雅山哲士
雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)に所属していた元大相撲力士。茨城県水戸市出身。本名は竹内雅人(たけうち まさと)、愛称はマサト。身長187cm、体重188kg、血液型はO型。引退後は、二子山部屋師匠の年寄二子山雅高(ふたごやま まさたか)として後進の指導にあたっている。最高位は西大関(2000年(平成12年)7月場所)。好きな食べ物はリンゴ、焼肉。好きな飲み物は酒、ブラックコーヒー。ZARDとやなせたかし作『アンパンマン』に登場するメロンパンナのファン。
得意技は、突き押し相撲だが、四つでも取れた。相手の顔に向けて行なわれる小刻みな突き・腕の動きを効果的に使う取り口が特徴。 また、重い突きを繰り出してから土俵際を回り込みながらの引き、叩きの巧さもあった。 腰が重い力士としては珍しく足腰が強い力士であり、対戦相手がいなしたり、出し投げを放とうとしても、足腰のバランス感覚で相手をかわしてしまう技術は高い評価を受けていたが、体重の影響による足の怪我も少なくなかった。
Contents
来歴
実家は旧茨城交通グループのオーナー一族。小学校の先生に「相撲で勝ったら、焼肉食べ放題に連れていってやる」と言われたことがきっかけとなって相撲を初め小学校時代は「水戸尾曽相撲道場」で相撲を教える武双山の父に指導を受け強くなった。子どもの頃好きだった力士は琴椿である。水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが後に柔道部の先生に直談判して相撲部を作ってもらった[1]。
「怪物」から「お荷物」へ
1997年9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会で優勝して大学2冠を達成すると早々と明治大学を3年で中退して当時の武蔵川部屋に入門し、1998年(平成10年)7月場所に幕下付出で初土俵を踏む。当時の幕下付出条件としては、1997年の全日本相撲選手権大会で3位入賞の実績を残していた[2]。中学時代からのライバルだった東洋大学の岡部(のちの関脇・玉乃島)が中退して角界入りしたことも動機のひとつだった。プロ入り以降武蔵川の厳しい指導によって立合いの出足を鍛えられ、学生相撲出身者にありがちな立合いの甘さを改善した[3]。2場所連続幕下優勝で同年11月場所に十両に昇進した。勢いは止まらず初土俵から4場所連続優勝という記録を作り、1999年(平成11年)3月場所には新入幕を果たした。このときの番付は東前頭7枚目であった。当時は早すぎる昇進のために髪の長さが足りずに髷が結えず、長髪の荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、右肩のコブ[注釈 1] が印象的な力士だった(現在は度重なる手術もあり小さくなっている)。またこの場所は9勝6敗で敢闘賞を受賞した。初土俵から所要5場所で初三賞を獲得したのは2014年現在の最速記録である[4]。
2000年(平成12年)1月場所に新小結で12勝3敗、優勝次点の好成績だった。翌3月場所と5月場所には関脇の地位で、2場所連続で11勝4敗を挙げる。「三役の地位で場所合計34勝」の成績により、5月場所後に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所で大関に昇進した記録は史上1位となる。しかし、相撲にこれといって強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、さらに当時の武蔵川部屋には横綱に武蔵丸、大関に武双山・出島がおり、「この3力士と対戦せずの3場所34勝は物足りない」という意見も出ていた。通常ならば、「満場一致の賛成」となる相撲協会理事会での大関昇進推挙の議題に対し、理事10名の内3名も反対者が出る異例の事態となり、その行く末は当初から不安視されていた[4]。
新大関の2000年7月場所は、初日の栃東戦で右肩を怪我した影響で6勝9敗と負け越し。翌9月場所はいきなり大関角番となり、勝ち越して角番を脱したものの8勝7敗だった。その後も負け越しては角番脱出の繰り返しが続き、2001年(平成13年)7月場所では千秋楽に敗れ7勝8敗と負け越し。3度目の角番で迎えた2001年(平成13年)9月場所でも序盤から波に乗れず、9日目の海鵬戦で左足首関節及び左足根骨脱臼の大怪我に見舞われて途中休場、同部屋の出島の後を追うように場所後関脇へ陥落してしまう。また大関の在位数はわずか8場所で、短命大関としての順位は、昭和33年(1958年)に大相撲本場所が年6場所制となって以降、大受(在位5場所)・増位山 (在位7場所)に次いでワースト3位の記録である。さらに大関在位時代の二桁勝利は一度も無く、大関時の成績が57勝58敗5休と通算敗北数が勝利数を上回るなどし、相撲雑誌の識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「21世紀最初のお荷物」などと言われる有様だった[4]。さらに24歳3ヶ月での大関陥落は、大受と並んで最年少記録である[注釈 2]。
大関再挑戦へ
関脇に陥落した平成13年(2001年)11月場所は公傷全休が適用され、平成14年(2002年)1月場所では関脇の地位で10勝以上挙げれば大関特例復帰だったが、怪我の回復が大幅に遅れ又も全休。公傷適用では無い為、翌3月場所は東前頭8枚目まで下がってしまったが、9勝6敗と5場所ぶりに勝ち越した。しかしその後も暫くは平幕の地位に低迷、時折三役に上がっても全く勝ち越せない状況が続いた。平成15年(2003年)1月場所では横綱貴乃花との取組で疑惑の判定に巻き込まれた上に右足を負傷するなどの不運を被った(後述)。だが、平成16年(2004年)7月場所に平幕で12勝3敗と優勝次点の好成績を挙げて大勝し、翌9月場所に関脇に戻ると9勝6敗の成績を挙げ、大関昇進を決めた場所以来となる三役での勝ち越しを果たした。それ以来上位に定着して、再度の大関挑戦を期待されるようになる。再大関を狙う中で父が死去するなど心労に見舞われたことでここまで持ち直すのに時間がかかったという[5]。
前頭4枚目で迎えた平成17年(2005年)11月場所は当時の3大関(魁皇、千代大海、栃東)全員を倒し10勝5敗の成績を挙げ、大関陥落後初めてとなる三賞(敢闘賞)を受賞した。平幕に据え置かれた翌平成18年(2006年)1月場所も先場所と同じ顔ぶれの3大関を破る(この場所新大関の琴欧州には敗れる)活躍を見せて8勝7敗と勝ち越した。更に小結に戻った翌3月場所も西小結の地位で琴欧州、千代大海、栃東の3大関を倒す活躍で10勝5敗の成績をあげ、大関再昇進への足がかりをつかんだ。続く5月場所では序盤から快進撃を見せ、新大関の白鵬を含む対戦した全4大関を撃破し、千秋楽までと白鵬ともに優勝争いをリードした。結局白鵬との優勝決定戦にもつれ込んだが、白鵬の汗に突っ張りが滑り惜しくも敗れ初優勝を逃した。それでも成績は14勝1敗の好成績で、翌場所に大関再昇進を賭ける事になった。
その平成18年7月場所では、序盤こそ緊張から苦戦したが終盤5連勝し、結局10勝5敗で場所を終えた。これで1度目の大関昇進時と同様に「三役の地位で合計3場所34勝」の成績となり、審判部の判断が注目されたが、不運にも大関再昇進は見送られた。この理由として、直前場所10勝5敗での昇進は昭和40年代以来ほとんど例が無かった事[注釈 3] や、10日目を終えて5勝5敗と優勝争いに全く参戦できなかった事、また雅山が再昇進すれば当時前例の無い1場所6大関という番付構成になること[注釈 4] も不利に働いてしまった[6][注釈 5]。さらに綱獲りが掛かっていた白鵬が、雅山の大関昇進と同時にところてん式に横綱昇進を果たしていれば5大関に収まったが、白鵬の横綱昇進も見送られる結果となった。
再び大関再挑戦の場所となった翌9月場所では、9日目まで既に5敗目を喫してしまい、結果9勝6敗と勝ち越したが又も大関復活はならなかった[注釈 6]。しかしその9日目、白鵬との取組で善戦するなど(本人曰く『今場所最高の相撲』)して、終盤にかけて気持ちを切らさなかった事を高く評価された。当時の北の湖理事長は「大勝ちすれば、話題性の出てくる可能性はある。よくここまでもってきた」とコメントするなど、大関復帰の可能性は残っていると見られた。しかし、翌11月場所は千秋楽にようやく勝ち越しの8勝7敗という成績に留まった。さらに続く平成19年(2007年)1月場所では5勝10敗と大負けし、5場所連続で務めた関脇の座から平幕へ陥落してしまい、再大関の夢は潰えた。
もともと押し相撲主体ながら四つの巧さも持っており、大関陥落後暫くは四つ主体にすべきか迷った時期もあったが、その迷いを捨てて突き押しを徹底したことが、この頃の好調の原動力になっており、相撲の内容は大関昇進から在位時代より遙かに上回っているとされていた[注釈 7]。
再大関取り失敗から引退まで
平幕に下がった翌2007年(平成19年)3月場所2日目の朝青龍との取組では、横綱の足をぐらつかせるほどの激しい突っ張りの後、寄り倒して勝った。これが自身初の金星であった[注釈 8]。朝青龍は前日の初日に小結・時天空に敗れており、これで2連敗スタートとなった。2日連続で大阪府立体育館内を大量の座布団が舞った。その後も7日目まで4勝3敗であったが、7日目に旭天鵬を寄り切った際に、右の太ももを痛め、中日から休場した。再大関失敗から暫くして母が死去したことで深く悲しみ、本場所で花道に控える付け人に母の遺影を掲げるように頼んだ時期もあった[5]。
それ以降は約5年間、平幕の地位であった。関脇を滑った当初は横綱・大関と対戦する幕内上位でも健闘していたが、次第に上位では大負けするようになった。平成21年5月場所では、入幕以来初めての前頭2桁台(11枚目)まで下がってしまった。しかし中位ではまだ頭一つ抜けた存在であり、大勝も収めている。平成20年(2008年)9月場所では再び朝青龍から金星を挙げたが4勝11敗の大敗に終わった。翌11月場所では、初日から7連勝を果たし、9日目に勝ち越しを決め、中盤戦まで優勝争いに絡んだ。終盤に失速したものの10勝5敗と平成18年7月場所以来の2ケタの白星を挙げた。それから1年後の平成21年(2009年)11月場所では、西前頭9枚目の地位で12勝3敗を挙げ、白鵬と優勝を争った平成18年5月場所以来となる3年半ぶりの三賞(敢闘賞)を受賞した。
2010年(平成22年)に起きた大相撲野球賭博問題では野球賭博に関わったとされ、特別調査委員会から名古屋場所での謹慎休場を勧告され、相撲協会もそれを受け入れている[7]。7月場所は謹慎のため全休となり、翌9月場所は東十両2枚目に陥落となった。元大関での十両陥落は1977年の大受以来2人目の珍事。しかし同場所では元大関の実力を見せ付け、12勝3敗の好成績を挙げ1場所で幕内に復帰した。
2011年(平成23年)3月3日、大相撲野球賭博問題に関する「賭博開帳図利容疑」で書類送検された[8]。
2011年11月場所では西前頭6枚目で11勝4敗の好成績を収め、翌2012年(平成24年)1月場所は東小結に復帰。2007年1月場所以来29場所振りに三役へ返り咲いたが、元大関で十両まで陥落した後に三役復帰を果たしたのは、雅山が大相撲史上初めてとなる。
2012年の1月場所は初日からの6連敗が響き、11日目に負け越し。中日に大関の琴奨菊を叩き込みで下す殊勲の星を挙げたものの、3勝12敗の大敗に終わった。3月からは、加齢による衰え、足裏にまで巻かれたテーピングや足袋の所為か、膝から滑って落ちる負け方が目立つようになった。2012年3月場所には西前頭9枚目の地位で8勝7敗と勝ち越したが、西前頭5枚目で迎えた5月場所は4勝11敗と大きく負け越した。その後、7月場所は8勝7敗と勝ち越すも、9月場所は5勝10敗の負け越し。11月場所は西前頭11枚目の地位で相撲を取り、ここで5勝10敗の負け越しを喫したため、番付運次第では翌場所の十両陥落が起こりうる状況にあったが、1月場所番付発表では東前頭16枚目に付けており、幕尻より半枚上の番付に留まることができた。
2012年12月には心臓に痛みが走る症状が現れただけでなく脳梗塞まで疑われ、決定的な故障を発した中で出場した[9] 2013年1月場所は初日から8連敗で負け越してしまった。負け越しが決まった翌日に玉鷲を引き落としで破りようやく初場所初勝利を挙げた際には館内が暖かい拍手に包まれ花道で思わず涙を流した。そして「(十両陥落は濃厚だが)まだ気持ちは切れていない」と十両陥落となった場合でも土俵に上がる決意を表した。この場所は3勝12敗で取り終えた。
翌3月場所は東十両9枚目となり、自身2度目(元大関大受を含めると史上3度目)の十両陥落となり、さらに自身の持っていた元大関の最低地位の記録を更新してしまった。さらにその場所も10日目に負け越してしまい、13日目で幕下への陥落が濃厚となり、鬼嵐に勝って3勝12敗で取り終えた千秋楽当日の3月24日、ついに現役引退を表明。年寄「二子山」を襲名し、後進の指導にあたることとなった[10]。尚引退した同年3月場所で、雅山は大関陥落後に関脇以下の地位を務め続けて68場所となったが、これは2009年7月場所限りで引退した出島武春(武蔵川部屋)の48場所を大きく超える史上最長記録となった。
引退後
2013年9月30日、現役引退及び年寄二子山襲名の報告の為に茨城県庁に赴いた際に、橋本昌茨城県知事から長年の相撲界への功労を讃えられて『茨城県特別功労賞』を授与された[11]。
2014年1月18日、自伝の『雅ノート』を実業之日本社から出版した。
2014年2月1日に引退相撲が両国国技館で行われ、8000人の来客が集まる中で引退相撲の取組相手として長男を選び、押し出しで敗れた[12]。断髪式では先代武蔵川夫妻ら270人がはさみを入れ、師匠の藤島が大銀杏を切り落とした[13]。
その後は藤島部屋付き年寄として後進の指導に当たっているが、二子山部屋を独立する意向も示していた。二子山部屋といえば横綱・大関を輩出し、かつての大相撲人気を支えた部屋の名前であるが(部屋自体は貴乃花部屋に改称して2004年に消滅)、これについては「偉大な名前を引き継ぐことができた。自分も(強い)イメージを残せる部屋を目指したい」と語っていた[14]。2018年3月29日の理事会で、同年4月1日付で、6人の内弟子を連れて藤島部屋から二子山部屋を分家独立することが承認された[15]。
協会の業務では2015年1月29日付の職務分掌で記者クラブの担当として広報部に配属され、2016年3月には日本相撲協会の評議員に就任した[16]。評議員は2018年3月26日まで務め[17]、同月28日の職務分掌では審判部に配属された[18]。
エピソード
人物
- 。
- 明治大学を中退したのは、約1年間にわたって下級生部員2人に殴る蹴るの暴行を加えていたことが発覚したためである。その結果当時の相撲部監督から自主退学するよう求められ、監督自身も引責辞任することとなった。
- 普段は明るい性格で、愉快なコメントを数多く残している。豊ノ島、普天王と仲がいい。
- 雅山の四股名は、武双山の父が考えたものだが、本人は「雅風」と考えていた。現在でも雅風に未練が残っているという。
- 2006年7月から、好評だった部屋の公式ブログから独立する形で自身のブログを立ち上げた。しかし過去に自身のブログでファンと口論になったことがある。なお、ブログは2008年11月を最後に休止してしまっている。
- 酒を嗜むようになったのは30歳ごろになってからであった。同郷の大久保博元と親交がある[注釈 9]。雅山はある時本場所中で負けた後に食事の席で「1日1回、リセットする時間をつくれ」と大久保に助言され、以来飲酒の習慣を取り入れた[19]。
- 2008年9月に7歳年下の女性と結婚。2009年6月に結婚披露宴を行った。妻との間に息子が2人いたが、次男は2013年6月に1歳11か月で他界した。次男の死後の同年9月からは年寄名の下の名を次男の名である「雅高」に変更している。
- 2015年5月場所より自身の公式ツイッターを開設した。
- 「相撲界のグルメ王」と呼ばれるほどグルメには造詣が深く、特に焼肉に関しては全国130軒もの焼肉屋に足を運んで常に美味しいメニューをチェックしている。2018年の時点でも豪栄道とは焼き肉仲間であり、ともに焼肉屋めぐりを楽しんでいる雅山は、1日3、4軒もの店をはしごしたこともあったという[20]。
大相撲
- 同部屋の元横綱・武蔵丸を慕っており、武蔵丸が引退した時には武双山、武雄山らと共に大泣きしたという。武蔵丸の引退相撲での横綱土俵入りでは露払いを務めた。
- 同学年の玉乃島とは子供の頃からライバル関係である。また、若兎馬からもライバル視されていた。千代天山とライバル関係だった時期もあった。
- 2006年5月場所から2007年1月場所まで、5場所連続で琴光喜とともに関脇を務めた。5場所連続同じ力士が関脇を務めたのは131年振りであった。
- 新入幕の1999年3月場所を前頭7枚目で迎え、その後長きにわたって前頭二桁枚数の経験がなかった。雅山が初めて二桁枚数となったのは2009年5月場所の前頭11枚目で、幕内在位62場所目のことだった。
- 勝ち名乗りを受けるときには右手で右ひざを叩いていた。
- 朝青龍との対戦成績は5勝34敗。このうち2勝は金星。
- 大関再昇進をかけていた頃は当時の大関陣に対して相性がよく、大関キラーと呼ばれたこともあった。
- 大関陥落以降は「現役中は元大関と言われるのが嫌でした。大関に戻るつもりでいましたから」という理由で、大関に勝ってもインタビュールームには行かなかった。しかし、朝青龍から初金星を得た時は「僕は強い横綱に勝ってうれしかったので行きました」という[21]。
- 2009年3月場所12日目の千代大海戦で引き落としを決めて勝った際に物言いが付き、結果として「髷を掴んだが故意ではない」という見解が出された上で行事軍配通りの判定に落ち着いた[注釈 10][注釈 11]。
- 突き押し力士らしく長らくツラ相撲傾向だったが、晩年はヌケヌケ傾向にあった。
- 雅山の引退により、旧基準の幕下付出(幕下60枚目格付出)で初土俵を踏んだ力士は全て引退となった。
- 優勝未経験のまま大関経験者が引退する例は、大関からさらに横綱に昇進して尚優勝未経験のまま廃業した北尾の例から数えても実に25年3ヶ月ぶりの珍事である[注釈 12]。雅山以前に最高位・大関の力士が優勝0回で引退した例は丸32年前の2代目増位山(1981年3月場所引退)まで遡る。
- 幕内在位82場所の記録を持っているが、幕下付出力士としては1位の記録である。学生相撲出身力士で幕内在位場所数記録歴代10位以内に名前を記録している力士も雅山ただ1人である。学生相撲出身者でありながら通算88場所中82場所を幕内(新入幕から引退に至るまで十両陥落は2回のみ)で過ごしたことは出世が早く長持ちで衰えが遅く引退間際まで幕内に定着していたことを意味する。
- 現役生活で思い出に残っている相撲は3場所連続休場を喫して大関から陥落した後に迎えた2002年3月場所初日の玉春日戦、幕内終場所となる2013年1月場所9日目でその場所の初白星を上げた玉鷲戦、そして現役最後の1番となった2013年3月場所千秋楽の鬼嵐戦である[19]。
- 引退後に二宮清純との対談でモンゴル人力士の弱点を分析し、そこでは「実はモンゴルの力士は縦の引きに弱い傾向があります。横にいなしても粘っこくついてくるのに、縦に引くと意外とあっさり落ちることが少なくない。僕も白鵬に勝った時はバッと突いて、サッと引いて崩すパターンがほとんどでした。」と語っていた[19]。2017年7月場所前のコラムでも、モンゴル人力士の引きに対する耐性の傾向について同様のことを話している[22]。
- 現役時代叩きを武器にしてきたことから、投げで勝つと賞賛されることが多いことと叩きで勝つと褒められることが殆どないことの差の意味が分からないという。雅山は2017年7月場所前のコラムで「はたきだって、突いている間に、相手の足がだんだんそろっていくのを、一瞬で見極めてはたくわけですから、技術的な面もあるんです」と持論を述べている[22]。
- 2017年11月場所前の自身のコラムで、技能賞受賞に関しては小柄な力士や派手な技を繰り出す力士が有利であると分析しており、押しや叩きをもっと評価しても良いのではと私見を述べている。同じコラムで二子山は力士の怪我の増加は稽古不足が原因であると断じており、さらに「普通の社会人で考えたら、力士は稽古が仕事なんです。だから稽古をしなかったら、就職した会社で何もしないでボーッとしているのと一緒です。巡業中に稽古をしなかったら、ただの旅行、あるいはお客さんへの顔合わせになってしまいます。相撲は修行でもありますが、仕事でもあるんです」と稽古の重要性を説いた。寝不足は移動のバスで2席使えるのだからそれを使ってすれば良いと厳しく言い、稽古不足を棚に上げて賃上げを要求するのは矛盾していると、発言のレベルが落ちていると切り捨てている[23]。
- 2017年頃から問題になった白鵬のかち上げと張り手については、サポーターを巻いた肘でのかち上げは悪く取られても仕方がないとしつつも、基本的に「自分の体力が落ちてきたことを考えてやっていたわけですし、私は何とも思っていません」と容認している[24]。
2003年1月場所
この場所西前頭筆頭だった雅山は2日目、休場明けの横綱貴乃花と当たった。取り組みでは雅山の二丁投げが決まって貴乃花は裏返しになって左肩から落ちた。多くの人が雅山の勝利であると確信し、また立行司木村庄之助の軍配も雅山の方を指した。しかし勝負審判から物言いがつき、「両者同体」という判定により取り直しとなった。取り直しの一番では貴乃花の上手投げが決まり、雅山は敗れた。
しかしこの取組直後から、雅山が勝っていたとする抗議の電話が、相撲協会とNHKに、100件以上も殺到した。また、雅山は最初の二丁投げを放った際、右足関節外果を剥離骨折しており、それをおして出場した翌日の大関朝青龍との取組に負けた相撲で更に悪化させ、4日目から休場した。一方の貴乃花も、投げを喰らった際に左肩鎖じん帯を損傷させ翌日から途中休場。ケガが完治しない中5日目から再出場したが、結局8日目の取組後に貴乃花は現役引退を表明した。当の雅山はこの一番を「横綱と二番とれたのは、少しは力がついてきた証拠かなと自信につながりましたね。」と前向きに受け止めていた様子を引退後に語った[19]。
ちなみに雅山は、貴乃花と11回幕内で対戦はしたものの、一度も勝利することは出来なかった。最高位が大関でありながら10回以上対戦して全敗した記録は雅山以外では汐ノ海が羽黒山に対して13戦全敗した例があるだけである。
主な成績
- 通算成績:654勝582敗68休 勝率.529
- 幕内成績:599勝563敗68休 勝率.515
- 大関成績:57勝58敗5休 勝率.496
- 現役在位:88場所
- 幕内在位:82場所(歴代9位)
- 大関在位:8場所
- 三役在位:20場所 (関脇14場所、小結6場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:7場所(2005年11月場所〜2006年11月場所)
三賞・金星
- 三賞:8回
- 殊勲賞:2回(2000年1月場所、2006年5月場所)
- 敢闘賞:5回(1999年3月場所、2000年3月場所、2000年5月場所、2005年11月場所、2009年11月場所)
- 技能賞:1回(2006年5月場所)
- 金星:2個
- 朝青龍2個(2007年3月場所、2008年9月場所)
各段優勝
- 十両優勝:2回(1998年11月場所、1999年1月場所)
- 幕下優勝:2回(1998年7月場所、1998年9月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1998年 (平成10年) |
x | x | x | 幕下付出60枚目 優勝 7–0 |
西幕下6枚目 優勝 7–0 |
西十両11枚目 優勝 12–3 |
1999年 (平成11年) |
西十両筆頭 優勝 14–1 |
東前頭7枚目 9–6 敢 |
西前頭2枚目 6–9 |
東前頭4枚目 7–8 |
東前頭5枚目 10–5 |
西前頭筆頭 8–7 |
2000年 (平成12年) |
西小結 12–3 殊 |
西関脇 11–4 敢 |
東関脇 11–4 敢 |
西大関1 6–9 |
西大関2 8–7[注釈 13] |
西大関2 9–6 |
2001年 (平成13年) |
西大関2 8–7 |
東大関2 7–8 |
西大関2 9–6[注釈 13] |
東大関2 7–8 |
西大関2 3–7–5[注釈 13][注釈 14] |
西関脇2 休場[注釈 15][注釈 16] 0–0–15 |
2002年 (平成14年) |
東関脇2 休場[注釈 17] 0–0–15 |
東前頭8枚目 9–6 |
東前頭3枚目 10–5 |
東小結 6–9 |
東前頭筆頭 7–8 |
東前頭2枚目 8–7 |
2003年 (平成15年) |
西前頭筆頭 1–3–11[注釈 18] |
西前頭9枚目 9–6 |
東前頭5枚目 10–5 |
東前頭筆頭 10–5 |
西関脇 4–11 |
東前頭4枚目 6–9 |
2004年 (平成16年) |
西前頭7枚目 11–4 |
東前頭筆頭 8–7 |
東小結 3–12 |
東前頭7枚目 12–3 |
西関脇 9–6 |
西関脇 9–6 |
2005年 (平成17年) |
西関脇 9–6 |
東関脇 5–10 |
東前頭3枚目 8–7 |
西小結 7–8 |
東前頭筆頭 6–9 |
東前頭4枚目 10–5 敢 |
2006年 (平成18年) |
東前頭筆頭 8–7 |
西小結 10–5 |
西関脇 14–1[注釈 19] 殊技 |
東関脇 10–5 |
東関脇 9–6 |
東関脇 8–7 |
2007年 (平成19年) |
西関脇 5–10 |
東前頭3枚目 4–4–7[注釈 20] ★ |
西前頭9枚目 9–6 |
東前頭5枚目 7–8 |
西前頭5枚目 9–6 |
西前頭筆頭 7–8 |
2008年 (平成20年) |
西前頭2枚目 7–8 |
西前頭2枚目 7–8 |
東前頭3枚目 6–9 |
東前頭5枚目 9–6 |
西前頭筆頭 4–11 ★ |
東前頭7枚目 10–5 |
2009年 (平成21年) |
東前頭2枚目 6–9 |
東前頭3枚目 4–11 |
東前頭11枚目 9–6 |
東前頭4枚目 8–7 |
西前頭筆頭 4–11 |
西前頭9枚目 12–3 敢 |
2010年 (平成22年) |
西前頭2枚目 5–10 |
東前頭7枚目 10–5 |
西前頭筆頭 5–10 |
西前頭5枚目 出場停止 0–0–15 |
東十両2枚目 12–3 |
西前頭14枚目 9–6 |
2011年 (平成23年) |
東前頭10枚目 6–9 |
八百長問題 により中止 | 東前頭16枚目 8–7 |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭5枚目 7–8 |
西前頭6枚目 11–4 |
2012年 (平成24年) |
東小結 3–12 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭5枚目 4–11 |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭7枚目 5–10 |
西前頭11枚目 5–10 |
2013年 (平成25年) |
東前頭16枚目 3–12 |
東十両9枚目 引退 3–12–0 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
碧山 | 0 | 2 | 蒼樹山 | 1 | 2 | 安芸乃島 | 6 | 5 | 曙 | 2 | 6 |
朝青龍 | 5 | 34 | 朝赤龍 | 16(1) | 9 | 朝乃翔 | 2 | 0 | 朝乃若 | 3 | 0 |
旭日松 | 1 | 2 | 安美錦 | 11 | 13 | 阿覧 | 2 | 5 | 勢 | 0 | 1 |
岩木山 | 7 | 4 | 潮丸 | 2 | 0 | 皇司 | 2 | 1 | 大碇 | 0 | 1 |
大日ノ出 | 1 | 0 | 小城錦 | 1 | 0 | 隠岐の海 | 2 | 2 | 魁皇 | 15(1) | 31(1) |
魁聖 | 3 | 2 | 海鵬 | 9 | 4 | 臥牙丸 | 1 | 5 | 鶴竜 | 2 | 6 |
春日王 | 7 | 2 | 春日錦 | 4(1) | 1 | 稀勢の里 | 4 | 16 | 北桜 | 1 | 0 |
北太樹 | 3 | 4 | 木村山 | 5 | 1 | 旭鷲山 | 12 | 5 | 旭天鵬 | 19 | 18 |
金開山 | 2 | 0 | 豪栄道 | 1 | 8 | 光龍 | 1 | 1 | 五城楼 | 2 | 0 |
黒海 | 17 | 5 | 琴欧洲 | 5 | 22 | 琴奨菊 | 9(1) | 11 | 琴錦 | 2 | 0 |
琴ノ若 | 7 | 6 | 琴光喜 | 17 | 24(1) | 琴勇輝 | 0 | 1 | 琴龍 | 9(1) | 6 |
磋牙司 | 1 | 0 | 佐田の富士 | 3 | 1 | 敷島 | 3 | 0 | 霜鳳 | 8 | 5 |
十文字 | 3 | 0 | 常幸龍 | 1 | 0 | 松鳳山 | 1 | 2 | 蒼国来 | 0 | 1 |
大善 | 3 | 0 | 大道 | 2 | 1 | 貴闘力 | 4 | 2 | 貴ノ浪 | 5 | 13 |
貴乃花 | 0 | 11 | 隆乃若 | 5 | 6 | 高見盛 | 15 | 10 | 髙安 | 1 | 5 |
宝富士 | 3 | 1 | 豪風 | 9 | 9 | 玉飛鳥 | 1 | 1 | 玉春日 | 14 | 0 |
玉乃島 | 17 | 3 | 玉力道 | 1 | 0 | 玉鷲 | 6 | 0 | 千代大海 | 22(1) | 24 |
千代大龍 | 0 | 2 | 千代天山 | 6 | 2 | 千代の国 | 1 | 0 | 寺尾 | 2 | 0 |
天鎧鵬 | 1 | 0 | 闘牙 | 5 | 7 | 時津海 | 11(1) | 3 | 時天空 | 17 | 11 |
土佐ノ海 | 12 | 15 | 土佐豊 | 0 | 3 | 栃東 | 16(1) | 19 | 栃煌山 | 7 | 4 |
栃栄 | 7 | 0 | 栃ノ心 | 6 | 5 | 栃乃洋 | 24 | 12(1) | 栃乃花 | 4 | 1 |
栃乃和歌 | 1 | 0 | 栃乃若 | 3 | 3 | 豊桜 | 2 | 0 | 豊ノ島 | 5 | 6 |
豊響 | 10 | 4 | 白馬 | 0 | 1 | 白鵬 | 4 | 23* | 白露山 | 1 | 0 |
濵錦 | 1 | 0 | 濱ノ嶋 | 2 | 0 | 追風海 | 4 | 3 | 把瑠都 | 5 | 10 |
日馬富士 | 6 | 12 | 肥後ノ海 | 7(1) | 0 | 富士東 | 3 | 2 | 普天王 | 9 | 0 |
寶智山 | 1 | 0 | 豊真将 | 4 | 4 | 北勝力 | 12 | 6 | 舛ノ山 | 0 | 1 |
湊富士 | 3 | 0 | 猛虎浪 | 3 | 2 | 山本山 | 0 | 1 | 燁司 | 1 | 0 |
芳東 | 1 | 0 | 嘉風 | 5 | 6 | 龍皇 | 1 | 0 | 露鵬 | 10 | 5 |
若荒雄 | 3 | 4 | 若の里 | 16 | 20 | 若乃花 | 1 | 2 |
- 他に優勝決定戦で、白鵬に1敗がある。
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太文字は2015年現在、現役力士)
改名歴
四股名
- 竹内 雅人(たけうち まさと)平成10年(1998年)7月場所 - 平成10年(1998年)9月場所
- 雅山 哲士(みやびやま てつし)平成10年(1998年)11月場所 - 平成25年(2013年)3月場所
年寄名
- 二子山 雅人(ふたごやま まさと)平成25年(2013年)3月24日 - 平成25年(2013年)9月1日
- 二子山 雅高(- まさたか)平成25年(2013年)9月2日 -
著書
- 『雅ノート』実業之日本社
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 肩のコブがあればカチ上げに使うことが相撲において一般的である。
- ↑ 厳密には雅山が24歳3ヶ月0週、大受が24歳3ヶ月1週となっている。
- ↑ それから5年後の平成23年(2011年)11月場所後、稀勢の里が関脇の地位で3場所合計32勝の成績で、さらに直前場所では10勝止まりながらも大関昇進した例がある。
- ↑ それから6年後の平成24年(2012年)3月場所後、鶴竜の大関昇進により、大相撲史上初の1場所6大関(琴欧洲・日馬富士・把瑠都・琴奨菊・稀勢の里・鶴竜)となっている。
- ↑ 「三役で3場所33勝以上」の成績を挙げながら大関を見送られたのは、昭和32年(1957年)11月場所の琴ヶ濱以来49年ぶり。
- ↑ この直前3場所も「三役の地位で合計3場所33勝」の成績を挙げたが、大関昇進の直前場所で1桁勝ち星(9勝)での昇進例は、年6場所制となった昭和33年(1958年)以降皆無により見送られた。
- ↑ その根拠として2006年5月場所には大関陥落者として唯一となる三賞ダブル受賞を果たしている。
- ↑ 金星は当然ながら前頭が横綱を倒した時にしか得られないので、横綱大関へのスピード昇進を果たした力士の金星の数は得てして少ないものである。同様に大関陥落後に初金星を挙げた力士には貴ノ浪がいる。
- ↑ 家族ぐるみの付き合いがあるようで、引退相撲では、楽天二軍監督としてキャンプ期間に入った大久保の代わりに大久保の母親に土俵下で鋏を入れてもらった(雅山は「どうしても鋏を入れてもらいたい3人の女性」として実姉、先代武蔵川夫人、大久保の母親を希望していた)。
- ↑ 『相撲』2009年5月号では件の場所で行われた雅山と翔天狼のそれぞれの取組をていねいに解説して「故意の髷掴み」の解釈の難しさを述べている。
- ↑ 2014年11月場所以前までは髷掴みと勝負の因果関係が認められることもこの種の判定において重要であり、髷を掴んだからといって無条件に反則負けとはならなかった。
- ↑ 北尾(横綱昇進後は双羽黒)は1987年12月31日に廃業届を受理された。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 大関角番(全3回)
- ↑ 左足関節及び左足根骨脱臼により途中休場
- ↑ 関脇陥落
- ↑ 公傷・全休
- ↑ 右肩インピンジメント症候群及びSLAP症候群
- ↑ 右足関節外果剥離骨折により途中休場
- ↑ 白鵬と優勝決定戦
- ↑ 右大腿四頭筋挫傷により途中休場
出典
- ↑ 講演「中学校生活で学んだこと」(水戸市立見川中学校) 2013年10月8日
- ↑ 全日本相撲選手権大会
- ↑ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p33
- ↑ 4.0 4.1 4.2 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)188ページから189ページ
- ↑ 5.0 5.1 雅山哲士 『雅ノート』 実業之日本社、2014-01-18。ISBN 978-4-408-45487-0。
- ↑ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)
- ↑ “(記事名不明)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. . (2010年6月29日)
- ↑ “野球賭博:元琴光喜ら書類送検 捜査終結へ”. 毎日jp (毎日新聞社). (2011年3月3日). オリジナルの2011年3月4日時点によるアーカイブ。
- ↑ “雅山、涙の引退 白星で締めた/春場所”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2013年3月25日) . 2016閲覧.
- ↑ “大相撲:元大関・雅山が引退表明 春場所3勝12敗”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年3月24日). オリジナルの2015年2月6日時点によるアーカイブ。
- ↑ “元大関・雅山に県が特別功労賞”. NHK茨城県のニュース 水戸放送局 (日本放送協会). (2013年9月30日). オリジナルの2013年9月30日時点によるアーカイブ。
- ↑ “稀勢、日馬が引退相撲に土俵入りだけ参加”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年2月1日) . 2016閲覧.
- ↑ “雅山断髪式“息子2人”と土俵入り”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年2月2日) . 2016閲覧.
- ↑ “元大関雅山が独立の意向 二子山部屋復活に意欲”. 中日新聞 CHUNICHI Web (中日新聞社). (2015年2月6日). オリジナルの2015年2月6日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ “元大関雅山の二子山親方、藤島部屋から独立”. 日刊スポーツ. (2018年3月29日) . 2018閲覧.
- ↑ “日本相撲協会 新外部理事に高野氏ら3人”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年3月29日) . 2016閲覧.
- ↑ “芝田山親方ら理事に 外部理事3人再任”. 毎日新聞. (2018年3月27日) . 2018閲覧.
- ↑ “花形の審判部一新、元益荒雄の阿武松親方が部長に”. 日刊スポーツ. (2018年3月28日) . 2018閲覧.
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 “この人と飲みたい(第2、4木曜日) : 二子山親方(元大関・雅山)<後編>「モンゴル勢の意外な弱点」”. SPORTS COMMUNICATIONS (2013年7月25日). . 2016閲覧.
- ↑ 力士ほどのグルメはいない? ちゃんこだけにとどまらない相撲めしの数々 ダ・ヴィンチニュース 2018/3/25 (KADOKAWA、2018年4月12に閲覧)
- ↑ 日刊スポーツ 2017年9月16日
- ↑ 22.0 22.1 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p22-25
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p31-32
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.44
外部リンク
- 雅山 哲士 - 日本相撲協会