スコーパス山

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スコーパス山Mount Scopus - ヘブライ語: הר הצופים‎、Har HaTsofimアラビア語: جبل المشارف‎、Ǧabal al-Mašārif)は、イスラエルエルサレムの北東に位置する標高826mの山である[1]。日本語では"スコーパス山"の他、"スコパス山"、"スコープス山"、"スコプス山"、あるいは"展望山"などと表記される。"スコーパス"の名は"展望"、"眺望"を意味するラテン語を由来としており、その名の通りこの山の頂からはエルサレム市街を一望出来る。周辺は丘陵地で尾根、谷が多く、スコーパス山は聖書に登場するオリーブ山のすぐ北側に位置している。

歴史

エルサレムの歴史の中で、スコーパス山はエルサレムを占領しようとする外国軍の陣地として度々使用されてきた。西暦66年からのユダヤ戦争70年エルサレム攻囲戦ではオリーブ山と共にローマ帝国軍の拠点となった。また西暦1099年十字軍によるエルサレム攻囲戦でも同様に、攻撃側の十字軍の拠点となった。

19世紀になって、シオニズムの活動家によってエルサレムユダヤ人大学を開設するという運動が起こり、1918年にスコーパス山にヘブライ大学の建設が始まり、1925年に開校した。その後ヘブライ大学は徐々に成長していったが、1948年になってイスラエル独立の気運が高まるとユダヤ系住民とアラブ系住民の間でしばしば紛争が発生するようになった。1948年4月には、スコーパス山のヘブライ大学付属ハダサー病院に勤務する職員や関係者がアラブ系武装集団に襲撃され約80名が殺害される事件が発生した。(ハダサー医療従事者虐殺事件を参照。)

同じ1948年にイスラエルが独立を宣言し、イスラエル独立戦争(第一次中東戦争)が始まった。結果としてイスラエルは独立に成功し、翌1949年に休戦協定が結ばれたが、この時エルサレム東部を含むヨルダン川西岸地区ヨルダン領となった。スコーパス山のヘブライ大学および病院施設、オリーブ山のユダヤ人墓地は引き続きユダヤ人が通うことが許されたが、スコーパス山はエルサレムのユダヤ人地区から切り離された飛び地となっており、またアラブ側、ヨルダン側にも休戦協定に納得していない者も多く、学生や職員は装甲バスでの通勤・通学を余儀なくされた。その後アラブ側が攻勢を強め、1958年にはヨルダン軍の兵士が国連職員とイスラエル警官を殺害するなどしたため、ヘブライ大学のスコーパス山キャンパスも利用が難しくなり、エルサレム市内の別キャンパスに機能を移転した。

1967年第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸地区を占領したことから、結果としてスコーパス山の飛び地状態は解消され、ヘブライ大学キャンパスも再び使用可能となった。

画像

脚注・出典

  1. エルサレム市街自体の標高も約800m前後と高いため、実際にはスコーパス山は"小高い丘"といった様相である。

関連項目

外部リンク

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