新発田市

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ファイル:Shibata city center area Aerial photograph.1975.jpg
新発田市中心部周辺の空中写真。
1975年撮影の8枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

新発田市(しばたし)は、新潟県下越地方にあるである。新潟市への通勤率は16.6%(平成22年国勢調査)。

概要

新発田市は越後平野の北部に位置する、新潟県北部の中核都市である。市北西部には日本海に面した白砂浜海岸が広がり、東部には飯豊山二王子岳などの山々がそびえ、街からその姿を望むことができる。またこの地では加治川などを水源とした水田が広がっており、県下有数の良質なコシヒカリ)の産地としても知られる。

新発田藩城下町として栄えた市街地は新発田城を代表とする歴史的建築物が多数あり、今も城下町当時の区割りや道、新発田川などの水路がかつての姿をとどめている。明治から戦前にかけては軍都として、戦後は県北部の商業都市として発展した。その昭和の頃の面影を色濃く残す旧公設鮮魚市場や各商店街といった建物や街並みも多く残り、風情ある街にもなっている。 こうした歴史を背景に、新発田の市民は2004年平成16年)の新発田城三階櫓・辰巳櫓の復元をはじめとする街の景観保存維持に対する関心が非常に高く、市民自ら熱心に取り組んでいる。

市章には新発田藩主・溝口家の家紋「溝口菱」(掻摺菱とも)をそのまま用いている。

地理

隣接している自治体・行政区

新潟県
福島県
山形県


歴史

ファイル:Shibatajo001.jpg
新発田城(辰巳櫓)

阿賀野川信濃川の流域に拓けたこの地域は、中世には佐々木氏の傍系・新発田氏が領し、この地を流れる新発田川の流域にその水運を生かして城が築かれた。

慶長3年(1598年)、豊臣家の家臣であった溝口秀勝が6万石の所領を得てこの地に移封され、以後幕末まで新発田藩溝口氏が治め、新発田城城下町として発展していくことになる[1][2]。城下では武家町・町人町・寺町などの特徴的な町が形成され、また周辺地域では新田開発によって低湿地の耕地化が進められた。

明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県で新発田県が設置されたが、まもなく新潟県に編入。1878年明治11年)の郡区町村編制法で阿賀野川以北の地域(阿賀北地域)一帯が北蒲原郡とされると、その郡役所が新発田本村に置かれ、新発田は阿賀北地域の中心地として発展していった。1873年(明治6年)に廃城となった新発田城の跡地には陸軍歩兵第16連隊が置かれ、以降、明治から終戦までこの町は軍隊の町としての性格を強めた(これは戦後も陸上自衛隊新発田駐屯地として残り、現在に至っている。)。

市制が施行され「新発田市」となったのは、第2次世界大戦後、1947年昭和22年)のことである。

市名の由来

「新発田」の由来には諸説ある。

  • 潟湖に接する「州端(すばた)」を由来とする説[3]
  • 荒地を開墾してできた新田「新開発田」の転訛とする説[3]
  • アイヌ語で「鮭が取れる所」を意味する「シビタ」を由来とする説[3]
  • 諏訪神社の社田「諏訪田(すわた)」を由来とする説

「新発田」という地名は、享徳3年(1454年)の中条房資記録 [注 1] など、室町時代から見られる。[3] 「新発田」という表記に対する推察の一つとして、「しばた」に対する当時の現地発音が「シンバッタ」またはそれに類する発音であり、それに沿って「新発田」の字が当てられたのでは、といったものがある。[4]

沿革

  • 1875年(明治8年)8月:外城村、小路村、鍛冶上町、下町が合併し、五十公野村となる。
  • 1875年(明治8年)10月:松岡村と松岡新田が合併し、松岡村となる。
  • 1876年(明治9年)8月:合併により滝谷村下寺内村が発足。
滝谷村 滝谷村、常磐岡新田
下寺内村 下楯新村、下寺内村
  • 1877年(明治10年)11月:浦村新田が浦村となる。
  • 1886年(明治19年)2月:砂山村と飯島新田地先が合併し、砂山村となる。
  • 1886年(明治19年)4月:浦新田と赤橋が合併し、浦新田となる。
  • 1887年(明治20年)3月:上中山村と中居新田が合併し、上中山村となる。
  • 1889年4月:町村制により新発田本村新発田町が誕生
新発田本村 二ノ丸、古丸、外ヶ輪、外ヶ輪裏、三ノ丸、掛倉、七軒町、八軒町、八軒町裏、御免町、寺町、寺町裏、竹町、馬場町、同心町、古徒土町、片田町、小人町、西築地、下鉄砲町、谷町、西ヶ輪、裏町、尾ノ上町、築留、中曽根、片町、袋町、新築地、下杉縄手、菜園地
新発田町 東町、泉町、諏訪町、旭町、立売町、万町、上町、中町、下町、指物町、麸屋町、桶町、材木町、紺屋町、職人町、下新町、地蔵堂町、新道、広小路、上鉄砲町、清水谷、田所町、定役町
鳥興野村 飯島新田、太田新田、下興野村、鳥穴村、砂山村
荒川村 荒川村、上中山村
五十公野村 五十公野村、金谷村
内竹村 上新保村、下新保村、古寺村、江口村、上内竹村、下内竹村、丑首村、小見村、山崎村
松浦村 小友村、浦新田、松岡村、大崎村、八幡村、八幡新田、浦村、法正橋村、六日町新田、古開分
米倉村 米倉村、山内村、中々山村
赤谷村 上赤谷村、滝谷村
中井村 新井田村、中田村、小船渡村、長畑村、中谷内村、中谷内新田、桑ノ口村、道賀村
島塚村 東塚ノ目村、西塚ノ目村、板敷村、島潟村、西名柄村
猿橋村 猿橋村、船入新田、富塚村、弓越村、奥山新保村、中曽根村
大宮村 大友村、小戸村、宮古木村
板津村 板山村、上羽津村、下羽津村
石田村 下高岡村、敦賀村、岡田村、西姫田村、石喜新村
楠川村 下楠川村、南楯新村、東姫田村、田貝村、虎丸村、上楠川村、上三光村、下三光村
蔵光村 上石川村、中川新村、下石川村、滝村、蔵光村、北中江新村、中中江新村、下中江新村、中倉村、麓村、東宮内村、中妻村、黒岩村
菅谷村 菅谷村、繁山新田、小出村、上寺内村、下寺内村、横山村、上荒沢村、熊出村、溝足村、下中山村、丸市新田
  • 1890年(明治23年)3月7日:楠川村が竹ノ俣村に名称を変更。
  • 1901年(明治34年)11月1日:新発田本村と新発田町が合併し、新発田町が発足
鴻沼村 中井村、島塚村
五十公野村 五十公野村、内竹村
川東村 大宮村、板津村、石田村、竹ノ俣村
菅谷村 菅谷村、蔵光村
松浦村 松浦村、荒川村
佐々木村 佐々木村、簑島村、鳥興野村
新発田町 新発田本村、新発田町
ファイル:Shibata City Hall Kajikawa Government Building1.jpg
加治川庁舎(旧加治川村役場庁舎)
  • 1959年(昭和34年)
  • 2003年平成15年)7月7日:北蒲原郡豊浦町を編入。人口が9万人を超え、一時期県下4番目に人口の多い自治体となる(これ以前は柏崎市三条市についで6番目)。
  • 2005年(平成17年)5月1日:北蒲原郡紫雲寺町、加治川村を編入。人口が10万人を超える。ただし人口規模では同日に新設合併を行った三条市に次いで県下第5位となる。
  • 2017年(平成29年)1月4日:市役所本庁舎を中央町4丁目から、中央町3丁目へ移転。

人口

新発田市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

現在の推計人口は以下のサイトを参照。 [1]

行政

市長

  • 二階堂馨(2010年12月1日就任、2期目)
    • 片山吉忠(前市長、1998年12月1日から3期)

経済

産業

周辺一帯では、越後平野稲作を中心とした農業地帯が広がっている。こうしたことを背景として、産業面でも食品関連産業や酒造会社などが目につく。また、城下町茶道が盛行された伝統もあってか、和菓子業も多い。(新発田の茶道と和菓子について

冬季間の農家の女性のための働き口と、同市出身者大倉喜八郎大倉財閥の大倉製糸新発田工場があったこともあり繊維業・特に縫製工場が多く点在していたが、海外への仕事の流出などにより、近年では数が減ってきている。

市内の主な企業

漁業

  • 松塚漁港

姉妹都市・提携都市

国内

  • 日本の旗加賀市石川県
    友好都市提携(※1991年11月8日友好都市提携):豊臣秀吉による天下平定後には1583年秀吉の家臣で、加賀大聖寺城主(4万4千石)であった溝口秀勝が越後新発田(6万6千石)に配置移封が縁で交流が開始。
  • 日本の旗須坂市長野県
    姉妹都市提携:江戸時代に信州、須坂市米子出身の竹前権兵衛とその弟小八郎が紫雲寺潟の干拓工事にあたったことから、昭和60年6月16日に当時の紫雲寺町と姉妹都市提携を結ぶ。平成17年5月1日に紫雲寺町が新発田市に編入した後も、両市にある米子(よなこ・よねこ)町をはじめ全市的な交流が活発に続いている。

海外

地域

JR新発田駅新潟近郊区間内に含まれており、また国道新新バイパス-新潟バイパス-新潟西バイパスを通じて新潟市中心部と結ばれているため、新潟市のベッドタウンとしての機能の高まりから、近年開発が進み大型店の出店などが相次いでいる。一方で、全国の他市町村と同様に、中心商店街の衰退が大きな問題となっている。そのため、県立新発田病院を2006年11月に駅前の大倉製糸新発田工場跡に移転したが、どこまで効果があるのか推移を見守る。

健康

病院

  • 新潟県立新発田病院

教育

大学

高等学校

中学校

  • 新発田市立本丸中学校
  • 新発田市立猿橋中学校
  • 新発田市立佐々木中学校
  • 新発田市立七葉中学校
  • 新発田市立川東中学校
  • 新発田市立第一中学校
  • 新発田市立東中学校
  • 新発田市立豊浦中学校
  • 新発田市立紫雲寺中学校
  • 新発田市立加治川中学校

小学校

  • 新発田市立荒橋小学校
  • 新発田市立中浦小学校
  • 新発田市立天王小学校
  • 新発田市立本田小学校
  • 新発田市立紫雲寺小学校
  • 新発田市立藤塚小学校
  • 新発田市立米子小学校

特別支援学校

  • 新潟県立竹俣別支援学校
    • 新潟県立竹俣特別支援学校いじみの分校

スポーツ

スポーツチーム

スポーツ施設

河川施設

ライフライン

交通

鉄道路線

在来線

中心駅の新発田駅は、JR羽越本線と白新線が合流する駅。市内には7つの駅がある。また、かつては国鉄赤谷線が新発田駅〜東赤谷駅間を結んでいたが、1984年に全線廃止となっている。

道路

高速道路
一般国道
県道
道の駅

バス

名所・旧跡・観光スポット

祭事・催事

新発田市を舞台にした作品

小説
映画

出身有名人

新発田ゆかりの人物

新発田の名物

市町村合併

2003年7月7日北蒲原郡豊浦町を、2005年5月1日、北蒲原郡紫雲寺町加治川村をそれぞれ編入合併した。合併後の面積は532.82km2、総人口は106,834人(2003年7月31日住民基本台帳より)となった。平成の大合併以前は県内で同規模の都市である柏崎市や三条市より遅い市制施行ということもあり後塵を拝しており、人口が県下第6位であったが、合併によって人口が柏崎市を越して県下第5位の人口を擁することとなった。その後、2007年4月1日の統計で三条市を抜き、現在は第4位の人口を擁している。

その他

戦前は「新発田」を略して「芝田」と書く慣例があり、当時は新聞報道などでも「芝田」という記述が罷り通っていた。その名残から、現在も年配者の間では「芝田」と略して記述する向きが多く、一例として新発田駅を「芝田駅」、新発田高校を「芝高」、新発田農高を「芝農」などと記すケースがままある(現在でも目にできる例として、新津駅近くにある「新津市鉄道資料館」の赤谷線コーナーに「赤谷線鉄道唱歌」の歌詞が展示されているがその中に「汽笛一声芝田駅 はや我が汽車は離れたり」と書かれている)。

新聞・テレビなど県内の各メディアも1980年代半ばまではこの慣例に倣っていたものの(特に「芝農」は、同校がスポーツ等で実績を挙げていたことから多用されていた)、地元住民などから「本来の地名には存在しない字を使って、地名を略して記すのは如何なものか」と疑問が寄せられるなどしたため、こうした記述は徐々に淘汰されていった。

脚注

注釈

  1. 越後応永の大乱1423年)に関し「黒河・加地・新発田・白川之面々」との記述がある。

出典

参考文献

  • 角川日本地名大辞典 編纂委員会 『角川日本地名大辞典 15 新潟県』 (株)角川書店、1989-10-08。ISBN 4-04-001150-3。
  • 長谷川勲 『にいがた地名考』 新潟日報事業社、2015-06-16。ISBN 978-4861326011。

関連項目

外部リンク