十五年戦争
十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)ポツダム宣言受諾による太平洋戦争(太平洋以外の地域も含む、大東亜戦争)の終結に至るまでの約13年11か月にわたる紛争状態と戦争を、総称した呼称である。日本の先の戦争を、原因から結果まで総じて論じることが可能であるため、学者・有識者などによって便宜利用される。しかし途中に非戦争状態の時期がある不連続性(満州事変の終結、上海事変の勃発と終結、日中戦争の開始)という問題と、歴史学・政治学でしばしば用いられるような一定の観点に基づく概念にすぎないため、一つの戦争であるとの誤解を招くことから、現在学校教育ではこの語は用いられない。なお、満州事変・柳条湖事件は、関東軍の緻密かつ入念な事前の計画に基づくものである。これに対し、盧溝橋事件は偶発的な発砲が発端となり、松井=秦徳純協定により盧溝橋事件はいったん収拾した。それにもかかわらず、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ、蒋介石による「最後の関頭」演説後の中国軍からの日本軍・日本人居留民に対する度重なる攻撃、第二次上海事変により日中戦争(支那事変)の戦闘は本格化した。したがって、日中戦争の始期を、柳条湖事件、盧溝橋事件、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけのいずれと考えるかにより、1937年以降の日中間の戦争の歴史的な評価に重大な影響を与えることになろう。
十五年戦争の呼称は評論家の鶴見俊輔が1956年(昭和31年)に「知識人の戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかでこの言葉を使用したのが最初とされ、鶴見は3つの段階に分けている。満州事変から1942年(昭和17年)夏頃の太平洋戦争の戦況悪化までの期間を戦争景気と呼ぶことがある。
満州事変から日中戦争に至る対中膨脹戦略の連続性に着目した「15年戦争」という呼称は、一部の辞書[1]や新聞などで取り扱われているが、満州事変は1933年に塘沽協定により停戦が成立している。また、その4年後の中国軍による偶発的発砲から起こったとされる盧溝橋事件(日中戦争)についても松井=秦徳純協定により収拾し、かつ、日本は「局面不拡大」「平和的折衝の望みを捨てず」と閣議決定[2]をしているが、鶴見は満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に至る(大東亜戦争)過程を日本の連続的な対外膨張戦略ととらえて14年間(15年にわたる)に及ぶ戦争を「十五年戦争」として総括している。
背景
日中戦争が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。第一次世界大戦の勃発後、日本は『21か条の要求』を中国に提示した。それに対し中国人は反発し五四運動、前後して日貨排斥運動が起こった。1928年(昭和3年)、日本は北伐から山東省権益を守るべく山東出兵を行い、済南事件で日中双方は衝突した。
関東大震災、金融恐慌、世界恐慌、その後のブロック経済化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、日本は満州進出、後には南方進出(大東亜共栄圏)で取り戻そうとした。しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「満蒙は日本の生命線」として、また、朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、満州国を承認しない列強との対立が深刻化し、ついには全面戦争に至った。
経過
1929年(昭和4年)12月、南京で発行されていた月刊誌『時事月報』に、中国文で『田中義一上日皇之奏章』が発表される。
1931年(昭和6年)、満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、関東軍は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。
1933年(昭和8年)、日本は満州国を承認しない他の国際連盟加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。
1937年(昭和12年)、盧溝橋事件勃発。日本は1931年(昭和6年)の満州事変によって満州国という緩衝国家を得たが、それが同国を日本によって作られた傀儡政権とみなす国際連盟各国、特に民族主義を刺激された中国の国民政府との関係を悪化させていた。この年7月に勃発した盧溝橋事件以後、両国の険悪の度合いは増し、8月の第二次上海事変を期に泥沼の日中戦争(支那事変)に引きずり込まれていく。12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。
1937年(昭和12年)11から1938年(昭和13年)1月にかけ、「支那事変不拡大派」である陸軍の参謀本部(多田駿参謀次長。当時の参謀総長は皇族の閑院宮載仁親王であるため参謀次長が事実上のトップとなる)が主導となり日中和平(「トラウトマン和平工作」)を図るも、政府(近衛文麿首相、広田弘毅外相)・海軍(米内光政海相)・陸軍省(杉山元陸相)首脳部らの強固な反対により頓挫。1月に近衛首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表(第一次近衛声明)、日本は蒋介石の重慶政権を否定した。同年、国家総動員法が成立し日本は日中戦争に全力を投入、国力をすり減らして行く。
1940年(昭和15年)には、日本は汪兆銘の南京政府を中国における正当な政権として承認。同年9月、日本は、英米がナチス・ドイツの傀儡政権と認識するヴィシーフランスとの合意に基づき、北部仏印に進駐した。同時期、日本は、日独伊三国軍事同盟を締結した。
ドイツと同盟し、軍事力を背景にアジア諸国に対する勢力拡大を図る日本に、警戒心を刺激されたイギリスやオランダ、アメリカなどの周辺諸国は、石油や鉄クズなどの日本への輸出を制限し(ABCD包囲網)、日本に経済的圧力を与えた。
その後も近衛文麿首相などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、1941年(昭和16年)、日本の南部仏印の占拠を機に日米関係は絶望的に悪化、石油や屑鉄の日本への輸出が完全に停止した。こうした状況が続き、次第に日本の世論は「対米開戦やむなし」に傾いていく。
11月、中国および仏領インドシナからの全面撤退や日独伊三国軍事同盟の即刻破棄などを提案したアメリカのハル・ノートに対して反発した日本は、モスクワに迫るドイツ軍の成功を見て、同年12月8日、英米と開戦、英米の太平洋や東南アジアにある領土を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。条約上の義務はなかったが、同盟国のドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告した。
日本軍首脳部は、膨大な国力差のあるアメリカとの戦争を、南方作戦などの緒戦で戦果を挙げた時、もしくは同盟国ドイツが欧州で勝利した時に、スイスやバチカン等の中立国を通じて講和する、という甘い見通しで始めた[3]。しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、国力に勝る米国に押し返され、1945年(昭和20年)5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年8月8日、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年9月2日、日本も降伏文書に調印した。
批判、評価など
満州事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満州事変はそれまでのヴェルサイユ体制の終わりであって、満州事変〜日中戦争〜太平洋戦争を一体のものとみなすことには批判もある[4][5]。
このほか、ペリー来航から大東亜戦争までを一体のものとみなす林房雄の「東亜100年戦争」[6]、日清戦争から太平洋戦争までを一体のものとする本多勝一の「50年戦争」[7][8]といった呼称・時期区分があり、猪木正道も近代化に成功した日本が軍国主義化をすすめた展開を日清戦争から日中戦争(大東亜戦争)までとみなしている[9]。
2015年(平成27年)1月、今上天皇は新年に当たって「感想」を発表した[10]。その中で、同年が「終戦から70年という節目の年」に当たり、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。」と述べた。すなわち、1945年(昭和20年)に終えた「この戦争」の始点を1931年(昭和6年)の満州事変とし、一体のものと見る認識を示した。
略年表
前史
- 1925年(大正14年)1月 蒋介石の広東政府、北伐を開始。
- 1927年(昭和2年)
- 10月 毛沢東、江西省に革命根拠地樹立。
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年) 日本、金輸出解禁により金流出、輸出不振。
1931年(昭和6年)
1932年(昭和7年)
- 1月28日 第一次上海事変起こる。
- 2月 - 9月 リットン調査団、柳条湖事件を調査。
- 3月1日 満州国建国宣言。
- 5月15日 五・一五事件発生。
- イギリスがブロック経済を形成する。
- 9月15日 日満議定書調印。
- 10月 リットン調査団、柳条湖事件調査の結果を国際連盟に報告。
1933年(昭和8年)
- 1月〜3月 日本軍、熱河に侵入。
- 2月21日 - 国際連盟総会で柳条湖事件に関するリットン報告を採択(反対票は日本のみ)、日本に対し満州からの撤退が勧告される。日本は不服として連盟脱退を表明。
- 3月4日 - フランクリン・D・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任、ニューディール政策を実施(〜1936年)。
- 3月24日 - ドイツ、「全権委任法」を制定、アドルフ・ヒトラーが総統に就任。
- 3月27日 - 日本、国際連盟から正式に脱退する。
- 日本、中華民国と塘沽協定を結ぶ。
1934年(昭和9年)
1935年(昭和10年)
1936年(昭和11年)
1937年(昭和12年)
- 7月7日 - 盧溝橋事件(蘆溝橋事件)。これより中華民国との日中戦争勃発。
- 7月 - 日本軍、北京・天津地域を占領。通州事件発生。
- 8月13日 - 第二次上海事変起こる。
- 9月 - 第二次国共合作。
- 12月13日 - 日本軍、国民政府の首都南京を占領。南京事件(事件の有無、規模、性質をめぐっては議論あり)。
- 国民政府、重慶に首都移転。
1938年(昭和13年)
- 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる近衛声明発表。国民政府との和平交渉を打ち切り南京政府及び日本に抵抗するゲリラとみなす。
- 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。
- 5月5日 - 国家総動員法、施行。
- 12月 - 汪兆銘、重慶を脱出。
1939年(昭和14年)
1940年(昭和15年)
- 汪兆銘、南京国民政府樹立。
- 6月14日 - ドイツ軍、パリに入城。
- 6月 - フランスのヴィシー政権がドイツに降伏。自由フランス政府は抵抗を続行。
- 9月 - 日本、北部仏印に進駐。
- 9月 - 日独伊三国軍事同盟締結。
- 10月 - 大政翼賛会、結成。
- 11月 - 大日本産業報国会、結成。
1941年(昭和16年)
- 3月1日 - ドイツ軍、ブルガリアに進駐。
- 4月13日 - 日ソ中立条約調印。
- 6月22日 - ドイツ軍、ソ連に侵攻開始(バルバロッサ作戦)。独ソ戦始まる。
- 7月2日 - 対ソ戦準備・南部仏印進駐を御前会議で決定。
- 7月 - 日本、南部仏印に進駐。
- 10月2日 - ドイツ軍、モスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)開始。30日に中断、翌月19日に再開。
- 11月 - アメリカ、日本に、ハル・ノートを提案。
- 12月8日 - マレー作戦・フィリピン作戦・真珠湾攻撃実施 日本は英米蘭に対し開戦、太平洋戦争勃発。
- 12月10日 - 日本軍、グアム占領(グアムの戦い (1941年))。
- 12月11日 - ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。
- 12月23日 - 日本軍、ウェーク島占領(ウェーク島の戦い)。
- 12月25日 - 日本軍、香港占領(香港の戦い)。
1942年(昭和17年)
- 1月2日 - 日本軍、マニラ占領 (フィリピンの戦い)。
- 2月6日 - 日本軍、ラバウル占領(ラバウルの戦い)。
- 2月15日 - 日本軍、シンガポール占領 (シンガポールの戦い)。
- 3月8日 - 日本軍、ラングーン占領(ビルマの戦い)。
- 3月9日 - 日本軍、ジャワ島占領(蘭印作戦)。
- 5月7〜8日 - 珊瑚海海戦起こる。
- 5月 - 日本軍、フィリピンのコレヒドール島占領。
- 6月5〜7日 - ミッドウェー海戦起こる。
- 8月 - ガダルカナル島の戦い始まる。
1943年(昭和18年)
- 2月1〜7日 - 日本軍ガダルカナル島から撤退。
- 2月 - ソ連軍がスターリングラードでドイツ第6軍を降伏させる。(スターリングラード攻防戦)
- ドイツ東部戦線、第三次ハリコフ攻防戦。
- 4月18日 - 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空にて戦死。(「海軍甲事件」)
- 7月4日 - ドイツ東部戦線、クルスクの戦い。(〜8月27日)
- 7月10日 - 連合軍、シチリア島に上陸。(ハスキー作戦)
- 9月3日 - 連合軍がイタリア半島に上陸。(イタリアの戦い)
- 9月8日 - イタリア王国、連合国に降伏。
- 9月23日 - ドイツに救出されたムッソリーニがイタリア社会共和国を建国。日本は承認。イタリアは内戦状態に。
1944年(昭和19年)
- 日本学童疎開始まる。
- 一号作戦(大陸打通作戦)開始。
- 6月6日 - 連合軍、フランスに上陸。(ノルマンディー上陸作戦)
- 8月 - 自由フランスと連合軍によるパリの解放。ヴィシーフランスが降伏。
- 10月 - レイテ沖海戦起こる。
- 12月 - ドイツ軍、アルデンヌ攻勢。
1945年(昭和20年)
- 2月18日 - 硫黄島の戦い始まる。
- 3月10日 - 東京大空襲起こる。
- 3月22日 - 硫黄島が陥落。
- 3月26日 - 米軍、沖縄上陸。
- 4月6日 - 天一号作戦(菊水作戦)開始。
- 4月12日 - アメリカ、ルーズベルト大統領、死去。
- 4月28日 - ムッソリーニがパルチザンに処刑される。イタリア社会共和国は崩壊。
- 5月2日 - ベルリンが陥落(ベルリンの戦い)。
- 5月8日 - ナチス・ドイツ、無条件降伏。
- 7月25日 - 米国、日本への原子爆弾投下命令を下す。
- 7月26日 - ポツダム宣言が日本政府に示される。
- 8月6日 - 広島市への原子爆弾投下。
- 8月8日 - ソ連、ヤルタ協定に基づき日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告、日本保護領満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻(ソ連対日宣戦布告)。
- 8月9日 - 長崎市への原子爆弾投下。
- 8月14日 - 日本、ポツダム宣言受諾と降伏を決定。
- 8月15日 - 正午、昭和天皇による玉音放送(天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」朗読)。
- 9月2日 - 日本、降伏文書に調印、第二次世界大戦終結。
- 9月下旬 - 中国大陸の日本軍降伏、日中戦争終結。
関連項目
- 帝国主義
- 侵略戦争
- 戦間期
- 昭和
- 戦争景気
- 満州事変
- 日中戦争(支那事変)
- 太平洋戦争(大東亜戦争)
- 極東国際軍事裁判
- Fifteen Years War(英語Wikipedia)
- Guerre de quinze ans(フランス語Wikipedia、中世欧州にも「15年戦争」があった)
参考文献
- ↑ 山田朗 「十五年戦争」『日本歴史大事典』 小学館、2009年(原著2000年)、CASIO 電子辞書「EX-word」XD-GF10000 収録。ISBN 978-4095230016。
- ↑ 蘆溝橋事件処理に関する閣議決定(国立国会図書館資料)
- ↑ 瀬島龍三は「私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と日下公人に発言している。#大東亜戦争、こうすれば勝てたp.195-196
- ↑ 『二十世紀日本の戦争』 文藝春秋,2000年,p68-72
- ↑ [1]石大三郎「盧溝橋事件への一考察」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No. 2, 31-41 (2001)
- ↑ 林房雄『大東亜戦争肯定論』
- ↑ 本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』朝日新聞社,1998,208-9
- ↑ 庄司潤一郎 2011, p. 68.
- ↑ 『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社,1995年
- ↑ “天皇陛下のご感想(新年に当たり)”. 宮内庁 (2015年1月1日). . 2015閲覧.