伊藤康志

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伊藤 康志(いとう やすし、1949年9月29日 - )は、宮城県政治家遠田郡涌谷町出身。宮城県議会議員(連続5期)、宮城県議会議長(第33代)を経て、2006年5月1日から大崎市の初代市長(連続4期)。

経歴

学歴

政治活動

青年団活動

その他

表彰・顕彰

  • 宮城県教育功績者表彰(史上最年少)
  • 東北相撲連盟会長表彰
  • 宮城県知事感謝状
  • 宮城県治功労表彰
  • 在日本大韓民国民団全国本部顕彰

人物

  • 涌谷町の大橋家の次男として誕生。小学2年で旧古川市(現大崎市)の伊藤家(母方の伯母宅)の養子となる。伊藤姓を名乗るのは高校卒業後。
  • 相撲は3段の腕前で、高校時代はインターハイに2度出場した。大相撲入りも本気で考えたが、養子に入った伊藤家の跡継ぎであるため断念したという。ちなみに柔道も初段。
  • 全国青年大会に相撲、演劇、意見発表の宮城県代表として出場。相撲で参加したことがきっかけで、青年団活動にのめり込んだ。演劇(古川市富永青年会)と意見発表は、それぞれ優秀賞(銀メダル)を受賞。
  • 尊敬する政治家は元宮城県知事山本壮一郎。青年団活動を通じて山本と出会ったことが、政治家を志すきっかけになったと語っている。
  • 宮城県議会の当選後初の定例会で一般質問を行った際、支持者や友人らが大挙して詰め掛け、傍聴席が史上初めて満席となった。
  • 中国国家主席胡錦濤とは、日中の青年交流事業を通じて知り合い、現在も友人関係にある。
  • 宮城県議会で後輩議員だった宮城県知事村井嘉浩は盟友の関係。村井が2005年の知事選に立候補した際、県議会議長だった伊藤は全面的に村井を応援。翌2006年の大崎市長選では、今度は村井が伊藤を全面的に応援した。村井が知事就任後に県内の首長選でマイクを握ったのは、2009年5月現在、この選挙だけである。
  • 座右の銘は「耕不尽(こうふじん)」。
  • 愛称は「やっさん」「やっちゃん」など。

エピソード

社会保険庁とのバトル

全国の自治体で相次いだ年金保険料横領を巡り、当時厚生労働大臣だった舛添要一(当時自民党)は、時効が成立していない全国9自治体に対し、刑事告発するよう求めた。合併前の旧田尻町町民生活課の元男性主事(当時30代)も、2000年11月から2001年3月の保険料約28万円を横領していたため、舛添は合併後の大崎市にも刑事告発するよう求めた。

しかし大崎市は、(1)旧田尻町が事件発覚当時、社会保険庁にも対応を相談したうえで、告発はせずに懲戒免職処分とした(2)元職員は横領を認め、全額弁償している(3)元職員は既に社会的制裁を受け、現在は更生している、等を理由に告発を見送り、社保庁に伝えた。

これに対し社保庁は、大崎市に代わり、宮城社会保険事務局長名で元職員を古川警察署に告発した。 告発前日に舛添のもとを訪ね、告発しないことへの理解を求めていた伊藤は、「正直残念という思いだ」「地方がきちんとした手続きを踏んだにも関わらず、大臣が強権発動したことに失望した」等と発言した。[1]

村井知事や、同様に刑事告発しない方針の他の自治体の首長らも「社保庁職員は刑事告発でしゃかりきになっているが、大事なのは消えた年金問題を解決することではないのか」と大崎市の対応に理解を示した。 しかし、社保庁が自治体に代わり告発したのは全国初だったため、伊藤が記者会見で社保庁や舛添を批判する様子がテレビニュースなどで全国放映され、これを見て「大崎市長は犯罪者をかばった」ととらえた人たちからの抗議の電話Eメールなどが市役所に殺到した。 その一方、国を相手にしても一歩も怯まず、真っ向から意見する伊藤の態度を賞賛する声もあった(ただし、批判のほうが多かった)。

仙台地検は、元職員を起訴猶予とし、このバトルは大崎市側の全面勝利となった。伊藤は「(起訴猶予は)適切な判断と思う」「旧田尻町が社保庁にも相談して処分を決めたのに、蒸し返した社保庁の行動は非常に残念」等と改めて社保庁を批判した。[1]

その後、伊藤が陳情等で国会を訪ねた際、偶然にも舛添と鉢合わせした。現場に居合わせた人などの間で「この2人はよほど縁があるようだ」と笑い話になったという。

岩手・宮城内陸地震の名称変更要請

2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震の名称を巡り、伊藤は気象庁に対し、「地震の名称が両県広範囲で被害が出た印象を与え、鳴子温泉郷等で観光客の大量キャンセルなど風評被害を生んでいる」として、地震名を局地的な名称に変更するよう要望した。しかし、気象庁は「余震の範囲や被害分布などを考えて付けた適切な名称。変更は考えない」と回答した。

リコール騒動

伊藤は、2006年市長選で大崎市民病院本院を現在地で建て替えると公約し当選した。しかし、拡張に必要な周辺用地の一部が地権者の反対で買収できず、事業費も予定額を大幅に上回る見通しとなり、さらに勤務する医師たちから約2キロ離れた古川穂波地区の市有地へ移転新築するよう求める要望書が提出されたため、政治判断で古川穂波地区への移転を決め、市議会も移転事業費を賛成多数で可決した。村井知事も県議会で移転賛成を表明した。 [2][3]

これに対し、病院に移転されると不便になる病院付近の市民、商売に影響が出て困る商店経営者や駐車場の持ち主、伊藤に批判的な立場の共産党員等が「伊藤は公約違反だ」「穂波地区は地盤が軟弱」などと主張して市民グループを組織し、2009年11~12月にリコールの署名活動をしたが、必要な有権者3分の1(約37100人)が集まらずリコール不成立となった。住民グループは署名が32384人分集まったと発表したが、市選管の精査を受けておらず、マスコミにも署名簿を公表していないため、人数を水増し発表した可能性があると言われた。

2010年の市長選は、病院移転を阻止したい市民グループが伊藤に対抗する候補者擁立を模索したが、途中で内部分裂し、グループ離脱組は前回も立候補した本間俊太郎、グループ残留組は支持協定を結んだ佐藤仁一を擁立した。その結果、病院の移転新築を公約した伊藤が、リコールで集まったとされた署名を上回る34404票を獲得し、 病院の現在地建て替えを公約した本間と佐藤を破って再選され、病院移転が信任される結果となった。

ちなみに、移転反対派は前述の通り「穂波地区は地盤が軟弱」と主張していたが、2011年の東日本大震災では現病院で液状化や地盤沈下がみられたのに対し、移転予定地で同様の被害はみられなかった。

脚注

  1. 社保庁 市に代わり、着服の元職員告発 宮城・大崎”. 朝日新聞. 2007年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2007年10月12日閲覧.

著書

  • 『東北発「豊かさ」探求』(2004年1月、笹氣出版

外部リンク