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八名郡



八名郡(やなぐん)

三河国(愛知県)東部にあった郡。現在の南設楽(みなみしたら)郡鳳来町東部・新城(しんしろ)市南東半部・豊橋市北部および宝飯(ほい)郡一宮町・豊川市の各東部の一部にあたる地域。明治の郡区編制では、北は北設楽郡・南設楽郡、東は静岡県豊田郡・引佐(いなさ)郡・敷知(ふち)郡、南は渥美郡、西は宝飯郡・南設楽郡に接していた。豊川左岸の低い山地と南部の平地を郡域とした。郡名の初見は和銅六年(七一三)の年紀のある平城宮跡出土木簡で、「参河国八名郡片山里」「八名郡多米里」とある(『平城宮跡出土木簡概報』七)。『和名類聚抄』は「也奈」と訓み、管郷は多米・美和・八名・養父・和太・服部・美夫の七郷とする。式内社は石巻神社。平安時代後期以後、郡域は南部の小野田荘と北部の宇利本荘・新荘に二分されたらしいが、成立状況などは不明。豊川東岸の平野部を荘域とした小野田荘は十五世紀中葉まで京都賀茂別雷社領。宇利本荘は十三世紀中葉は源長俊―盛長領。新荘は十四世紀中期に洞院家領であったが、応安七年(一三七四)に京都祇園社に寄進され、十四世紀末以後は本新荘ともに慈恩院(慈恩庵)領。十六世紀には嵩山(すせ)の西郷氏、宇利の熊谷氏、遠江井伊谷三人衆の菅沼氏・近藤氏・鈴木氏らの国人が分立し、今川義元ついで徳川家康に服属。家康の関東移封後は吉田城主池田輝政領。関ヶ原の戦後は一万石前後の吉田藩領のほか他藩領・旗本領・幕領・寺社領混在地域となった。近世の村数と石高は、『三河国村々高附』では五十一村・一万八千六百九十石余、『元禄郷帳』六十五村・二万千五百四十九石余、『天保郷帳』で六十五村・二万六千九百八十四石余。古代以来の東海道の脇道である本坂道(姫街道)は明和元年(一七六四)幕府道中奉行支配となり、嵩山宿が設置された。明治四年(一八七一)額田(ぬかた)県に属し、同五年愛知県に属す。同年正月額田県第九大区、十一月愛知県第十四大区、同九年第十八区。同十一年郡区町村編制法による八名郡となり、同十七年当時四十二村。同二十二年町村制施行時に十八村。同三十九年県内の大規模な町村合併で一町十一村。昭和七年(一九三二)以後、郡内町村の豊橋市・豊川市・宝飯郡・南設楽郡への編入が行われ、同三十一年九月三十日、山吉田村が南設楽郡鳳来町に編入されて八名郡は消滅した。



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