佐藤允

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佐藤 允(さとう まこと、1934年3月18日 - 2012年12月6日)は、日本俳優佐賀県神埼郡神埼町(現:神埼市)出身。身長173cm、体重71kg。日本大学第三高等学校卒業。息子は映画監督佐藤闘介

来歴・人物

4歳の頃に父が戦死し、教員の母の手一つで育てられた。なお佐藤の父親は生前、陸軍の久留米連隊に所属しており、後年に役者として軍人を演じる際は幼少期に見た父親の立ち振る舞いが大いに影響されているとのこと。

高校卒業後、1952年俳優座養成所に第4期生として入団(同期には宇津井健佐藤慶仲代達矢中谷一郎らがいる)。なお、佐藤、仲代、中谷の3人は、後年に岡本喜八の「喜八ファミリー」の一員と見なされた。

劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤 充名義で出演した後、映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて1956年東宝へ入社。同年に『不良少年』で映画デビューする。紹介した谷口の「人相が悪い」との言葉通り、日本人離れしたアクの強い風貌ゆえに入社間もない頃は凶悪犯やチンピラなどの悪役での出演が続いた。

1958年、『俺にまかせろ』で初主演。

1959年、『独立愚連隊』に主演して一躍脚光を浴び、会社からは佐藤・夏木陽介瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」として売り出されたが、瀬木が間もなく引退したため、自然消滅した。以後、夏木と、新しく入社してきた加山雄三とのトリオでの出演が増加する。二枚目だった夏木と加山は当時ライバル同士であり、二人が争う時は自称三枚目の佐藤がいつも宥めていたという。佐藤本人は後述する岡本喜八監督による独立愚連隊シリーズのような戦時中の兵隊の役が自分に一番合っていたと述懐している。なお初の陸軍軍人役は前述した1959年の『独立愚連隊』で、初の海軍軍人役は1960年の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』である。

1963年の『太平洋の翼』では三四三航空隊の司令だった源田実に直接面会して操縦方法や知識を教わって役作りに活かしたが、後に佐藤は1968年の『連合艦隊司令長官 山本五十六』にて源田を演じている。

1966年の『ゼロ・ファイター 大空戦』では特撮担当だった円谷英二と一緒に仕事をするも、役者相手に演技指導までする円谷に「本編の監督でもないのに……」と長年納得が行かなかったが、後年に雑誌インタビューを受けた際、円谷監督の飛行機好きを知ってようやく納得できたそうである。

東宝退社後、1970年代千葉真一主演作品の助演や、1972年サントリービール紳士服の一色のCMにも出演。岡本喜八監督とは仲違いがあり、1967年を最後に出演が絶えている。1978年のキネマ旬報誌インタビュー「にっぽん個性派時代」で、ファンのためにもぜひ仲直りを、と勧められて前向きなところも見せた。結局再度の出演は生涯かなわなかったものの、息子が岡本の『助太刀屋助六』にスタッフ参加するなど、和解は実現している。

若い頃はリチャード・ウィドマークに似ているとされ、「和製ウィドマーク」と云われたが、中年になった70年代頃からはチャールズ・ブロンソンに似ていると言われ始め、「和製ブロンソン」と形容される。なおブロンソンを起用したマンダムのCMを撮った大林宣彦からも東宝撮影所で会った際に似ていると言われたとのこと。

2008年発売のVシネマ『哀憑歌〜GUN-KYU〜』を最後に俳優業を引退し、その後はトークイベントなどに出演していた[1]

2012年2月14日に川崎市内の自宅近くで転倒し外傷性クモ膜下出血と診断され入院、同年12月6日、急性肺炎のため死去した。78歳没[1][2]

出演作品

映画

テレビドラマ

オリジナルビデオ

劇場アニメ

バラエティ

CM

脚注

関連項目

外部リンク