ジュンテンドー

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ファイル:JUNTENDO Aki-Fuchu 20140209.JPG
営業本部を置いている安芸府中店

ジュンテンドー (JUNTENDO) は、島根県益田市に本社、広島県安芸郡府中町に営業本部を置く株式会社ジュンテンドー (JUNTENDO CO., LTD.) が運営する日本の中ホームセンター東証2部上場

概要

中国地方近畿地方大阪府滋賀県を除く)と三重県名張市に151店舗(2015年2月現在)を展開している。地域密着型の店舗作りを得意としており、1店舗当たりの面積は900 - 2000m2と小さめで、近年の5000m2級の大型ホームセンターとは一線を画しているが、マイン峰山店のような大型店舗も存在する。

また、ドラッグストア(サンデーズ)、書店(ブックセンタージャスト)も経営している。

過去には、島根県松江市出雲市鳥取県米子市西伯郡伯耆町カー用品店イエローハットフランチャイズチェーン店の運営を行っていた。(現在は山陰イエローハットに事業譲渡)[1]

順天堂大学や、かつて津村順天堂と名乗っていたツムラバスクリンとは無関係である。

沿革

1877年10月17日、山口県佐波郡佐波村(現防府市)第403番屋敷にて、渡邉文市生誕する。14歳の時、父の死去により中学2年で中退し、防府の柏木薬店(店主・柏木幸助)に勤務する。

1894年10月、防府の生雲瀧次郎の援助により島根県石見国美濃郡益田町折戸(現・益田市折戸)にて「順天堂薬店」を開店する。「順天堂薬店」の近所に「第五十三国立銀行」益田支店長の飯塚正居が住んでいた。正居はかねてから文市の誠実な生活態度にほれ込んだ。文市は、正居の一人娘のリョウ(正居の妻ツネの兄・平田正表の長女を養子としてもらっていた)と結婚し飯塚文市となる。

1907年4月、「日本薬局方」(第3版)等の施行にともない、薬業は近代化されつつあった。文市は医師の処方箋により調剤のできる「薬局」を目指し、従兄弟の足立滋春を「大阪薬学専門学校」へ進学させた。滋春が卒業するまで島根県薬剤師会幹事・薬剤師虎谷常太郎を雇用し、店舗改装し「飯塚順天堂」が誕生する。

「なんでもあるくすりや」と命名し「明治のドラッグ・ストア・順天堂」と呼ぶにふさわしい店舗で日常品から食料品まですべてを揃えた店舗であった。薬の製薬および販売において富山の薬売りが独占していた市場を次第に掌握するようになる。「順天堂」の名は遠く松江・山口まで知られわたるようになる。

1894年、朝鮮半島の釜山近郊に飯塚農営部を設置。

1918年3月、順天堂分店「だるまや」創業。

1924年11月、「順天堂・横田支店」開設。

1929年4月、「順天堂・江津支店」開設。

1930年6月、「順天堂・益田駅前支店」開設し業務を拡大していく。息子の幸一が東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)を卒業し薬剤師となり家業を継ぐ。

1941年、島根県でも島根県医薬品統制組合が発足し、初代理事長に松井義三郎(松井薬局本店)が就任した。また、県内7地区(松江・能義・邇摩・邑智・那賀・美濃・鹿足)に医薬品小売統制組合が結成され、美濃地区の理事長には幸一が選任された。

1943年5月、島根県医薬品統制組合は、島根県医薬品統制株式会社に発展し、加藤丈太郎(加藤二星堂)が社長に就任した。

1943年6月には戦時統制令によって「島根県売薬生産統制株式会社」が設立され、県下各薬局の自家製剤権はすべてこの会社に譲渡することとなった。幸一も父・文市時代からの製薬権を譲渡した。

戦後、1948年6月1日に益田駅前の角地(現・益田薬局の場所)に「有限会社飯塚順天堂駅前薬局」を資本金25万円で設立。幸一が病床につくようになり長男・道正が東京薬学専門学校を卒業し慶應義塾大学病院薬剤部に勤務していたが退職し、1953年2月1日、資本金100万円に増資し「有限会社飯塚順天堂薬局」に商号変更。

道正は、日本薬局協励会主催の全国大会にて経営コンサルテングの松香のアメリカのドラッグ・ストアについての講義を聞いて、すぐさまアメリカのドラッグ・ハウスの資料をとりよせ日本式ドラッグ・ストアの「薬局+荒物雑貨」を目指すこととなる。これが今日の「ホームセンター」+「ドラッグストア」の原点となる。

しかし薬品関係のディスカウントにはブレーキがかかる。薬品メーカーへの代理店契約の破棄を通告したところ、クレームがついた。さらに薬品の値引き販売を察知した薬品組合からも、激しい圧力がかかってきた。

結果「ホームセンター」としての店舗展開をしていくこととなる。

年表

店舗

現在営業している店舗

過去に存在した店舗

脚注

外部リンク