ドイツにおける1848年革命

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ドイツ国旗の起源となった黒・赤・金旗を振る市民(ベルリン三月革命)

ドイツにおける1848年革命(ドイツにおける1848ねんかくめい、ドイツ語: Revolution 1848/1849 in Deutschland英語: Revolutions of 1848 in the German states)または三月革命(さんがつかくめい、ドイツ語: Märzrevolution英語: March Revolution)は、ヨーロッパ諸国に起こった1848年革命のうち、オーストリア帝国を含むドイツ連邦各地に起こった連鎖的抗争。旧神聖ローマ帝国のドイツ系領域を引き継いだがいまだ39か国の独立国の連合にすぎなかったドイツ連邦の中にあって、革命においては汎ゲルマン主義が鼓舞され、伝統的・専制的政治体制への国民的不満、ドイツ関税同盟への国民的期待が表明された。

革命において、中産階層は自由主義に傾倒していたが、労働者階層はその労働・生活条件の急進的改善を要求しており、両者の革命の方向性の対立から、保守的王侯貴族による反革命が成功した。自由主義者は政治的迫害を逃れるために亡命を余儀なくされ、多くはアメリカ合衆国に移住してウィスコンシン州やテキサス州に落ち着き、フォーティエイターズDeutsch版と呼ばれた。

革命の概観

地図

年表

革命以前の経過

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ウィーン会議に臨む各国代表
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ゲッティンゲンの七教授
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オッフェンブルク集会Deutsch版でバーデンの急進的な民主主義者が目標として掲げた「人民の要求」の1847年9月の小冊子

1848年1月から三月革命への移行

1848年の革命の経過

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1848年3月21日、ベルリン市中を騎馬行進し、ドイツ統一について宣言するフリードリヒ・ヴィルヘルム4世

1849年の革命の経過

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1849年6月18日、ヴュルテンベルク軍によるシュトゥットガルトの残部議会の解散

1849年10月までの余波

  • 8月6日:オーストリアとサルデーニャ=ピエモンテの間でミラノ講和条約が締結される。
  • 8月23日:オーストリア軍がヴェネツィアの革命勢力の共和国を撃破する。北イタリアが再びオーストリアの手中に入る。
  • 10月3日:コマーロムの要塞において最後まで抵抗していたハンガリーの革命勢力がオーストリアに降伏する。

革命の背景

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1832年のハンバッハ祭Deutsch版、ハンバッハ城への行列

ドイツにおける1848年革命の素地は長らく前から形成されていた。例えば、1832年のハンバッハ祭Deutsch版は、重税や政治的抑圧に対する社会不安の高まりを反映したものであった。このハンバッハ祭において注目すべきは、共和主義者が共和主義運動とドイツ語話者間の連帯の象徴として黒・赤・金Deutsch版の三色(今日のドイツ国旗の配色)を採用したことである。

自由主義的改革運動はドイツ諸邦に広まり、革命に発展することとなった。1848年2月22日から同24日までの三日間、フランスのパリにおいて労働者や手工業者が街頭デモを行った結果、フランス国王ルイ=フィリップが退位してイギリスに亡命した[4]、いわゆる二月革命もこれを誘発した。

ウィーンにおいて1848年3月13日に行われた大規模なデモの結果、オーストリア皇帝フェルディナント1世に仕える宰相メッテルニヒが辞任してイギリスに亡命し[4]、これを発端として革命がオーストリアやドイツで勃発し、ヨーロッパ全体に広まった。このため、ドイツにおける諸革命を総称して三月革命 (Märzrevolution) とも呼ばれる。

ドイツ諸邦の諸君主の中には、フランス国王ルイ=フィリップの二の舞を恐れて、一時的にせよ革命勢力の要求のいくつかを受け入れた者もいた。西南ドイツでは民衆集会Deutsch版や大衆デモが行われ、出版の自由結社の自由、成文憲法、人民武装、統一議会等が要求された。

革命の始まり

バーデン

バーデンは1811年に即位した大公カールの下で1818年に自由主義的な憲法 (バーデン大公国憲法典: Verfassungsurkunde für das Großherzogtum Baden) を制定していたが、同年に即位した大公ルートヴィヒ1世の下で1825年に反動的な改正が行われた[5]。1830年、バーデンの新大公にレオポルトが即位すると、その治世下で憲法、民法、刑法の自由主義的改革が行われ、バーデンは1832年にプロイセン主導の関税同盟に加盟合意した[5]。1848年2月にパリで革命が成功したことが報じられると、オーストリアやドイツ諸邦を含むヨーロッパ全体で蜂起が起こることとなった。

自由主義的改革を行ってきたにもかかわらず、ドイツにおける最初の民衆暴動はバーデンで起こった[5][6]。バーデンはドイツで最も自由主義的な地の1つとなっていたのである (de:Badischer Liberalismus。パリの二月革命の報が入ると、バーデンでは農民が領主の館を焼き討ちするなどの事件が散発した[6]

1848年2月27日、バーデンのマンハイム民衆集会が権利章典を要求する決議を採択した。同様の決議は、ヴュルテンベルクヘッセン=ダルムシュタットナッサウその他のドイツ諸邦でも採択された。これらの運動に対する民衆の圧倒的支持に押されて、支配層はこれらのいわゆる「三月要求」の多くをほぼ無抵抗で受け入れることとなった。

オーストリア

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メッテルニヒ亡命の風刺画(1848年3月)

1848年当時、オーストリアはドイツ連邦の議長国であり、1806年にナポレオンに解体されて以来1815年のウィーン会議においても再興されることのなかった神聖ローマ帝国の継承国と見なされていた。1815年から1848年までオーストリアの政治は宰相メッテルニヒに牛耳られていた。

1848年3月13日、ウィーンにおいて学生が大規模な街頭デモを起こし、ドイツ語圏で報じられた。これに先立つ1848年2月9日、バイエルンにおいてローラ・モンテスに対するデモが行われていたが(後述)、これは先駆的ながら小規模な事件にすぎず、1848年のドイツにおける大規模な反乱はウィーン三月革命が最初となった[7]。デモを起こした学生は、大学礼拝堂において1848年3月12日の日曜日に行われた自由主義的な司祭のアントン・フュスターDeutsch版による説教に触発されたもので[7]、男子普通選挙による憲法制定議会と憲法制定を要求した[8]

皇帝フェルディナント1世と宰相メッテルニヒは軍隊を導入してデモを鎮圧しようとしたが、デモ隊が宮殿近くの通りに進んだ時、軍隊が学生に発砲して数人の死者を出した[7]。ウィーンの新興労働者階層が学生に加勢してデモは武装反乱に発展し、下オーストリア州会議事堂においてメッテルニヒの辞任が要求された。メッテルニヒを擁護する勢力はなく、フェルディナント1世も不承不承メッテルニヒを解任した。メッテルニヒはロンドンに亡命した[9]

フェルディナント1世は自由主義色のある新内閣(コロヴラート=リープシュタインスキーDeutsch版内閣)を組閣した。オーストリア政府は1848年4月末に憲法 (Verfassungsurkunde des österreichischen Kaiserstaates, 通称ピラースドルフ憲法: Pillersdorfsche Verfassung) を発布したが[9]、大多数に選挙権を認めないものであったため、民衆はこれを拒否した。革命勢力の中央委員会 (de:Zentralkomiteeに対する解散命令への反発から、1848年5月15日に第二次ウィーン蜂起が起こり、フェルディナント1世は一家でインスブルックに避難して、忠誠心のあるチロルの農民に囲まれながら数か月をそこで過ごした[9](その後も混乱は続き、学生軍団Deutsch版に対する解散命令への反発から、1848年5月26日から同27日にかけて、ウィーン市民は再び街頭に繰り出して、軍隊の攻撃に備えたバリケードを築いた)。

フェルディナント1世は1848年5月16日と1848年6月3日に2つの宣言を発表し、民衆への譲歩を宣言した。第一は憲法で設置を約束した帝国議会を民選の憲法制定帝国議会English版に転換する宣言[10]、第二はドイツの統一と再編に取り組む宣言であるが、後者はあまり具体的ではなく一般的な宣言にとどまった[9]

プロイセン

ベルリン市内のバリケード戦に参加する少年兵

1848年3月6日、ベルリンにおける最初の暴動が起こり、プロイセンにおける三月革命が始まった。3月13日、軍隊がティーアガルテンの集会から戻った民衆と衝突し、1人目の死者と多数の負傷者を出すこととなった。

3月18日、群衆が「国王に対する請願」 (Adresse an den König) の形でその要求を提出するためベルリン市内で集合し、大規模なデモが行われた。ベルリン王宮前に押しかけられた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、連合州議会Deutsch版の召集、憲法、出版の自由を含むデモ隊の全要求に譲歩する勅令を発した。しかし、2発の銃声が鳴り、群衆は2万人の兵士の側から狙撃されたものと恐れてバリケードを築いた。市街戦が始まり、13時間後に軍隊が撤退を命じられるまで続いて数百人の死者を出すこととなった。3月19日、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は新内閣(アルニム=ボイツェンブルクDeutsch版暫定内閣、3月29日にカンプハウゼンDeutsch版内閣に交代)を組閣して社会不安の払拭を図り、市民の武装も承認した。

3月20日、当時プロイセンの支配下に置かれていた旧ポーランド領において反乱を計画した疑いで投獄されていたポーランド人の囚人が釈放されてベルリン市中の行進を行い、民衆から歓呼で迎えられた。3月21日、国王は大臣や将軍とともに黒・赤・金の革命の三色の記章を身に着けて市中の行進を行い、「プロイセンは今後ドイツに昇華する」 (Preußen geht fortan in Deutschland auf) と約束した。3月22日、市街戦で犠牲となった市民のためにフリードリヒスハイン共同墓地において集団葬儀が行われた。市街戦の死者254人がジャンダルメンマルクトDeutsch版棺台の上に安置され、約4万人がフリードリヒスハインDeutsch版の墓地まで葬送を行い、国王も死者に頭を下げた。

1848年5月22日、ベルリンでフランクフルト国民議会とは別の民選議会が初めて開会した[11]。選挙は、連合州議会により制定された普通選挙・二段階間接選挙の投票方法を容認する1848年4月8日の選挙法 (Wahlgesetz für die zur Vereinbarung der Preußischen Staatsverfassung zu berufende Versammlung vom 8. April 1848) に基づき[11]、5月1日、フランクフルト国民議会の選挙と同時に行われた。同議会はプロイセン国民議会Deutsch版と呼ばれ、議員の多くはブルジョワジーないし自由主義的な官僚であった。同議会の任務は「国王との協定により」 (durch Vereinbarung mit der Krone) 憲法を制定することであった[11]

ヴィエルコポルスカ

ヴィエルコポルスカ(大ポーランド)は厳密にはドイツ諸邦ではないが、おおよそ対応した領域はポズナン大公国として、18世紀末の第1次・第2次ポーランド分割以降プロイセンの支配下に置かれていた。1848年ヴィエルコポルスカ蜂起(ポズナン蜂起とも呼ばれる)が1848年3月20日に始まり、プロイセン軍に対してルドヴィク・ミエロスワフスキDeutsch版率いるポーランド人部隊が反乱を起こしたが失敗に終わり、プロイセンはヴィエルコポルスカ地方をポーゼン州Deutsch版として併合することとなった。

バイエルン

バイエルンでは、国王ルートヴィヒ1世が、貴族も教会も好まざるところの踊子で女優のローラ・モンテスを公妾として寵愛し、その開かれた関係のために名声を失っていた[12]。ローラ・モンテスはプロテスタントの首相エッティンゲン=ヴァラーシュタインDeutsch版を通じて自由主義的改革を始めようとし、国内のカトリックの保守派を憤慨させた。2月9日、保守派は街頭で抗議の声を上げた。この1848年2月9日のデモは革命の年に起こった最初の事件であったが、自由主義的抗議運動の第一波ではなかった。保守派はローラ・モンテスの放逐を望み、その他の政治的指針をもたなかった。自由主義的な学生はローラ・モンテス事件を利用して政治的変革のための要求を鼓舞した[12]。他の諸都市において学生がしていたのと同様に、バイエルンのあちこちで学生が立憲的改革を求めるデモを行った。

ルートヴィヒ1世は新内閣(ヴァルトキルヒDeutsch版内閣)を組閣するなど若干の改革を実施したが、抗議の嵐を鎮めるのには不十分であった。1848年3月16日にローラ・モンテスの再入国に対する暴動が起こり、3月20日にルートヴィヒ1世は長男のマクシミリアン2世に譲位した[12]。ルートヴィヒ1世は「私はもはや統治できなかったが、私は加判人(王太子)を差し出したくなかった。奴隷にならないためにも、私はフライヘル(下級貴族、自由身分)になったのだ。」 (Regieren konnte ich nicht mehr, und einen Unterschreiber abgeben wollte ich nicht. Nicht Sklave zu werden, wurde ich Freiherr.) とこぼした。1848年革命で退位したドイツの領邦君主はルートヴィヒ1世のみである。多少の民衆的な改革は取り入れられたが、政府は支配権を完全に取り戻した[13]

なお、マックス・オフュルスの1955年の映画『歴史は女で作られる』の後半では、バイエルン国王ルートヴィヒ1世の著名な公妾問題から1848年の蜂起で退位に至るまでが莫大な費用をかけて描かれている。

フランクフルト国民議会

準備議会

バーデン(西南ドイツ)のハイデルベルクにおいて、1848年3月5日、ドイツの自由主義者の一団がドイツ国民議会の選挙の計画を立て始めた。まもなく起こったウィーン三月革命Deutsch版はドイツ諸邦における革命の起爆剤となり、民衆からの民選代議政治とドイツ統一の要求に対して、危機感を覚えたドイツ諸邦の王侯貴族の一部は改革要求に譲歩した。

準備議会の召集も認められ、1848年3月31日から1848年4月4日にかけて、フランクフルトパウロ教会において、「ドイツ国民の基本的諸権利と諸要求」 (de:Grundrechte und Forderungen des deutschen Volkesと題する人権宣言ないし新憲法の起草に当たることとなった[14]。準備議会議員の大多数は立憲君主主義者であった[14]

バーデンはフリードリヒ・ヘッカーDeutsch版グスタフ・シュトルーヴェDeutsch版ら2人の民主主義者を準備議会に送った[15]。進歩的でない議会に失望し、孤立したヘッカーとシュトルーヴェはこれに抗議する形で1848年4月2日に退場した[15]。抗議の退場やドイツにおける革命の激化に拍車をかけられて、準備議会は全国的国民議会の自由選挙を要求する決議を可決し、ドイツ諸邦は同意した。1848年4月8日、準備議会は普通選挙・二段階間接選挙の投票方法を容認する選挙法を承認した[11]

ヘッカー蜂起

ヘッカーとシュトルーヴェの帰国後、バーデンでは共和主義者による騒擾の扇動が続いていた。暴動の拡大を恐れて、バーデン政府は軍備を増強し、隣邦に支援を求め始めた[15]。バーデン政府は反乱を鎮圧すべく、バーデンの民主主義者の指導者であるジャーナリストのヨーゼフ・フィックラーDeutsch版を逮捕した[15]。この逮捕には憤慨と抗議の声が上がり、1848年4月12日に全面蜂起が起こった[15]。バーデン政府はヴュルテンベルク軍やヘッセン=ダルムシュタット軍の支援を得て、1848年4月20日、カンダーンDeutsch版においてフリードリヒ・ヘッカー率いる革命軍を鎮圧することに成功した。いわゆるヘッカー蜂起Deutsch版である。

1849年5月、バーデンにおいて革命運動が再燃したが、これはプファルツにおける蜂起(後述)と深く関わっていた。

フランクフルト国民議会の成立

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パウロ教会で開かれた国民議会
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帝国摂政に就任したオーストリア大公ヨハンのドイツ国民への宣言

全国的憲法制定国民議会の選挙が行われ、1848年5月18日にフランクフルト・アム・マインのパウロ教会に召集された[16]。正式にはドイツ憲法制定国民議会 (Die deutsche verfassunggebende Nationalversammlung) と呼ばれ、1848年4月末から5月初めにかけてドイツ諸邦から民主的に選出された議員で構成された。議員の構成は官僚122人、判事95人、弁護士81人、教師103人、製造業者および卸売業者17人、医者15人、地主40人であった[17]。議会の大多数は自由主義者であり、職業政治家はごく少数であった。また、議員の多くが教授、教師ないし大学出身者であったことから「教授会議」 (Professorenparlament) と呼ばれた。フランクフルト国民議会議員に選出された者の中には、中央右派のジャーナリストのカール・マーティDeutsch版がいた[18]

自由主義政治家のハインリヒ・フォン・ガーゲルンDeutsch版議長の下、国民議会はドイツ統一への道を模索し、憲法制定に当たった[17]

当初から中心課題は分邦主義Deutsch版汎ゲルマン主義に関わる地域紛争の支持、普墺両国の対立Deutsch版であった。オーストリア大公ヨハンが一時的な国家元首「帝国摂政」 (de:Reichsverweserに選ばれ、臨時中央政府 (Provisorische Zentralgewaltの設立が試みられたが、多くのドイツ諸邦が新政府を十分承認しなかったため、有名無実であった。

フランクフルト国民議会と党派対立

約400人の議員は党派別に区分でき、集合場所にちなんで次のように通称された。

1848年革命の目指したドイツ統一は失敗することとなるが、原因はフランクフルト国民議会がドイツの支配階層の多種多様な利害を反映したことにあり、議員は協力して特定の目標を追求することができなかった。最初の対立は国民議会の目標について生じ、穏健な自由主義者は諸君主に提案すべき憲法(協定憲法)を起草することを望んだが、より少数の急進派は国民議会自ら憲法制定権力を宣言して憲法(民定憲法)を制定することを望んだ。両者はこの根本的不一致を克服できなかったため、統一ないし民主制の導入に向けて何らの決定的行動を起こすことなく、国民議会は採決が不可能な状態となり、平行線の議論に陥ることとなった[19]。フランス革命は既成の国民国家をてこにしていたが、1848年のドイツにおける民主主義的、自由主義的勢力は国民国家建設と憲法制定の必要を同時に迫られ、重荷を負わされていた[20]

1848年5月18日にフランクフルト国民議会が開会すると、議員はハインリヒ・フォン・ガーゲルンDeutsch版を国民議会の初代議長に選んだ。ガーゲルンは中央右派の統一主義者の党派から強い支持を得ながら左派の穏健主義者への影響力もあり、ことによるとフランクフルト国民議会議員のうち250人に影響力を行使することができたほどの人物であった[21]。ガーゲルンはドイツ統一を強く支持、主張したが、国民議会は反動を極める諸君主の合意を得る必要があった。その上、プロイセン王国だけが統一達成に必要な軍事力を保有していたが、ガーゲルンを含む国民議会の多くはプロイセンの思惑と専制政治に不信を抱いていた。諸君主の官公吏としての役職を失うことを恐れて、穏健な自由主義者は君民の協議によってのみ政治的進歩が導かれると即断した。

フランクフルト国民議会に無理難題を提起する力はなく、諸君主の良心に完全に依存していた。議員の多くは地方の重役に就いていたため、急進的改革を要求したり主君の不興を買ったりすることを嫌い、軍備のための資金を調達できなかったり仮に法案を可決しても実効性を確保できなかったりすることとなった。武装蜂起が必要だと信じる百人ほどの急進主義者は関心を失って国民議会を去り、地方レベルで兵を募って「真の」革命を成し遂げようとしたが、官界につてなく金銭は調達できなかった。

国民議会議員は改革のために大いに意気込んでいたが、その間の大きな溝が明らかになって進歩を妨げた。例えば、大ドイツ主義者対小ドイツ主義者、カトリックプロテスタント、オーストリア支持者対プロイセン支持者等である。国民議会崩壊の原因となった主要な対立は、民主的な憲法の制定という急進主義者の要求と、反動的な諸君主との協議による改革の実現への自由主義者の期待との対峙であった。各種利益団体は議場外に集まって戦術を決定するようになった。

フランクフルト国民議会と国際問題

フランクフルト国民議会は、1848年6月14日、ドイツ海軍「ライヒスフロッテ」 (Reichsflotteの建軍に同意し、ドイツの将来の勢力や勢力範囲にとって重要なものとなった。

しかし、フランクフルト国民議会の無力さはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に関する議論に現れていた。1848年の他の多くの事件と同様に、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は街頭デモが引き金となった。1848年3月21日、コペンハーゲンの民衆が自由主義的な憲法を要求して街頭で暴動を起こした(三月革命Deutsch版[22]。デンマーク領のうちホルシュタインとシュレースヴィヒ南部の住民の大多数はドイツ語話者であり、キールとホルシュタインの市民はコペンハーゲンで何が起こっているのか確信がなかったが、ドイツ諸邦と近い関係をもつ分離独立した邦の創設を目指す反乱を起こした。1848年3月24日、ホルシュタインに新しい臨時自治政府Deutsch版が樹立され、兵力7,000人のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン軍Deutsch版を召集した。ドイツ諸邦における統一論はシュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国併合を支持した。

プロイセンはこの独立運動に援軍を送ったが、イギリスとロシアが戦争を終結するように国際的圧力をかけるとフランクフルト国民議会を無視した。プロイセンはマルメで講和条約に調印し、両公国からの全プロイセン軍の撤退その他のデンマークの全要求が認められた[23]。マルメ条約はドイツでは非常な驚きをもって迎えられ、国民議会でも論争となったが、プロイセンに影響を及ぼす力はなかった。1848年9月16日、フランクフルト国民議会は賛成多数によりマルメ条約を承認した[24]。この採決後に国民議会に対する大衆の支持は急落し、急進的な共和主義者は国民議会に対して公然と敵対し始めた[23]

反革命の台頭

オーストリアの反革命

1848年6月16日にヴィンディシュ=グレーツ指揮下のオーストリア軍がプラハ聖霊降臨祭蜂起Deutsch版を鎮圧し、7月25日にラデツキー指揮下のオーストリア軍がクストーツァの戦いDeutsch版でサルデーニャ軍に勝利すると、オーストリアの旧勢力は攻勢に転じた。

1848年8月12日、フェルディナント1世はインスブルックからウィーンに戻った[25]。その直後の1848年8月21日、労働者階層の民衆は高失業率と賃金抑制の政令に抗議して街頭で暴動を起こした。1848年8月23日、オーストリア軍は非武装のデモ隊に発砲し、数人が撃たれた[25]

1848年9月末、皇帝フェルディナント1世(ハンガリー国王フェルディナーンド5世)は、ハンガリーの民主主義者の反乱を鎮圧するため、イェラチッチ指揮下のオーストリア・クロアチア軍を派遣した[26]。1848年9月29日、オーストリア軍はパーコズドの戦いEnglish版でハンガリー革命軍に敗れ、1848年10月6日から同7日にかけて、ウィーン市民は皇帝の命じたハンガリー出兵に反対するデモを行った[27]。この結果、皇帝フェルディナント1世は1848年10月7日にウィーンを離れ、帝国東部のモラヴィアオルミュッツという要塞都市に居を定めた[28]

このウィーン十月蜂起Deutsch版に対しては、まもなくヴィンディシュ=グレーツ指揮下の皇帝軍が討伐に当たり、激しい市街戦の末、10月末までには革命勢力の鎮圧に成功した。この時、フランクフルト国民議会内の左翼党派は、オーストリア政府の武力による反革命がいかなるものか、実地調査のために、ローベルト・ブルームDeutsch版をウィーンへ代表として派遣していた。ブルームは市街戦に参加し、国民議会議員としての不可侵権を主張したにもかかわらず、逮捕されて11月9日に処刑された。フランクフルト国民議会は反発し、オーストリア政府とフランクフルト国民議会の間に亀裂が生じた。

オーストリアの首相シュヴァルツェンベルクが1848年11月27日にクレムジール憲法制定帝国議会においてオーストリア帝国の一体不可分性の原則を声明すると、両者の対立は決定的となった。

1848年12月2日、フェルディナント1世は甥のフランツ・ヨーゼフ1世に譲位した[29]

1849年3月4日、クレムジール憲法草案Deutsch版を基にした中央集権的な欽定憲法 (Reichsverfassung für das Kaisertum Österreich, 通称欽定三月憲法: Oktroyierte Märzverfassung) が採択され、クレムジール憲法制定帝国議会は3月7日に解散した(しかし、同憲法は1851年12月31日の大晦日勅令Deutsch版で撤回され、新絶対主義Deutsch版と呼ばれる時代が到来することとなった)。

プロイセンの反革命

1848年末までには、オットー・フォン・ビスマルクを含むプロイセンの貴族や将軍 (カマリラ: Kamarilla) がベルリンにおける勢力を取り戻した。カマリラは三月の諸事件で敗れたきりではなく、一時的に退いただけであった。

1848年6月14日のベルリン兵器庫襲撃Deutsch版によりカンプハウゼン内閣が退陣した後、プロイセン国民議会と政府の対立により、アウエルスヴァルトDeutsch版ハンゼマンDeutsch版内閣、プフェルDeutsch版内閣、ブランデンブルク内閣へと相次いで政府が交代した。

カマリラの首相ブランデンブルクとプロイセン国民議会の郊外移転を命じる勅令にプロイセン国民議会が反発し、不服従の構えを見せると、ヴランゲル将軍率いる部隊がベルリンに進軍して旧勢力の復権を図り、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はすぐさま旧勢力に復帰した。11月、国王はプロイセン国民議会を解散し、プロイセン国民議会の草案(ヴァルデック憲章Deutsch版)に基礎を置きつつ国王大権を温存する独自の憲法案を提起した。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は民主主義的勢力を弱体化するために君主主権の欽定憲法 (プロイセン邦憲法: Verfassung für den Preußischen Staat) を制定し、1848年12月5日に発布した[30][31]。この新しい欽定憲法下で、プロイセン邦議会Deutsch版が設置された[32]。邦議会は二院制議会であり、上院に当たる第一院 (Erste Kammer, 後に貴族院Deutsch版に改組) は各州政府により選出された議員からなる一方、下院に当たる第二院 (Zweite Kammer, 後に代議院Deutsch版に改組) は成年男子選挙権に基づき選出された議員からなるが、選挙人会の複雑な手続を経て初めて当選するものとされた[32]オットー・フォン・ビスマルクは最初の邦議会選挙で当選した[32]

翌年に推敲が重ねられ、下院議員選挙は成年男子すべてに選挙権が与えられたが、三級選挙法Deutsch版の下、選挙権の価値は納税額に比例し、有権者の80%以上が全議席の3分の1しか左右できないこととなった。

パウロ教会憲法の制定

ドイツ世論におけるフランクフルト国民議会の評判は、プロイセンがフランクフルト国民議会の事前の同意なしにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を政治的独断で解決したり、オーストリアがウィーンにおける民衆蜂起を武力鎮圧したりしたことで悪化していった。

その間、ドイツ諸邦の支配層はもはや脅迫される立場にはないことが徐々にわかってきた。バイエルン国王は退位したが、下からの圧力の結果のごく稀な例にすぎなかった。武装蜂起の脅威が薄れたため、諸君主は統一を非現実的に感じ、権力に執着して手放すことに後ろ向きになった。多くのドイツ諸邦で反革命が巻き返したが、フランクフルトにおける議論は続き、次第に社会から乖離していった。

ともあれ、将来の憲法の議論が始まった。決着しなければならない中心課題は次のとおりであった。

  • 新生統一ドイツは、オーストリアのドイツ語圏をハプスブルク帝国の残りの領域から切り離して編入すべきか(大ドイツ主義)、主導権をプロイセンのものにしてオーストリアを除外すべきか(小ドイツ主義)。この問題は、オーストリア帝国全体に中央集権的な憲法が敷かれ、議員が大ドイツ主義への望みを絶ったことで決着した。
  • ドイツは世襲君主国となるべきか、選挙君主制をとるべきか、あるいは共和国となるべきか。
  • 比較的独立した国々の連邦となるべきか、強力な中央政府をもつべきか。

1848年12月、「ドイツ国民の基本権」において全市民の法の前の平等が宣言された。1849年3月28日、紆余曲折の末、パウロ教会憲法草案が最終的に可決された。新生ドイツは立憲君主国とされ、国家元首「ドイツ人の皇帝」 (de:Kaiser der Deutschenの地位は歴代プロイセン国王が世襲するものとされた。後者の提案は賛成290票、棄権248票で可決されたにすぎなかった。

プロイセン国王の帝冠拒絶

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プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝位を奉呈するフランクフルト国民議会代表団

1849年4月3日、フランクフルト国民議会の代表団がベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に謁見し、新憲法下の帝冠を奉呈した[31]

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は代表団に対し、光栄に思うが、並び立つ諸君主と諸都市の同意なしには帝冠を引き受けられないと述べた。しかしその後、ロンドンの駐英公使ブンゼンDeutsch版にあてた手紙の中では、「1848年革命の悪臭であふれんばかりに恥辱され」 (verunehrt überschwänglich mit ihrem Ludergeruch der Revolution von 1848) 、「糞と泥で焼き固めた」 (aus Dreck und Letten gebacken) 帝冠が「どぶの中から」 (Krone aus der Gosse) 差し出されたと述べて強い不快感を示した。

「玉座のロマン主義者」 (Romantiker auf dem Thron) と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世にとって、受諾する意志があるのは神の恩寵による帝冠だけであって、「どぶの中からの帝冠」 (Krone aus der Gosse) ではなかった。また、外相アルニム=ハインリヒスドルフ=ヴェルベローDeutsch版は、帝冠の受諾によりオーストリアやロシアとの緊張が高まることを恐れて反対に回った。最終的に帝冠は拒絶された。

パウロ教会憲法は29の小領邦の承認を得たが、オーストリア、プロイセン、バイエルン、ハノーファー、ザクセンの承認は得られなかった。

フランクフルト国民議会の終焉

国民議会は、オーストリアとプロイセンが自国の議員を召喚し、討論クラブ同然となった。諸侯は自国領内の反乱を鎮圧すると、プロイセンの例に倣って、自国の議員を国民議会から召喚した。圧倒的軍事力をもつプロイセンだけが諸侯による武力弾圧からフランクフルト国民議会を守ることができたが、プロイセンは自国の利益を考えていた。

フランクフルト国民議会は、メッテルニヒを失脚させたオーストリアのウィーン三月革命を一つのきっかけとして創設され、土地の圧制者に反抗してきた伝統のある南ドイツから最も強い支持を得たが、オーストリアがイタリアにおける1848年革命English版を鎮圧した後、ハプスブルク朝はドイツ諸邦に干渉する用意ができ、軍隊を召集できず支持の広がりも欠く国民議会はオーストリアの力に抗うことができなかった。

急進的な議員は1849年5月31日にシュトゥットガルトへ移ることを余儀なくされ、そこで6月6日から同18日まで残部議会を開いたがこれもついにヴュルテンベルク軍によって解散させられた。

「ドイツ国憲法戦役」

プロイセン国王の帝冠拒絶後、憲法擁護の武装蜂起(ただし共和主義者が主体であった)が起こったが、特にザクセン、プファルツバーデンにおけるものは、プロイセン軍の支援を得た領邦の軍隊が速やかに鎮圧した。指導者や参加者は、捕まれば、銃殺刑ないし長期刑に処せられた。

ザクセン

ザクセン王国の首都ドレスデンでは、民衆が街頭に繰り出してザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世に対して議会改革、社会正義、統一憲法の実現を請願していた[33]

著名なドイツの作曲家のリヒャルト・ワーグナーは、民主主義的共和主義運動を支えるドレスデンの革命に熱心に携わり、その後1849年5月3日から同9日にかけて起こったドレスデン五月蜂起Deutsch版では、臨時政府を支持した[34]。その他蜂起に参加した者としては、ロシアの革命家ミハイル・バクーニン、ドイツの労働者階層の指導者シュテファン・ボルンDeutsch版がいた[34]。総勢約2,500人の戦闘員が五月蜂起の間バリケードの裏についた[33]。ワーグナーは、1849年5月9日、蜂起の指導者とともに、逮捕を逃れるためにドレスデンを離れてスイスに向かい、スイス、イタリア、パリ等で長年国外亡命生活を送ったが、最終的に政府が追放令を解除したためドイツに帰国した。

1830年革命以降、ザクセンでは二院制議会と責任内閣制をもつ立憲君主制が敷かれており、この憲法 (ザクセン王国憲法典: Verfassungsurkunde für das Königreich Sachsen) は1918年までザクセン政府の基本法として通用した。1848年革命はより民衆的な改革をザクセン政府にもたらした[35]

ラインラント

ラインラントはラインヘッセン、ルクセンブルク、プファルツとともに1795年からナポレオン時代のフランスの支配下に置かれた歴史を有していた。ナポレオン軍は神聖ローマ帝国軍を撃破し、ナポレオンの支配により、聖職者や貴族が従前同地で行ってきた封建的支配の解体と捉えられる社会、行政、立法政策が確立された[36]。ラインラントは土壌が農業に適さなかったが、林業が伝統的に有力産業になっていた[37]。農業の比較的過疎、18世紀末の封建制の廃止、有力な伐採業は、ラインラントの工業化に寄与した。すぐ近くのマルクの石炭資源、北海に至るライン川経由の水路もあり、ラインラントのライン川西岸は19世紀ドイツ随一の工業地帯となった。1848年までには、アーヘン、ケルン、デュッセルドルフ市が重工業化され、その他の産業も数多くみられた[36]。19世紀初頭、ラインラントの人口の90%以上が農業(伐採業を含む)に従事していたが、1933年までには、農業にとどまっていたのは12%だけであった[38]

1848年までには、一大工業労働者階層(プロレタリアート)がラインラントに発生し、ナポレオン時代のフランスから比較的高度な教育を受けたことで、政治的に活動的になっていた。他のドイツ諸邦では小ブルジョワジーが1848年の蜂起を率いていたが、ラインラントではプロレタリアートが早くも1840年にはブルジョワジーに対して階級の利益を公然と主張していた[39]

1848年、プロイセンはラインラントをライン州の一部として支配していた(1614年のクサンテン条約で同地における最初の所領を獲得した)[40]。ナポレオン時代には、前述のとおり、ラインラントのライン川西岸がフランスに併合され、封建制が廃止された。しかし、1814年のナポレオン没落後、プロイセンがラインラント西岸を引き継いだ。プロイセン政府はラインラント人を征服地の外国人とみなし、忌み嫌われた封建制を復活し始めた[41]。1848年のラインラントの革命機運は強い反プロイセン感情に染まっていた。ラインラント人は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1848年3月18日にベルリンで表明した、連合州議会の召集その他の民主的改革の実施の宣言に注目した[42]。連合州議会の選挙は間接選挙であり、男子普通選挙に基づいて選ばれた選挙人が連合州議会議員を選ぶものとされた。ラインラント人はこれを進歩とみて期待を残し、他のドイツ諸邦で起こっていた蜂起に早い段階で加わることはなかった。

プロイセン政府はラインラントにおけるこの沈黙をプロイセンの専制政治への従順さによるものと取り違えた。そして、ドレスデン、プファルツ、バーデン、ヴュルテンベルク、フランケン等、他のドイツ諸邦の領域や都市における反乱を鎮圧するため援軍を送る構えを見せ始めた。このためには追加部隊が必要であり、プロイセン政府は、ラインラントの従順さを見越して、1849年春にヴェストファーレンとラインラントにおいて予備軍(ラントヴェーア)の大部分を召集した[39]。この措置は反発を招いた。ラントヴェーアの召集命令は40歳以下の男子全員に適用されたが、このような召集は戦時に限りなされるものとされており、平時においては違法と考えられていたからである[43]。プロイセン国王は、邦議会第二院が1949年3月27日にパウロ教会憲法草案への支持を表明したため、これを解散した[44]。大小ブルジョワジーとプロレタリアートを含むラインラント市民各層が、期待に反して反故にされた政治改革の擁護のために立ち上がった[39]

1849年5月9日、ラインラントのエルバーフェルトデュッセルドルフイーザーローンゾーリンゲン市で蜂起が起こった。デュッセルドルフにおける蜂起は翌日の1849年5月10日に鎮圧された。エルバーフェルト市内では、蜂起は頑強さを見せ、1万5,000人の労働者が街頭に繰り出してバリケードを築き、暴動の鎮圧とラントヴェーアの徴用兵の欠員徴募のために派遣されたプロイセン軍に立ちはだかった[45]。結局、プロイセン軍はエルバーフェルトにおいて約40人の徴用兵しか徴募できなかった[46]。反乱を起こした市民を組織化するために、公安委員会 (Sicherheitsausschuss) が市内に組織された。公安委員会のメンバーには、エルバーフェルトの民主主義者で弁護士のカール・ニコラウス・リオッテ (Karl Nickolaus Riotte) とエルンスト・ヘルマン・ヘーヒスター (Ernst Hermann Höchster, 委員長に選出) 、エルバーフェルトで検事も務めた弁護士で自由主義者のアレクシス・ハインツマン (Alexis Heintzmann) が含まれていた[47]。プファルツ臨時政府のメンバーには、内相を務めたニコラウス・シュミットDeutsch版、テオドール・ルートヴィヒ・グライナー (Theodor Ludwig Greinerが含まれていた。その他エルバーフェルトの蜂起の指導者としては、カール・ヘッカーDeutsch版フランツ・ツィッツDeutsch版ルートヴィヒ・ブレンカーDeutsch版がいた[48]

公安委員会のメンバーは、蜂起に参加していた様々な党派を統括するどころか、一般的な計画で意見がまとまることもできなかった。決起した労働者階層は一心不乱に目標に向かって邁進していた。蜂起を支援するために市民軍(準軍事組織)が組織され、その軍事的指導者には、アウグスト・ヴィリヒDeutsch版、フェリクス・トロチンスキ (Feliks Trocinski) 、クリスティアン・ツィン (Christian Zinn) 大尉が含まれていた。1849年5月17日から同18日にかけて、トリーアと隣町の労働者と民主主義者の集団が反乱軍の武器調達のためにプリュム兵器庫襲撃Deutsch版を起こした[49]。ゾーリンゲンの労働者はグレーフラートの兵器庫を襲撃して反乱軍のための武器や弾薬筒を調達した。

大ブルジョワジーは武装して街頭に繰り出してきた労働者階層を恐れ、立憲的改革運動や公安委員会の指導者を血に飢えたテロリストと呼んで分離し始めた[50]。公安委員会の指導者は、主に小ブルジョワジーであったが、両者の間で揺れ動き始め、抗議運動の様々な党派を組織化、指導するよりも、むしろ革命運動、特に財産の破壊行為から手を引き始めた。公安委員会は改革運動を落ち着かせてデモを鎮めようと試みた[50]

プファルツ

1849年春、革命運動が再び高まりを見せ、1849年5月6日、ラインラントのエルバーフェルトにおいて蜂起が始まった[51]。一方、蜂起はまもなくバーデンに広まり、カールスルーエにおいて暴動が勃発した[52]。バーデンとプファルツ(当時のバイエルン王国の一部)はライン川によって隔てられているだけであり、蜂起はライン川流域に広く展開したため、両地方の蜂起は軌を一にする運動とみられている。1849年5月、大公はバーデンのカールスルーエを離れることを余儀なくされ、プロイセンに助けを求めた[5]。プファルツとバーデンの双方において、臨時政府の成立が宣言された。バーデン臨時政府は条件に恵まれており、民衆と軍隊から立憲的変革と民主的改革に対する強力な支持を受け、特に軍隊から憲法要求に対する強力な支持を得て[53]、十分な武器の備蓄と財源を有していた。プファルツ臨時政府は同様の状況にはなかった[54]

プファルツはドイツ諸邦の中でも伝統的に上層市民を多く抱える地域であり、これらは反革命に回った[55]。プファルツにおいては、軍隊は革命を支持せず、物資は不足していた。プファルツに成立した反乱軍の政府は組織体制も財源も万全ではなかった[56]。プファルツにおける武器は個人所持のマスケット銃、ライフル銃、スポーツ銃等に限られていた[57]。プファルツ臨時政府はフランスやベルギーに人員を派遣して武器購入にあたらせたが失敗に終わった。フランスはプファルツとバーデンの双方に対して武器禁輸措置をとった[54]

臨時政府は最初、フランクフルト国民議会議員も務めた民主主義者で弁護士のヨーゼフ・マルティン・ライヒャルトDeutsch版を陸相に任命した[58]。また、最初のプファルツ軍最高司令官には、1848年のウィーン蜂起の時に国民軍を指揮した元オーストリア軍将校のダニエル・フェナー・フォン・フェンネベルクDeutsch版が就いたが[59]、すぐに、1830年から1831年にかけてのポーランド反乱軍で参謀を務めたフェリックス・ラキエ (Felix Raquillietに交代した[60]。最終的に、ルドヴィク・ミエロスワフスキDeutsch版がプファルツ軍最高司令官に、フランツ・シュナイデDeutsch版が野戦軍司令官に迎えられた。

このほか、カイザースラウテルン市内の臨時政府に仕えた将校としては、フリードリヒ・シュトラッサー (Friedrich Strasserアレクサンダー・シメルフェニヒDeutsch版、ルドルフ・フォン・マントイフェル (Rudolph von Manteuffel大尉、アルベルト・クレメント (Albert Clement) 、レオ・フォン・ツィヒリンスキDeutsch版フリードリヒ・ボイストDeutsch版オイゲン・オスヴァルトDeutsch版アマント・ゲックDeutsch版グスタフ・シュトルーヴェDeutsch版オットー・フォン・コルヴィンDeutsch版ヨーゼフ・モルDeutsch版ゴットフリート・キンケルDeutsch版、アウグスト・メルシ (August Mersy) 、カール・エマーマン (Karl Emmermannフランツ・シーゲル、ネルリンガー少佐 (Major Nerlinger) 、クルツ大佐 (Oberst Kurz) 、フリードリヒ・ヘッカーDeutsch版、ヘルマン・フォン・ナッツマー (Herman von Natzmerがいた。ヘルマン・フォン・ナッツマーは元プロイセン軍将校で、ベルリン兵器庫の責任者であったが、1848年6月14日のベルリン兵器庫襲撃を起こした反乱軍への発砲を拒否したため、ドイツ各地の反乱者から英雄視され[60]、そのかどで懲役15年の判決を受けたが、1849年、脱獄してプファルツに渡り、反乱軍に加わった。グスタフ・アドルフ・テヒョー (Gustav Adolph Techowも元プロイセン軍将校で、プファルツの反乱軍に加わった[61]。砲兵隊を組織し、軍需工場で服役したフリッツ・アネケDeutsch版中佐は、共産主義者同盟のメンバー、1848年のケルン労働者協会Deutsch版の創設メンバー、新ケルン新聞 (Neue Kölnische Zeitung) の編集者、ライン民主主義者郡委員会 (Rheinischen Kreisausschusses der Demokraten) のメンバーであった[62]

プファルツとドイツ各地の民主主義者は、バーデン=プファルツの反乱を全国規模の憲法闘争の一部と捉えた。臨時政府支持者で民主主義者のバーデン陸軍少尉フランツ・シーゲルは、カールスルーエとプファルツにおける改革運動擁護計画を立てた[63]。具体的には、バーデン軍をホーエンツォレルンに進めてホーエンツォレルン共和国の成立を宣言し、シュトゥットガルトに進軍したところで決起を促してヴュルテンベルクを包囲し、さらにニュルンベルクに進軍してフランケンに陣取ることを提言した。憲法闘争に全国的性格を付与するために遠方のフランクフルト国民議会と交渉しようとしたシーゲルだったが、聞き入れられなかった[63]

シーゲルの計画にもかかわらず反乱軍の新政府は攻勢に出ることなく、カールスルーエないしバーデンにおける蜂起はついにプロイセン軍によって鎮圧されることとなった。同政府ではバーデンの民主主義者で弁護士のロレンツ・ブレンターノDeutsch版が長に就き[64]、絶対的権力を行使していたほか[65]、陸相にカール・アイヒフェルト (Karl Eichfeld[66](後にルドルフ・マイヤーホーファー (Rudolph Mayerhofer) に交代)、内相にフロリアン・メルデスDeutsch版[67]が任命され、その他の臨時政府のメンバーにはバーデンの民主主義者でジャーナリストのヨーゼフ・フィックラーDeutsch版が含まれていた[59]。バーデンの憲法闘争軍の指導者にはバーデンの民主主義者でジャーナリストのカール・ブリントDeutsch版グスタフ・シュトルーヴェDeutsch版が含まれており[68]ヨハン・フィリップ・ベッカーDeutsch版が民兵隊の指揮に当たり[66]、1830年から1831年にかけてのポーランド蜂起で軍事作戦に加わったポーランド人のルドヴィク・ミエロスワフスキDeutsch版がライン川左岸の軍事作戦の指揮に当たった[69]

ブレンターノがバーデンにおける蜂起について日々事務処理を行い、ミエロスワフスキがライン川左岸の軍事司令部を指揮したが、両者の足並みはそろっていなかった[65]。足並みの乱れが続いたことで、ミエロスワフスキはバーデンのワーグホイゼルDeutsch版とウプシュタット (de:Ubstadtにおける戦闘で敗れた。その部隊はバーデン南部の山脈を越えて撤退することを余儀なくされ、バーデンとスイスとの国境地帯にあるムルクDeutsch版という町でプロイセン軍との最後の戦闘を交えた[65]。ミエロスワフスキ以下戦闘の生存者は国境を越えてスイスへ逃れ、ミエロスワフスキはパリに亡命した。

バーデンとプファルツにおける蜂起にはフリードリヒ・エンゲルスも加わっている。エンゲルスはカール・マルクスとともに、1848年5月10日にケルンから同地の出来事を視察するために訪れ、1848年6月1日から新ライン新聞の編集者となったが[70]、それから1年足らずの1849年5月19日に憲法闘争を支持したかどでプロイセン当局によって発行停止に追い込まれた。

1848年末、マルクスとエンゲルスは、当時バーデンとプファルツの臨時政府のメンバーとして務めていたカール・ルートヴィヒ・ヨハン・デスターDeutsch版との会見に臨んだ[71]。デスター医師は民主主義者、社会主義者で、共産主義者同盟ケルン支部のメンバーとなり、1848年にプロイセン国民議会議員に当選し[72]、1848年10月26日から同30日までベルリンで開催された第2回民主主義者会議Deutsch版において、エドゥアルト・フォン・ライヒェンバッハDeutsch版、アドルフ・ヘクサマー (Adolf Hexamer) らとともにドイツ民主主義者中央委員会 (Zentralausschusses der Demokraten Deutschlands) 委員に選出されていた[73]。デスターは臨時政府のことにかかりきりで、パリにおける重要な会合の際にドイツの中央委員会を代表して出席することができないため、自分に代わって会合に出席することをマルクスに委任したいと考えた。三者はカイザースラウテルン市内で会見し、マルクスは委任を受け入れてパリに向かった[74]

エンゲルスはプファルツにとどまり、1849年、ラインラントのエルバーフェルトで、蜂起の鎮圧に来ようとしていたプロイセン軍との対決に備えてバリケードを築いていた市民に合流した[75]。エンゲルスはエルバーフェルトへの道中、ゾーリンゲンの労働者がグレーフラートDeutsch版の兵器庫を襲撃して集めたライフル銃の弾薬筒2包を受け取った[75]。プロイセン軍が到着し、8月には蜂起を鎮圧することとなった[76]。エンゲルスとその他もろもろはカイザースラウテルンに逃れた[77]。カイザースラウテルン滞在中の1849年6月13日、エンゲルスは、元プロイセン軍将校アウグスト・ヴィリヒDeutsch版が800人の労働者で組織した軍団に参加した。ヴィリヒは共産主義者同盟のメンバーでもあり、ドイツにおける革命的変革を支持していた[78]。新たに組織されたヴィリヒの部隊はその他の革命勢力と連合して約3万人の兵力となり、精鋭のプロイセン軍に抗戦した[79]。エンゲルスはプファルツにおけるヴィリヒの部隊の戦闘に全面参加した。

プロイセン軍は革命軍を破り、ヴィリヒの部隊の生存者は国境を越えてスイスの安全地帯に逃れた。エンゲルスは1849年7月25日にスイス入りし、自身の生存をロンドンのマルクスや友人や同志に伝えた[77]。スイス亡命中、エンゲルスは革命中の自身の体験について執筆し始め[80]、「ドイツ国憲法戦役」 (Die deutsche Reichsverfassungskampagne) を刊行した[81]。プロイセン軍が難なく蜂起を鎮圧したことで、多くの南ドイツ諸邦では今後オーストリアではなくプロイセンが域内で台頭するだろうと信じられるようになった[82]。バーデンとプファルツにおける蜂起の鎮圧をもって1848年春に始まったドイツにおける革命的闘争に終止符が打たれた。

革命の失敗

1851年までにはドイツ諸邦すべてで反革命が成功し、基本権もほぼ全域で廃止された。結局、フランクフルトにおける様々な党派間の分裂、自由主義者による打算的な警戒、左派による民衆の支持の掌握の失敗、君主主義的勢力の圧倒的優位が原因で、革命は失敗に終わった。

多くの失望したドイツの愛国者は渡米し[83](中でもカール・シュルツフランツ・シーゲルフリードリヒ・ヘッカーDeutsch版が最も有名)、このような移住者はフォーティエイターズDeutsch版と呼ばれた。例えば、1849年、ミヒャエル・マケメル (Michael Machemehlを含む多くのザクセン住民がアメリカ合衆国に移住し、ガルベストンに定着してドイツ系テキサス人 (German Texanコミュニティを形成した。世紀半ばには都市部で暮らす者もいたが、多くはテキサス西部の農村部に展開した。

脚注

注釈

  1. Manfred Waßner: Kleine Geschichte Baden-Württembergs. Theis, Stuttgart 2002, S. 119.
  2. Wolfram Siemann: Die deutsche Revolution von 1848/49. Neue Historische Bibliothek Band 266. Suhrkamp, Frankfurt am Main 1985, ISBN 3-518-11266-X, S. 68f.
  3. Manfred Waßner (2002), S. 122.
  4. 4.0 4.1 S. Z. Leviova, "Foreword", to The Revolution of 1848: Articles from the Neue Rheinische Zeitung by Karl Marx and Frederick Engels (International Publishers: New York, 1972) p. 7.
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 James K. Pollock & Homer Thomas, Germany in Power and Eclipse (D. van Nostrand: New York, 1952) p. 612.
  6. 6.0 6.1 Marshall Dill, Jr., Germany: A Modern History (University of Michigan Press: Ann Arbor, 1970) p. 105.
  7. 7.0 7.1 7.2 Marshall Dill, Germany: A Modern History (University of Michigan Press: Ann Arbor, 1970), pp. 104-105.
  8. Priscilla Robertson, Revolutions of 1848: A Social History (1952), pp 188-205
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 Dill (1970), Germany, p. 106.
  10. Robertson, Revolutions of 1848: A Social History (1952), pp 206-36
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 Karl Marx & Frederick Engels, Collected Works: Volume 7 note 10, p. 606.
  12. 12.0 12.1 12.2 Marshall Dill, Jr., Germany: A Modern History p. 105.
  13. Robinson, Revolutions of 1848 (1952) pp 180-81
  14. 14.0 14.1 Karl Marx & Frederick Engels, Collected Works: Volume 7 note 12, p. 606.
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 Marx & Engels, Collected Works: Vol. 7 note 167, p. 625.
  16. Collected Works, Vol. 7, p. 16.
  17. 17.0 17.1 Collected Works, Vol. 7, Note 9, p. 605.
  18. Marx and Engels, Collected Works: Vol. 7 p. 668.
  19. Collected Works, Vol. 7, Note 10, p. 606.
  20. Staas, Christian; Volker Ullrich (2010年8月24日). “Deutschlands sonderbarer Weg” (German). ZEIT Geschichte (3/2010): pp. 22–28. http://www.zeit.de/zeit-geschichte/2010/03/Text-Interview  Interview with historian August Winkler.
  21. Collected Works, Vol. 7, pp. 440 & 662
  22. Lauring, Palle (1960). A History of the Kingdom of Denmark. Copenhagen: Host & Son. 
  23. 23.0 23.1 Koch, H. W.. A History of Prussia. London: Barnes & Noble. 
  24. Collected Works, Vol. 7, Note 271, p. 638.
  25. 25.0 25.1 Marx and Engels, Note 264, Collected Works, Vol. 7, p. 637.
  26. Marx and Engels (1977), Collected Works, Vol. 7, Note 298, pp. 642-643.
  27. "Revolution in Vienna," Collected Works, Vol. 7, p. 457.
  28. Collected Works, Vol.7, Note 298, p. 643.
  29. Alan Sked, The Survival of the Habsburg Empire: Radetzky, the Imperial Army and the Class War, 1848 (1979)
  30. Karl Marx & Frederick Engels, Collected Works: Volume 7, Note 135, p. 554.
  31. 31.0 31.1 Encyclopædia Britannica Vol. 2 (Helen Hemingway Benton Pub.: London, 1977) p. 1078.
  32. 32.0 32.1 32.2 Palmer, pp. 37-38.
  33. 33.0 33.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 154.
  34. 34.0 34.1 Collected Works, Vol. 10, Note 139, pp. 662 through 663.
  35. Pollock & Thomas, Germany in Power and Eclipse, p. 510.
  36. 36.0 36.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 155.
  37. James K. Pollack & Homer Thomas, Germany in Power and Eclipse (D.Van Nostrand Co.: New York, 1952) pp. 414-415.
  38. Pollock and Thomas, Germany In Power and Eclipse, p. 414.
  39. 39.0 39.1 39.2 "Campaign for the German Imperial Constitution", p. 157.
  40. Pollack and Thomas, Germany In Power and Eclipse, p. 410.
  41. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 156.
  42. Marshall Dill, Jr., Germany: A Modern History, p. 106.
  43. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 157.
  44. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 158.
  45. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 162,
  46. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 160.
  47. Biographical notes, Marx and Engels, Collected Works, Vol. 10, pp 722, 723 and 732.
  48. Biographical notes, Marx and Engels, Collected Works, Vol. 10, pp. 713, 722 & 739.
  49. Note 149 contained in the Collected Works, Vol. 10, p. 664.
  50. 50.0 50.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 164.
  51. Note 342, Collected Works of Karl Marx and Frederick Engels: Volume 9, p. 580.
  52. "Campaign for the German Imperial Constitution," in the Collected Works of Karl Marx and Frederick Engels: Volume 10, p. 175.
  53. "Campaign for the German Constitution," p. 172.
  54. 54.0 54.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 189.
  55. James Pollack and Homer Thomas, Germany In Power and Eclipse, p. 581.
  56. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 172
  57. "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 193.
  58. Biographical note in the Collected Works, Vol. 10, p. 195.
  59. 59.0 59.1 Biographical note, Collected Works, Vol. 10, p. 719.
  60. 60.0 60.1 Biographical note, Collected Works, Vol. 10, p. 729.
  61. "Campaign for the German Imperial Constitution," pp. 195-196.
  62. Biographical note, Collected Works, Vol. 10, p. 710.
  63. 63.0 63.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 174.
  64. Biographical note, Collected Works, Vol. 10, p. 714.
  65. 65.0 65.1 65.2 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 184.
  66. 66.0 66.1 "Campaign for the German Imperial Constitution," p. 180.
  67. "Campaign for the German Imperial Constitution," pp. 176 and 728.
  68. Biographical note, Collected Works, Vol. 10, pp. 713 and 735.
  69. Biographical note, Collected Works, Vol. 10, p. 728.
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出典

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外部リンク