三笑亭可楽

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三笑亭 可楽(さんしょうてい からく)は、落語家(噺家)の名跡。当代は9代目だが、3代目・5代目・6代目が2人ずついたため合わせて12人の落語家が名乗っている。

江戸時代よりその名が続く。名の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から「山生亭花楽」とし後に松戸の贔屓客から「虎渓三笑」の故事に因んで「三笑亭可楽」とした。

毎年4月上旬に、当代可楽一門よって「可楽まつり」が行われる。

初代

テンプレート:落語家 初代三笑亭 可楽安永6年〈1777年〉 - 天保4年3月8日1833年4月27日〉)は、落語家。通称、京屋 又五郎

最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人の天狗連(アマチュア)の噺家と共に江戸下谷稲荷神社寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。

一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には三笑亭可楽に改名した。その後は本所東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約3ミリ)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。

弟子(門下)は「可楽十哲」と呼ばれそれぞれ人情噺の祖・初代朝寝房夢羅久、音曲噺の祖・初代船遊亭扇橋、両国の席の元祖・初代喜久亭寿楽、初代萬笑亭亀楽、初代三笑亭佐楽初代東亭鬼丸自笑亭里楽、初代宇治新口立川談志)、初代三笑亭古楽、怪談噺の祖・初代林屋正蔵、百面相の一種・百眼の初代三笑亭可重(のちの2代目可上)、百眼の祖・初代三笑亭可上三笑亭世楽(のちの吐月峯山彦)、写し絵の祖・初代うつしゑ都楽、2代目可楽、つるや萬助(のちの2代目立川銀馬)、八人芸の初代川島歌遊よたん坊ゆ又、都々逸の初代瀧亭鯉丈戯作者の為永春水の兄とも)、初代菅良助(のちの乾坤坊良斎)2代目菅良助など門弟数十人が確認されており、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。また実子に馬士三郎、楽寿がいる。

墓所は浅草の潮江院戒名は「三笑亭安誉可楽信士」。

2代目

テンプレート:落語家 2代目三笑亭 可楽(生年不詳 - 弘化4年9月3日1847年10月11日〉)は、落語家。本名不詳。

初代可楽門下。江戸における初代斎藤太郎左衛門(または西東太郎左衛門)、独立して臼井杵蔵、再び可楽門下で談州楼芝楽(または三笑亭芝楽)、初代翁屋さん馬を経て初代没後の1834年 - 1835年ころに2代目襲名。晩年は楽翁となった。住んでいた場所から「中橋の可楽」と呼ばれた。

門下には翁屋芝楽(のちに2代目船遊亭扇橋の門下で初代入船萬蔵)、初代七昇亭花山文、初代三笑亭可重、初代立川善馬、3代目可楽(「武正可楽」)、3代目桂文治、昔々亭桃流(のちに初代麗々亭柳橋の門下で2代目麗々亭柳橋)、2代目翁屋扇馬、さん馬(のちの3代目可楽)、翁屋勇馬翁坊楽丸、4代目可楽(「爆弾の可楽」)がいる。

墓所は青山持法寺

3代目

3代目可楽は2人存在する。

  • (生年不詳 - 安政4年6月4日1857年7月24日〉):本名不詳。浅草に住んでいた。最初は司馬龍齋門下で司馬龍喬を名乗っていたが、後に2代目可楽の門に転じてさん鳥からさん馬を経て安政3年(1856年ないし1857年)可楽を襲名するものの、名前負けと酷評されて「狂死」している。墓所は墨田区本久寺
  • 生没年不詳):本名、原 金兵衛麻布生まれ。2代目可楽の養子となる。さん助、春の家(または春のや)せい馬、2代目?3代目?斎藤太郎左衛門(または西東太郎左衛門)、翁屋さん馬(代数には入らず)、翁屋小三馬(または小さん馬)など名乗り全国を遊歴。可楽の名跡は妹婿に譲って全亭武正を名乗った。通称「武正可楽」。4代目笑福亭吾竹(上方5代目可楽)は客分弟子。

4代目

テンプレート:落語家 4代目三笑亭 可楽(生年不詳 - 明治2年9月10日1869年10月14日〉)は、落語家。本名、榊原 鎌三郎

最初は福寿庵可重(のちの寿楽などを経て2代目三笑亭可上)の門下で2代目可重、後に2代目可楽の婿養子になり翁屋さん馬の名跡を継いだが、政商の丸葱の婿養子となり一時期噺家を廃業した。しかし安政3年に3代目朝寝坊むらくとなり再び寄席に戻る。この経緯から「丸葱むらく」と呼ばれた。

元治元年には武正可楽から三笑亭可楽の名跡を譲り受けたが、慶応3年には返上している。明治維新になると、父が旧幕臣であった彼は薩長軍が江戸に入ってくると、抵抗して会津藩の重役と図って東京市内に爆薬を仕掛けようとしたが、発覚して一時逃走した。やがて東京に立ち戻り、浅草弁天山に火事を見物していたところを役人に見つかり再び逃走、弟子の3代目立川金馬に立ち寄ったところを捕縛され、佃島で獄死した。

通称「爆弾の可楽」「爆弾可楽」。

門下には4代目翁家さん馬(「文七さん馬」)、3代目立川金馬三遊亭圓麗(芳村源六)、3代目雷門助六(「ヒョットコ」)、三笑亭可久寿(のちの三遊亭圓朝の門下で初代橘家圓三郎)、芝楽(のちの5代目可楽)がいる。

5代目

5代目可楽は東京と京都で2人存在する。

東京

テンプレート:落語家 東京5代目三笑亭 可楽1836年(逆算) - 1904年12月12日)は、落語家。本名、平田 芳五郎

元は仕立屋。初めは天狗連で中橋連芳丸(一説には由丸)と名乗っていた。この名は本名から命名したものと推測される。1867年ころ4代目可楽の門下に入り三笑亭芝楽で初高座。その後1889年3月に可楽か花楽の改名話があり、結局5代目可楽を襲名した。

人情噺の『清元延寿太夫』を得意とした。1895年2月に日本橋葺屋町大ろじ亭下席で引退披露興行を行った。以後の消息は不明。

京都

京都では、5代目が誕生する前に上方で活躍していた2代目笑福亭吾竹門下の4代目吾竹1887年11月に5代目可楽を名乗っている。笑福亭吾竹#4代目の項参照。

あだ名は禿げ頭だったことから「播磨家」(ハゲマヤの洒落)

墓所は墨田区本久寺。

6代目

6代目可楽も東京と京都で2人存在する。

東京

テンプレート:落語家 東京6代目三笑亭 可楽弘化3年9月15日1846年11月3日〉 - 大正13年〈1924年8月18日)は、落語家。本名、中村 勘三郎。通称は住んでいた場所から「三味線堀の可楽」。

6代目桂文治の門下で文鶴から慶治大和を経て再び文鶴を名乗った後、1884年に6代目翁家さん馬、1913年1月6代目可楽を襲名。

伊藤博文のそっくりさんで売ったという。活動写真制作元のエム・パテー商会(後の日活)によって作られた『伊藤公爵の一代記』でも伊藤博文役を演じている。

なお本名の中村勘三郎歌舞伎役者の中村屋と同姓同名で売りも道具入り芝居噺であった、ほかにも義士伝が得意であった。

1920年には引退し、以後は浅草小島町で暮らしていた。(一説には宇都宮で義太夫語りをしていた息子と一緒に余生を過ごしていたという)

俳句も嗜み「久松が灰に文字書く火鉢かな」などの持ち句がある。

墓所は東京都豊島区西巣鴨にある「善養寺」 戒名「圓寿道勘信士」。

京都

京都では、京都初代三笑亭芝楽が6代目可楽を名乗っている。

門下には8代目桂文治がいる。

7代目

テンプレート:落語家 7代目三笑亭 可楽1886年明治19年〉1月31日 - 1944年昭和19年〉4月12日)は、落語家。本名、玉井 長之助。通称「玉井の可楽」。

生まれは東京京橋、12歳で銀座の時計屋に奉公に出てその頃から天狗連に没頭。1907年ごろから2代目談洲楼燕枝に入門し燕福から1908年10月に柳亭燕玉となる二つ目。1911年1月に柳亭傳枝1916年2月に5代目桂才賀で真打。1918年5月に桂文鶴、同年12月春亭文枝となる。この頃から腕はしっかりしてきたが一般受けはしておらず、心機一転のため1922年10月に5代目柳亭左楽門下で柳亭小左楽を名乗る。1926年3月から10月まで滝亭鯉昇を名乗り、11月に7代目可楽を襲名。1935年3月から東宝名人会に招かれるがやはり芽が出ず、1938年4月から「可楽を聴く会」を毎月一回60回にわたり開いた。これが評価された。自宅で酔った勢いで階段から転落、背中を強打して逝去。享年58。墓所は台東区明順寺

ネタは尊敬していた3代目柳家小さん系のものを多く演じた。『粗惣長屋』『笠碁』『うどんや』『睨み返し』『千早ふる』『御慶』『意地くらべ』『猫久』などがある。安藤鶴夫が近所に住んでいて懇意にしていた。

これも同じく京都では、初代三遊亭圓若1905年4月に7代目可楽を名乗っている。

門下には5代目三遊亭圓橘がいる。

8代目

テンプレート:落語家 8代目三笑亭 可楽1897年明治30年〉1月5日 - 1964年昭和39年〉8月23日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名、麹池 元吉(きくち もときち)。出囃子は『勧進帳』。所属は日本芸術協会文化放送専属。精選落語会レギュラー。

黒門町の経師屋の家に生まれる。家業を継ぐべく修行するも、父親の家作に出入りしていた5代目古今亭志ん生の吞気な生活ぶりに憧れを抱き、天狗連を経て1915年初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」。1918年10月に三橘と改名。後に7代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門下に移ってさん生となり、1922年翁家馬之助で真打昇進。さらに6代目春風亭柳枝門下に転じてさん枝、さらに1924年8月に5代目柳亭左楽門下となり春風亭柳楽と改名。1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、1946年5月に8代目可楽を襲名。師匠と名前を度々変えていることからも窺える通り、長く不遇であった。これは可楽が他の噺家のように他人に媚びへつらうことが出来ず、不平不満や愚痴がすぐ口をつく性格が災いしたと言われる。また人気が出た晩年も、日本芸術協会会長6代目柳橋との衝突から長期休業したり、報われなかった。

芸風は極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかった。しかし、可楽には少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。彼らの多くは現役ミュージシャン、それもジャズマンで、著名なところでは小島正雄北村英治フランク永井などがいた。とくに人気歌手であったフランク永井との交流は自慢の種で、可楽自身もフランク永井が贔屓にしてくれることをうれしそうに語ったり、酔うとフランク永井のヒット曲「夜霧の第二国道」を歌ったり、「らくだ」の屑屋のセリフに「低音の魅力ってやつだね。」というクスグリを入れた。

独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。『らくだ』(上方6代目松鶴から直接移された惨忍な演出)、『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』などの演目を得意とした。ただ無精な性格ゆえに十八番の『らくだ』の他、『芝浜』や『子別れ』のような小一時間もかかる大ネタでも他の落語家に比べて短く切り上げていた。また不器用ながら小唄や舞踊も時折演じていた。

いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、意外にも女性にはよくもてたという。

それまで日蔭の世界の芸人だったが、1962年に内幸町イイノホールで開催された精選落語会のレギュラーのひとりに抜擢され(他は8代目桂文楽6代目三遊亭圓生5代目柳家小さん8代目林家正蔵(後の林家彦六))、やっとスポットライトを浴びた矢先、1963年の暮れに体調不良を訴えて入院、胃の手術を受けるも1964年食道癌で死去。享年67。墓所は台東区興禅寺。

弟子に、三笑亭夢楽三笑亭笑三、9代目(当代)可楽、三笑亭茶楽がいる。可楽と茶楽は没後夢楽門下に移籍。

9代目(当代)

テンプレート:落語家 9代目三笑亭 可楽1936年昭和11年〉7月21日 - )は、茨城県鹿嶋市出身の落語家。落語芸術協会所属。本名、石上 吉男(いしがみ よしお)。出囃子は『勧進帳』。茨城県立鹿島高等学校卒業[1]

主な演目に『親子酒』『景清』『笠碁』『甲府い』『ちりとてちん』『寝床』『らくだ』などがある。

趣味のハワイアンフルートは協会員バンドのアロハマンダラーズにも活かされている。近眼で眼が悪い。

経歴

  • 1955年3月 - 先代(8代目)可楽に入門し、「可津男(かつお)」を名乗る。
  • 1958年9月 - 二つ目に昇進し、「可勇」を名乗る。
  • 1964年10月 - 8月に師匠が没したことに伴い、兄弟子三笑亭夢楽門下に移籍。
  • 1969年10月 - 初代「浮世亭写楽」で真打に昇進。
  • 1992年10月 - 9代目可楽を襲名。

一門弟子

脚注

  1. 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.544

参考文献

  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
  • 古今東西噺家紳士録
  • 八代目三笑亭可楽全集 (日本音声保存)

関連項目

外部リンク

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