川中島の戦い

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川中島の戦い
戦争: 戦国時代 (日本)
年月日: 1553年天文22年)- 1564年永禄7年)
場所: 日本信濃国川中島(現:長野市南郊)
結果: 勝敗着かず
交戦勢力
Japanese Crest Takedabishi.svg 武田軍 上杉氏竹に雀 上杉軍
戦力
2万0000余? 1万3000余?
損害
山本菅助(足軽大将),武田信繁(御一門衆)戦死 他4000人死傷 主要な重臣に死傷者なし         他3000人死傷

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)

戦国時代,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,信濃更級郡の犀川と千曲川との合流点,川中島で天文 22 (1553) 年頃から永禄7 (64) 年頃まで数度にわたって行なった戦いの総称。武田信玄は,本国甲斐より信濃に攻め入り,天文 16年頃から北信の村上義清攻略の軍を起した。同 22年4月,信玄に敗れた村上義清は同年8月,越後に逃れて上杉謙信に頼ったことから謙信対信玄の川中島の戦いが始った。合戦は数多く行われたが,そのうち同 22年8月,弘治1 (55) 年7月,同3年4月,永禄4 (61) 年9月,同7年8月の5度の合戦が明らかである。最も有名なのは,永禄4年9月1日夜から翌2日午後にかけて展開された戦いである。謙信は,8月 14日,1万 3000人余と称する兵を率いて居城春日山城を出発し,北国街道から信濃善光寺平に入り,武田方の高坂昌信の守る海津城の東方妻女山に布陣した。一方,信玄は,同月 18日,2万人余といわれる兵を率いて甲府を出発し,同 24日,川中島をへだてて妻女山を東南にみる茶臼山に布陣した。信玄は,1分隊に妻女山を襲わせ,これによって妻女山を下る謙信を,本陣を含む残る1隊で川中島に迎え討つ策を立て,9月1日夜半これを実行した。一方,謙信は,これより早く妻女山を下り,9月2日未明,川中島に信玄と対戦するにいたった。これは,両軍本陣同士の戦いとなり,謙信みずからが大刀をもって信玄に切りつけたというほどの激戦であった。勝敗は,結局決しなかったが,川中島の地は,以降武田方の領有に帰した。この戦いは,戦国時代最大の激戦といわれ,後世,信玄のとった戦法は「きつつき法」,謙信のそれは「車がかり法」といわれ,江戸時代の軍学に大きな影響を与えた。



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