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加藤久


{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} 加藤 久(かとう ひさし、1956年4月24日 - )は、日本サッカー指導者、元サッカー選手、スポーツ研究者(博士(学術))。宮城県宮城郡利府町出身。

経歴

現役時代

。各大学から特待生入学の話があったが、釜本邦茂らがいた時代から早稲田大学に憧れていた事より、猛勉強の末、一般入試で同大教育学部へ進学し、早稲田大学ア式蹴球部へ入部。関東大学リーグ大学サッカー選手権を始め多くのタイトルを獲得した。また在学中の1977年日本代表に選出された。

1979年に早稲田大学を卒業し、1年のブランクを経て1980年からは日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団。スイーパーを務め、守備のリーダーとしてチームを統率。1980年代から1990年代初頭に掛けてJSL1部4回、天皇杯3回などの優勝で飾られた読売クラブ黄金時代の一員となった。

一方、日本代表として活躍した1980年代は日本がオリンピックFIFAワールドカップ(W杯)の本大会出場にあと一歩まで迫りながら逃し続けた時期でもある。加藤はこれらの予選に参加し、1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選[1] では主将を務め、最終予選まで勝ち進んだが、出場を懸けた韓国代表との対戦で敗退[2]1987年ソウルオリンピック予選においても最終予選まで駒を進めたが中国代表の前に敗退。この予選を最後に加藤は日本代表から退いた[3]

研究者生活

加藤は大学卒業後も研究を志向した点で、サッカー選手の中では異彩を放っている。早稲田大学教育学部を卒業後、筑波大学大学院体育学研究科修士課程に進学し、スポーツ選手では異例の1年間の空白期間を作り研究生活を続けた。1981年に修士課程を修了し、母校の早稲田大学で助手となった。その後も学生の指導と自己の研究を続け、1984年に早稲田大学体育局専任講師1991年に早稲田大学人間科学部助教授に嘱任(担当科目は体育学スポーツ社会学)。当時から少年向けのサッカー技術解説書を執筆していた。

1997年にヴェルディ川崎の監督に専念するために早稲田大学を退職したが、監督辞任後の1998年東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程に入学した。東京工業大学大学院在学中の1999年には、自らが客員研究員を務めた電通総研スポーツ文化研究チームとの共著で『スポーツ生活圏構想』を出版し、Jリーグの設立理念にも盛り込まれているスポーツを中核とした地域社会の再構築について提言を行った。2003年に東工大博士課程を修了(指導教員:石井源信)。東工大に博士論文「中学生サッカー選手におけるストレスの構造分析」を提出し「博士(学術)」の学位を取得した。

V川崎・清水・協会

1991年、読売クラブでの現役、それもレギュラーの選手ながら、加藤は日本サッカー協会から強化委員会の一員に選ばれた。日本代表としての活躍と、早稲田大学助教授という高い学識の双方の経験を買われての起用だった。1993年には強化委員会の副委員長になり、日本代表監督のハンス・オフトパウロ・ロベルト・ファルカンへの評価を下す立場になった。一方、この1993年にJリーグが開幕し、加藤は5月15日Jリーグ開幕戦で、読売クラブが改称したヴェルディ川崎(V川崎)の選手として出場したが、従来の読売クラブが貫いた「ブラジル的」の個人技中心のサッカーとは異なる、「オランダ的」な組織プレー重視のスタイルを導入しようとした松木安太郎監督がオランダ人DFのイェーネ・ハンセンを起用すると、加藤は出場機会を失った。この起用法はベテラン選手(ラモス瑠偉など)などとの内紛を招き、加藤は移籍を希望するようになった。そこに清水エスパルスが名乗りを上げ、加藤はJリーグ移籍第1号選手として清水のユニフォームを着た。清水は優勝争いに加わったが、オランダ人選手の退団でブラジル路線に回帰したV川崎が復調し、年間王者に輝いた。

1994年シーズンも清水と契約したが、埼玉県所沢市にある早稲田大学所沢キャンパスで学生指導、あるいは東京都渋谷区(当時)での日本サッカー協会で仕事をした後、東海道新幹線などを利用して清水の練習に参加する異例の長距離通勤生活は限界に近づいていた。チームも練習参加に難があり、年齢の問題もある加藤をレギュラーから外し、内藤直樹ロナウド・ロドリゲス・デ・ジェズスが加藤に代わってセンターバックに入った。一方、V川崎ではネルシーニョがヘッドコーチとなって松木監督との共同指導体制に移行し、一時は移籍を決断したラモスなどのベテラン選手の不満を容れて再びブラジルスタイルへ回帰していた。この状況で、加藤は再びV川崎へ移籍(復帰)することになった。

V川崎に復帰したが、加藤がいたセンターバックはルイス・カルロス・ペレイラが不動のレギュラーで(このシーズンのMVP)、高卒ルーキーの廣長優志が先発出場するようになり加藤は控えに回った。加藤は現役引退を発表し、12月1日から日本サッカー協会の強化委員長となることが決まった。加藤の現役最後の公式戦はJリーグチャンピオンシップで、11月26日の第1戦(1-0)に続いて12月2日の第2戦ではラモスがループシュートを決めて1-0と連勝し、V川崎が2年連続での王者に輝いた。試合後に加藤は親友のラモスと抱擁し、現役を退いた(日刊スポーツ・加藤の写真あり)。。

1995年からは大学での指導と協会の仕事に携わり、ファルカン解任で就任した加茂周監督の評価を行った。1996年アジアカップで日本代表はクウェートに敗れてベスト8に終わり、更に加茂が帰国時に体調不良を訴えると、強化委員会は加茂の更迭を主張し、後任にネルシーニョを推薦した。しかし、協会会長の長沼健はこれを退け、加茂の続投を決めた。この際ネルシーニョは協会を「腐ったみかん」と批判した。強化委員会は自らの存在意義を失い、加藤は辞任して解体状態となった。これ以後、加藤は協会の要職から外れている。

指導者

1997年、V川崎の監督に就任。元JリーガーとしてJリーグクラブチームの監督になった人物は加藤が史上初である。この時に早稲田大学も退職し、加藤は初めてサッカーに専念する生活になった。しかし、世代交代期のV川崎は加藤の指導でさらなる低迷へと導かれ、12試合で4勝8敗の16位と低迷した責任を取って、1stステージ途中の6月に辞任した。その後はV川崎のテクニカルディレクターとして活動し、1998年には東京工業大学の博士課程に進学して、再び大学とサッカーを両立させる生活に戻った。

1999年はV川崎を離れてJリーグの技術委員として活動した後、2000年にはJ2・湘南ベルマーレの監督に就任した。V川崎時代に獲得した前園真聖をレンタルで呼び、松原良香などアトランタオリンピックに出場した選手を中心として戦ったが、1年でのJ1復帰というチーム目標は達成できず、シーズン終了後に解任された。 この解任劇でフロントに不信感を持った前園松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去った。

その後は解説者などとしても活動し、東京工業大学で博士の学位を取得した2003年沖縄かりゆしFC九州サッカーリーグ)の監督に招聘されたが、チームの運営に関する内紛に巻き込まれてシーズン途中の9月に今シーズン限りのでの辞任が発表された。それでも加藤はチームを九州サッカーリーグ優勝に導いたが、全国地域リーグ決勝大会で敗れて日本フットボールリーグ(JFL)昇格は逃した。しかし、加藤は沖縄との関係を残し、小学生から高校生まで、女子を含めて青少年世代の育成を目指すヴィクサーレ沖縄FCをNPOとして設立し、その理事長となった。このチームはU-15(中学生年代)で高円宮杯U-15、U-12(小学生年代)で全日本少年サッカー大会に出場するなど、沖縄県内の強豪ユースとしての地位を固めた。

2007年シーズンを前に加藤はJ2・京都サンガF.C.に招聘された。加藤はヴィクサーレ沖縄との関係維持を条件にこれに応じ、京都の専務取締役(実質上のゼネラルマネージャー職)に就任。当初はGMとしてチーム編成などにかかわり、美濃部直彦監督を支える立場にあったが、シーズン途中からは総監督として現場指導にも関わった。さらに、チームに敗北が増えて目標のJ1復帰が危うくなってきた同年10月に美濃部監督を解任し、自らが監督に就任して残りのJ2リーグ戦とJ1・J2入れ替え戦を戦い、チームの大目標だった1シーズンでのJ1復帰を達成した。

当初は暫定監督扱いだったが、結果を残したことから、以後もGM職との兼任で引き続き京都を指揮。選手を大きく入れ替えてJ1に臨んだ2008年シーズンは、特定の形にこだわらず、相手に応じて様々なシステムを併用する采配を見せ、賛否両論を読んだ。年間通じて残留争いに苦しんだが、結果は14位で、J1残留という最低限の目標を達成。2009年シーズンは上位進出を目指して更に積極的に補強に動いたが、再び下位に沈み、2008年と全く同じ勝ち点での12位に終わる。それでも、2部制導入以降でクラブ史上初となる、3シーズン連続のJ1残留に導いた。

2010年シーズンは、足掛け4年目の長期政権となったが、やはり開幕から下位に沈み、10戦未勝利で最下位となった第14節終了後の7月27日に解任が発表された。合わせて、契約途中だった専務取締役職も退いた。 2011年、東日本大震災の発生直後から被災地域での復興支援活動に取り組んでいたが、日本サッカー協会に任ぜられ、同年10月よりJFA復興支援特任コーチとして活動していたが、2012年10月末で退任。

2013年12月16日、ジュビロ磐田ゼネラルマネージャーに就任[4]

2018年8月1日、第15回日本サッカー殿堂へ掲額されると発表された[5]

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1980||rowspan=12|読売||26||rowspan=12|JSL1部||14||0||2||0||3||1||19||1 |- |1981||rowspan=11|5||18||3||1||0||5||1||24||4 |- |1982|||18||0||0||0||3||0||21||0 |- |1983|||18||0||3||1||3||0||24||1 |- |1984|||16||0||0||0||5||1||21||1 |- |1985|||16||2||4||1||2||0||22||3 |- |1986-87|||22||1||0||0||5||0||27||1 |- |1987-88|||22||2||1||0||5||0||28||2 |- |1988-89|||20||0||3||1||3||1||26||2 |- |1989-90|||10||0||1||0||1||0||12||0 |- |1990-91|||21||3||2||0||2||0||25||3 |- |1991-92|||20||0||0||0||5||0||25||0 |- |1992||rowspan=2|V川崎||rowspan=5|-||rowspan=5|J||colspan="2"|-||9||1||5||0||14||1 |- |rowspan="2"|1993||1||0||1||0||colspan="2"|-||2||0 |- |rowspan=2|清水||14||0||0||0||3||0||17||0 |- |rowspan="2"|1994||6||0||0||0||colspan="2"|-||6||0 |- |V川崎||7||0||0||0||0||0||7||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始28||0||10||1||8||0||46||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行215||11||17||3||42||4||274||18 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終243||11||27||4||50||4||320||19 |} その他の公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 61試合 6得点(1978-1987)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1977 0 0 8 1 8 1
1978 5 1 4 0 9 1
1979 0 0 0 0 0 0
1980 3 0 6 1 9 1
1981 8 1 12 1 20 2
1982 8 0 14 0 22 0
1983 7 1 12 0 19 1
1984 6 1 4 0 10 1
1985 8 0 5 0 13 0
1986 5 0 4 0 9 0
1987 11 2 12 0 23 2
通算 61 6 81 3 142 9

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1978年12月15日 タイ王国の旗 タイバンコク 大韓民国の旗 韓国 1-3 敗戦 アジア競技大会
2 1981年9月8日 マレーシアの旗 マレーシアクアラルンプール テンプレート:UAEf 3-2 勝利 ムルデカ大会
3 1983年9月4日 日本の旗 日本東京 テンプレート:PHLf 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
4 1984年5月31日 日本の旗 日本大宮 中華人民共和国の旗 中国 1-0 勝利 ジャパンカップ
5 1987年9月15日 日本の旗 日本、東京 テンプレート:NPLf 5-0 勝利 ソウル五輪予選
6 1987年9月18日 テンプレート:NPLf 9-0 勝利 ソウル五輪予選

学歴

  • 1979年 早稲田大学教育学部教育学科体育学専修卒業(教育学士(早稲田大学))
  • 1981年 筑波大学大学院体育学研究科修士課程修了(体育学修士(筑波大学)
  • 2003年 東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了(博士(学術)(東京工業大学))

職歴

  • 1981年 - 1984年 早稲田大学体育局助手
  • 1984年 - 1991年 早稲田大学体育局専任講師
  • 1991年 - 1997年 早稲田大学人間科学部助教授

指導歴

監督成績

年度 クラブ 所属 試合数 勝点 順位 ナビスコ杯 天皇杯
1997 V川崎 J1 12 4 - 8 10 16位 予選リーグ敗退 -
2000 湘南 J2 40 15 1 24 43 8位 1回戦敗退 3回戦敗退
2003 沖縄かりゆし 九州社会人 22 18 0 4 54 優勝 - 2回戦敗退
2004 18 15 0 3 25 2位 - 県予選敗退
2007 京都 J2 8 4 3 1 15 3位 - 3回戦敗退
2008 J1 34 11 8 15 41 14位 予選リーグ敗退 5回戦敗退
2009 34 11 8 15 41 12位 予選リーグ敗退 3回戦敗退
2010 14 2 4 8 10 18位 予選リーグ敗退 -
通算 - - 184 80 24 78 - - -

主な著書

  • 単著
    • 『完全敵地』 (集英社、2005年)
    • 『まるごとワールドカップ』 (ポプラ社、2002年)
    • 『ひとりの集団』 (講談社、1997年)
  • 訳著
    • (原作:Bill Beswick) 『サッカーのメンタルトレーニング』 (大修館書店、2004年)

脚注

  1. 1985年5月30日キリンカップで日本代表と読売クラブが対戦した。加藤はこの試合に読売の選手としてフル出場し、1-0で勝利した。
  2. 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表平壌金日成競技場で対戦した。この試合は、8万人の観衆の中で代表チーム以外の日本人は報道陣を含めて18人しかいない、不慣れな人工芝での試合中に木村和司が転倒して頭を強打し失神するなどの苛酷な対戦となった。加藤はこの試合を中心としたW杯予選での戦いについて、2005年に『完全敵地』として単行本を出版している。
  3. 後任の代表監督、横山兼三が若手選手に切り替える方針を打ち出したこともある。
  4. 加藤久氏「ジュビロ磐田GM」就任のお知らせ”. ジュビロ磐田 (2013年12月16日). . 2013閲覧.
  5. “第15回日本サッカー殿堂 掲額者決定のお知らせ” (プレスリリース), 日本サッカー協会, (2018年8月1日), http://www.jfa.jp/football_museum/news/00018275/ . 2018-8-1閲覧. 

外部リンク


テンプレート:日本サッカー殿堂