操作

笠戸丸

テンプレート:Infobox 船

笠戸丸(かさとまる、Kasato Maru)は、明治時代後期から終戦にかけて移民船や漁業工船などに使われた鋼製貨客船。明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や台湾航路用の船舶として用いられた。ハワイブラジルへ移民が開始された時に移民船として使われたことでもよく知られている(移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用した。最大1000人程度の移民を収容できたようである)。その後漁業工船に改造され、漁業会社を転々とする。最後は、貨客船として最初に籍を置いた国であるロシア帝国の事実上の後継国にあたるソ連の手によって、太平洋戦争終結直前カムチャツカ沖で爆沈されるといった数奇な運命をたどった。

概要

笠戸丸は1900年(明治33年)6月13日イギリス太平洋汽船(Pacific Steam Nav. Co.)貨客船ポトシ(Potosi)としてイギリスニューカッスル・アポン・タインウィガム・リチャードソン造船会社で進水。艤装中にロシア義勇艦隊(Russian Volunteer Fleet Association)に売却され、カザン(Kazan)に改名。同年8月25日に竣工した。

1904年(明治37年)2月6日日露戦争開戦に伴いロシア海軍の義勇艦(補助軍艦)として参戦する。1905年(明治38年)5月12日旅順港内で被弾し沈座していた同船を日本海軍が浮揚し捕獲。6月3日に海軍省に移籍し、呉鎮守府所管の貨客船笠戸丸に改名する。船名は笠戸島から、拿捕前の船名と音が似ていることから名付けられた。11日、笠戸丸は大連港を出港し、12日に佐世保港に到着し、佐世保海軍工廠で仮修理が行われた。修理中の19日に海軍運兵船に類別変更。仮修理完了後、笠戸丸は呉港に移動し、呉海軍工廠で本格的な修理を受ける。8月14日に修理完了となった笠戸丸は翌15日に陸軍船となり軍事輸送に従事。日露戦争終戦後は満州からの兵士引揚任務に従事する。1906年(明治39年)6月25日、海軍省に返還。

ファイル:Kasato-maru.jpg
1908年、サントス港にて

7月22日、東洋汽船に運航が委託され、南米西岸航路に就航する。8月26日、ハワイ移民646名を乗せて神戸港を出港。1907年(明治40年)1月5日には第4次ペルー移民452名を乗せ神戸港を出港。6月4日メキシコ移民275名を乗せ横浜港を出港。10月23日、メキシコ移民294名を乗せ横浜港を出港。1908年(明治41年)4月28日皇国殖民会社(社長:水野龍)の依頼によりブラジルへ第一回移民781名を運ぶため、サントス港に向け神戸港を出港。航海中の6月15日、火夫長が船員に刺殺される事件が起きたものの、18日に笠戸丸は無事にサントス港に到着した。8月12日、海軍省に返還。

9月12日大阪商船が台湾航路(神戸 - 門司 - 基隆)に使用するため傭船1910年(明治43年)4月8日、台湾航路に就航。1912年(明治45年)3月31日、大阪商船に売却され、南米航路(横浜 - 神戸 - 長崎 - 香港 - シンガポール - モーリシャス - ダーバン - ケープタウン - リオデジャネイロ - ブエノスアイレス - ケープタウン - ダーバン - シンガポール - 長崎 - 神戸)の第1船となる。1916年(大正5年)12月29日、南米航路に就航。

1930年(昭和5年)4月21日、鹽崎與吉に売却され、イワシ工船に改装される。1931年(昭和6年)、東洋工業に売却され、翌1932年(昭和7年)にミール工船に改装される。1934年(昭和9年)、新興水産に売却。後に太平洋漁業に移籍する。1939年(昭和14年)、日本水産に移籍。

太平洋戦争開戦後も変わらず工船として活動。戦時中の1943年(昭和18年)、水産統制令により日本水産の漁労部門が日本海洋漁業統制として設立されることに伴い移籍。

1945年(昭和20年)8月9日0900、カムチャッカ半島ウトカ港で水産加工品の積み込み中、突然ソ連兵士が来船し、乗船者全員に下船するよう命令。1030、数名の病人を残して下船を終えた乗組員にソ連将校によりソ連が対日戦に参戦したことを知らされ、そのまま全員が捕虜となった。笠戸丸は沖合に出された後、1355に飛来してきたソ連爆撃機の空爆を受け、数名の病人をのせたまま被弾沈没した。終戦後も乗組員はシベリア抑留となった。

略歴

  • 1900年(明治33年) - 英ウィガム・リチャードソン造船会社で建造・竣工され、ポトシ(Potosi)として命名され、のちにロシアの船会社で貨客船カザンKazanとして使用される[1]
  • 1905年(明治38年) - ロシア海軍の義勇艦(補助軍艦)として日露戦争に参戦。旅順港内で被弾し沈座していたのを日本海軍が浮揚し捕獲。日本海軍に移籍し「笠戸丸」と改名。
  • 1906年(明治39年) - 海軍省より東洋汽船が運航委託を受け、ハワイへ移民646名を運ぶ。
  • 1908年(明治41年) - 皇国殖民会社の依頼によりブラジルへ第一回移民781名を運ぶため、サントス港に向け神戸港を出航。
  • 1910年(明治43年) - 大阪商船が台湾航路に使用するため傭船し就航。
  • 1912年(明治45年) - 海軍省から大阪商船に払い下げ。同社の南米航路に使用される。
  • 1930年(昭和5年) - 大阪商船から個人に売却され、いわし工船に改装。
  • 1931年(昭和6年) - 東洋工業に売却される。
  • 1932年(昭和7年) - ミール工船に改装。
  • 1934年(昭和9年) - 新興水産に売却され、後に太平洋漁業に移籍する。
  • 1939年(昭和14年) - 日本水産に移籍、後に日本海洋漁業の所有となる。
  • 1945年(昭和20年) - ソ連軍により捕獲、乗組員を下船させ、数名の病人をのせたまま空爆を受けて沈没。戦争後も乗組員はシベリア抑留となる。

発行物

以下のものに笠戸丸が描かれている。

  • 特殊切手「ブラジル移住50年記念」(1958年6月18日発行)
  • 記念貨幣「日本ブラジル交流年及び日本人ブラジル移住100周年記念」の500円硬貨(2008年発行)

備考

参考文献

  • 藤崎康夫『航跡 ロシア船笠戸丸』(時事通信社、1983年) ISBN 4-7887-8311-8
  • 宇佐美昇三『笠戸丸から見た日本 したたかに生きた船の物語』(海文堂出版、2007年) ISBN 978-4-303-63440-7
  • 山田廸生『船にみる日本人移民史 笠戸丸からクルーズ客船へ』(中公新書、1998年) ISBN 4-12-101441-3  日本の海外移民船通史

脚注

関連項目

外部リンク