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藤原顕輔


藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ)は、平安時代後期の公家歌人修理大夫藤原顕季の三男。官位正三位左京大夫六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔六条藤家2代。

経歴

康和2年(1100年)1月に白河上皇院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年関白藤原忠通の娘・聖子崇徳天皇中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月左京大夫任じられ久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年5月7日に薨去。享年66。

周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。

金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており[1]、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。

系譜

脚注

  1. 『勅撰作者部類』
  2. 藤原北家小野宮流出身

関連項目

外部リンク