藤田宗一 (投手)
獲得メダル | ||
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日本 | ||
ワールド・ベースボール・クラシック | ||
金 | 2006 | 野球 |
藤田 宗一(ふじた そういち、1972年10月17日[1] - )は、京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
Contents
経歴
プロ入り前
中学校までを京都府八幡市で過ごし、長崎県の私立島原中央高等学校に野球留学した。2年秋にエースとして九州大会に出場[2]。3年夏の県大会はベスト16[2]。卒業後は社会人野球・西濃運輸硬式野球部に入部。抑えとして素質が開花し、1996年の社会人野球日本選手権大会ではチームが準優勝した際に、5試合全てに救援登板し3勝、防御率1.00で敢闘賞を受賞した[1][2]。翌年も都市対抗野球大会でのベスト8入り[1]に貢献している。1997年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから3位で指名されて入団[1]。
ロッテ時代
1998年4月4日の近鉄戦の8回に初登板。4月11日の西武戦で初セーブ、5月4日の西武戦で初勝利を記録。河本育之に次ぎチーム2位の7セーブを挙げる。
1999年は65試合登板でリーグ最多試合登板となった。防御率は前年よりも悪化した。
2000年に70試合登板で2年連続最多試合登板。防御率4.27と安定感を欠いたが、最多ホールドのタイトルを獲得[1]。
2001年にオールスターゲームに初出場した。同年は60試合に登板した。だが、この年も防御率4.70と安定感を欠いた。
2002年も50試合に登板し、防御率3.86の成績だった。
2003年は不振のため28試合にしか登板できなかった。
2004年は安定感を欠くも62試合に登板して、チームのプレーオフ争いに貢献した。
2005年はロッテの勝利パターン継投「YFK」の一角として45試合に登板して1勝4敗、防御率はルーキーイヤーの1998年以来の2点台となる2.56の成績を残し、31年ぶりのリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
2006年にはWBC日本代表に選ばれ[1]、優勝メンバーとなった。この時の登板記録は3試合 0勝0敗0セーブ 防御率9.00 1投球回 1奪三振 自責点1と不調ではあったがチームの世界一に貢献した。一方シーズンでは前年より防御率が悪化したが引き続き、自分の役割を全うした。
2007年5月3日に史上79人目の通算500試合登板を達成。全試合リリーフ登板であり、初登板から500試合連続リリーフ登板は史上初である。6月20日には連続リリーフ登板が512試合連続となり、パ・リーグ新記録となった。同年は31試合に登板したものの防御率12点台と極度の不振で、左打者のワンポイントで登板しては打ち込まれるという試合が続き、肩の故障も相まって二軍落ちも経験した。10月27日に球団から戦力外通告を受ける。
球団からはコーチ就任を要請されるが、あと3試合に迫った(橋本武広の526試合)の連続救援登板日本記録もあり現役続行を希望し退団。12球団合同トライアウトには参加せず他球団のオファーを待ち、交渉解禁日の11月7日に読売ジャイアンツが獲得。
巨人時代
2008年は開幕1軍は逃したが、4月5日の対阪神戦で中継ぎ登板し当時日本記録となる527試合連続救援登板を達成した[3]。以後39試合に登板した。
2009年は防御率2.08と安定感はあったが、わずか19試合の登板に終わった。
翌2010年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、10月29日、球団から2度目の戦力外通告を受ける。現役続行を希望し、古巣・ロッテの入団テストを受けたが契約に至らず、2回目の合同トライアウトに参加した。
2011年1月24日に福岡ソフトバンクホークスと育成選手として契約[4]。
ソフトバンク時代
同年3月7日付けで支配下登録された[5]。同年10月22日に古巣の千葉ロッテマリーンズ戦で通算600試合登板を達成。しかし、同年は19試合登板で防御率も9.64の不振だった。日本シリーズ終了後の11月21日に球団側より来季の契約を結ばないことを通告された[6]。
独立リーグ時代
2012年2月7日、ベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスに選手兼任投手コーチ補佐として入団した[7]。2012年9月13日に今シーズン限りでの引退を発表し、同日に行われた福井ミラクルエレファンツ戦を最後に退団した。試合後、「ロッテの優勝とWBCが一番の思い出。今年、コーチ経験もさせてもらったし、チャンスがあれば(NPBで)指導者をやりたい」と話した。
現役引退後
その後、東京・赤坂に焼きゅう豚「繁」を開店、同店のオーナーに就任。
2015年より、古池拓一らと共に中学少年野球チーム(ボーイズリーグ加盟)の吉川美南ボーイズを立ち上げた。また2018年からはロッテOBとして日テレNEWS24野球解説者に就任。
選手としての特徴
ストレートに勢いがあり、コーナーを正確につくコントロールも持ち合わせている[8]。鋭く変化する決め球のスライダーを[8]、左打者の背中から内角へ曲げる技術に長け[9]、稀にシュートやフォークも投げた[10]。50試合登板を7シーズン成し遂げるなど、故障をしないタフさは「鉄腕」と称された[9]。
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 家族は妻と子供が2男1女で、長女はボーイッシュガールズグループ「AXELL」の元メンバーのあすか。妻と娘は『ピラメキーノ』の1コーナー「おんなごころ!おかあさんといっしょ」(2010年4月28日放送分)に出演したことがある。
社会人時代に肩を壊し、リハビリ生活を余儀なくされた経験が故障しない頑丈な体を作っている。
ロッテ時代の1998年7月7日に、グリーンスタジアム神戸で行われたオリックス戦では延長12回にサヨナラ負けを喫し連敗の日本プロ野球ワースト新記録となる17連敗を記録した試合で、3人中2人目で投げており、この試合の敗戦投手であった。
プロに入って先発登板したことはないため「中継ぎのスペシャリスト」とよく言われる。当時、薮田安彦、藤田から小林雅英に繋ぐリレーはロッテの“勝利の方程式”であり、一部メディアからは阪神タイガースの勝利の方程式「JFK」を捩ってYFKと呼ばれた。
入団から5年連続で50試合以上に登板した。これは岩瀬仁紀の15年連続、秋山登の9年連続、宮西尚生の7年連続(継続中)に次ぐ4位の記録である。
ロッテ時代は「中継ぎ」という仕事の評価が低い事に不満を持ち、例年契約更改がこじれていた。
2005年10月17日、ロッテが31年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたときに誕生日を迎える。また、同日の試合で勝利投手になった。
2007年5月27日の阪神戦で金本知憲に3球続けて胸元に投げ、結果死球を与えて乱闘騒ぎになった(この試合はそれまでに福浦和也が二死球を受けるなど荒れていた)。ファンから激しい罵声を浴びて、プロ野球に入ってこれが一番恐怖を感じた経験だという。翌日には謝罪し、金本も「こういうのは仕方ない」と言い、2人の間にわだかまりはないと言う。
WBC出場選手としては初めて戦力外通告を受けた選手でもある。それもあり、2007年の年末にプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達で取り上げられた。
詳細情報
年度別投手成績
1998 | ロッテ | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 7 | -- | .600 | 270 | 66.1 | 62 | 3 | 19 | 2 | 1 | 54 | 4 | 1 | 18 | 16 | 2.17 | 1.22 |
1999 | 65 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 249 | 61.1 | 57 | 5 | 13 | 1 | 1 | 57 | 0 | 1 | 23 | 22 | 3.23 | 1.14 | |
2000 | 70 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 261 | 59.0 | 64 | 9 | 20 | 2 | 1 | 46 | 2 | 0 | 31 | 28 | 4.27 | 1.42 | |
2001 | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 132 | 30.2 | 36 | 3 | 6 | 2 | 0 | 24 | 0 | 0 | 17 | 16 | 4.70 | 1.37 | |
2002 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 98 | 23.1 | 27 | 3 | 3 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 11 | 10 | 3.86 | 1.29 | |
2003 | 28 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 84 | 18.2 | 23 | 3 | 7 | 2 | 2 | 17 | 0 | 0 | 11 | 9 | 4.34 | 1.61 | |
2004 | 62 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 200 | 44.0 | 52 | 4 | 20 | 3 | 2 | 35 | 1 | 0 | 25 | 22 | 4.50 | 1.64 | |
2005 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 24 | .200 | 154 | 38.2 | 27 | 2 | 13 | 2 | 1 | 31 | 1 | 0 | 12 | 11 | 2.56 | 1.03 | |
2006 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 23 | .571 | 169 | 40.2 | 42 | 1 | 7 | 1 | 2 | 35 | 0 | 0 | 19 | 16 | 3.54 | 1.20 | |
2007 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 10 | .333 | 76 | 15.2 | 28 | 2 | 2 | 0 | 1 | 12 | 1 | 0 | 23 | 22 | 12.64 | 1.91 | |
2008 | 巨人 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | ---- | 123 | 29.0 | 30 | 2 | 8 | 0 | 1 | 21 | 0 | 0 | 13 | 10 | 3.10 | 1.31 |
2009 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | 72 | 17.1 | 20 | 1 | 1 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 5 | 4 | 2.08 | 1.21 | |
2011 | ソフトバンク | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | .000 | 45 | 9.1 | 10 | 1 | 5 | 0 | 3 | 8 | 0 | 0 | 10 | 10 | 9.64 | 1.61 |
通算:13年 | 600 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 21 | 8 | 77 | .475 | 1933 | 454.0 | 478 | 39 | 124 | 15 | 15 | 366 | 9 | 2 | 218 | 196 | 3.89 | 1.33 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
独立リーグでの投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
完 投 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ | ブ |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ | ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2012 | 群馬 | 28 | 0 | 3 | 2 | 0 | .600 | 128 | 28.1 | 33 | 0 | 10 | 2 | 22 | 1 | 0 | 12 | 8 | 2.54 | 1.52 |
通算:1年 | 28 | 0 | 3 | 2 | 0 | .600 | 128 | 28.1 | 33 | 0 | 10 | 2 | 22 | 1 | 0 | 12 | 8 | 2.54 | 1.52 |
タイトル
- 最多ホールド投手:1回 (2000年)
表彰
- 千葉市市民栄誉賞(2006年)
記録
- 初記録
- 初登板:1998年4月4日、対近鉄バファローズ1回戦(大阪ドーム)、8回裏無死に3番手で救援登板、1/3回を無失点
- 初セーブ:1998年4月11日、対西武ライオンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 初奪三振:1998年4月21日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、8回裏に吉永幸一郎から
- 初勝利:1998年5月4日、対西武ライオンズ6回戦(西武ドーム)、9回裏無死に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初ホールド:2005年3月30日、対オリックス・バファローズ3回戦(大阪ドーム)、8回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 節目の記録
- 500試合登板:2007年5月3日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に4番手で救援登板、3連打3失点 ※史上79人目
- 600試合登板:2011年10月22日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(QVCマリンフィールド)、5回裏に2番手で救援登板、1安打1四球2失点 ※史上36人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (2001年)
背番号
- 12 (1998年 - 2007年、2012年)
- 37 (2008年 - 2010年)
- 136 (2011年 - 同年3月6日)
- 63 (2011年3月7日 - 同年シーズン終了時)
代表歴
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『プロ野球カラー名鑑 2008』 ベースボール・マガジン社、2008年。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 『98スポニチプロ野球手帳』 スポーツニッポン、1998年。
- ↑ 2011年に岩瀬仁紀に更新されるまで日本記録
- ↑ 育成選手入団のお知らせ - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年1月24日
- ↑ 藤田投手とデレオン投手が支配下登録。藤田投手は「嬉しい。一歩進んだ」と活躍を誓う - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年3月7日
- ↑ 選手契約について - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年11月21日
- ↑ “群馬 コーチ入団のお知らせ”. BCリーグ (2012年2月7日). . 2012-2-8閲覧.
- ↑ 8.0 8.1 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクト、2007年。ISBN 978-4-7572-1338-8。
- ↑ 9.0 9.1 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年。ISBN 978-4-86191-246-7。
- ↑ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年。ISBN 978-4-86191-710-3。
関連項目
外部リンク
テンプレート:パシフィック・リーグ最優秀中継ぎ投手 テンプレート:2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 テンプレート:千葉ロッテマリーンズ1997年ドラフト指名選手