久世広周
提供: miniwiki
久世 広周 | |
---|---|
時代 | 江戸時代後期(幕末) |
生誕 | 文政2年4月12日(1819年5月5日) |
死没 | 元治元年6月25日(1864年7月28日) |
幕府 | 江戸幕府奏者番・寺社奉行・西丸老中・老中(勝手掛、外国御用取扱、勝手入用掛) |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
藩 | 下総関宿藩主 |
氏族 | 大草氏→久世氏 |
久世 広周(くぜ ひろちか)は、江戸時代末期の大名。下総関宿藩の第7代藩主。関宿藩久世家7代。
生涯
旗本・大草高好の次男として生まれる。文政13年(1830年)10月12日、第6代関宿藩主久世広運の末期養子として家督を継いだ。天保3年(1832年)10月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。
嘉永4年(1851年)、老中として阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、安政の大獄で井伊直弼の強圧的な処罰方針に反対したため、直弼の怒りを買って罷免される。
万延元年(1860年)、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、老中安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任、信正と共に公武合体政策を推進した。政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長州藩の長井雅楽による「航海遠略策」の援助なども行なった。しかし文久2年(1862年)、安藤が坂下門外の変を機に老中を罷免されるや、その連座及び公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、老中を罷免されて失脚した。元治元年(1864年)、失意のうちに死去した。享年46。
官歴
※日付は旧暦
- 文政13年(1830年)10月、家督相続。
- 天保4年(1833年)12月16日、従五位下隠岐守に叙位。
- 天保8年(1838年)11月6日、大和守に転任。
- 天保9年(1838年)8月15日、奏者番に補任。
- 天保14年(1843年)
- 嘉永元年(1848年)
- 10月18日、西丸老中。大和守に還任。(弘化2年に既に堀大和守親寚が老中を御役御免されていたため、西丸老中への異動を契機に大和守に還任)
- 12月15日、従四位下に昇叙。大和守如元。
- 嘉永2年(1849年)2月15日、侍従に遷任し、大和守の兼任如元。
- 嘉永4年(1851年)12月21日、老中。
- 安政4年(1857年)7月4日、勝手掛兼務。
- 安政5年(1858年)10月26日、外国御用取扱兼務。翌日、老中辞職。
- 万延元年(1860年)
- 閏3月1日、老中に復職。
- 閏3月9日、勝手入用掛兼務。
- 4月28日、老中首座。
- 12月1日、外国御用取扱兼務。
- 文久2年(1862年)
- 5月26日、勝手掛および外国御用取扱御役御免。
- 6月2日、老中御役御免。
- 8月16日、1万石召し上げ。隠居。
- 11月20日、永蟄居。
※参考資料:大日本近世史料「柳営補任」、「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版、続日本史籍叢書「増補幕末明治重職補任・附諸藩一覧」東京大学出版会など。
登場作品
- テレビドラマ