毛利元法

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毛利 元法(もうり もとのり、慶長8年(1603年) – 承応元年3月25日1652年5月3日))は、長州藩一門家老である右田毛利家の3代。

父は毛利元倶。正室は堅田元慶の娘。 通称は忠三郎、志摩。は元儀、元豊、元任、元法。 子は毛利就信毛利就直堅田就宣[1]福原広俊室。

生涯

慶長8年(1603年)、毛利家一門毛利元倶の長男として生まれる。寛永5年(1628年)、家臣子弟の教育のため周防佐波郡右田[2]郷校時観園」を父と共に設立する。 寛永12年(1635年)、父の隠居により家督を相続する。寛永14年(1637年)、毛利就頼益田元尭と共に加判役となり、国元留守居役として藩政を任された。寛永21年(1644年)、玉祖神社の鳥居を建立する。承応元年(1652年)3月25日死去。享年50。 家督は長男の就信が相続し、次男の就直は吉敷毛利家[3]を相続した。

参考文献

脚注

  1. 堅田氏
  2. 防府市右田地区。上右田下右田高井大崎自由ケ丘
  3. 山口県山口市吉敷東(上東、中東、下東)、吉敷佐畑吉敷中尾、吉敷赤田、吉敷