念ボトル(&quot;Cuvée du Centenaire&quot;)、150周年記念ボトル(&quot;Cuvée Speciale Cent Cinquantenaire&quot;)、[[サクランボ|チェリー]]を原料とした「チェリー・マルニエ」もある。コルドン・ジョーヌはコニャックではなく穀物酒が原料となっており、コルドン・ルージュに比べ格下とされており、ストレートで飲むよりもカクテルや料理に向いている。<br /> <br /> デザートにはクレープシュゼット以外にデニッシュや[[ビュッシュ・ド・ノエル|ブッシュ・ド・ノエル]]、[[クレームブリュレ]]作りに使われ、また[[クランベリーソース]]にクランベリーの苦味とは対照的な甘さや柑橘類の香りを加えるのにも多く用いられる。<br /> <br /> カクテルには[[マルガリータ|グラン・マルニエ・マルガリータ]]や[[コスモポリタン (カクテル)|コスモポリタン]]、[[グラン・マルニエ・サイドカー]]、[[グラン・マルニエ・オレンジ]]、[[ダーティ・ハリー (カクテル)|ダーティ・ハリー]]、[[グラン・ミモザ]]、[[B-52 (カクテル)|B52]]などに用いられる。<br /> <br /> == コアントローとの違い ==<br /> グラン・マルニエと並び称されるオレンジ・リキュールに&#039;&#039;&#039;[[コアントロー]]&#039;&#039;&#039;がある。<br /> 両者とも度数は40度であるが、製法が異なっており、グランマニエが自家製コニャックをベースに熟成しているのに対して、<br /> コアントローはオレンジ果皮をベースに蒸留して作られる。<br /> こうした製法の違いは色として現れ、グラン・マルニエは琥珀色、コアントローは白色であり、<br /> よってコアントローは&#039;&#039;&#039;ホワイトキュラソー&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。また、グラン・マルニエにはオレンジの苦味が感じられるが、<br /> コアントローにはそれがなく、かつ、糖分が高い。<br /> <br /> 詳しくは、[[コアントロー]]のページを参照のこと。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[キュラソー]]<br /> * [[コアントロー]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.grand-marnier.com/ グラン・マルニエ公式サイト]<br /> * [http://www.recipe.nestle.co.jp/from1/cook/word/ka/guranmarunie.htm グランマルニエ] レシピ基本用語(ネスレサイト内)<br /> * [http://www.cocktailtimes.com/people/profile.grandmarnier.shtml/ 商品歴史] (英語)<br /> * [http://www.boozebasher.com/?p=33 BoozeBasherでのレビュー] (英語)<br /> <br /> {{Sake-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くらんまるにえ}}<br /> [[Category:果実系のリキュール]]<br /> [[Category:果実酒]]<br /> [[Category:フランスの酒]]<br /> [[Category:コニャック]]</div> 106.163.127.12
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