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山下徳夫

山下 徳夫(やました とくお、1919年10月7日 - 2014年1月1日)は、日本の政治家。衆議院議員自由民主党)。

来歴・人物

佐賀県伊万里市出身。山下徳次郎の長男として誕生。福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、明治大学専門部法科を経て、1944年専修大学法学部卒業。

父、徳次郎は1926年に炭鉱向け材木店(現・ヤマシタ)を創業。大学卒業後の1947年佐賀県議会議員に初当選。1949年に父の家業である山下徳次郎商店の代表取締役に就任する。その後、日本杭木協会理事や全国木材協会理事、佐賀県木材協会会長を歴任し佐賀県議会にて議員4期・議長2選を経て、1969年、旧佐賀県全県区から第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六奥田敬和林義郎渡部恒三綿貫民輔塩崎潤森喜朗村田敬次郎松永光江藤隆美中山正暉浜田幸一など)。連続当選は10回。自民党内では最小派閥の三木→河本派に所属した。

第2次中曽根内閣では運輸大臣として初入閣。運輸相在任中の1985年8月12日には日本航空123便墜落事故が発生している。この日山下は、三光汽船が翌日会社更生法の適用を申請することを受けて佐賀から急遽帰京し担当官庁の長として同社の対応をするために福岡羽田日本航空366便に搭乗して17時過ぎに羽田に到着したが、その機体(JA8119)の羽田での折り返しの伊丹行きの便が同墜落事故の当該便の123便であった。

第3次中曽根内閣では総務庁長官に就任する。第1次海部内閣内閣官房長官に就任する。河本派の情報通で海部俊樹とのフロコミュニケーションを通じての「ツーといえばカーと仲だった」という[1]。40歳も年下の元愛人に口止め料を渡したという買春スキャンダルが発覚して在職期間16日間で辞任した。氏の手帳には日航客室乗務員の名前がずらりと書き込まれ、それを見た記者が客室乗務員の自宅に押しかけて大騒ぎになったこともあった。[2]その後、宮澤内閣厚生大臣に就任する。最小派閥ながら閣僚ポストに恵まれたのは、金丸信と親交が深く、経世会との連絡役を務めていたからという側面もあった。2000年に政界引退、自民党佐賀県連で顧問を務める。また、1988年より2003年まで学校法人専修大学理事長も務めた。

2014年1月1日午前1時30分、老衰のため佐賀県伊万里市の自宅で死去[3]。94歳没。叙正三位

経歴

  • 1969年12月 - 衆議院議員選挙に初当選
  • 1974年12月 - 厚生政務次官(三木内閣)
  • 1976年9月 - 通商産業政務次官(三木改造内閣)
  • 1984年11月 - 運輸大臣(第2次中曽根内閣)
  • 1987年1月 - 総務庁長官(第3次中曽根内閣)
  • 1988年11月 - 学校法人専修大学理事長
  • 1989年8月 - 内閣官房長官(第1次海部内閣)
  • 1990年2月 - 衆議院議院運営委員長
  • 1991年11月 - 厚生大臣(宮澤喜一内閣)
  • 2000年6月 - 政界引退

脚注

  1. 海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(2010)p.50
  2. 杉江弘著『JAL123墜落事件』126頁
  3. 山下徳夫元厚相が死去 国鉄民営化に尽力 共同通信2014年1月2日閲覧

関連項目

  • 鳥越製粉 - 徳次郎の六男で徳夫の弟にあたる山下義治が社長・会長を歴任した。
  • 玉屋 - 徳夫の長女である縫子は佐賀玉屋社長である田中丸善次郎の長男の紘一郎と結婚した。紘一郎は2006年にヤマシタの代表取締役に就任した。


学職
先代:
森口忠造
学校法人専修大学理事長
第5代:1988年 - 2003年
次代:
出牛正芳

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