細川幸隆

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細川 幸隆(ほそかわ ゆきたか、元亀2年(1571年) - 慶長12年11月1日1607年12月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将細川氏の家臣。細川藤孝(幽斎)の三男。与八郎。刑部少輔。兄に細川忠興細川興元。母は兄2人と同じ沼田光兼の娘・麝香。子女は兼(筑紫重門室)。

生涯

はじめはにさせられ、天正10年(1582年)3月、京の愛宕山下坊・福寿院で得度し妙庵と名乗る。天正11年(1583年)、父の命で還俗して細川家に戻った(「綿孝輯録」および「細川家記」。菩提寺の妙庵寺の「妙菴寺由緒」では天正19年(1591年))。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に参加した兄達の留守を父とともに守り、丹後田辺城の戦いで田辺城に篭城して西軍と戦った。

兄の忠興が関ヶ原で功績を立て豊前国を拝領すると、慶長8年(1603年)2月竜王城(大分県宇佐市安心院町)城主となり1万石を忠興より与えられた。一方、刑部少輔の官職名を名乗ることから、父より和泉上守護家の家督を譲り受けたともされている。

慶長12年(1607年)37歳で死去した。墓所は妙菴寺(宇佐市安心院町)。