創政会

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創政会(そうせいかい)は、会長を竹下登に据えて結成された自由民主党田中派内の勉強会であり派中派。創政会の名は竹下が発行していた機関紙『創政』から取られた。

結成は1984年に起こった、中曽根退陣を画すグループが田中派の大番頭である二階堂進を担ぎあげようと画した「二階堂擁立劇」後の年末とされているが、その萌芽は田中派のオーナーである田中角栄ロッキード事件による逮捕の後に、世代交代論者の金丸信が竹下を支えて派閥をまとめようとしたことに起因している。

経緯

1984年当時、田中派は121名を抱える党内最大派閥であったが、膨張を続けていたために派内での風通しが悪くなったばかりか田中退陣の後10年を経ても自派閥から首相候補を出さないという閉塞的な状況に陥っていた。それは田中が自派閥から総裁候補を送り出すことによって自らの影響力低下を恐れたためであったが、いつまでも後継者を決めない態度に加え、当選回数の浅い後藤田正晴や「外様」といわれる他派閥から移籍してきた議員を重用することなどにより、竹下登を担ぎ上げようとする若手を中心に不満がたまっていた。

その状況の中で「二階堂擁立劇」が起こった。擁立劇自体は田中の反対により頓挫したが、田中の派内での統制力は弱体化した。一方で竹下を支持しながらも派内擁立の意味では二階堂を容認した若手の間で焦りが生まれ、それを見た金丸が立ち上がったことで事態は急速に進行し始めた。

勧誘は徹底的に秘密裏に進められ、参加者同士でありながらお互いの秘書にまで秘密にする議員が現れるほど徹底していた。結成直前の参加希望者は81名を数え、当時の田中派の3分の2にもなろうかという勢いだった。しかし、当初は容認の構えを見せていた田中が、勉強会は見かけで実は派中派であることに気づくと、猛烈な巻き返しを図り、切り崩し工作を行った。譜代議員には厳格に接し、外様議員には柔和に接する工作は結成当日まで行われた。その結果、参加希望者はどんどん脱落し、結局は当初の81名から40名と半減した。しかし40名という数は当時の総裁立候補に必要な50人に後10名足りないだけの数であり、田中も無視できない存在になった(これを指し、田中の秘書であった早坂茂三は「双方痛み分けの芸術的な数字」と語っている)。

ただちに対決的な形になることは竹下らも派内の大勢も望んでいなかったため、当初は設立総会をホテルで行う予定であったところを、田中派が入る砂防会館別館に開催場所を移すことでその意志を示した。

結成後、田中邸を訪れた竹下に、田中は「同心円で行こう」と伝え、竹下も了承。双方が収束の落としどころを探っていた矢先に、田中は脳梗塞で倒れてしまう。田中が倒れたことによって世代交代の流れが出来たこともあり、総選挙前の1986年4月25日、54人を数えたところで創政会は解散した。その後、田中派は竹下を推す勢力と派閥会長の二階堂の勢力との対立を経て、経世会(竹下派)へと変化して行くことになる。

各人による評

一連の動きで田中が最も心を痛めたのは、小沢一郎梶山静六羽田孜など、子飼いの弟子が弓を引いたことであった。この事で田中は深酒をするようになり、やがて脳梗塞で倒れることになるのだが、田中派外様の代表格である田村元はこれを「創政会卒中」と周囲に漏らしている。

一般的には田中支配転覆のクーデターに見られがちな創政会の結成であるが、小沢一郎は、「オヤジと慕う角栄に弓を引く気はなく、竹下を一時的に後継者に指名すればそれでよかった」とも述べている(立ち上げの前日一晩泣き明かしたという)。梶山静六は、派内後継者を決めればそれでよく、田中支配を続けることに反対ではなかったという。羽田孜なども同様のことを言っている。また後藤田正晴は、「角栄が倒れることがなければ、いずれ必ず機会を見て潰されていただろう」と語っている。

立ち上げメンバーのひとりである渡部恒三は、仁義を切るために田中邸を訪れた際、田中に「貴様、次の選挙で川島(引用注:渡部と同郷の元官僚・川島廣守のこと)を立ててたたき落としてやる」と怒鳴られたことを回想している[1](結局川島は出馬せず、このような選挙構図にはならなかった)。

脚注

関連項目