渡辺長助
渡辺 長助(わたなべ ちょうすけ、1956年10月11日 - 2011年6月28日)は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・スコアラー。
経歴
八代第一高等学校から社会人野球の九州産交を経て、1978年のドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受け入団。
入団から3年間は一軍出場がなかったが、1982年に一軍初出場を果たす。翌1983年5月29日の読売ジャイアンツ戦で9回に代打として起用され、角盈男から生涯唯一の本塁打を放つ。同年は5試合に先発マスクを被った。1984年には開幕戦から4試合連続で先発出場。自己最多の42試合に出場(うち11試合に先発)したが、山川猛の控えにとどまり正捕手の座は掴めなかった。翌1985年からは木戸克彦が台頭し、一軍出場がなくなった。1986年に現役を引退。
九州産交時代から評判の強肩と、打たれない方向へ投手を導く巧みなリードが持ち味。相手投手の癖を盗むのもうまく、信頼感もあったが、守備とは裏腹に打撃は非力。若菜嘉晴・山川猛・笠間雄二らの存在もあり、準レギュラー止まりで終わった。
引退後も阪神に留まり、1987年から1988年までスコアラー、1989年から1990年まで一軍ブルペンコーチ補佐、1991年は一軍バッテリーコーチ、1992年は一軍ブルペンコーチ、1993年は二軍バッテリーコーチ、1994年から1998年まで二軍育成コーチ、1999年から2002年まで再びスコアラー、2003年からチーフスコアラーを務めた。1996年からは選手寮「虎風荘」の五代目寮長も兼任していた。
2011年6月28日未明、チーム遠征先の富山市の宿舎で心筋梗塞のため死去[1]。54歳没。当日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われた対広島東洋カープ戦で、阪神の首脳陣と選手たちは喪章を付けて試合を行い、哀悼の意を示した[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 阪神 | 6 | 5 | 5 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .400 | .400 | .600 | 1.000 |
1983 | 30 | 32 | 31 | 1 | 5 | 0 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | .161 | .161 | .258 | .419 | |
1984 | 42 | 32 | 29 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 2 | .138 | .167 | .172 | .339 | |
通算:3年 | 78 | 69 | 65 | 3 | 11 | 2 | 0 | 1 | 16 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 12 | 3 | .169 | .182 | .246 | .428 |
背番号
- 36 (1979年 - 1986年)
- 89 (1989年 - 1998年)
脚注
- ↑ 遠征先の宿舎で…阪神チーフスコアラー死去 スポーツニッポン、2011年6月29日。
- ↑ “阪神・渡辺Cスコアラー遠征先で急死…選手は喪章”. デイリースポーツ (2011年6月28日). . 2011閲覧.