地動説

提供: miniwiki
移動先:案内検索

地動説(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転している、という学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。彼以前にも太陽を宇宙の中心とする説はあった。太陽中心説: Heliocentrism)ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球どちらが宇宙の中心であるかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった[1]。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる[1]

歴史

古代の地動説

ファイル:Geoz wb en.svg
地動説(下部の図)、天動説(上部の図)の二つの模型の比較。

紀元前4世紀のアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。そもそも古代において、実際に自分の眼で見て、1日1度太陽が地平線の上に昇り、そして地平線下に下り、太陽以外の天体も同じように動いている以上、その現象をそのまま受け取って解釈するのが普通であった。

しかしながらに関しては他の天体と動きが異なる事、さらに天体観測が発達すると惑星が他の天体と違った動きをとり、更に、時おり天球上を逆方向に動く事も認識された(逆行)。

そうした中、コペルニクスよりも以前に、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところでは紀元前5~4世紀前後のフィロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、同時代のプラトンも善のイデアである太陽宇宙の中心にあると考えていた。

特に傑出していたのは、紀元前3世紀のイオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心に据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。そしてこれにより、惑星の逆行を完璧に説明できるのである。これはほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[2]

なお、後世のレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、地動説に関する内容をレスター手稿に記している。

広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。

天動説の優勢

2世紀にはアポロニウスヒッパルコスクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えた。これに対し、アリスタルコスの地動説では、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか、その説明ができなかった事が弱点とされた。また、アポロニウスの提唱した従円と周転円の概念、さらにプトレマイオスの提唱したエカントの概念を得て、天動説は当時の天体観測の精度において、惑星の逆行をほぼ完璧に説明できた。

とはいえ、おかしなところは存在した。例えば

  • 5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる[3]
  • 惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
  • 火星の逆行に関しては、やや誤差が多い

などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密に惑星の位置を予報出来る他の説はなかなか現れなかった。

また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。

こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀まで、天動説は支持された。天体観測の精度が向上するにつれて、プトレマイオスの体系との乖離が見られるようになったが、周転円の上にさらに周転円を重ねる事で、説明された。16世紀にはコペルニクスが地動説を提唱するも、天体観測の精度においては天動説に優るものではなかった。

大航海時代

天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。

大航海時代以前は船舶の運航は専ら沿岸航海であり、陸地が見える範囲に限られ、何も目印のない遠洋を航行できなかった。羅針盤が登場したことで陸地を離れた航行が可能となり、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになった。しかし当時の星表には問題がかなりあった[4]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。

さらにもう1つ問題が生じつつあった。当時使用されていたユリウス暦の1年は、観測される1年よりわずかに長かったのである。この結果、紀元前45年の制定以来千年以上経つうちに暦と天体の運行にずれが生じ、例えば暦の上の春分の日が3月21日であるのに対して、実際に観測される春分は10日早い3月11日となっていた。春分の日は、キリスト教で最も重要な行事の一つである復活祭の日付を計算するうえで基準となる日であり、これが10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、約300年間放置されていた。

一般に言う1年は厳密には回帰年であり、その定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で[5]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。

コペルニクスの登場

ファイル:Mikolaj Kopernik.jpg
ニコラウス・コペルニクス。16世紀に地動説を唱え、星の軌道計算を行った。

カトリック教会司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。

コペルニクスは1543年に没する直前、彼の思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである[6]

またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された[2]

コペルニクス以降の学説

その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年グレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は取り入られなかった。プトレマイオスの天動説も取り入れられていない。

しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた。なお、この月の運行理論は、アラビアとは独立にコペルニクスが再発見したという説もある。

コペルニクスの地動説

理論

コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的に変換しただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値が相互に関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう[7]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。

コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である[8]。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きを説明できず、コペルニクスの著書では、周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられた[1]。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であり、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じ、楕円軌道に気付くことはなかった[9]。『天体の回転について』は彼の死の直前に出版されたが、コペルニクスが恐れたような批判は起こらなかった[1]。本は読まれたが、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった[1]。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さを算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった。彼の理論はそれまでの地球中心説より観測データと適合するということも、自然学的に見てシンプルだということもなかった。動く地球というものが基礎的な自然学や常識、おそらく聖書と衝突しており、彼の説が真実だと考えることは困難だった[1]。物体は宇宙のもっとも低い地点である宇宙の中心に自然に落下すると考えられていたが、コペルニクスの説では、地球が太陽の方に落下しない理由はわからなかった[1]。また地球が24時間で一回転するなら非常に高速で動いているはずであるが、動きを感じることはできず、空を飛ぶ鳥が置き去りにされることもなかった。地球が太陽の周りを回るなら星々は視差を示すはずだが、視差は観察されなかった。視差がないということは、地球が動いていないか、恒星が不可解なほど遠くにあるということを示していた。視差がなく、地球が動いていると仮定するならば、恒星は最も短く見積もっても2400億キロメートルの彼方にあることになるが、その遠大な空隙は読者にとって不可解なものであった[1]

コペルニクス後の地動説

以上の理由により、コペルニクスの体系を真実と考える人はほとんどいなかったが、そもそも当時の多くの天文学者は、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかを確実に説明できるとは考えていなかった[1]。彼らが欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。当時は占星術が気象予測や医療において実用的に大きな意味を持っており、過去・現在・未来の惑星の位置を分単位で計算する必要があったためである。惑星の位置を決定するための表は、太陽中心体系の方が簡単であり、コペルニクスの体系は便利な虚構として利用された[1]

コペルニクスの著書では計算に必要な値があちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であったため、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であった。また誤差もわずかにプロイセン星表の方が小さいとはいえプトレマイオス説と大して変わらなかった。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。

それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。他にも似た方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説に基づいて同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の地位は大きく揺らいだ。

ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり[10]、ブラーエの膨大な観測記録を土台として1597年、「宇宙の神秘」を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。

ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって慣性の法則を発見した。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、木星衛星を発見し、地球が動くならは取り残されてしまうだろうという地動説への反論を封じた。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。

ガリレオ裁判

ジョンズ・ホプキンス大学科学史教授ローレンス・M・プリンチペEnglish版は、「ガリレオと教会」は神話と誤解に満ちたエピソードであると指摘している[1]。知的・政治的・個人的問題がからみあって起きた事件であり、いまだ完全に解明されていないが、「宗教対科学」という単純な構図ではなかったことが分かっている[1]。科学と宗教の対立という構図は、19世紀に科学者によってつくられたストーリーである[1]

地球中心説がカトリック教会の正式な教義であったことはなく、教会は地球中心説と太陽中心説のどちらが真実かという問題に直接利害関係を持っていなかった。ガリレオの支持者と反対者は教会の中と外の両方に存在しており、ガリレオの最初の主要な支持者はイエズス会の天文学者たちであった[1]宗教裁判所がガリレオに出した地球の運動を撤回するようにという命令は、タイミングの悪さや政治的陰謀、教会の派閥争い、聖書の解釈権、友人だったローマ教皇ウルバヌス8世(マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどから起こったと考えられている[1]。聖書の解釈権を有しているのは教会であったが、「動く地球」が聖書の解釈に関わっており、ガリレオは1610年代にこの問題について、自説を擁護するために性急に口出しをしていた[1]。自分の主張を通すために伝統的な解釈を拒否するというやり方は、同時代のプロテスタントに似ていた[1]。ガリレオはウルバヌス8世と、太陽中心説と地球の運動の明らかな証拠が出るまで仮説として扱うという約束をし、『天文対話』を書く許可を得た[1]。しかし、ヴァチカンの許認可官と検閲官の承認を得て本が世に出ると、ウルバヌス8世は、約束した内容は最終ページでわずかに触れられるのみで、しかも道化役を演じた人物から語られていることを知った[1]三十年戦争に関する外交交渉、政争や批判で疲弊していたウルバヌス8世は侮辱されたと感じて激怒し、宗教裁判所による司法取引の提案を拒み(司法取引が認められれば、ガリレオは軽微な罪とされ自宅に帰されるはずだった)、ガリレオに地球の運動を撤回するように命じ、ガリレオはこれに同意した[1]。しかしウルバヌスの甥を含む枢機卿たち数人は、ガリレオの判決文に署名することを拒否しており、教会の総意でなかったことがわかる[1]

その後ガリレオはトスカーナにある自分の別荘に軟禁され、そこで仕事をつづけ、弟子を教え、最も重要な本『新科学論議』を書いた[1]。今日では、ガリレオは異端として断罪された、投獄されたといわれることも多いが、誤りである[1]。裁判の際にガリレオが「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードに証拠は存在しないが、現在に至るまで象徴的に語り継がれている。

ガリレオ裁判以降

ガリレオの判決の影響を正確に推し量ることはむずかしい。ルネ・デカルトなど何人かの自然哲学者は、コペルニクス説への確信を表明しようとしなくなった[1]。カトリックの聖職者はコペルニクス体系を公然と支持できなくなり、ティコ・ブラーエの体系かその変形版を採用した[1]。しかし一方で、天文学を含む科学的探究は、イタリアやほかのカトリック国でも行われ続けていた[1]ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。

コペルニクスの説は、天体は円運動をするという従来の常識に縛られており、プトレマイオスの天動説と同様に周転円を用いて惑星の運動を説明していた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測記録を丹念に研究し、惑星の軌道が楕円と仮定するとより単純かつ正確に軌道を説明できる事を発見し、それを元に『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。ルドルフ表の精度の前には、未だ年周視差が観測できないという地動説の欠点は、些細な問題と考えられた。

しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥がなぜ取り残されないのか、地球がなぜ止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。ガリレオは慣性の法則を発見するも、その現象がなぜ起きるかの原因の説明には至らなかった。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化すること、万有引力の法則を発見すること、科学において原因については仮説を立てる必要はないとする新しい方法論を提示することで、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となった。

また、ガリレオやケプラーの地動説は、宇宙の中心を太陽とするものであった。ニュートンの万有引力の法則は、惑星が太陽を中心に公転するのは、単に太陽が惑星と比べて質量が極めて大きいからに過ぎないことを示し、太陽が宇宙の中心であるという根拠は存在しなかった。ニュートン以降も太陽が宇宙の中心とする考えに縛られていた研究者も多く、例えばウィリアム・ハーシェル銀河系が円盤状構造であることを発見しながら、太陽がその中心にあると考えたが、次第に太陽も数多くの恒星のひとつに過ぎないという認識が広まっていった。年周視差が未だ観測できないことは、恒星が惑星よりもはるかに遠方にあることを意味し、それでもなお地球まで光が届くことは、恒星が太陽に匹敵あるいは凌駕する規模の天体であることを意味していたからである。

ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、ジェームズ・ブラッドリー光行差の発見、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによる年周視差の観測の成功も必要となる。

蛇足ではあるが、。

2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[11]

太陽中心説とキリスト教

地動説について言及する際に、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害されたという主張がされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在(2011年)においては、科学史家は皆否定していると述べている[1]。このモデルでは、歴史的な状況を正しく理解することはできない。ヨーロッパ近世初期の自然哲学者は、自然を知ることは神を理解することであると考えており、信仰と科学的探究に矛盾はなかった[1]。参考までに両論を併記する。

迫害されたとされる根拠

  • ニコラウス・コペルニクスは、体系の斬新さに批判が出ることを恐れ25年以上推敲を続け発表をためらった。発表も死の直前であった。
  • 天体の回転について』は、出版を任されたルター派の牧師アンドレアス・オジアンダーによって、コペルニクスの主張を弱めるために「純粋に数学的な仮定である」という無記名の序文が無断でつけられて刊行された。
  • 発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである。(実際の事情については#コペルニクスの地動説を参照のこと)
  • マルティン・ルターは、コペルニクス説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した。結果、プロテスタントでも、地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象となる。
  • それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノは、異端審問にかけられ1600年火刑に処された。
  • ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために迫害された。(実際の事情については#ガリレオ裁判を参照のこと)
  • 1616年ローマ教皇庁は地動説を禁じた。(史実とは異なる[1])
  • 1633年に時のローマ教皇ウルバヌス8世は、自らガリレオ・ガリレイに対する第2回宗教裁判で異端の判決を下した(異端として断罪されたというのは民間伝承であり、実際は異端として断罪されたわけでも投獄されたわけでもなく、この論の根拠は史実とは異なる[1])。
  • 『天体の回転について』は、1616年に1835年までローマ教皇庁から禁書にされた。[12]

太陽中心説が批判された理由とされたもの

  • 聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのはの偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、の偉大さを否定することになると考えたとされる。
  • 1539年にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルターは旧約聖書ヨシュア記[13]でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。
  • ガリレオ裁判の最高責任者だったロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。
  • アリストテレスの流れをくむスコラ学の学者は、天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる。
  • カトリック教会が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇ウルバヌス8世をあてこすったものだと考えたとされる。

反論

上記のような「科学者」と「宗教家」の闘争というモデルは現在では否定されている[1]。上記のような説(現在では支持されていない)に対しては、以下のような反論がなされた。

  • コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。
  • コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである。
  • 自説の発表をためらうコペルニクスに発表を急き立てたのは著名な聖職者たちであり、教皇の私設秘書が教皇クレメンス7世と枢機卿たちの楽しみためにコペルニクス体系の講義を行っている[1]
  • コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。
  • 『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。
  • グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、他の学者の数値も使用した)。
  • プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである。またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった。
  • 『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。
  • 地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。
  • ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である。もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。
  • ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、。
  • 『天体の回転について』は、1616年ガリレオ裁判の始まる直前に、禁書リストに挙げられたが、十ヶ所の修正を行うまでという条件付きである[12]。1620年には削除すべきとされた箇所が設けられた[14]
  • カトリック教会太陽教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる。教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている。

古代中国の「地動説」

古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな物にすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに、宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)。漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される。例えば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す」(天左旋、地右動)、「地動けば則ち天象に見(あら)わる」(地動則見於天象)とある。『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いている、という奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)。それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される。柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)[15]。上述のとおり、西洋のHeliocentrism(太陽中心説。現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある。古代中国の「地動説」は、Heliocentrismとは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった。

中世イスラム世界の地動説

ウマル・ハイヤームの時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説」(地動説)を知っていたが、それを公言することはイスラム教の正統主義から攻撃される危険があったので黙っていた、と推測する説がある[16]。その根拠の一つは、ウマル・ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)の中の次の一首である[17]

<poem> 廻るこの世にわれらまどいて 思えらく そは廻転提灯の如しと 太陽は灯にして世界は提灯の骨 われらその内に影絵の如く右往左往す </poem>

この他、コペルニクスの地動説も、実はイスラム世界の天文学にその原型があったと推測する学説すらある[18]

一方、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は、その著書「マスウード宝典」にて地動説を記載している。また、(地動説かどうかは不明だが)アッバース朝マアムーンの時代に、アル=フワーリズミーがユーフラテス川の北、シンジャール平原やパルミラ付近で地球が球体であるとの前提で経緯度及び子午線弧長の測量を行っている(その測量結果からすると、地球の周長は39000キロメートル、直径は10500キロメートルとなる)。

地動説と日本

徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可した後、徳川家治の時代になって、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。旗本片山松斎(円然)は司馬江漢から地動説のことを教えられ、『天文略名目』など地動説を紹介する著作を著している。医者の麻田剛立1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。

地動説のもたらしたもの

地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。

“常識をひっくり返す(証明されている)新説”を「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。また革命(Revolution)なる言葉も、元はこの科学革命を指す言葉であり、後に政治用語にも転用されたのである。

出典

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年
  2. 2.0 2.1 カール・セーガン著 木村繁訳『コスモス 下』 P.49 史上初の地動説 ISBN 4-02-260270-8
  3. アルマゲスト
  4. 高橋訳『天球回転論、誰も読まなかったコペルニクス』
  5. アルマゲスト
  6. 世界大百科事典
  7. トーマス・クーン 著 『コペルニクス革命』 常石敬一 訳、講談社、1989年
  8. この時代、天王星や海王星、小惑星はまだ発見されていない。
  9. なお、コペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった。
  10. 助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない。
  11. “米国人のおよそ4人に1人は「地球の公転」知らず、調査結果”. AFP (フランス通信社). (2014年2月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/3008555 . 2014閲覧. 
  12. 12.0 12.1 オーウェン・ギンガリッチ 著 『誰も読まなかったコペルニクス』早川書房 ISBN 4-15-208673-4
  13. 10章:12節‐14節。
  14. ヤン・アダムチェフスキ「ニコラウス・コペルニクス」日本放送出版協会
  15. 加藤徹著『怪力乱神』pp.274-280
  16. 陳舜臣著『オマル・ハイヤーム ルバイヤート』(2004年,集英社)pp.126-127
  17. 陳舜臣
  18. ハワード・R・ターナー著, 久保儀明訳『図説 科学で読むイスラム文化』pp.138-140, ISBN 4791758641

参考文献

  • ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年
  • 渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社〈講談社ブルーバックス〉
  • D・C・リンドバーグ&R・L・ナンバーズ 著&編『神と自然 歴史における科学とキリスト教』みすず書房