アレクサンドル・ケレンスキー

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アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー(アレクサーンドル・フョードロヴィチ・ケーレンスキイ;ロシア語: Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренскийAleksandr Fyodorovich Kerenskiiアリクサーンドル・フョーダラヴィチ・キェーリェンスキイ1881年4月22日ロシア旧暦グレゴリオ暦では5月4日) - 1970年6月11日)は、ロシアの政治家。ロシア革命の指導者の一人で、ロシア臨時政府大臣会議議長首相)を務めた。社会革命党党員、弁護士

生涯

生い立ち

ロシア帝国シンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれる[1]。父フョードルはシンビルスク古典中高等学校の校長であった[1]が、教師になる前はモスクワで商人をしていた[2][3]。母ナジェーダはカザン軍管区地形局長の父と元農奴の母との間に生まれた娘だった。

シンビルスク古典中高等学校の生徒の中にはウラジーミル・ウリヤノフ(後のウラジーミル・レーニン)がおり、ケレンスキー家とウリヤノフ家は互いに親しかった。1887年にレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフアレクサンドル3世暗殺計画の首謀者として処刑された際も、フョードルはレーニンを擁護していた。

1889年に父が公立学校の監査官に任命され、ケレンスキーは父に連れられ任地のタシュケントに移った。1899年にサンクトペテルブルク大学に入学し、歴史学と言語学を学び、翌1900年からは法学を専攻した。1904年に法学の学位を取得し、同時期にロシア帝国軍将軍の娘オリガ・ルヴォヴナ・バラノフスカヤと結婚した[4]。サンクトペテルブルク大学卒業後は弁護士となり、ロシア第一革命の犠牲者遺族の法律顧問を務めナロードニキ運動に参加し、1904年末に武装組織の一員の嫌疑で投獄された。ケレンスキーは彼らの弁護を通して世間から高い評判を得た[5]

下院議員

1912年にトルドヴィキEnglish版から出馬して第4ドゥーマに当選しており、また、ロシアの民主的変革を求める反君主制勢力のフリーメイソン方式の結社に参加した[6][7][8]。議会ではリベラル・反帝政的立場からニコライ2世と彼の内閣と対峙し、雄弁家として知られていた[9][10][11]。同年4月、東シベリアのレナ川流域の金鉱で労働者らが軍に射殺されたレナ虐殺事件が起こるとケレンスキーは調査委員会の委員長となり、改革派議員としてその名を知られるようになる[12]

1916年11月2日開会のドゥーマでは、第一次世界大戦における東部戦線での相次ぐ敗退と、皇帝夫妻に取り入るグリゴリー・ラスプーチンへの批判を展開し、閣僚を「雇われ暗殺者」「臆病者」「卑劣なラスプーチンの言いなり」と弾劾した[13]。ケレンスキーはニコライ大公ゲオルギー・リヴォフミハイル・アレクセーエフと共に、ラスプーチンを重用するアレクサンドラ皇后イギリス又はヤルタリヴァディア宮殿に追放するようにニコライ2世に求めた[14]。また、ミハイル・ロジャンコエリザヴェータ大公妃マリア皇太后ヴィクトリア大公妃もラスプーチンの影響力を排除するように皇帝夫妻に圧力をかけたが、どちらの動きにも皇帝夫妻は応じなかった[15][16]

1916年12月にラスプーチンはフェリックス・ユスポフに暗殺された。翌1917年にロシア臨時政府司法大臣となったケレンスキーは、ツァールスコエ・セローのラスプーチンの墓を暴き地方に埋葬し直すように命令したが、運搬中のトラックが故障したため、遺体は路上で焼却された。ケレンスキーは回顧録の中で、「ラスプーチンは『故郷のポクロフスコエ村English版に帰る』と脅してアレクサンドラをコントロールしていた」と主張している[17]

ロシア革命

二月革命

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臨時委員会のメンバー(後列右から2人目がケレンスキー)

1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)、ペトログラード(サンクトペテルブルク)におけるデモをきっかけに二月革命が開始されると、改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーはロシア国会臨時委員会English版の委員に選出され、同時にペトログラード・ソヴィエトEnglish版の副議長に任命された。3月16日(ユリウス暦3月3日)に臨時政府が樹立されると司法大臣として入閣した。4月には、英仏に戦争継続を確約したことが発覚して批判を受けた外務大臣パーヴェル・ミリュコーフと陸海軍大臣アレクサンドル・グチコフが辞任に追い込まれ、ケレンスキーは陸海軍相に就任した。この時、兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。

5月23日(ユリウス暦5月10日)には戦争継続を主張し、各地を遊説した。陸軍総司令官をミハイル・アレクセーエフからアレクセイ・ブルシーロフに代え、ドイツ帝国に対する攻勢を命令した(ケレンスキー攻勢)。しかし、指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢に失敗し、逆に7月14日ドイツ東部方面軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面崩壊した。ケレンスキーは敗北の責任を軍部に追及され弁明に終始したが、兵士から「説得司令官」と揶揄された。

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ケレンスキーとコルニーロフ

7月16日(ユリウス暦7月3日)にはペトログラードでボリシェヴィキが蜂起する七月蜂起が発生し、リヴォフは首相を辞任に追い込まれ、ケレンスキーは7月21日に首相に就任した。8月には陸軍総司令官ラーヴル・コルニーロフがボリシェヴィキ排除を目指しペトログラードに進軍した(コルニーロフ事件English版)。9月9日にケレンスキーはコルニーロフを更迭したが、コルニーロフはコサック部隊を首都へと向かわせた。ケレンスキーはボリシェヴィキの赤軍に助力を要請、士気の低いコサック部隊は命令を拒否して原隊に復帰し、コルニーロフは逮捕された。ケレンスキーは自ら陸軍総司令官に就任するが、臨時政府の影響力は低下し、ボリシェヴィキが勢力を増大することになった。

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前線で兵士を鼓舞するケレンスキー

9月15日(ユリウス暦9月1日)、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に変更した。ケレンスキーは憲法制定議会が設立されるまで権力を維持しようと努めたが、社会革命党の理念である社会主義に反する共和制宣言により、党内から批判が生じた[18]。共和制宣言後、ケレンスキーは外相ミハイル・テレシチェンコ、陸相アレクサンドル・ヴェルホフスキー、海相ドミトリー・ヴェルデレフスキーрусский版、郵政電信相アレクセイ・ニキーチンを最高会議委員に任命し、自身が主席となった。以後、ケレンスキー政権はこの5人によって指導されることになる。

当初は兵士からの人気があったケレンスキーだったが、戦争継続を訴え続ける彼に対し、「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」と考えていた兵士たちは次第に「平和、土地、パン」を主張して講和を掲げるボリシェヴィキを支持するようになった。兵士たちは次々に脱走し、1917年秋には兵力は200万人まで減少していた。一方、ケレンスキーや閣僚は、戦争から離脱した場合に英仏からの食糧供給が絶たれ国内が混乱することを恐れ、戦争を継続する以外に選択肢がなかった。また、反ボリシェヴィキで共闘する立場だったコルニーロフを逮捕してしまったことで、ボリシェヴィキに対抗する戦力も失っていた。

十月革命

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執務中のケレンスキー

10月上旬にフィンランドから帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府打倒を呼びかけた。これを聞いたケレンスキーは11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝に、士官学校生徒などを動員してボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。しかし、レフ・トロツキー率いる赤軍はこれに直ちに反応し、印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領した。これに続き、ボリシェヴィキは11月6日(ユリウス暦10月25日)にペトログラードで全面的な蜂起を行った(十月革命)。ケレンスキーが動員できる戦力は「死の大隊」と呼ばれる2個女性大隊English版のみだった。女性大隊は反ボリシェヴィキのために勇んで戦闘に参加したが、戦力差で圧倒する赤軍に敗北し、全員が捕虜となった[19]

情勢の不利を悟ったケレンスキーは冬宮殿を脱出し、彼を除く臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁されたが、後に追放もしくは脱走・亡命した。プスコフに逃れたケレンスキーは、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みた。ケレンスキーの部隊はツァールスコエ・セローを占領したが、翌日にはプルコヴォで赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後、フランスに亡命した。ロシア内戦が勃発すると、ケレンスキーは白軍を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難しているが、1941年の独ソ戦開始後にはヨシフ・スターリンに支援を申し出ている[20]

亡命生活

ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・"ネル"・トリットンと再婚した[21]。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーはアメリカ合衆国に脱出し、1945年からはオーストラリアブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。1946年2月にリディアは脳卒中を起こし、4月10日に彼女と死別した。

リディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。その間、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けてケレンスキーを監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。

1970年にニューヨークの自宅で死去した。十月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。死後、ニューヨークの在外ロシア正教会およびセルビア正教会からボリシェヴィキによる政権奪取の責任を問われて埋葬を拒否され、遺体はロンドンに埋葬された[22]

家族

最初の妻オリガとの間に二人の息子(オレグEnglish版、グレブ)をもうけ、二人ともエンジニアとなった。オリガとは1939年に離婚したが、ケレンスキーはその直後にリディアと再婚している。孫のオレグ・ケレンスキーJr.は俳優となり、『レッズ』では祖父のアレクサンドル役として出演している。

十月革命の女装伝説

ケレンスキーは従来女装を好んでいたというから、十月革命時には看護婦の姿に女装して星条旗を掲げた車で逃亡したという噂がバルト水兵から生じていた。しかし、トロツキーはこれをデマであると主張しており、一般的には認められていない。車での逃亡も同様に伝説であるとされている。

出典

  1. 1.0 1.1 Alexander Kerenski”. First World War. . 1 April 2013閲覧.
  2. Александр Федорович Керенский”. . 2016閲覧.
  3. Encyclopedia of Cyril and Method
  4. A Doomed Democracy Bernard Butcher, Stanford Magazine, January/February 2001
  5. Political Figures of Russia, 1917, Biographical Dictionary, Large Russian Encyclopedia, 1993, p. 143.
  6. Prominent Russians: Aleksandr Kerensky”. Russia: RT. . 23 April 2014閲覧.
  7. Medlin, Virgil D. (1971). “Alexander Fedorovich Kerensky”. Proceedings of the Oklahoma Academy of Science 51: 128. オリジナルの4 March 2016時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304051142/http://digital.library.okstate.edu/oas/oas_pdf/v51/p127_130.pdf. 
  8. Tatyana MironovaGrigori Rasputin: Belied Life – Belied Death
  9. Prominent Russians: Aleksandr Kerensky”. Russia: RT. . 23 April 2014閲覧.
  10. Medlin, Virgil D. (1971). “Alexander Fedorovich Kerensky”. Proceedings of the Oklahoma Academy of Science 51: 128. http://digital.library.okstate.edu/oas/oas_pdf/v51/p127_130.pdf. 
  11. Tatyana MironovaGrigori Rasputin: Belied Life – Belied Death
  12. The Lena Goldfields Massacre and the Crisis of the Late Tsarist State by Michael Melancon [1]
  13. The Russian Provisional Government, 1917: Documents, Volume 1, p. 16 by Robert Paul Browder, Aleksandr Fyodorovich Kerensky [2]
  14. A. Kerensky (1965) Russia and History's turning point, p. 150.
  15. The Real Tsaritsa by Madame Lili Dehn
  16. The Russian Provisional Government, 1917: Documents, Volume 1, p. 18 by Robert Paul Browder, Aleksandr Fyodorovich Kerensky [3]
  17. A. Kerensky (1965) Russia and History's turning point, p. 163.
  18. Party manifesto listed in McCauley, M Octobrists to Bolsheviks: Imperial Russia 1905‐1917 (1984)
  19. Women Soldiers in Russia's Great War”. Great War. . 1 April 2013閲覧.
  20. Soviet's Chances. By Alexander Kerensky. Life, 14 July 1941, p. 76.
  21. Tritton, Lydia Ellen (1899–1946) Biographical Entry – Australian Dictionary of Biography Online
  22. [4] - Find a Grave

参考文献

  • Abraham, R. (1987). Kerensky: First Love of the Revolution. Columbia University Press. ISBN 0-231-06108-0. 
  • 『ケレンスキー回顧録』 倉田保雄・宮川毅 訳、恒文社、新版1978年、ISBN 4-7704-0135-3
  • ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』上・下、白須英子訳、日本放送出版協会、1995年、特に上巻を参照

外部リンク

公職
先代:
ゲオルギー・リヴォフ
ロシア帝国の旗 ロシア臨時政府大臣会議議長
1917年
次代:
政府解体
先代:
アレクサンドル・グチコフ
ロシア帝国の旗 ロシア臨時政府陸海軍大臣
1917年
次代:
アレクサンドル・ヴェルホフスキー
先代:
政府樹立
ロシア帝国の旗 ロシア臨時政府司法大臣
1917年
次代:
パーヴェル・ペレヴェルゼフ