岡田福吉

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岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 1944年12月21日[1])は、愛知県出身のプロ野球選手二塁手三塁手)。

来歴・人物

東邦商(現:東邦高等学校)時代には春2回(1935年,1936年甲子園に出場し、1935年にはベスト4、1936年にはベスト8になった。その後、早稲田大学でプレーをした。

1940年イーグルスに入団。俊足と堅守を生かして1年目からレギュラー出場。打撃はやや非力だったが、持ち前の勝負強さがあった。また選球眼が非常に優れており、四球の数が三振を大幅に上回っていた。同年6月8日の阪神戦では、エース若林忠志から決勝のランニング2ランホームラン(現役時代唯一のホームラン)を放っている[2]。同年末に1回目の応召。2年間の軍隊生活の後、1943年大和に復帰したが、同年シーズン終了後に2回目の応召。翌1944年12月21日中国北支[3]戦病死[4]した。享年27。

東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1940 イーグルス
黒鷲
大和
97 425 377 37 74 11 0 1 88 29 22 -- 5 1 42 -- 0 18 -- .196 .276 .233 .509
1943 57 233 201 13 38 7 0 0 45 11 13 4 3 -- 29 -- 0 10 -- .189 .291 .224 .515
通算:2年 154 658 578 50 112 18 0 1 133 40 35 4 8 1 71 -- 0 28 -- .194 .282 .230 .512
  • イーグルスは、1940年途中に黒鷲(黒鷲軍)に、1942年に大和(大和軍)に球団名を変更

背番号

  • 33 (1940年)[5]
  • 26 (1943年)[5]

脚注

関連項目