ドミナートゥス

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ドミナートゥスラテン語: Dominatus)とは、帝政ローマ後期における政治形態の呼称である。「ドミヌス(dominus、主)による支配」を意味し、日本語では専制君主制(せんせいくんしゅせい)と訳される。ドミヌスとは臣民から皇帝への呼称であるが、使用自体は五賢帝のころにはすでに確認できる。

ドミナートゥスの誕生

古代ローマは、初代皇帝アウグストゥス(実質的にはガイウス・ユリウス・カエサル)から帝政に移行したとされる。しかしながらカエサルが暗殺された経緯から、アウグストゥスは君主制に対するローマ市民のアレルギーを熟知していた。そこでアウグストゥスは、実質としては君主でありながら、建前としては共和制を遵守する姿勢を貫き、これは後のローマ皇帝にも継承された。これを「元首政(プリンキパトゥス)」と呼ぶ。

しかしながら3世紀の危機と呼ばれる混乱期において、わずか1〜2年で皇帝が交代するという異常事態(軍人皇帝時代)となり、ローマ皇帝の権威は失墜した。

軍人皇帝時代の混乱の収拾を図るべく、皇帝ディオクレティアヌスは改革を行い、これ以降はローマ皇帝は建前としても実質としても、君主になったとされる。この体制を後世になって専制君主制ドミナートゥス)と呼ぶ。

ディオクレティアヌスの改革

従来のローマ帝国は、属州に分割されており、そのうちの半数の属州総督元老院が任命する体制であった。ディオクレティアヌスは従来の属州をおよそ100程度に再分割し、属州総督の権力を削減した。そして強力な官僚制を作り上げ、専制的な皇帝が官僚を通じて人民を支配する体制ができあがった。

ディオクレティアヌスはまた、テトラルキアの制度を作った。これは2人の正帝(アウグストゥス)と2人の副帝(カエサル)によって帝国を分割し、また正帝は20年の任期で引退して副帝に帝位を継承して退位するというシステムである。これにより従来は名誉称号に過ぎなかった「アウグストゥス」が、皇帝を表す正規の称号となった。ただしその一方で、帝位に任期を定めた事、皇帝権力を4分割した事、血統によらず有能な者に帝位を継承させるシステムは、共和制的な部分を残していたと言える。

コンスタンティヌス1世の改革

ディオクレティアヌスの時代に副帝を務めていたコンスタンティウス1世の子コンスタンティヌス1世は、ディオクレティアヌス引退後の内乱を収拾して、競争者である他の皇帝を倒し、唯一のローマ皇帝となった。ディオクレティアヌスの改革をさらに押し進めて官僚制を整備し、キリスト教を公認してこれを利用して皇帝の権威を高めた。

またそれまでのローマ皇帝は軍全体の司令官という性質を持っており、外敵の侵入が激化した軍人皇帝時代には前線でとどまり続けることが多くなった。ディオクレティアヌスがテトラルキアの制度を作ったのも、前線司令官である皇帝がそれぞれの前線を分担するのに、4人の皇帝が必要だったからである。コンスタンティヌス1世は最高位の軍事司令官としてマギステル・ミリトゥムという官職を創設し、ローマ皇帝が前線司令官を任命する体制を作った。従来の近衛隊長官は文官の最高官職である「 (Praetorian prefecture長官」となった。

後の皇帝テオドシウス1世にマギステル・ミリトゥムに任命されたスティリコは、その後のローマ帝国の東西分裂の際、西ローマ帝国の皇帝となったホノリウスの後見人として、影の権力者として振る舞った。元首政時代であれば無能な皇帝は暗殺などの手段によって帝位(と命)を剥奪されたのであるが、この時代には有能な臣下がいれば、暗君・幼君に代わって実質的に政治を執り行う体制になった事を示す。帝位が皇帝の能力によらず安定していた事は、つまりローマ帝国が完全に専制に移行した事を示している。

関連項目