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西園寺公相


西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代公卿従一位太政大臣冷泉相国と号す。太政大臣西園寺実氏の二男。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。

経歴

元仁2年(1225年)、従五位下叙爵1232年-1233年従四位上左近衛中将文暦2年(1235年)には播磨介と、国司も務める。

嘉禎2年(1236年従三位。続けて仁治2年(1241年)に正二位に叙される。延応元年(1239年従二位権大納言に叙任され、建長5年(1253年)左近衛大将に任命される。建長6年12月(1255年)に右大臣正嘉元年(1257年)に従一位、正嘉3年(1259年)に左大臣ついで弘長元年12月(1262年)に太政大臣となる。

文永4年(1267年)10月12日、父に先立って45歳で薨去

西園寺家家嫡となる

実氏の長男は公基であり、当初は公基が嫡男として遇されていたようである。しかし本郷和人によれば、公基の生母が九条道家の側近の娘であり、九条家と幕府の間の軋轢を見た実氏が次子公相を家嫡に変更したために公基と公相の地位が逆転したのである[1]。ただし、公相の生母の出自はあまり高くはなかったようであり、このことが後述する公相にまつわる奇妙な話とつながる可能性がある。

公相にまつわる奇妙な話

増鏡』の増補本系本文には公相にまつわる奇妙な話を見ることができる。「第八 山のもみぢ葉」中に「公相の述懐」と「公相の死」が描かれている。父実氏よりも早く死ぬだろうと本人が思っていたこと、公相が薨去した時に棺から首が盗み取られて外法に使われたこと、などである。また、『徒然草』第114段には、上級貴族らしからぬ酷薄な行いをする公相の姿が描かれている。実際にそのようなことがあった可能性も高いが、母の出自から本来であれば西園寺家の家嫡となれなかったところを父実氏の決断で家嫡となったことに、何らかの軋轢が生じたとも考えられる。

琵琶秘曲伝授に関わる

藤原実宗藤原師長を琵琶の師として以来、西園寺家では代々琵琶の秘曲伝授に関わってきたが、公相も仁治元年(1240年)10月11日に藤原孝道から秘曲楊真操の伝授を受けた記録が残る[2]。また、『文机談』にも公相が琵琶秘曲伝授に関わっていたことを示す記事が見られる。 建長4年(1252年)4月には、後深草天皇が琵琶を始めた時の伝授者として関わったことが「冷泉相国記」[3]に記されている。

官歴

※以下、『公卿補任』の記載に従う。

系譜


脚注

  1. 『ぐんしょ』57、平成14年夏、vol.15-No. 3に所収の「公基卿の賀礼」による。
  2. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「冷泉太政大臣御記」
  3. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「冷泉相国記」
  4. 『系図纂要』

参考文献

  • 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年
  • 橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年
  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 嘉禎2年(1236年)に公相が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「西園寺公相」および「西園寺実兼」、「西園寺公基」の項。
  • 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』、宮内庁書陵部編、明治書院
  • 岩佐美代子著、校注『文机談』、笠間書院
  • 新訂『徒然草』 西尾実・安良岡康作校注、岩波文庫
  • 増鏡井上宗雄訳注、講談社学術文庫全3巻
  • 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』 東京大学出版会
  • 本郷和人「西園寺氏再考」『日本歴史』634号
  • 本郷和人「外戚としての西園寺氏」、『ぐんしょ』51
  • 本郷和人「公基卿の賀礼」、『ぐんしょ』57


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