チャールズ・イビー
チャールズ・サミュエル・イビー | |
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生誕 |
1845年 カナダ |
死没 | 1925年 |
職業 | 宣教師・教師・翻訳家 |
チャールズ・サミュエル・イビー(Charles Samuel Eby、1845年 - 1925年)は、カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会が明治時代初期に日本に派遣した宣教師であり、山梨県を中心に活躍した。
1876年(明治9年)に、G・M・ミーチャムと共に来日する。最初は、中村敬宇の小石川同人社に勤め、メソジストの信仰箇条や教会礼文などの翻訳事業に携わっていた。[1] 1879年(明治11年)、近藤喜則の「蒙軒塾(蒙軒学舎)」という私塾に、平岩愃保に講師派遣の要請が来たので、イビーが英語の講義をする。[2]7月23日には、イビーと平岩が三島で合流して、沼津の宣教師G・M・ミーチャムの家で日本語訳福音書を分けてもらい、山梨県巨摩郡睦合村南部に行き、日曜日に日蓮宗の寺でマタイの福音書を講義して伝道を開始した。僧侶たちの激しい迫害にも関わらず精力的に伝道した。1878年も近藤喜則に招かれて甲府緑町にあった英学塾のお雇い教師に就任する。
三年間に渡り、馬で山梨県下を巡回する。甲府、勝沼、穂積、市川、谷村、日下部などの諸教会と二十箇所以上の講義所を設立する。
1879年(明治12年) 結城無二三が尋ねてきて教えを乞う。4月6日、結城は妻と長男を伴ってイビーの元を訪れ、家族で洗礼を受ける。[3]
1882年(明治15年)には、イビーらの伝道により、東京、静岡、甲府、沼津の四箇所に伝道地を持った。
1883年(明治16年)春から、四ヶ月に渡り毎週土曜日、木挽町の明治会堂で英語と日本語で「東京演説」を行った。これは、東京大学などで、はやっていたスペンサーの不可知論やダーウィンの進化論に対抗して行った、キリスト教護教のための演説である。英国公使H・S・パークスや米国公使デキソンが毎回出席した。
1890年(明治23年)、東京府本郷区(現文京区)本郷に本郷中央会堂(現・本郷中央教会)建設を初め、1891年に献堂式を行った。[4]