神武東征

提供: miniwiki
移動先:案内検索

神武東征(じんむとうせい)は、磐余彦尊日向を発ち、奈良盆地とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。

経過

以下は特記以外は『日本書紀』によって記載する。なお参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、考古学的なものではないことに注意。

甲寅紀元前667年:日本書紀による)

この年、日向国にあった磐余彦尊は、
天祖の降跡より以逮このかた、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢にうるおわず。遂にむらに君有り、ふれに長有り、各自さかいを分かちて用て相凌躒せしめつ。抑又はたまた塩土老翁に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山よもめぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有り。」といいき。余おもうに、彼地は必ずまさに以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。けだ六合の中心か。の飛び降れる者は、謂うに是饒速日か。何ぞ就きて都なさざらむや。
と言って、東征に出た。
10月5日、磐余彦尊はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国(『古事記』では豊国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦菟狭津媛が造った一柱騰宮に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊はして、媛を侍臣の天種子命中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日筑紫国水門に至った。『古事記』によれば、岡田宮に1年滞在したという。
12月27日安芸国に至り埃宮に居る。『古事記』によれば、多祁理宮に7年滞在したという。

乙卯紀元前666年:日本書紀による)

3月6日吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。なお、『古事記』では滞在期間を8年とする。

丙辰紀元前665年:日本書紀による)

引き続き高島宮に滞在。

丁巳紀元前664年:日本書紀による)

前年に同じ。

戊午紀元前663年:日本書紀による)

2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。
5月8日茅渟山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竈山にいたった時に薨じた。なお、『古事記』は崩地を紀国の男の水門とする。
ファイル:Tennō Jimmu.jpg
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
6月23日名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神(『古事記』によれば大熊)の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣。『古事記』によれば石上神宮に鎮座。)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。
8月2日菟田県を支配する兄猾弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。なお、『古事記』によれば道臣命だけでなく大久米命(久米氏の祖)もつかわされたという。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると八十梟帥兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
ファイル:Emperor Jimmu.jpg
月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。
12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。『古事記』によれば天津瑞を献上したという。

己未紀元前662年:日本書紀による)

2月21日、磐余彦尊は従わない新城戸畔居勢祝猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。
3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。

庚申紀元前661年:日本書紀による)

8月16日事代主神の娘(『古事記』では大物主神の娘)の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

辛酉(神武天皇元年、紀元前660年:日本書紀による)

1月1日、磐余彦尊は橿原宮即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。

諸説

否定説

  • 西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど[1]
  • 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い[2]。しかし、神武東征が邪馬台国の時代の出来事であるとは限らない。
  • 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする[3]

肯定説

南九州説

  • 神武東征の伝承上の出発地は「日向」である。この「日向」をのちの日向国とすれば、その地は南九州である。
  • 『日本書紀』では磐余彦尊はまず菟狭(現在の大分県)に至り、そこより水門(現在の福岡県)を経て安芸国(現在の広島県)に移動している。すなわち、出発地(日向)→菟狭→崗水門と北方に移動したのであるから、日向は菟狭より南にあると考えられる。

北部九州説

神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。

  • 出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることもできる。
  • 日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。
  • 南九州を出発すると流れの速い関門海峡を二度通ることになる。

水銀確保のための東征説

上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする[4]。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし[5]、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。

脚注

  1. 山中鹿次 『神武東征伝承の成立過程に関して』
  2. 『倭国誕生』白石太一郎編 2002年
  3. 原島礼二 『神武天皇の誕生』 新人物往来社 1975年
  4. 歴史読本編集部編 『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600400-0 pp.14 - 17.
  5. 同『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 p.21.

関連事項